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一 はじめに
中国の占卜では、蓍を用いた周易占の印象が強いが、黄宗羲(一六一〇〜一六九五)の『易學象數論』巻一「占課」には、「今世・蓍者少、而火珠林之術盛行。」とあり、十七世紀の中国では、すでに蓍を用いる周易占が衰退し、擲銭による火珠林占が盛んだったことがわかる。 こうした雑占の流行を背景に、明の万暦頃に多くの占卜書が著述された。それが日本にも舶載されて、日本の占卜事情に大きな影響を与えたと考えられるのである。 江戸の宝暦年間(一七五一〜)以降、平澤隨貞(一六九七〜一七八〇)の『卜筮盲・』や、新井白蛾(一七一五〜一七九二)の『易学小筌』といった即時占の易学書が大いに流行した。これらも中国の断易や梅花心易に関係する占卜書の影響下に成立したと考えられる。 しかし、断易や梅花心易については、まだ不明な部分が多い。これは周易占以外の占卜が雑占として軽視され、資料の蒐集や研究が進まなかったことによるのではないだろうか。 本稿では、日本国内に現存する断易系統の占卜書の版本、鈔本の特徴を紹介しつつ、日本の近世初期までに舶載された明代の占卜書が、どういった形で受容されたのかを考察する。
二 『毛利家文書』と『卜筮元龜』
『古事類苑』方技部七「易占」には、『毛利家文書』の四つの占筮資料が引用されている。『大日本古文書』では、以下のように整理されている。 一一七四 僧元佶(閑室)筮書(慶長九年正月) 一一七五 僧玄徹(・溪)筮書(慶長九年三月十三日) 一一七六 僧玄徹(・溪)筮書 〃 一一七七 僧玄徹(・溪)筮書 〃 いずれも慶長九年(一六〇四)に毛利輝元(一五五三〜一六二五)が萩の築城について、占筮の吉凶判断を仰いだ資料である。 慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の合戦に破れた輝元は、多くの領地を没収され、わずかに周防と長門のみを賜わることになる。輝元は慶長八年(一六〇三)九月に幕府に許され、山口に入った。そして、同年十一月に築城候補地として、防府の桑山、山口の鴻の峰、萩の指月山の三つを挙げ、幕府と折衝したが、幕府は最も辺鄙な萩の指月山に築城を命じたのである。輝元は慶長九年六月に築城を始め、十一月には入城する。 ここで資料を検討してみたい。訓点については『大日本古文書』に従った。 一一七四 僧元佶(閑室)筮書 三 小吉 謹筮 輝元公ハギニ城ヲ可取立申吉凶之占 遇・ ・臨之・ ・比 彖曰、臨剛浸而長、説而順、剛中而應、大亨、以正天之道也、至于八月有凶、消不久也。 象曰、澤上有地臨、君子以教思无窮、容保民无彊。 彖曰、比吉也、輔也、下順從原筮元永貞无咎、以剛中也、不寧方來、上下應也、後夫凶、其道窮也。 象曰、地上有水比、先王以建萬國、親諸侯。 慶長九年甲辰正月吉日 前南禪前學校閑室叟・之 閑室元佶(一五四八〜一六一二)は足利学校第九代庠主であり、関ヶ原の合戦時には徳川家康の陣を訪れて占筮を行なっている。毛利輝元は萩築城に当たって、当時の易の権威であった元佶に占筮を依頼したと見てよいだろう。 占筮が行われた慶長九年正月、三月十三日というのは幕府から萩築城を命じられた後である。当時、輝元は山口に入っていた。地理的に恵まれない萩築城に不満もあっただろうが、すでに幕府の決定が下っており、たとえ占筮の結果が凶と出ても、萩の築城は撤回はできない。だから占筮結果は吉と出て、藩が前向きに築城に取り組めることが望ましかったであろう。 本卦の臨から之卦の比へと初爻、二爻、五爻の変爻があり、『易經』の臨卦、比卦の彖辞と象辞がそれぞれ引用されている。