宮沢賢治「オツベルと象」メモ
今井洋一
1 はじめに
原子朗の『宮沢賢治語彙辞典』では、オツベルが「悪らつな搾取者、資本家の典型」とされており、白象は「資本家に搾取される労働者階級の象徴のように描かれているが、本質的には仏教的デクノボーのバリエーション」と説明されている。また、ちくま文庫『宮沢賢治全集8』の「解説」でも、天沢退二郎によってオツベルは「冷酷で狡猾な搾取者」と酷評されている。労働者階級が立ち上がり、資本主義を打破する物語。「オツベルと象」は、従来そんなふうに読まれてきたようだ。これは、宮沢賢治の生前の活動を踏まえてのものである。
しかし、「オツベルと象」は飽くまでも童話である。プロレタリア文学や風刺小説ではない。子どもを対象とした読み物で、労働者をアジり、暴力によって権力を倒すことを勧めるような作品を賢治が書くとは考えがたい。もっと素直に読んでいけば、「オツベルと象」の本当の姿が見えてくるのではないか。そう考えたのが、今回この作品を取り上げることにした理由である。
2 牛飼いの評価
まず問題となるのは、牛飼いの態度である。彼は“第一日曜日”及び“第二日曜日”の章で「オツベルときたら大したもんだ」と繰り返し述べ、オツベルを絶賛している。この牛飼いがオツベルの死後、“第五日曜日”の章でオツベルを貶していれば結局ただの蝙蝠に過ぎないのだが、もちろん単なる日和見主義者が物語の語り手に抜擢されるはずなどなく、彼は“第五日曜日”の章でも「ところがオツベルはやっぱりえらい」と、しっかりオツベルを誉めている。ストーリーテラーによって終始賞賛されているオツベルを単純に打倒されるべき悪者として片付けるのは、少し強引なのではないだろうか。
3 英雄オツベル
オツベル自身について考えてみよう。彼は白象が小屋の入口に顔を出したとき、百姓どもがぎょっとした瞬間、もう白象を手に入れるための画策をしている。そして時計と靴を与えるかに見せて、その実、鎖と分銅で白象の自由を奪い、おまけに日々藁の量を減らしながら当の白象に「せいせいした」「うれしいな」と言わしめる策士なのである。我々は疑うことを知らない白象にイライラしながらも、オツベルのこの頭の回転に感服せざるを得ない。
冒頭でも述べたように、天沢退二郎は文庫版『宮沢賢治全集8』の中でオツベルのことを「冷酷で狡猾な搾取者」と評価しており、「あの山猫に食われかけた二人の紳士や、イーハトヴのタイチは、もしかしたらその愚かしさゆえに僅かに情をかけられたが、この冷酷で狡猾な搾取者オツベルは象の下敷きになって《もうくしゃくしゃに潰》される。」と述べている。だが、これは的を射た分析とは言いがたい。むしろ逆なのではないだろうか。私には、賢治が二人の紳士やタイチよりもオツベルの方に好意を寄せているように思われる。ここで、彼らがトラブルと対峙したときの様子を見てみたい。
二人の紳士(「注文の多い料理店」)
二人の紳士はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしやくしやの紙屑
のやうになり、お互いにその顔を見合せ、ぶるぶるふるへ、声もなく泣きま
した。
イーハトヴのタイチ(「氷河鼠の毛皮」)
タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱ
られ、うしろからはおされて…
オツベル(「オツベルと象」)
…おい、みんな心配するなつたら。しつかりしろよ。」オツベルはもう支
度ができて、ラツパみたいないい声で、百姓どもをはげました。
山猫軒に入った紳士や、熊どもに捕まえられたタイチに比べて、オツベルの毅然として象に立ち向かう姿はどうか。「眼もくらみ、そこらをうろうろするだけ」の百姓どもを叱り、自ら何頭もの象を前にしてピストル一丁で戦いを挑むのだ。そして死ぬときも、彼はぶるぶる震えたり泣いたりはしない。ケースを握ったまま、換言すればまだ闘う意志を持ったまま、いっぺんに落ちてきた象に押しつぶされるのである。
