天風の至言
一、2分でも3分でも、気が散らないように目をつぶり、自分の楽しめるような
喜ぶような想像を、心の銀幕の中に描くようにしなさい
そうすることにより、本当に心が安定していきます。よく、瞑想、瞑想といいますが、
悟りを得るために瞑想するのではなく、心を静めいつも、安定した気持ちでいることが目的だと
考えます.気持ちとは、どんな気を保持しているかというところから、気持ちという言葉は
出来ているのかもしれませんね。目をつぶり、自分の周りの風景をぐるット眺めて見る.
心に自分の周囲の風景を描いてみるのです。そして、少しづつ移動したり遠くへ行ってみる.
ずっとしているときっと、そこには、一つの世界が出来ますよ。
私たちが、空間を見つめてるときは、どんなに自分の観念が入っているかなどもわかってきます。
見慣れた風景も写真でみると、あれ?ここはどこ?とか、TVの一画面のように見えるときがあります。
なぜでしょうか?それは、私たちがそれだけ、脳の中で物事に色をつけているということなのかも
しれません。
少し話がずれました。私は、なるべく、これから起きるであろう楽しいことを心に
描くようにしています。これは、心をみつめる第一歩です。
「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな」の言葉もいつしかわかるようになるのでしょう。
一、勇気というものは人生を統一する一切の根本基礎なのだ
最近まさに、この言葉を痛感しています。何をすべきか知っていても勇気を持って決断、実行しなければ
意味が無いのです。いっそ知らないほうが良いかもしれません。
思考の確立も大事だけども勇気はもっと大事なのです。
今、私がもっと、身に付けたいと思ってるのはこの勇気です。
そのためには、天風師のいう絶対積極でなくてはいけません。
事あっても、クンバハカで冷静に対応し、言葉に細心の注意を払い、自他ともに積極的にさせる言葉を
使いたいです。
天風師の本を読むと本当に元気が出ます。
そして、難しいことを考えなくても人間は本来の持ち味を発揮して輝けると気づきます。
迷ってるなら、やらない。とか、私は、勇気を持って行動していきたいと思っています。
一、もっともっと人生を楽しまなければ、もったいないぜ。
思い通りの成功を実現しようとするならば、まず第一に、自分自身の「生命の力」を充実させなければならない。
「生命の力」とは、体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力である。
これらの6つの力を完全に発揮させるには、常に心と体の調和を心掛けることが何よりも肝要である。
私は、がんばると言う言葉は好きではありません。
親しい間柄で話すときは、頑張ろうというより、楽しもう。といいます。
辛いこと、苦しいと感じてしまうことも、5年後の自分になったつもりで見つめて楽しんでしまうのです。
よく、過去のことは、つらいことでもいい思い出になります。
それを心だけ5年先に言ってあげるのです。天風師は隣の人が腹が痛がってるかのように思えと言いました。
なかなか、難しいけれども、貴重な過程の時を味わい楽しむところから身になるものは多いと思います。
子曰く「是を知る者は是を好むものに如かず。是を好む者は是を楽しむものに如かず」
私は、昔から、物事をやるときに一番最初にすることは、どうやったら、楽しいかを考えることなのです。
そこにしか、はっきりいって努力はしていません。
そして、楽しめるようになってしまえば、たいした努力なしに楽しくやっていけるのです。
ただ、私が今後直そうとしているのは困ったことに「飽きやすい」ということなのです。
一、心に犬小屋みたいな設計図を画いて宏壮な邸宅などできるはずがない。
こうなりたい、ああなりたいという理想を常に心にはっきりと描きつづけるとき、それは確固たる信念となり
理想が実現する。理想は人間を偉大にも、はたまた価値無くもする。だから、心に犬小屋みたいな小さな
夢を描くのではなく、もっとみなの幸せという高貴で宏壮なものを描く。これが人の理想というものである。
自分だけの幸せ、欲求を思い描くことなく周囲のために仕事をしていくという気持ちで働くとき、不平や
不満はでてこないということに気づきました。
一、安っぽい見切りを自分につけないこと。
どうせおれは・・・という考え方を私は持っていた時期がありました。
自分はこの程度だとか考えて自分に上限を作ってしまわないことだと気づきました。
人間の可能性というのは何歳になろうとも上限のあるものではないのでしょう。
自分で自分にブレーキをかけることなくほかの角度から考えることも大事なのだと思います。
どうせ自分に言い聞かせるのなら「どうせ・・・」というより「おれだからこそ乗り越えられる」
位の気概を持ってすごそうと思っています。
一、結局現代人が弱すぎるのは、お頼み主義が多いからである。
今の時代というのは、相互依存により、快適な文明社会となっている。
それぞれの役割分担がしっかりできていて、一つの集合体として完成されている。
しかしながら、それに頼りきってしまい、自分が何かしなくても何とかなるような錯覚を
時として抱いてしまっているところが私には、時々あります。
社会に生きる一人として自分がしっかり自分の役割を担い、動かないことには始まらない気がしています。
かの、宮本武蔵も、神社にお参りに行っても、願い事はしなかったそうです。
それよりも、私はこうあります。といった決意を述べにいっていたようです。
いわく「神仏を尊んで、神仏に頼まず」と。
私も初詣などでは、決意を述べるように、しています。それは、自分との約束であり、
集合意識との約束なのかもしれません。
以前、お参りに行くと拝む先に鏡が置いてありました。
そのときに、神に誓うということは、自分の良心の部分に誓うということなのかもしれないと思いました。
怒りとは、相手に期待している心から生まれてきます。
なるべく、自分を頼みの綱として生きたいものです。