元佶は占考の結果、「小吉」と判断したようだが、臨卦「説而順」や比卦「下順從」などの語は、幕府の意向に従いなさいと諭すのに都合が良いように思う。 一一七五 僧玄徹(・溪)筮書 ・卜筮 本命(癸丑)某欲居於萩城始終吉凶之卜 宗廟 路 大門 宅中門 宅 宅基 奴婢 子孫 妻財 兄弟 宅母 宅長 地 井竃 門 爲門 人 宅 玄武 白虎 騰蛇 勾陳 朱雀 ・龍 丙刀木 丙子水 丙戌土 丁丑土 丁卯木 丁巳火 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 飛 丁丑土 遇 應 世 身 損 伏 丙申金 官鬼 妻財 兄弟 兄弟 官鬼 父母 九二 利貞征凶弗損益之。 象曰、九二利貞、中以爲志也。 上九 弗損益之、无咎、貞吉、利有攸往、得臣无家。 象曰、弗損益之、大得志也。 慶長九年(甲辰)三月十三日(甲子) ・溪翁書 『大日本古文書』には「某欲居於萩城」の「某」の右に「輝元」と記されている。 一一七五番の資料は、六爻に六神や六親が配置され、「宗廟・路・大門・宅中門・宅・宅基(墓)」といった語が見える。これは『斷易天機』占家宅第四「鬼谷辯爻法」に同じ語が見える。つまり一一七五番は、断易の家宅占であり、近世初期に断易が実際に用いられたことを示す資料である。 玄徹(・溪)という僧侶については未詳である。しかし、毛利家の重要な占筮に携わった人物が、いずれも僧侶である点、特に元佶が臨済宗の禅僧であったことは、当時の易の担い手を考える上で重要である。 一一七五番では山沢損という本卦を得ているが、之卦は求めていない。最後に『易經』損卦の二爻と六爻の爻辞と小象をそれぞれ記している。 一一七六 僧玄徹(・溪)筮書 損卦納甲 鑑云、鑿石見玉之課、堀土爲山之象。 解云、損者減省也、澤下山上損、・澤而益、艮山、損下益上、占者遇之、在前見損、向後有益、冬占春吉、春占夏吉、夏占冬吉、而損益相因也。 彖曰、山高・・、木大則折、損在於己、益他爲悦、去懲忿怒、窒除私慾、損之又損、斯乃爲應。 象曰、山澤損時、須損己、益時還是益他人、盤桓度日長如醉、有惡來求且莫親。 六甲子旬本宮旺吉。 日六神斷甲鬼合・龍勾陳世。 十干詩斷、望斷浮雲事轉虚、相逢陌上意皆殊、當時許我平生事、及到終時不似初。 九二(平)勿益方无損、交情戒妄求、居貞元自吉、躁進反生憂。 上九(大吉)惠而无所費、的損得其宜、人樂來歸己、安然福祿隨。 一日辰子逢世爻土之克無補、雖然生身木應木吉、上九爲用爻。 一日辰子與世爻丑天地合、戌卯同卦中見之。 一子日丑爻動持世皆吉。 一・龍吉宅也。○六爻土多則財物正。 一爻上第三爻爲正宅、勾陳臨則田園損。 一内生外吉。 一勾陳持世如羅城、左拱右揖田心平、地中住四畔有山岡、正面前三山如狗伏、又主回・邊住。 一一七七 僧玄徹(・溪)筮書 損は我身をばそんをして、人のために・つく樣にするなり。我身のためならは、少もよき樣にせす、只人の爲をよくする卦なり。然共、此上九のあたり處は、我身のそんもゆかぬ樣にして、人の・のつくことくするなり。其は、たとへは、海邊にすみつきたる者を山の奥へやり、薪なととりつけたる者をは海邊へやりなとすれは、何もその便をゑす、薪とりをは山中へやり、漁人をは海邊へやり、それくのたよりをうることくにすれは、目かけにはなり、あなかちに物をはやらね共、其人の・はつくなり。是は惠而不費と孔子も被申候、如此之心もちありて、彼處に御居住候はは、人民富貴あるへし。又陽剛のつよきむねを御もちあれは、いよく人付したかひて、他國の者まても可來候。得臣无家と申事は、遠近内外共に人歸服する事を申なり。九二のあたり處も吉なり。是は奥意なり。自然は、如何躰事出來候共、我分際を能まほりて、みたりにすすまされは吉なり。 