「風の又三郎」−幻想空間構築の手法に関するメモ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今井洋一




 「風の又三郎」は<村童スケッチ>の集大成などではない。例えば「子どもたちの個性がよく描かれている」というようなことは、この作品に対する本質的な評価にならないと、私は思う。リアリズムの方向から見るならば、宮沢賢治に限らず大正期の童話作家たちは、今日の児童文学作家にかなわない。
 そうではなくて、私は、「風の又三郎」を幻想文学として読むべきだと思うのである。ファンタジーとして「風の又三郎」を捉えたとき、今日の児童文学作家(あるいは単に作家と言ってもよい)の作品のうちに、これほどよく計算して幻想空間を築いているものがどれだけあるだろうか。「風の又三郎」の最も注目される点は、その幻想空間構築の手法にあるのである。今回は、このことについて少し書いてみたい。


1.文学作品を読む際の二通りの姿勢

 小学校で椋鳩十の「大造爺さんと雁」を教材として扱った仙庭裕美は、授業後の感想を次のように述べている。

 授業を終えてみると、児童の物語のとらえ方と大人の物語のとらえ方のズレが、どの時間にもあったように思う。
 大人の感覚からすれば、残雪はあくまでも人格を持たぬ鳥であり、実際に物語にも、物言わぬ鳥として描かれている。だからこそ、その鳥の行為に敬虔な気持ちを抱く大造じいさんの偉さも、また、よくわかるのだと思う。
 ところが、児童たちの感覚では、終始一貫して残雪は知恵があり、勇気があり、まさしく雁の頭領なのである。児童の立場は常に残雪の側にあり、たとえハヤブサが現れなくても、大造じいさんは銃を撃たなかったとまで考える生徒もいた程である。(註1)

 しかし、仙庭が「児童の物語のとらえ方と大人の物語のとらえ方」と言っている、この二通りの読み方は、本当は、子どもと大人との間にある「ズレ」などではない。いずれの読み方も、子どもだとか大人だとかいうことには関係なく、等しく重要なものなのである。私はこれを勝手に「作品内部からの読み」「作品外部からの読み」と呼んでいる。

「作品内部からの読み」
 読者が作品内部に入り込んでしまい、作中人物と同じ時間、同じ空間を共に生きるとき、この「読み」が成立する。作品内に流れる空気(プロットや登場人物の感情)をより生々しく受け取ることができる反面、作品を大きく捉えることができず、卑小な感想しか得られないこともある。

「作品外部からの読み」
 作品を外から眺め、理解しようとするとき、この「読み」が成立する。緻密な分析が可能である反面、その作品観に血の通っていない場合があり、また、そのことによって却って作品の本質から外れた読み方になってしまう危険性もある。

 文学を読む(研究する)際には、どちらか一方の読み方だけではいけないのだと思う。その比率は人によって異なるし、対象とする作品によっても違ってくるだろうが、どちらに重きが置かれるにせよ、「作品内部からの読み」と「作品外部からの読み」とが互いに欠点を補いあってはじめて、文学作品の理想的な「読み」は実現する。


2.「風の又三郎」

 佐藤通雅は、「風の又三郎」について次のように言う。

 いったいに「風の又三郎」が描いているのは、いなかの小さな学校に突然転校してきた高田三郎と、それをとりまく少年群像である。ことばも服装もちがう三郎がいなかの少年達にひどく異風に映るのは当然で、激しい好奇心がついには風の又三郎という超現実の存在にまで仕立てあげてしまう。しかし時には仲間としてかばってやったり、水遊びをしたりするのだから、全き「又三郎」と信じこんでいたわけでなく、現実の子と見なす瞬間ももちろんあった。その現実、超現実の激しい交錯、またぎりぎりのせめぎあいがこの作品の要であるといえよう。(註2)

 扨、ここで「作品内部からの読み」「作品外部からの読み」ということを考えてみよう。読者がもし、少年達と一緒になって高田三郎を「風の又三郎という超現実の存在にまで仕立てあげ」たり、「現実の子と見な」したりすれば、それは「作品内部からの読み」である。しかし、「ことばも服装もちがう三郎がいなかの少年達にひどく異風に映るのは当然」だと言い、「現実、超現実の激しい交錯、またぎりぎりのせめぎあい」を少年達の問題にしてしまえば、それは「作品外部からの読み」になってしまう。
 宮沢賢治は、この「作品内部からの読み」と「作品外部からの読み」とを意識し、それを非常に巧みに用いて幻想空間を構築した。「作品内部からの読み」において、この作品の不思議は、高田三郎が風の又三郎であることに存するのではない。高田三郎が風の又三郎であるかどうかがはっきりしないところに、不思議があるのである。そして、「作品外部からの読み」はこの不思議に対して「高田三郎≠風の又三郎」という答えを出すように見せながら、その方向性をしばしば「風」で吹き飛ばす。「風」は、「注文の多い料理店」や「どんぐりと山猫」、「鹿踊りのはじまり」で異世界への扉を開くが、「風の又三郎」においては、「作品外部からの読み」が「高田三郎≠風の又三郎」という答えをちらつかせることによって、却って「あいつ何かするときっと風吹いてくるぞ。」と強く訴えてくるのである。また、「先頃又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです。」という一文の、よく知られた矛盾も、「作品外部からの読み」の整合性を崩すために一層印象的なものになっている。「風の又三郎」では、「作品内部からの読み」における不思議を、緻密で論理的なものであるはずの「作品外部からの読み」が増幅させているのである。
 「作品外部からの読み」一辺倒で何もかも常識的に片付けてしまおうとすれば、この作品は少しも面白くない。「作品内部からの読み」に固執すれば、まあまあ面白い。そして、「作品内部からの読み」と「作品外部からの読み」とが主従の関係で一体になれば、この作品の面白さは最大限に引き出される。「風の又三郎」の幻想空間はこのように構築されており、それは、力ずくで風の又三郎という異世界の存在をつくり出す以上に、幻想的である。



(1)「『大造じいさんと雁』の授業研究」。渋谷孝他編『読みを深める授業分析−全授業記録と考察 小学校五年』(明治図書 1987年)所収。
(2)「『風の又三郎』−現実と超現実のはざま」。「國文學 解釈と教材の研究」(1975年4月)所収。



(トップページに戻る)