- 人は,自分の体験と学問の範囲でものをいう。範囲を超えたことに遭遇する人は,うそ(否定)、ほんと?(疑惑)、
- 信じられない(不信)と、拒絶的態度にでる。
中村天風という人物は,われわれの日常的な体験や学校で教える学問の領域を、はるかに超えている。
中村天風と遭遇した時、あなたは、どんな態度にでるか。拒否か、それとも信服か、私は関心をもつ。.
一人の人物やその思想を理解しようとするならば、まず其の人の性格,その生きてきた環境,そしてそこでの、其の人
の反応態度を見つめてゆかなければならない.
性格というと、まず良心に触れなかればなるまい。
父、中村祐興(すけおき)は、九州、旧柳川藩士、性は剛穀。若くして長崎に遊学、新しい学問を身に付け新聞やカ
メラにも興味を示すなど新文明に進んで接触し、取り組んだ人物である。
維新後は,明治政府に仕官し紙幣に使う紙の研究と開発に尽くした。
従来鷲の主要原料として使われていた三椏(みつまた)や楮(こうぞ)に、絹のぼろきれを交えて、強靭な紙幣用紙
を開発した。「中村紙と名付く」と記録紙にある。
其の方面の第一人者であった祐興は、大蔵省、紙幣寮の抄紙局長となった。
母,長子は、江戸、神田、小川町の生れ、性は気丈、顔立ちも言葉も、態度も、さわやかな女性であったという。
当時、紙幣用紙の製糸工場は王子にあった。江戸の頃から咲くエアの名所であった飛鳥山に続く王子のあたりを、音
無川は勢いよく流れていた。祐興は工場長をかねていた.。
工場の宿舎で、明治9年、三番目の男子が出生した。三郎と名づけられた。
中村も,三郎も、日本のどこにでもみられるありふれた姓であり、名である。だが、その生涯は、誰のルイずいも許さ
ない過酷,波乱の半生となり、後年は,中村天風という迫力ある指導者として、世の人々の敬慕してやまない大人物にな
るという特異な人生を生きることになるのである。
三郎の性格は,父祐興の九州男子の剛穀さと、母、長子の江戸女の気丈さとが結合して、激しい負けず嫌いという性格を
形成した。「くそ一番、負けるものか」という激しい気性は、三郎が生涯で遭遇する幾多の生命の局現状態を突き抜け
させるのである。
「徹底的に、とことんまでつきつめる」という三郎のもうひとつの性格は、生命に対する哲学的,科学的な徹底研究に三
郎をかり立て、ついには、整々たる体系をもつ心身統一法を創見するという偉業をなしとげさせてしまうのである。
また、「優位に立たねば気がすまぬ」という気性は,それだけの創意と工夫と努力を三郎に強制し,ついに剣も書も画も、
事実上優位に立たせてしまうのである。
負けん気も、徹底性も,実は三郎の生命力の激しいほとばしりであったのである。生命力の激しいほとばしりは、俊敏な
身のこなしと、すばやい頭脳の回転となって表現された。
身体と頭脳の俊敏制は、年少の三郎には、まず激しい悪戯として噴出した。
三郎が喧嘩をすると、相手の指をへし折るか、耳を引きちぎるほどの徹底振りであった。
良心の手に負えぬ程の悪戯を重ねた三郎は小学校を終えるとすぐ、福岡にある父の知人の家に預けられ、中学はしゅう
しゅう館に通学した。
そこでも、三郎の粗暴な行動は続いた。
中学三年の時、柔道試合の遺恨から、出刃包丁をもった中学生ともみ合ううちに出刃包丁は相手の腹に突き刺さった。
中学生は死亡した.取調べの結果、三郎は正当防衛で釈放されたが、退学となった。
ここで三郎は、福岡の壮士の集団である玄洋社に預けられるのである。
荒くれ男のぶつかりあう玄洋社の気風は、激しい気性の三郎には、程よい環境であった。
三郎はここで、巨大な人物、頭山満に出会うのである。人生は、誰と巡り合うかによって、決まるといってよい。
誰のいうこともきかぬ激しい気性の三郎が心から心服し、尊敬した人物が頭山満であった。三郎は修生、頭山満を師と
仰いだ。
ある日のこと、河野金吉という陸軍中佐が玄洋社を訪れてきた。
