愛の克服−「杜子春」と「仙道」

                今井洋一


はじめに

 芥川龍之介の「杜子春」(註1)及び佐藤春夫の「仙道」(註2)は、どちらも仙人になることを志す若者の物語であるが、その結末は対照的だ。芥川龍之介は周知のとおり、杜子春に「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」と言わしめ、仙人になることよりも人情を忘れないことの方に価値があるとした。しかし、佐藤春夫の「仙道」では、若者は「骨肉の愛を棄てる」ために妻と年老いた母親の首を切り落とし、念願を果してしまうのである。
 この違いは、何に起因するものなのか。本稿では、まずはじめに唐代伝奇「杜子春伝」と比較しながら芥川の「杜子春」について考え、それを踏まえた上で、恐らく「杜子春」を意識して書かれたであろう「仙道」の認識が、果して「杜子春」を超えるものであるのかどうかということを検討してみたい。そこから、〈愛〉という感情を克服することの是非、あるいは意味が見えてくるのではないかと思う。なお、本稿は将来的には私の稲垣足穂研究に吸収されてゆくものであり、そのことについても最後に少し触れてみたい。



(1)「赤い鳥」(1920年7月)に発表。引用は『芥川龍之介全集』第二巻(筑摩書房 1958年)による。
(2)「現代」(1922年10月)に発表。『定本佐藤春夫全集』第28巻(臨川書房 1998年)より引用。


第1章 「杜子春」の結末を決定するもの

 芥川龍之介の「杜子春」は唐代伝奇「杜子春伝」を下敷きにして書かれたものだが、両者の結末は大きく異なっている。それは、当然と言えば当然のことだ。結末を変えることによって芥川は自らの思想を表現し、典拠とは別個の新しい作品を生み出しているのである。典拠と同じ結末では、芥川が「杜子春」を書く意味はない。
 しかし、私には、「杜子春」と「杜子春伝」との相違が単に「芥川の思想」ということだけで片付けられるものではないようにも思われる。二つの作品の違いには、個人的な思想以前に、(唐代)中国と(近代)日本との違いが反映されているのではないだろうか。換言すれば、芥川が唐代伝奇「杜子春伝」の結末を受け容れなかった(あるいは受け容れられなかった)ことは、彼が近代日本に生まれた以上、必然的なことだったのではないだろうか。ここではそういったことについて考えてみたい。

1.慈悲について
 「杜子春伝」に登場する道士は、近現代の日本人には冷酷非情な人間であるように感じられる。それは恐らく、〈愛〉というものに対する認識が、この作品をリアルタイムで読んだ中国人と異なるからだ。
 勿論、唐代中国の人々にも今日の日本人と同じような〈愛〉の捉え方がなかったはずはない。子を想う親の〈愛〉、親を想う子の〈愛〉は、国や時代を超えて共通のものである。しかし、唐代には仏教が盛んであった。日本からも多くの学僧が遣唐使として派遣されているので、このことは想像に難くない。だとすれば、唐の人々、少なくとも書物を読むような知識人の間には、この、仏教から来る〈愛〉の捉え方が定着していたのではないだろうか。
 では、仏教から来る〈愛〉の捉え方とは何か。それはすなわち「慈悲」である。慈悲という言葉は、今日では「情け」というほどの意味で一般に用いられているが、もともとは仏教語であり、キリスト教のカリタス(愛)に相当するものである。これは「慈」という概念と「悲」という概念とに分けて説明すると、分かりやすいかもしれない。


〈慈〉 「友」という語から派生した抽象名詞であり、真実の友情を言う。特定の人に対してでなく、全ての人に友情を持つことが慈である。キリスト教で言えば、新約聖書「ルカによる福音書10」で、サマリヤ人が実践したものである。
〈悲〉 原意は嘆きであり、あわれみ・同情を意味する。苦しんでいる人の悲しみを自分のものとして受け止めることであり、キリスト教で言えば新約聖書「ローマ書12−15」の「泣く者と共に泣きなさい」という言葉がこれにあたる。

