井伏鱒二「寒山拾得」覚え書き

今井洋一





   一 作品成立の時代

 多くの研究書の年譜では、本作品の成立年について触れられていない。専門の研究者にもはっきりとは分からないようである。『新潮日本文学アルバム・井伏鱒二』は大正十五年に「陣痛時代」創刊号がこれを掲載したとしているが、『現代日本文学館・井伏鱒二』は〈「陣痛時代」を発行、「岬の風景」を発表。〉と、ここに掲載されたのが「岬の風景」であるとも取れる書き方をしている。また、磯貝英夫編『井伏鱒二研究』と講談社文芸文庫『厄除け詩集』の年譜は、共に「陣痛時代」創刊号が「寒山拾得」を掲載したとしているが、『井伏鱒二研究』が「岬の風景」は「陣痛時代」の別の号(月未詳)に掲載されたとしているのに対して、『厄除け詩集』年譜は「岬の風景」について、大正十五年八月に「鷲の巣」に再発表された、とだけ記している。
 このように、同人誌に発表された作品は、それを確認することが難しく、本作品もその成立年を特定することはできないわけであるが、「寒山拾得」の初出を明記している年譜は全て「陣痛時代」創刊号掲載としていること、更に、最近に作成された年譜ほどそのように記す傾向があることから、今回の発表では一応、大正十五年に成立したものとして論を進めてみたい。

   本作品を収録した主要単行本
     『夜ふけと梅の花』(新潮社 昭和五年)
     『井伏鱒二選集』第一巻(筑摩書房 昭和二十三年)
     『定本 夜ふけと梅の花』(永田書房 昭和五十九年)


   二 作品を生み出した時代

 井伏鱒二の初期作品は「山椒魚」なら片岡教授との確執、「鯉」なら青木南八の急死、「屋根の上のサワン」なら牧野信一との不幸な交友、というように、多く井伏鱒二自身の屈託と結び付けて考えられてきた。確かに、このような読み方が必要な場合もあると思う。「鯉」には青木南八の名前がそのまま出てくるのだから、「私」を井伏だと考えるのが自然である。しかし、「寒山拾得」を読む場合、私は井伏自身の実人生や屈託を作品解釈の場に持ち込む必要はないと考える。井伏鱒二は私小説家ではない。彼の作品には「私」がよく出てくるが、この「私」は決して自分を主張しようとはしない。「私」は語り手としての役目を偶然与えられたために「私」として存在するのであって、他の登場人物と何ら変わるところのない、ごく普通の人である。
 初期に井伏と同じく佐藤春夫を師とした稲垣足穂は「自分のろくもない経験ばかりをかくのが能だとおもっちゃいけない。」と言っているが、井伏鱒二も「自分のろくもない経験ばかりをかくのが能」だなどと思ってはいないだろう。そうだとすれば、読者も穿った読み方をせず、作品そのものを読むのが作者に対する礼儀である。
 このように、私は作品を作者と関連づけて読む必要はないと考えている。しかし、作品とその作品の成立した時代とを併せて考えることは有効である。何故なら、時代というものは、作品中の世界とともに、作者と(当時の)読者とが共有することのできる世界だからである。以下、作品を生み出した時代について考察してみたい。
不安には、二種類の不安がある。すなわち物質(カネ)的不安と精神(ココロ)的不安である。まず、精神的不安であるが、大正十五年頃は第一次世界大戦後の慢性不況の時期である。この不況は昭和五年に『夜ふけと梅の花』が世に出るまで、昭和二年の金融恐慌、昭和五年世界大恐慌と続き、昭和五年には、大卒者の就職率が三十パーセント台にまで落ち込んでいる。早稲田の文科を出たエリートであるはずの「私」や佐竹が校正係や旅絵師といった職業に甘んじているのは不思議なことではなく、当時の不安定な社会が映し出されているのである。
 次に、精神的不安である。大正から昭和にかけては、大正デモクラシーや米騒動などの大きな事件が続き、そこから近代的思想、近代的社会システムが次々に生まれたと考えられている。しかし、井伏ら当時の鋭敏な感覚を持つ人に(潜在的な)不安を感じさせたのは、そういった変化の過程で生じた動揺ではなく、それだけの変化の波が押し寄せながら実は何も変わらなかった日本という国、あるいは日本人の体質なのではないだろうか。
 ヨーロッパでは、新しい思想が生まれるためには常にキリスト教の呪縛と戦わなければならなかった。このことは、ガリレオの地動説をめぐる宗教裁判、ド・ラ・メトリの『人間機械論』、ダーウィンの『種の起源』など、科学の分野に目を向ければ分かりやすい。(文学の分野でも同じことが言えるのだが、もう少し微妙である。文学は科学のようにキリスト教の打破に成功する必要がなく、キリスト教との間に生まれる葛藤自体が文学となるからだ。更に、キリスト教そのものを思想と考え、聖書を文学と考えるなら、これもキリスト教以前の社会との戦いの中で生まれたことに注意する必要がある。)また、中国では儒教が抽象的な思想でなかったためヨーロッパほど目立たないが、それでも儒教道徳に反抗することで生まれてきた文学がいくつかあるし、近代に入ると、魯迅が様々の大きな壁との闘いの中に出現する。以上のようにヨーロッパや中国が権威的な壁との争いを通して新しい思想を生み出してきたのに対し、日本では打破すべき大きな壁を見つけないまま、新しい思想やシステムを形成(移入)してきた。そのため見かけだけが変わって、実質が変わらなかったのである。(要するに、近代的手続きを踏みながら最後はお上にすがるというような、アンバランスなシステム、思考があったのだ。)
 このような状況の中で、優れた時代感覚を持つ井伏鱒二の屈託は、寧ろ当然だと言えるのではないだろうか。彼の屈託は壁がなかったために生まれたのである。たとえば「世の中が悪い」というようなことを壁と考えれば、その感情は怒りとなることができるが、井伏はそれが幻想に過ぎないことを知っていた。彼がプロレタリア文学に流れてしまわなかったのも、そういうところに原因があるのかもしれない。


