6『焦氏易林』焦贛(延寿)著
   

 

   漢代に成立した中国最古の術数書のひとつ。16巻。
 著者の焦延寿(生没年未詳)は前漢の昭帝(在位BC87〜74年)の頃に宮廷に仕えた人物。書名中の「林」とは繇辞(占いの元となる辞句)を集めた書物に冠せられるもの。本書は4096首という膨大な繇辞からなっている。4096という数字は、64×64という易卦の二乗によって得られる数である。
 本文の成立については、『文選』巻60「斉竟陵文宣王行状一首」の李善注に、「永平五年……周易卦林占之、其繇曰、蟻封穴戸、大雨将集。」とあって、これが『焦氏易林』震之蹇「蟻封穴戸。大雨将集。鵲数起鳴。牝鶏嘆室。相薨雄文。来到在道。」と一致することから、後漢の明帝の永平5年(A.D62)には本文が成立していたとされる。
 現在見ることのできる最も古い版本の本文は、明の何允中の76種本『広漢魏叢書』(程榮の38種本『漢魏叢書』より後のもの)に収められた4巻本であろう。初めて16巻になったのは明の天啓6年(1626年)本『焦氏易林』(内閣文庫)辺りからと見られる。また、嘉慶13年(1808)に宋本をもとに校訂した版本が作られ、現在影印本として流布している。
 もともと本書はすぐに吉凶判断ができる性格の術数書ではない。4096首の繇辞の多くは4字4句の象徴的な辞句より成り立っている。例えば、乾之坤「招殃来螫。害我邦国。病傷手足。不得安息。」(災いを招き毒虫に刺される。わが国を損なう。病や傷は手足である。安息することができない。)といったものである。これ以外に、乾之乾「道陟多阪。胡言連蹇。譯瘖且聾。莫使道通。請謁不行。求事無功。」(道は多くの坂を登る。蛮人の言葉は吃っている。通訳も聾唖である。道を行くことができない。貴人に拝謁できない。事を求めても効果はない。)といった6句のものもあり、他に3句や6句以上のものも散見される。これは本文の欠落や他の易林テキストからの混入と見られている。こうした繇辞には『春秋左氏伝』『詩経』といった書物の記述から採ったと思われるものが含まれていることは、鈴木由次郎『漢易研究』「焦氏易林典拠考証」に詳細に述べられているので参照されたい。また、4096首の繇辞のうちには重複するものもある。『漢易研究』「易林繇辞の重複」では、その数は「数百の多きに達する」として、重複表が示されている。
 中国の版本では繇辞の内容の印象で吉凶を判断することになるわけであるが、『焦氏易林』の和刻本である風月堂版『大易通變』(1692年)四巻(内閣文庫)では、施点者の富岡主税(伝記未詳)によって全ての繇辞の冒頭に「吉」「凶」が付せられ、一見して吉凶が判断できる斬新な形式となっている。新井白蛾『古易一家言』(1756年)巻頭には、新井流の対抗勢力として「断易流、易林流」が挙げられているように、江戸時代中期の主要な易占流派として成長したが、その要因として風月堂版の出版が考えられるであろう。
 熊阪定済は5『易占秘訣』(1798年)の凡例中で、「焦貢が易林は最も信ずべきの書なり。然も只六十四卦の変、四千九十六卦の吉凶を論ぜしまでなり。且つその辞は讖(みくじ)文の如くにして初学の解し得るものに非ず。たとへ解し得ても其の書を携へざれば用にたたず。」と言っているが、これは吉凶を示した和刻本を指してのこととと思われる。
 本書には占具や占法の説明がないが、4096首の繇辞が存在するということは、64卦の6爻のすべてに変爻があることになる。つまり、「老陰」「老陽」が発生する方法でなければ成り立たない。中国においては、実際に「蓍」(めどぎ)という植物の茎が占具として用いられ、18変の複雑な筮法で行われていたのかも知れないが、時代や地方によっては断易と同様に擲銭(銭投げ)といった代替の作法も盛んに行われていたと見て良いだろう。

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