 慈悲は、仏教における真実の〈愛〉なのである。そして、この慈悲が仏典では三つのレヴェルに分けられている。

慈悲に三縁あり、一には衆生縁、是れ小悲なり、二には法縁、是れ中悲なり、三には無縁、是れ大悲なり。(曇鸞『往生論註』巻上)

 小悲とは凡人にも実践できるもので、簡単に言えば、共同体内における助け合いのようなものである。中悲とは、慈悲の心を仲間だけでなく、全ての人に向けるものである。最後に大悲とは空の理を対象とする慈悲で、いかなる特定の対象をも持たない。ここでは自己と同様に他者も超克されているのである。この時空を超越した慈悲は、諸仏や大乗の菩薩のものであるとされる。
 仏教において、最高の愛は大悲である。唐代の人々には、この思想があったのではないだろうか。そして、近現代の日本人にはそれがない。このことが、日本人が唐代伝奇「杜子春伝」を読んだときに覚える違和感の原因であり、芥川が「杜子春」の結末を変えた原因でもあるように思われる。次に、具体的に作品を見て考えてみたい。

2.作品分析
 「杜子春伝」では、杜子春は道士に弟子入りする前に、すでに小悲を実践している。身寄りのない一族に邸宅を与えたり、墓地をつくったりしているのである
(註1)。単に〈愛〉が否定されるべきものであるのなら、杜子春は最初から弟子入りを許されないはずだ。
 それにも関わらず、杜子春は最後に〈愛〉を忘れ去ることができず、嘆息することになる。これは、杜子春が小悲の域を脱し、大悲を実践できなかったということを意味するのではないだろうか。大悲が「自己と同様に他者も超克されている」ものである以上、杜子春はおのれの苦しみに耐えたのだから、他人(息子)の苦しみにも耐えなければならなかった。また、妻が切り刻まれたときには見向きもしなかったのに、息子が殺されると声を上げるというのは、そこに優劣の関係があるということで、大悲の域に達しているとはとても言えない。
 唐代伝奇「杜子春伝」において、〈愛〉を捨てるということは、慈悲の心を捨てるということにはならないのだ。小悲(一般的な愛)を超越してこそ、より大いなる慈悲の心に近づくことができるのである。
 これに対して、日本には大悲というような思想は定着しておらず、当然ながら芥川にもそのような考え方はない。結末で〈愛〉を否定すると、全ての〈愛〉を否定することになってしまう。これでは杜子春は人非人でしかない。「杜子春伝」では大悲を実践できなくても、杜子春は「俗世の厄介」になる限り小悲を実践できる人間として改心したことになるから、道士は「元気でな」と声をかけてくれるが、芥川の「杜子春」では、そうはいかないのである。だとすれば、結末は必然的に決まってしまう。芥川が書いたようにしか書けないのだ。
 そして、このような〈愛〉をテーマとするなら、妻の災難、息子の災難という二重の試練は必要のないものになる。親から子への愛情を子から親への愛情に変えたのは読者が子どもであることを考えたためだろうが、とにかくこの試練は一度で十分なのである。また、仙人に弟子入りするまえに「杜子春伝」のように小悲を実践してしまっては、最後に声を上げることが分かりきったことになってしまうので、作品が成立しない。叩頭し、喜び勇んで弟子入りするという形にしなければならない。さらに、喜び勇んで弟子入りするという状況をつくるには、典拠よりいっそう仙人の魅力が強くなければならない。仙人の黄金の出し方が凝っていたり、その黄金による杜子春の遊びが派手になったりするのは、このためである。このように、芥川の「杜子春」の作品構造は、結末に従ってなかば自動的に決定されてゆくのだ。


(1)中国古典文学大系24『六朝・唐・宋小説選』(平凡社 1968年)ではこれを「世の中の義理」と訳しているが、原文には「名教」とあり、これは儒教の倫理である。儒教は慈愛・孝行という〈愛〉をその拠り所としている。