玄徹(・溪)が吉凶判断に用いた一一七六番は、慶長九年当時に国内に存在していた断易書の損卦の文面であると見て良いだろう。近世初期の断易資料として非常に重要なものである。 一一七七番を見ると、一一七六番の九二と上九の文面を吉凶判断の根拠としていることがわかる。毛利氏の萩築城について玄徹は、「如此之心もちありて、彼處に御居住候はは、人民富貴あるへし。」と言い、上九を重視して「大吉」と判断したようだ。また「我分際を能まほりて、みたりにすすまされは吉なり。」とは、幕府に不満を抱くなという助言とも見える。輝元が玄徹に二度目の占筮を依頼した理由は明確ではないが、元佶の「小吉」では藩内が納得しないということではないだろうか。 以下は、一一七六番の特徴について検討し、出典について考えてみたい。 まず「鑑云、鑿石見玉之課、堀土爲山之象」の部分については、他の断易資料と比較してみると、いくつかの系統があることがわかる。同じ損卦でも、以下のように分類できる。 鑿石見玉之課、握土爲山之象…『卜筮全書』・『卜筮元龜』・『斷易天機』 鑿石見玉之課、掘土爲山之象…『火珠林』(蓬左)欄外の書き込み 鑿石得玉之課、掘土如山之象…『斷易心鏡』・『斷易神書』 豹駈獵狗課 …『易鑑明斷』 記述なし …『通玄斷易』・清版『斷易天機大全』 一一七六番は「堀土」となっているが、「握土」か「掘土」の誤写の可能性がある。しかし、『斷易心鏡』や『斷易神書』とは異なる系統だと考えられる。 次に損卦の彖辞と象辞があるが、『易經』損卦の語とは異なるものである。この点は一一七六番の特徴であるとともに、蓬左本『卜筮元龜』との重要な共通点である。 次の「六甲子旬」「日六神斷」「十干詩斷」については、『斷易天機』にも同様の項目があるが、これに比べると一一七六番の「六甲子旬」「日六神斷」は非常に短い。 次に、二爻と六爻の爻辞があるが、これは『易經』のものとは違う。『斷易天機』は爻辞については『易經』に倣っているが、その双行注として一一七六番と同じ文章を記している。また、二爻に「平」、六爻に「大吉」と、各爻末尾に吉凶判断があるのは断易の特徴である。 「日辰子〜」以下の三行と「内生外吉」については、未だ該当する出典を見出だせない。 しかし「・龍吉宅也。」「六爻土多則財物正。」「爻上第三爻爲正宅、勾陳臨則田園損。」については、『斷易心鏡』家宅門路章第六、『斷易神書』家宅門路章第六に、 卜筮元龜云、凡占人之居也、三爻為宅。謂内三爻皆為一宅也。青龍天喜龍徳重匕者乃祖宅華麗之居也。或動則祖宅更脩也。青龍吉宅也。白虎凶也(謂在内/三爻)。青臨謂之宅。臨妻才子孫者吉宅也。臨官鬼兄弟凶宅也。若是後卦无才喜青龍者其家先富後貧。前卦无而後卦有者其家先貧後富宅爻上(第三爻/爲正宅)。朱雀臨則口舌聚。白虎臨死亡頻。勾陳臨田園損。騰蛇臨恠異生。玄武臨則失脱併至。青龍臨則喜事生。子孫臨則春蠶盛須要青龍吉神。有氣若六爻皆无水者其家溝不流而水不决。无土者家地不基而楼居也。无火者其家神佛不供而龜不脩也。无金者其家才不聚而人不居。无木者其家床榻破而鍋竈損。火多則人事繁、木多則人情秀、水多則陽人旺、金多則陰女衆、土多則財物足。 とある傍線部分の引用と考えて良いだろう。 これは『斷易心鏡』『斷易神書』のみに引用された『卜筮元龜』の一節であり、『斷易天機』『通玄斷易』にはない引用である。 「一勾陳持世如羅城、左拱右揖田心平、地中住四畔有山岡、正面前三山如狗伏、又主回・邊住。」については、『斷易天機』巻五、占家宅第四に「卜筮元龜云」と引用し、「勾陳持世如羅城左拱右揖。田心平地中住四畔有山岡正面前三山。如狗伏又主回・邊住。」とあるのと合致する。 引用書名は『卜筮元龜』であるが、蓬左『卜筮元龜』にも、『卜筮元龜鈔』にも「占家宅」の項目はない。