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To all the audio philes,loving The Tannoy Dual
Concentric Drive Unit
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§ All About Tannoy §
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§ Tannoyの沿革 (History) *Dimension12・10・8(’12‐2000〜’10&’8‐2001〜)-3-way-system<'12
/'10/'8-respectively,2.5cm super tweeter>-ferrite magnet *Yorkminster/HE(2002〜)-<'12 dual,AlcomaxV-Alnico
magnet> *Kensington/HE (2002〜)-<'10
dual,AlcomaxV-Alnico magnet> *Glenair (2005〜)-<'15 dual,> § Tannoyの魅力(How we feel about
Tannoy)
-注:(*1) 菅野沖彦氏 (*2)
五味康祐氏 (*3) 上杉佳朗氏- § 五味康祐氏とTannoy § 日本にタンノイを紹介した人物として、故五味康祐氏に触れないわけにはいかないと思います。タンノイ・ユーザーであったばかりか、日本のオーディオ評論界・音楽評論界にも偉大な足跡を残した氏の音楽・オーディオ・タンノイに関する著作は、時代を超えたファン座右の書と思わずにはおれません。 五味康祐氏〜芥川賞作家≪受賞作「喪神」≫(昭和55年没) 五味氏はTannoy "Autograph"(昭和39年7月25日搬入)をマッキントッシュのC22(プリ)とMC275(メイン)で鳴らしていた。Tannoyに魅せられた動機を氏は昭和27年に知人の家のタンノイSPで聴いたフランチェスカッティのベートーベン「ロマンス」としている。高城氏製作のコンクリート・ホーンに始まり、ワーフェデール砂箱型、タンノイ和製キャビネット型、テレフンケン、SABA等の遍歴を経た後の最終機種であった。氏の音楽関係の著作は「西方の音」(新潮社−昭和44年)、「天の聲〜西方の音」(新潮社−昭和51年)、「オーディオ巡礼」(ステレオ・サウンド社−昭和55年)、「いい音 いい音楽」(読売新聞社−昭和55年)、「人間の死にざま」(新潮社−昭和55年)、「音楽巡礼」(新潮文庫−昭和56年:選集)、「ベートーベンと蓄音機(オーディオ)」(ランティエ叢書−平成9年:選集)などがある。 五味康祐音楽評論選 「・・・スピーカーは沈黙を意思するから美しい。・・・いわば沈黙の、静寂の深さといったこの事を考えたことがあった。たしかに再生装置をグレードアップすればする程、鳴る音よりは音の歇んだ沈黙が美しい・・・」(「音による自画像」〜"天の聲"より抜粋) 「・・・『色はあるが光はない』とセザンヌは言った。画家にとって,光は存在しない,あるのは色だけだと。光を浴びて面がどういう色を出しているかだけを,画家は視ておればいい。もともと,画布が光を生み出せるわけはないので,他のものを借りてこれを現さねばならない,他のものとは,即ち色だ−『そうはっきり悟ったとき私はやっと安心した』 と,ルノアールも言っている,セザンヌの言うところも同じだろう。−この筆法でゆけば,ぼくらレコード鑑賞家にとって音楽はあるが、ヘルツはない,そう言い切って大して間違いはなさそうに思える。演奏はあるが,ナマの音は存在しない,そう言いかえてもいいだろう。・・・」(「フランク≪ヴァイオリン・ソナタ≫」〜"オーディオ巡礼"より) 「・・・音を記憶するのは難しい。それでいて,いい音を聴いたという記憶の方はめったなことで脳裏を去らない。どうかすれば,あの時の音(−演奏と言いかえても大して違いはない -)は,たとえようもなく素晴らしかった,凄かった,一生そう言いつづけそうなのがオーディオ・マニアで,音楽愛好家も畢竟はこのたぐいだろうと私は思う。・・・」(「レコード音楽の矛盾」〜"天の聲"より) 「・・・音(低音)がヌケると,よく言う。スピーカー・キャビネットに音がこもらず,風のように抜けるとでも言ったらよいか。「水の縁を切った水は甘い」とでもいうようなものだ。水を疲れさすという言葉があり,疲れた水は同じH2Oでも湧き出したばかりの山の水とは異なった味わいをもつ。即ち「水の縁を切った水」である。疲れて水の粗さを失った水は,滑らかで甘い。一丈の高さの滝と二丈の滝では,その滝壷に落ちた水の味は違うのである。風流士はそういう水の味の違いを味わうが,低音だって同じことだ。・・・」(「ピアノ・ソナタ作品一〇九」〜"西方の音"より) 「・・・演奏―つまり音の美を伝達する≪媒体≫の介在が今後必然視される限り,従前とは別個な,音の美が考え出されて不思議はない。たとえれば,バッハやモーツァルトはナマの演奏である。いかに周波数特性がよくなり録音技術が進歩しても,蓄音機がナマの音の臨場感にかなうわけはない。これはもう永久にかなわない。だからといって,かなわぬ劣等意識やひがみから,≪無明≫で音楽するのでなく,蓄音機自体を聴者にとっての楽器とするそういう新しいジャンルが,今後,創造されぬわけはあるまい。アイビスの独創性は,ここに目をつけていたと私は思う。