第2章 杜子春の〈愛〉

 第1章では「杜子春伝」における杜子春の捨てられなかった〈愛〉を小悲とし、彼が大悲の域に到達できなかったことに、仙人になれなかった原因を求めようとした。そして、大悲という思想のない日本では芥川の結末の変更が当然のものであると考えたのである。だが、私の仏教知識などというのはあまりあてにならないし、正確さを求めるなら、慈悲だけでなく禅や老荘思想も取り込んで唐代の人々の共通感覚を調べなければならないだろう。また、さらに重要なのは、日本的な文化のなかでは芥川の「杜子春」における杜子春の選択が正しいものだと言えるのか、ということである。
このことを検討しなければならない。そこで、ここではもう少し違った方向から、再度杜子春の〈愛〉の性質について考えてみたい。

 唐代伝奇「杜子春伝」で克服されるべきものとして挙げられている七種類の感情は、諸橋轍次『大漢和辞典』によれば『禮記』に起源を持つものである。

何謂人情、喜・怒・哀・懼・愛・惡・欲、七者弗學而能

 これらの感情は「弗學而能(学ばずして能くする)」もの、すなわち生得的なものである。その感情を捨ててしまった仙人とは、不自然(反自然的)な存在なのだ。そして、それ故に、超人として憧れの対象となるのである。だが、〈怒〉や〈惡〉、〈欲〉を捨てることに対する尊敬は理解できても、〈愛〉を捨てる必要がどこにあるのか、私たちにはなかなか分からない。
 しかし、〈怒〉や〈惡〉、〈欲〉がなぜ捨てられるべきものなのかということを考えてみると、〈愛〉を捨てなければならない理由も自ずと分かってくる。〈愛〉に対立する感情は何だろうか。言うまでもなく憎しみ、つまり〈惡〉である。では、〈惡〉はなぜ否定されなければならないのか。恐らく、それが利己的な感情だからである。自分の快楽を邪魔するものに対して、人は〈惡〉という感情を持つのだ。それならば、その対立概念である〈愛〉も利己的なものなのではないだろうか。〈愛〉は、自分に快楽を与えるものなのである。七情とは、全て自分の快不快による、利己的なものなのだ。第1章で、大悲が「自己と同様に他者も超克されている」ものであると述べたが、七情を捨てることは、利己心を捨てることに他ならないのである。
 さて、唐代伝奇「杜子春伝」については以上のように考えてよいと思うのだが、それでは日本の「杜子春」には、同じような考えは当てはまらないのだろうか。芥川の描いた杜子春が最後に守った〈愛〉とは、本当に素晴らしいものだったのだろうか。私は、どうも違うのではないかと思う。ここで、越智良二の論「芥川童話の展開をめぐって」
(註1)を引用してみたい。

杜子春は、地獄で母親と対面した時、「母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む氣色さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう」という風に母親と世間の人達とを明確に対比して、感動しているのである。此処では、明らかに、世間の人々の人間性は一層強く否定されている。夢から醒めて「人間らしい、正直な暮し」をしようとする杜子春にとって、あの母親故の人間信頼は、やがて世間の人々へも波及してゆくものであろうか。(中略)
 若しかすると杜子春は、母親だけを信じて世間を超脱してゆくのではないかとさえ想像されるのである。確かに、杜子春は、もう貧乏も勤労も厭わないであろう。だが、「人間らしい」というよりも「仙人らしい」正直な暮しを続けてゆくのではないか。此処には、恐らく(無意識の内にも)、作者芥川の苦しい現実認識や対世間的な人間信頼の薄さが反映されているのであって、エゴイズムを直視した積極的な人間性の追求が志向されているのかどうか、尚課題を残すようである。

 利己的な〈愛〉を捨てられなかった杜子春は、母親と自分だけの非常に小さな世界に閉じこもってしまったのではないだろうか。「人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と言う杜子春の声の「晴れ晴れした調子」、それに対する鉄冠子の「さも愉快そう」な態度には、どこか誤魔化しがあるように思えてならない。