蓬左本は中・下巻のみの写しであるから、上巻部分にこうした「占家宅」があったと見てよいだろう。 ここで一一七六番との比較のために、蓬左『卜筮元龜』の損卦を示す。 鑿石見玉之課、握土爲山之象。 解曰、損者減省也、澤下山上損、・澤而益、艮山、損下益上、占者遇之、在前見損、向后有益、冬占春吉、春占 夏吉、夏占冬吉、而損益相困也。 彖曰、山高即・、木大則折、損在於己、益他爲悦、去懲忿怒、窒除私慾、損之又損、斯乃爲応。 象曰、山澤損時、須損己、益時還是益他人、盤桓度日長如酔、有惡來求且莫親。此卦求官遷職。身宅防人・弄。人口真旺。公訟事不利。甲戊旬。謀望難。乖多人。讃独用不成。須因人引帯。失物西北尋。病不妨犯木下。六甲不利。 六甲旬断、子旬、本宮旺官、病吉。戍旬、世空凡事不利。申旬、財吉。訟不利。午旬、福徳无氣。辰旬、即空求人反覆。寅旬、世空財空。 日六神断、第三爻丁丑木兄弟持世。甲乙鬼合青竜勾陳世小口災。丙丁騰蛇世主虚驚。戊己白虎世兄弟扶世尅退財。庚申青竜福持世尅退鬼吉。壬癸朱雀世財合世徳財。 十干詩断、望断浮雲事轉虚。相逢陌上意皆殊。當時許我平生事。及到終時不似初。乙丁己辛癸。月下歓欣事。翻成夢一塲。暗雲初徹処。日暮始光亨。 六爻詩断、初九、已事・往。无咎。酌損之。吉。益人須損己。事済便宜休。斟酉行道。毋貽過後憂。 九二、利貞。征凶。弗損益之。平。勿益方无損。交情戒妄求。居貞元自吉。躁進反生憂。 六三、三人行則損一人。一人行則得其友。吉。致志當專一。過三列有疑。中心存定見。切戒妄依随。 六四、損其疾、使・有喜无咎。吉。窒欲兼懲忿。攻心疾乃除。急須毋執滞。喜慶自相扶。 六五、或益之十朋之亀。弗克進克吉。大吉。江湖居在下。百谷水皆皈。自損終元吉。亀占弗克連。 上九、弗損益之、无咎。貞吉。利有攸往。得臣无家。大吉。惠而无所費。的損得其宜。人樂來皈己。安然福祿隨。 まず「解曰」「彖曰」「象曰」が『毛利文書』一一七六番とほぼ一致する点に注目したい。管見の限り、こうした共通点を持つ資料は他の明版や鈔本にはなく、一一七六番と蓬左本『卜筮元龜』だけに共通する特徴である。 「此卦求官…」の部分は項目別に簡略化した吉凶判断と思われ、『卜筮元龜』の特徴である。 また「六甲旬断」以降は、『斷易天機』『斷易心鏡』の文面と一致する所が多く、近い系統ではないかと考えられる。一方、『通玄斷易』『斷易神書』とは異同が多く、系統が異なるようだ。 このように、『毛利文書』一一七六番の前半部と、『卜筮元龜』損卦との共通点が非常に多いこと、また、一一七六番の後半部が、他の断易資料に引用された明代の『卜筮元龜』の語句と合致することがわかると思う。 毛利氏から占筮を依頼された玄徹は、『卜筮元龜』(あるいは『卜筮元龜明鑑』)の損卦と「占家宅」から適宜引用した可能性が高いと考えられる。
『卜筮元龜』の和刻本については、寛文六年(一六六六)に田原仁左衛門から『卜筮元龜鈔』四巻が出版され、『国書総目録』にも著録されている。 ところが、蓬左本『卜筮元龜』と『卜筮元龜鈔』とでは、相違点が非常に多いようだ。それでは『卜筮元龜鈔』損卦を例に、蓬左本との共通点、相違点を検討してみたい。(傍線筆者) 損有孚。元吉。无咎。可貞。利有攸往。・之用。二・可用亨トハ一世十分ナル事ナシ。裏ノ卦ノ益ノ卦ナルニ依テ物カ調カト思ハ損失アリ。財スクナキ人ハ吉也。斷例云昔薛仁貴ノ卦也。燕國ヲ治ル人也。思ヒカカルコトハ先叶フテ後調ハサルナリ。故ハ我心高山ニ如推車、此語金玉價千金ト古人ノ云リ。跡ヘモトルトサヘ心得レハ大吉也。唯登ルトハカリ知ハ無分別ノ人也。此上下ヲ分別スル事、千金ニモカハレント云心也。鑿石見玉之課ト云ハ難成課也。卞和カ古事有。荊岫山ノ中ニ寶玉石ト云岩ノ中ヨリ玉ヲ截出ス也。