蓄音機自体がつまり楽器なら,ジャズ的になろうと一向かまうまい。ティンパニーもまた楽器であるように,それはそれで音の美をつくり出せる。・・・」(「米楽壇とオーディオ」〜"西方の音"より) 「・・・ある曲の或る楽節でその曲と分かちがたく結びついた感動なり事柄,人物がいたとしよう。歳月をへだててその曲を聴く時,針がレコード面のその部分にさしかかると,突如として過去は,事柄や人物は,生々しい感動で甦ってくる。感動とわかち難く結びついていればいるほど,他の演奏者のどんなレコードであってもその楽節で鳴ってくるのは,過去の方の音楽だ。音楽が甦らせるこの奇怪な記憶力を抜きにして,レコード鑑賞は語れまいし音楽をくり返しぼくらが聴くこともあるまい。・・・」(「レコードと指揮者」〜"天の聲"より) 「・・・ベーゼンドルファーはそうではなかった。和音は余韻の消え残るまで実に美しいが,不協和音では,ぜったい音と音は妥協しない。その反撥のつよさには一本一本,芯がとおっていた。不協和音とは本来そうあるべきものであろう。さもなくて不協が―つまり和音が―われわれに感動を与えるわけがない。そういう不協和音の聴きわけ方を私はバルトークに教えられたが,音を人間にかえてもさして違いはあるまいと思う。・・・」(「大阪のバイロイト祭り」〜"西方の音 "より) 「・・・より高忠実の再生音を念願するにせよ,音の発源体となるのがせいぜい十五インチ程度のスピーカーであってみれば,これまた多くを望む方が無理だろう。結局,どこかで処理された,あるいは取捨選択された音を,生らしく聴くことで我々は我慢しなければならない。しかもナマそのままに刻まれたレコードなどあるわけがないとなれば,つづまるところ,耳にこころよい適度の臨場感をともなった,いかにもナマを彷彿させる音をもってよしとするしかないだろう。言ってみれば,かって感激して聴いた音,現実には求められないかもしれないが,記憶の中で浄化された素晴らしい音,そういう音の理想像に我が家の音を近づけようと悪戦苦闘する―ここにオーディオ・マニアの業のようなものがあると私は思っている。・・・」(「オーディオと人生」〜"オーディオ巡礼"より) 「・・・末端の音色が変わったぐらいで曲趣の一変するような作品は,たかが知れているのである。ピアノ曲で,たしかにペダルを踏んだかどうかのはっきり聴き分けられる装置は,演奏の理解には欠かせないだろう。・・・しかしピアノ・リサイタルを聴きに行って,ペダルを踏み分ける音まで聴き取れるのは余程いい席に限る。それでも(たとえば三階のてっぺんで)実演を聴いて,ぼくらはそのピアニストを理解できなかったとは,ついぞ思ったためしはないのだ。どうして,再生装置の場合だけ,ペダルや音色の差で演奏が,つまり音楽が左右されると思いたがるのか。・・・」(「芥川賞の時計」〜"オーディオ巡礼"より) 「・・・指揮者は演奏以前に心象を先づ有つものだとフルトヴェングラーは言うが,似た心象はレコードをかける前のわれわれにもあるだろう。聴き馴れた曲ならそうだろう。毎度寸分のちがいない鳴り方でも(レコードでは)こちらの心象はその日によってちがう。・・・ずいぶんさまざまな楽器の,多様な音や旋律がレコードでは鳴っている,従来は聴き捨てにしたそんな旋律の一つにでも耳を欹てると,そこには別の曲趣が鳴っている,音楽がもう一つはじまっている。くり返し,家庭でぼくらはレコードを聴くことで,そういうちがった演奏の味わいを満足することができる。いわゆる名演奏・名盤は汲めども尽きぬそんな発見の歓びを無辺際に提供してくれるものの謂か。要するに,楽器の鳴っている旋律や音色への,別な注意を喚起されること,この喚起の歓びを期待して再生装置の改良がはじまるが,音がよくなった,と彼等は言うが,演奏が聴きよくなったというこれは意味なので,無機的に音だけよく鳴ればよいというのは,ちがう。・・・」(「レコードと指揮者」〜"天の聲"より) 「・・・音楽自体はたいへんぜいたくな,豪奢な心情をぬきにして味わえぬものであり,オーディオも又,贅美な音色を知らずに語れる道理はないのだが,心で知っていることと,現実はしばしば異なる。或る音を知っていても,それを実家の再生装置で鳴らせるとはかぎらないので,切ないこれは話である。この切なさが音楽の美というものへ結局は昇華して行く,それが各人の音楽の理解の仕方につながるだろうと私は考える。・・・」(「シューベルト≪幻想曲≫作品一五九」〜"オーディオ巡礼"より) 「・・・レコードのひびかせる音楽は,演奏ではない,なぞというたわけた意見にぼくらは耳を藉す要はない。レコードはむしろ最も純一無垢な状態で音楽をぼくらにきかせてくれると私はおもっている。レコードが,音楽鑑賞の妨げになる場合があるなら,再生装置の不備によると言っていいくらいである。録音技術の昨今とは比較にならぬSP時代の名盤をいま聴いて,最新録音の,いや,生の演奏からでさえ到底味わえぬ深い感動をおぼえる事実を考えると,もっとも装置の不備など大したことでもない。ハードウェアの驚異的な進歩がぼくらにもたらしてくれたものは,バッハの二つの受難曲や,『メサイヤ』,モーツァルトの歌劇その他ワグナーやブルックナーやマーラーの長大な作品を家庭で容易に鑑賞できるようになったという,このことに尽きるだろう,そしてこれこそ筆舌に尽し難いオーディオ技術者たちの,功績だと私は思う。文明ではなく文化を彼等は創造したのである。・・・」(「レコードと指揮者」〜"天の聲"より) |
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