谷川雁の『賢治初期童話考』には、オツベルという名前がドイツ語に由来するものであると書かれている。この説が正しく、彼をドイツ人と捉えるならば、象のいる国(インド・アフリカ・東南アジアなど)で、彼は異国者だということになる。頼る人もいない異国で成功するには、おのれの智恵と勇気だけで勝負するしかない。オツベルはその両方を完全に兼ね備えた英雄である。オツベルの一面だけを見て彼を批判することは、たとえば香港ノワールの名作『男たちの挽歌(英雄本色)』の最後で周潤發が死ぬのを見て、「この監督はマフィアを批判し、人間は正しく生きなければならないというメッセージを送っているのだ」と考えるのと大して変わらない愚行である。
4 白象の哀しみ
白象は純粋無垢な心を持っていた。「ぶらつと森を出て、ただなにとなく」オツベルの工場へ行き、騙されているとも知らずに働くことの楽しさに酔っている。籾がパチパチ当たるのを「ああ、だめだ」と言いながら笑っていたり、「お筆も紙もありませんよう」と泣いたりするところを見ると、まだ子どもなのだろう。この作品の中心は、子どもが生来の純粋無垢な心を失う、その哀しみにあるのではないかと私は考える。
白象が初めてオツベルを嫌う気持ちを見せるのは、第五日曜の章で「時には赤い竜の眼をして、じつとこんなに見おろすやうになつてきた。」とある部分である。ここで白象は初めて純粋な心を失いはじめるのである。
オツベルを殺したのは、山の象どもであった。しかし、その象どもを呼んだのは他ならぬ白象である。「ぼくはずいぶん眼にあつてゐる、みんなで出て来て助けてくれ。」と手紙を書いて、赤衣の童子にことづてたからこそ、山の象どもは助けに来たのである。つまり、オツベルの死刑を執行したのは象どもであったとしても、その死刑執行を決定したのは(本人にその意志がなかったとはいえ)白象自身だったということになる。
白象が助けに来た象どもに感謝の言葉を述べる場面は、二度ある。一度目は「今助けるから安心しろよ。」という優しい声に「ありがたう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」と象小屋の中から応える場面であり、ニ度目はオツベルが死んで助け出されたあと「ああ、ありがたう。ほんとに僕はたすかつたよ。」と言ってさびしく笑う場面である。この二つの言葉には大きな意味の違いがあるように思われる。一度目の言葉は、心からの感謝だろう。だが、ニ度目の言葉はそうではない。「さびしそう」なのである。このさびしさは、助けに来た仲間たちがオツベルを殺してしまったことへの批判ではない。自分自身に向けられたものだ。
白象は自分の中に赤い眼のあったことを知ってしまったのだ。白象というのはalbinoであるから、その眼はもともと赤いものであった。オツベルの酷い仕打ちに反応して赤くなったわけではない。ただ、白象はこれまで自分の中に「赤い竜の眼」があることを知らずにいた。それが白象の純粋さを保っていたのである。白象は自分の中に人をも殺しうる一面があるということを知り、さびしく笑うのである。
5 おわりに
畢竟するに、この作品はオツベルを批判するためのものではなく、誰もが「赤い眼」、つまりオツベル性を自分の内に持っているということを知る、その哀しみを扱っているのではないか。白象は自分の中にもオツベルと同じ性質があり、自分もオツベルも結局は他人を踏み付けてしか生きられなかったのだ、ということを悟ったのだ。
オツベルをただ「冷酷で狡猾な搾取者」として片付ける人は、自分の中のオツベル性から目をそらしているのである。誰もが持っている、そして生きるうえで往々にして必要なオツベル性をただ否定し、忌み嫌うのは妥当ではない。
近代文学に関するものとしては、私が初めて書いた文章である。いま読み返してみると、幼くも一生懸命背伸びしている文体が気恥ずかしい。ただ、主張するところは今も変わらないし、何よりも私の出発点として個人的には思い入れがあるので、そのまま掲載した。
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