   三 作品鑑賞

 某書店の校正係である「私」がそうであるかどうかは分からない(生活力の面では明らかにそうである)が、佐竹小一は坂根俊英の言うように「『生活』者の側からのアウトサイダー」(「井伏鱒二の初期−『夜ふけと梅の花』について−」 『井伏鱒二研究』所収)であり、だからと言って「芸術」の世界にいるわけでもない。「私」も、そんな彼のことを「彼は生計さえたったならば決してそれを止しはしないでしょう。しかも彼は日本画にも洋画にも何等の素養があるわけでもなく、また模写本位の製作を、芸術とか美術とかに結びつけて考えていたわけでもないらしいのです。」と評する。しかし佐竹は、前半部分では拾得先生の「全く超脱した笑い顔」に製作慾を湧かせ、「おい、きみきみ、そんなに鉛筆でデッサンなんかとっては駄目だよ、筆勢がにぶるじゃないか」などと尤もらしいことを言いながら、芸術家を気取っている。
 芸術家気取りではあっても、やはり佐竹は芸術家ではない。「私」が自分の描いている絵の二人の老人について「あまり隠遁的だとは思わないかね?」「これはたしかに逃避だと思わないかね?」と問うのに対して、佐竹は「慣れれば平気さ」と答えるのである。この「慣れれば平気さ」という言葉は、佐竹小一の生き方をそのまま象徴している。そしてこの言葉が、彼の精神状態を正常に保たせているのである。
 この佐竹が後半部分では、酒を飲んで心の防御壁を失ってしまう(その酒は、皮肉にも「慣れれば平気さ」という気持ちで描いた絵によって得た金で買ったものだ)。彼は「そんな笑い声で、拾得先生であるものか。」と言われても、もはや「慣れれば平気さ」と軽くいなすことはできない。「げらげら、げらげらげらッ」という、虚しい笑いの深みにはまっていくのである。
 「殆ど喚くほど、そんなに高声にそんなに明らかに泣き声で、彼が笑って一息ついた」ときには、佐竹も「私」も、自分たちが寒山拾得の境地に到達できないことを十分すぎるほどによく分かっている。しかし彼らは、ジャック・プレヴェールのように「天にましますわれらの父よ そちらにおいでをねがいます 地上は われらがのこりましょう こちらも 時おりすてきです」などと考えることはできない。彼らの内には、早稲田の文科のときの情熱の残り火が燻っているのである。「私」は「うまく笑おうとする彼の衝動を消してはいけない」と感じ、佐竹はいつまでも虚ろな笑いを夜空に響かせる。絶望の中で情熱の残り火を燃え尽きさせようとするかのごとく笑う佐竹の声は、読者に悲痛な感じを与えずにはおかない。


   四 『寒山詩』を読んでの考察

 「寒山拾得」と言った場合、我々は森鴎外が描いた「超然とした隠者」を思い浮かべ、芥川龍之介が描いた「人の心を解放してくれるような人物」(「東洋の秋」)を想像する。これは寒山拾得が禅宗の師表とされ、一般には画題の人物として「全く超脱した笑い顔」の固定化された印象が広まったからである。このため涌田佑も「寒山拾得を、井伏は現実の世界にひきずり出し、思い切って戯画化する」と言っているのである。だが、『寒山詩』を丁寧に読んでいくと、生の寒山が見えてくる。
 もちろん『寒山詩』の中にはイメージそのままの作品も多い。しかし、次に挙げるような詩にも注目する必要がある。

 少小帯経鋤   少小より経を帯びて鋤く
 本将兄共居   本は将に兄と共に居まんとす
 縁遭佗輩責   佗の輩の責むるところに遭うにより
 剰被自妻疎   剰え自妻に疎んぜらる
 抛絶紅塵境   紅塵の境を抛絶して
 常遊好閲書   常に遊んで閲書を好む
 誰能借斗水   誰か能く斗水を借し
 活取轍中魚   轍中の魚を活取せん


 昔時可可貧  昔時より可可に貧なりしが
 今朝最貧凍  今朝最も貧凍なり
 作事不諧和  事を作して諧和せず
 觸途成倥偬  途に觸れて倥偬を成す
 行泥屡脚屈  泥を行きては屡脚屈す
 坐社頻腹痛  社に坐しては頻りに腹痛む
 失却斑猫兒  斑猫兒を失却し
 老鼠圍飯壅  老鼠飯壅を圍む


 一為書剣客  一たび書剣の客となり
 二遇聖名君  二たび聖名君に遇う
 東守文不賞  東に守りても文賞せられず
 西征武不勲  西に征しても武勲せられず
 學文兼學武  文を學び兼ねて武を學ぶ
 學武兼學文  武を學び兼ねて文を學ぶ
 今日既老矣  今日既に老いて
 余生不足云  余生云うに足りず


 現在、『寒山詩』は岩波文庫で容易に入手できるので多くは挙げないが、これらの作品を読むと、「げらげら」と虚しく笑う佐竹と「私」の悲痛な姿こそが、寒山拾得の本当の姿だとも考えられるのである。



テキスト    『定本 夜ふけと梅の花』(永田書房 一九八四年)
         今回は、これを新潮文庫に従って現代仮名遣いに改めた。
主要参考文献  磯貝英夫『井伏鱒二研究』(渓水社 一九八四年)
        涌田佑『私注・井伏鱒二』(明治書院 一九八一年)
        『寒山詩』(岩波文庫 一九三四年)





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