「日本と清国(中国)との間に、戦が起る気配がある。今のうちに遼東半島の視察旅行(実はスパイ)をしたい。
鞄持ちが一人欲しい。命知ら
ずの若い者は居ないか」という。即座に、武術ができて、俊敏な三郎が選ばれた。三郎十七歳の頃である。
河野中佐につれられて三郎は、遼東半島の錦州城、九連城の探索に当たった。知らん顔をして、人目を盗み、城の地形や
兵の配備を探ることに、快感をおぼえた三郎の血は湧き、心居勇み立った。
日清戦争では、事実このあたりが、主戦場となった。
これから約十年程して、日本とロシアとの国交は急に緊迫してきた。
参謀本部は秘密裡に、軍事探偵を募集した。かつて河野中佐から、軍事探偵の手ほどきをうけた三郎は、そのときの快感
が忘れられず応募した。いの一番で採用された。
探偵としての訓練をうけた三郎は、明治三十六年には、ハルピン方面を担当する、スパイ活動に入った。
旧満州(現・中国東北部)生まれ、旧満州育ちの、満州人さながらの風貌の橋爪という探偵とコンビを組んだ。
鉄橋を爆破し、夜間行軍する砲兵部隊に斬りこみ、司令部に秘密文書を盗みに入るなど中村探偵の豪胆と俊敏さは、スパ
イ活動の中で存分に発揮された。
だがついに、黒竜江軍の竜騎兵に捕らえられ、死刑の宣告をうけ、銃火一発、銃殺のい瞬間、橋爪の投げた手榴弾の爆発に
より、助かるのである。
中村探偵のすさまじい程の活躍は、三郎の実弟、浦路耕之助(筆名)が「ある特務機関の話」(博文館発行)として書いた。
これを劇作家竹田敏彦が脚色し、「満州秘話」と題して、昭和7年5月、新国劇一座により、京都南座で上演され、続いて秋
、東京及び大阪でも上演された。 ちなみに中村探偵を、島田正吾が演じている。これを見た頭山満は「天風、お前のほうが
よか男じゃ、舞台に出て、やれ」といったという。
中村探偵の旧満州での生活は、過酷なものであった。腐った芋を口にし、ぼうふらのわいた水を飲んだという。
日露戦争は、勝利の内に幕を閉じたが、三郎は、しきりに咳をするようになり、ついに血を吐いた。奔馬性結核と診断された。
症状が派手で、
馬が疾走するように速く病状が進行し、死に至るという、悪性の肺結核であった。後にいう急性の粟粒結核である。
当時の肺結核は、死病ともいわれ、的確な治療薬はなかった。
名医といわれた北里袈裟三郎先生の指導をうけたが症状は好転しなかった。
宗教に救いを求めるかということで、父の伝手で、キリスト教のある牧師が訪れてきたが、ただ「祈れ」と言うだけであった。
続いて著名な禅
の指導者が、ツカツカと病室へ入ってきて、いきなり「肺病やみの若い者は、お前か。馬鹿め!!」と罵倒して帰って行った。
世間で著名といわれる人の指導には、理論もなければ、方法もなく、愛情のこもった説明もなかった。三郎は、腹が立った。
後に、三郎が天風となり、理論も方法も整然とした心身統一方を創見し、その大説法者となり、暖かく、多くの人々を救った
のは、この時の、病む者の苦悩の体験があったかたにちがいない。
人は病となれば故郷に帰るのに、三郎は、救いの道を求めて、アメリカに渡るのである。
病床で読み感動した本の著者を、アメリカに訪ねたが、的確な返事は得られなかった。
フィラデルフィアでうけた人間改造の講習会は、心理学と神経の初歩的知識が語られるだけで、期待した成果は得られなかった。
老学者カーリントンは「若くして人生を求めることは尊い」と、三郎を誉めるだけで何も教えてくれなかった。
一つだけよかったことは、香港の華僑の息子の身代わりに、コロンビア大学に通い、医学を学ぶことができたことであった。
三郎の生まれた王子の工場に、イギリス人の技師がいた。三郎は、技師に可愛がられているうちに、英語を覚えた。三郎にとって
英語は、彼方の言葉ではなかった。
中国語は、軍事探偵として身につけた。英語と中国語がここで約だつのである。
医学を学んだが、三郎の結核は治らなかった。だが華僑から、身代わり受講に、多額の謝礼をもらったことは、三郎の希望を続け