此玉ヲ武王ニ獻シテ右ノ足ヲ・ラルル。楚王ニ獻シテ左ノ足ノ筋ヲタタル。後ニ文王ニ獻シテ十五城ヲ給テ威勢スル也。古人云、足・ラレ曽テ不從三獻、争カ得秦王十五城ト。然ハ此卦ニ當ル人ハ精強ケレハ思事叶フ課也。故始中終十分ナルコト稀也。握土爲山之象ト云ハ中典ノ果階也。亦豹ノ駈獵狗之課ナルニ依テ、高人ハ下賤ヲハコクミ哀レンテ老後ノ果報アリ。減コトハ強ク、増コトハ稀卦也。又ノ義ニ損スルト云心ハ下ヲ損シテ上ヲ益スルトテ、我身ヲ捨テモ主君親方ノ事ヲ本トスル程ヨイソ。人ノ事ヲ肝要トシテ吉也。 「損有孚。元吉。无咎。可貞。利有攸往。・之用。二・可用亨。」は『易經』損卦の彖辞の冒頭部分である。『卜筮元龜』には独自の彖辞と象辞が記されているのみなので、この点の相違は大きい。 次の「斷例云」とは『卜筮元龜鈔』巻一、六丁目ウラに「邵康節先生斷例」とあるものを指す。『斷易天機』損卦には「此卦薛仁貴將収燕卜得之、大破燕軍也。」とあるのを始め、他の明版断易書にも薛仁貴の記述はある。しかし、やはりこの部分は『卜筮元龜』にはない。 「卞和カ古事」とは『韓非子』和氏篇の「和氏の璧」の逸話のことである。「和氏の璧」については『卜筮元龜』を始め、他の断易書にも見えないようだ。『卜筮元龜鈔』が独自に収録した内容であると見て良い。 「鑿石見玉之課」「握土爲山之象」の語は、蓬左本『卜筮元龜』、『斷易天機』と一致する。しかし、その後の「豹ノ駈獵狗之課」については、蓬左本『卜筮元龜』には見えない。 この点については、やはり蓬左文庫が所蔵する『易鑑明斷』の損卦に「豹駈獵狗課」の語がある。これは他に類例がないようだ。『易鑑明斷』は「〜課」のみで「〜象」がないことも、『卜筮元龜鈔』の引用と合致する。 この引用は『卜筮元龜鈔』では「老後ノ果報」あるいは「後ノ課云」と引用される。巻一、第七丁オモテには、「タトヘハ六十マテイキル人ハ廿歳マテカ初課也。四十歳マテカ後ノ課ト取也。餘ハ准之。」とあって、『卜筮元龜鈔』では後半生の占としている。 『卜筮元龜鈔』六十四卦の「後ノ課」は、風卦を除き、基本的に蓬左本『易鑑明斷』の「課」と対応する。しかし、相互に異同もある。 特に、『易鑑明斷』大過卦「枯木生花課」、随卦「如鐘在架課」、風卦「枯木重茂課」とあるのに対して、『卜筮元龜鈔』大過卦「如鐘在架之課」、随卦「枯木重茂之課」となっていて、風卦には対応するものがない点などは、どちらかの資料にずれが生じたものと見られる。 また、『易鑑明斷』鼎卦に「果熟馨香課」とあるのに対し、『卜筮元龜鈔』鼎卦は「調和鼎鼎之課」となっているが、これは「初課」との重複であり、『卜筮元龜鈔』の方が誤りであると考えられる。 『卜筮元龜鈔』が引用した資料は、『易鑑明斷』の「課」と同じ系統のものと見られるが、『卜筮元龜鈔』が引用する以前に、すでに混乱が生じたものだったと言えるだろう。そして、『易鑑明斷』にも、明らかな誤字と思われるものがあることから、やはり引用資料に混乱があると考えて良いだろう。 他の断易版本に「後ノ課」の引用はない。やはり、「後ノ課」は本来『卜筮元龜』にあったものではなく、『卜筮元龜鈔』の著者が、国内にあった『易鑑明斷』に近い断易資料から独自に引用したものであると考えて良いのではないだろうか。 『卜筮元龜鈔』は断易の特徴を備えてはいるが、蓬左本『卜筮元龜』とは合致しない点が多いようだ。これは、『卜筮元龜鈔』が『卜筮元龜』以外の占卜書の内容を取り入れたり、独自に記事を加えるなどの編集を行なった結果ではないかと思う。これも江戸時代に於ける占卜書受容の一例となるのではないだろうか。
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