(1)愛媛大学教育学部国語国文学会『愛媛国文と教育』第21号(1989年12月)所収。


第3章 「仙道」の問題点

 『定本佐藤春夫全集』第28巻の解題によれば「仙道」は、Greiner,Chinesische Abende"Die Lehre der Gottmenschen"(『中国夜話』の「仙術修行」」)という作品を参考にしたものだというが、これがどういう内容のものであるかは分からない。1922年10月1日発行の「現代」(第三巻第十号)に「仙人の術」の標題で掲載され、その目次の下には「(創作)」と記されていた。全集ではタイトルの下に「(口碑)」(初出時には本文末尾に「支那の口碑」)とある。典拠を見ていないので、どの部分が「創作」でどの部分が「口碑」なのか不明だが、とにかくここでは佐藤春夫の創作として見てゆこうと思う。

1.あらすじ
 「仙道」の若者は杜子春とは全く違い、貧しいが働き者の百姓である。彼は「珍しいほど素直なやさしい男」で「人助けの好きな情深い」人間だった。そんな彼が「急に自分も仙人の術を覚えたくなつた」のである。この心境の変化は、何によるものなのだろうか。ともかく彼は、「地上には決して永遠の結縁といふものはありません。」と家族を捨て、仙人に弟子入りするのである。そして、彼も杜子春と同じように様々な試練を乗り切ってゆく。そんな中に、次のエピソードがある。

 ふと、一人の若い女が岩の上に腰を下してゐるのが彼の眼に入つた。(中略)それを見れば誰でも心を動かさない者のないやうな少女であつた。しかし仙人になるより外は何の望みもない若者は、その少女には目もくれないで一言の言葉を交さうとさへもしなかった。(中略)
少女は目に泪をためて言つた「(中略)人といふものはもしそれが許されてある時には快楽に身を委ねて百年をも一瞬のやうに楽しく送るものです。仙人の術が一たい人間に何の役に立ちませう。どうして情と愛とを斥けて悩みと苦みとのなかに一生を送らなければならないのでせう。」
 若者は答へた。「普通の人の喜びは体の喜びで、仙人の喜びは心の喜びです。体の喜びは死と一緒に消えてしまふけれども、心の喜びは千年も消えはしません。私はもう胆を据ゑてゐるのだ。」

 彼は「心の喜び」を求めているのだ。それが仙人になりたいと思った理由だったのである。しかし、ここで「情と愛とを斥け」ながら、彼は病のため床に臥せっている母親とそれを見ておろおろしている妻の幻を仙人に見せられて、思わず涙を流してしまう。仙人は「お前の骨も少しばかりは仙人らしくなつたかと思つたのに、まだ骨肉の愛を棄てることの出来ぬ間は仙人の道を求めることは無益だ。」と言うのだった。
 だが、この若者は「人間らしい、正直な暮し」などと言って仙人になることを諦めたりはしなかった。彼は「人間らしい、正直な暮し」を捨てて仙人になることを決意したのだから当然である。彼は、母親と妻の首を「顔をそむけ歯をくひしば」りながらも切り落としてしまうのだ。ただし、実際には母親も妻も死んではいないそれも仙人の見せた幻だったのである。

 二人の女は翌朝眼をさまして、嫁は姑に言つた。
「ゆうべわたしはあの人が帰つて来た夢を見ましたよ。」
「わたしも同じ夢を見た。」
 二人は起上がつた時、各自の牀のなかにそれぞれ自分の頭ぐらゐの大きさの金の塊を見出して、二人は互に顔を見合せて色が蒼褪めた。何処から来たものやら分らなかつたからである。それから表戸を開けた時に彼の女たちは、自分の息子、自分の良人が戸の釘にかかつて縊れ死んで居るのを見た。嘆き悲しみつつ二人は棺を買つて埋葬した。しかし彼女たちは、あのどこから来たか分らない金塊があつたので暮しに差支へることはなかつた。

 若者は仙人がいたはずの山に帰ったが、仙人はどこにも見当たらなかった。そして自分自身の屍が獣に食べられているのを見る。

その時ふと若者は自分がもう仙人の仲間入りをした事に気がついた。さうして遽に彼の周囲にあるものが、海やら河やら植物やら動物やら分らなくなつたと思ふと、その身が霧のやうに軽く雲のやうに自在になつて、今は天と地とを超越して、空の中をあちらこちらと漂うてゐるのであつた。