させた。憧れてきたアメリカ大陸は、三郎を救ってくれなかった。三郎はアメリカを後にした。
秋の大西洋は荒れた。乗客は、ひどい船酔いに悩まされた。船の食堂に食事をとりに来たのは、三郎とイギリスの退役の海軍大佐
の二人だけであった。大佐は三郎に近づいて来て「自分は世界の海を乗り回した海軍大佐である。どんな時化でも酔うことはない。
あなたは、丈夫そうにも見えないが、船に酔わぬ秘訣は」ときいた。「秘訣なんかありゃしませんよ。脈は速くなるし、血は吐きそ
うになる。今にも死ぬかと思うと、とても酔ってるひまはありませんよ。」と三郎はいった。
荒れた航海で、衰弱し、フラフラになった三郎は、やっとロンドンにたどりついた。
しばしば休養した三郎は、「神経療法」のセミナーに参加した。勿体ぶった先生が、心理学と神経学を話すだけで三郎に新知見を加
えるものは一つもなかった。
ただ一つの魅力は、最後の講義で「病を治す秘訣を教える」ということであった。
いよいよ最後の講義になった。彼の先生は威厳を正して「是から病を治す秘訣を教える」といった。
三郎は、これさえ掴めばよいと、息をつめて聞き耳を立てた。
彼の先生は、声を大にして「忘れよ、これのみ。病を忘れよ。これが秘訣だ。」と叫んだ。
三郎はすぐさま控室にその先生を訪ねていった。
「病を忘れたいのはやまやまです。忘れたくても、忘れられら無いで困っています。忘れる方法を教えてください。」
「そんなことを言っていたらいつまでたっても忘れられない。」
「忘れる方法を教えてくれなければ、忘れられない。」
押し問答をくりかえしていたが、らちはあかなかった。三郎は腹立たしさに、ドアを蹴立てて去った。
「How to sayは易し。されどHow to doがなければ人は救えない。」高い講習料を払って三郎が得たものは、これであった。
失意の三郎を訪ねてきた友人が「お前の求めているものは、心理、精神、命だろ。それならフランスへ行けよ。フランスは心理の国。
洒落た学問があるよ。」と勧めてくれ、紹介状まで書いてくれた。
宛名を見ると、マドモアゼル・サラ・ベルナールと書いてある。
「俺オペラを習いに来たんじゃないよ」
「芸術の国フランスには、幅広い芸術家がいる。この人は、唯のオペラ女優ではない。哲学を持っている人だ。教えられることが多
いよ。訪ねていけよ」と勧めてくれた。
パリの邸に、三郎はサラ・ベルナールを訪ねた。相当な年齢だと聞いていたが、サラ・ベルナールは、二十七か二十八にしか見えな
かった。「お若いですな。」と三郎が言うと、「女優には年齢がありません」ちおサラ・ベルナールはにっこり、微笑んだ。
三郎は、この人の美しさと、粋な喋り方に魅せられてしまった。
三郎は、サラの邸にしばらく厄介になることになった。サラの邸には、オペラ女優が花のように集い、笑いさざめいていた。
それまで笑いを、さげずんでいた三郎だが彼女達の笑いを、こよなく美しいものと思った。それから、「笑いのある人生」を願う三
郎になった。
ある日のこと、サラは「カントの自叙伝」を三郎にすすめた。読み進むうちに三郎の表情は変ってきた。
カントは、胸に貴兄的な痼疾(こしつ)を持っていたという。時に訪れてくる巡回医師は、少年カントに向って、「この病は一生治
らないだろう。だがあなたの心は病んではいない。これからは辛い、苦しいと言わずに、自分のやりたいことをやりなさい」とさと
した。それから少年カントは哲学を志し、大カントといわれる程の哲学者になったという。
三郎の目は潤んだ。自分は朝から夜まで病を苦しみ、うらみつづけていた。自分の生き方の誤りを三郎は痛烈に感じた。
後に三郎が天風となり、心身統一法を開くとき、この体験は「たとえ、身に病があっても心まで病ますまい」という鮮烈な叫びとな
って表現されるのである。
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