2.「仙道」の問題点−nonchalant
 「仙道」の若者は仙人になるわけだが、それではこの若者は、杜子春より優れた存在なのだろうか。家族に対する気持ちに的をしぼって考えてみよう。
 まず、若者は「地上には決して永遠の結縁といふものはありません。」と言って家を出るのだが、そのときに考えたのは自分の「悲み」のことだけで、家族のことは少しも心配していない。そこには超俗と言うよりも、妙な呑気さがあるのではないだろうか。また、「体の喜び」と「心の喜び」というのも、先に引用した部分では何となく分かるような気がするのだが、それでは家族と慎ましく暮らしていたときには「心の喜び」がなかったのだろうか。その辺りが、はっきりしない。「人間らしい、正直な暮し」をしていたときの若者にとって〈愛〉とは何だったのだろうか。そこを曖昧にしてしまったところに、やはり佐藤春夫の呑気さがあるようである。そして、最後に妻と母親を殺す場面では、〈愛〉の克服を挟んで存在する超俗と世俗とを、幻想に筆を任せることでうまく両立させている。佐藤春夫には、芥川龍之介の葛藤がないのである。
 このように見ると、佐藤春夫は芥川の果たせなかった登仙を果したのではない。彼は「呑気さ」の力を借りて、仙人になった夢の中に安住してしまったのである。


第4章 「杜子春」と「仙道」の違い

 〈愛〉を克服できなかった「杜子春」にも、〈愛〉を克服したかのように見える「仙道」にも、私は厳しい評価を下すことになってしまった。「ああ仙才の得難きなり」と言った「杜子春伝」の道士は正しかったのである。
 ところで、芥川龍之介と佐藤春夫との違いは、どこから生まれたのだろうか。芥川については山田義博が「芥川文学の断面について−大地母性の見地から」
(註1)の中で次のように述べている。

 芥川にとって、「大地母性」なるものは無かったのだ。あり、なし以上に、「生母フク」から唯一の生母としての母らしい愛情を受けもせず、それ故にか、また〈僕は一度も……母らしい親しみを感じたことはない。〉という。
 母なるものすべての象徴である「大地母性」からの拒絶、この喪失体験こそ、芥川の文学と彼の自殺とに、このうえなく重要な意味を持つ決定的な因子である。(中略)
 この作品(「杜子春」−引用者註)で、作者芥川は「母」の慈愛の純粋性、その絶対の犠牲的愛……を巧みに表現し、地獄というバックをも取りいれて、「永遠に母なるものの無限性」を表現しているのではないか。(それと同時に、地獄に転落した母親を描写しているのは、「母」に対する敵意、憎悪をも示しているといえる。)

 一方、佐藤春夫の詩には「煙草」(註2)という作品がある。

  父の教をやぶりつつ
  父の金もてわが吹かす煙草
    (中略)
  おもしろやそのけむり、
  むらさきに輪となりて
  春の夜のさびしきわれをとりめぐる。

 「さびしきわれ」と言っているが、この詩は、確かに守られているという安心感、守られていることに対する甘えがなければ、書かれないのではないだろうか。芥川と佐藤春夫との違いは、この点から来るものであるように思う。
 なお、杜子春が最後に捨てなかった〈愛〉を、私は利己的なものだと述べたのだが、芥川はそのことを知っていたのかもしれない。任萬鎬「芥川龍之介の児童文学」
(註3)に、次のように書かれている。

芥川は『侏儒の言葉』において「子供に対する母親の愛はもっとも利己心のない愛である」と言っていながらも、小説『母』(大正十年『中央公論』)では母親の利己心のない愛の本質は、人間のエゴイズムの一種に過ぎないと指摘している。

 私は『母』を読んでいないし、芥川の思想がどのように変わっていったのかも知らないが、任の言う『母』の中の思想が「杜子春」の時点ですでにあったのだとすれば、芥川は全てを分かっていて、敢えて敗者になろうとしたことになる。芥川は、それほどまで〈愛〉に飢えていたのだろうか。
 「杜子春」と「仙道」とを比べると、「杜子春」の方が格段に深い。そして、それ故に「杜子春」は作家の弱さをさらけ出してしまっている。改めて「ああ仙才の得難きなり」と思わざるをえない。


(1)金沢大学国語国文学会『金沢大学国語国文』第11号(1986年3月)所収。
(2)『佐藤春夫詩集』(白凰社 1965年)より引用。
(3)大東文化大学大学院『日本文学論集』第19号(1995年3月)所収。


おわりに

 自ら敗者になろうとした芥川龍之介は、その実人生においても、自殺という敗北の道を選ばなければならなかった。そして、「呑気さ」の力を借りて夢を見た佐藤春夫は、中年期にいたってその夢から醒めたとき、過去の栄光のみを頼って通俗的な駄文を書き続けるという醜態を晒すことになる。大正期には、欧州のフェアリーテールや中国の志怪、伝奇に影響を受けた幻想文学が多くの作家によってつくられた。しかし、これらの作家の多くは昭和の初めには芥川や佐藤春夫と同じように登仙に失敗、無惨にも地上に叩きつけられてしまったのである。
 ところで、私がこの問題に関心を持ったのは、はじめにも述べたとおり、稲垣足穂研究のためである。彼が第二次世界大戦中に書いた『彌勒』(1940年)は次のように結ばれている。

ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者は、まさにこの自分でなければならないと。
 そんな夢を確かに明方に見た。真暗闇の中に揺らいで居る蓮葉の上に、それでも辛うじて落ちないで坐つている、裸体に古カーテンを巻き付けた自分であった。いま盂蘭盆の墓地からは、東洋の朝を想わせる香煙が頻りに立昇っている……

 足穂は仙人ならぬ彌勒菩薩になる。いや、「辛うじて落ちないで坐っている」姿は頼りなく、まだ成道してはいない。だが、何とか彌勒になろうと中期の足穂はもがいているのである。何故だろうか。初期の足穂には超俗的なものへの憧れはあったが、仙人とか彌勒とか、そういった人間でない存在になりたいという願望はなかった。それが、中期になると、セイントや彌勒になることを本気で考え、苦闘するのである。
 作家論的に見ると、この時期はちょうど佐藤春夫に破門され、父母を失い、足穂が全ての〈愛〉を失ってしまった頃である。足穂は、仙人になるために〈愛〉を克服しようとしたのではなく、〈愛〉を失ったために彌勒を目指さざるを得ない状況に置かれてしまったのだ。「杜子春」や「仙道」とは異なるパターンである。しかし、足穂は失った〈愛〉にしがみつこうとせず、強がって〈愛〉を否定することで彌勒になろうとした。このような極限の状況において、人ははじめて登仙を果たせるのかもしれない。
 空前の好景気に誰もが浮かれていた大正期の作家は大抵の場合、長続きしなかった。その代表が佐藤春夫である。彼らは「人生いかにいくべきか」という明治期の文学の最大のテーマを捨てて、淡い幻想に身を任せ揺蕩う唯美主義の時代を作り上げた。そして、それは世界恐慌を経て第二次大戦に向かう急激な時代の変化の中で、脆くも崩れ去ってしまったのである。このような状況の中、稲垣足穂は芥川のように死ぬこともなく(足穂には、ぼんやりとした不安を感じる余裕もなかったのではないか)、憫笑の的になりながらもしぶとく作品を書き続けた。その結果が、『一千一秒物語』から『彌勒』への飛躍である。そこにはたしかに〈愛〉の克服という問題が横たわっている。このことを考えるとき、私たちはもはや「愛は素晴らしい」などと気楽なことを言ってはいられないだろう。

補足
 但し、足穂が本当に彌勒的とも言える存在になったのは、どうやら1950年に志代夫人と結婚して、その愛に守られるようになってからのようである。そのことも含めて、今後引き続き、彌勒(仙人)になることと〈愛〉との関係を考えてゆく必要がある。




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