はじめに
新井白蛾(一七一四〜一七九二)(1)は宝暦元年(一七五一)から寛政三年(一七九一)まで易学者として京都で活躍し、晩年は藩儒として加賀藩に仕えた。『易學小筌』の著者として知られる白蛾の研究は、これまで鈴木由次郎氏の『易と人生―新井白蛾の生涯とその詩―』(2)のみであったといってよい。鈴木氏により白蛾の生涯にわたる多くの史料が示され、また白蛾の漢詩人としての評価がなされた。一方、日本近世易学の発生・発達の過程において白蛾の易学がどう位置付けられるのかという点について、特に易の実践面の史料は十分に示されたとは言えない。近世の易が占いとしての易(3)と学問としての易(4)に二極分化する中で、白蛾が目指した易とはどんなものだったのであろうか。白蛾研究の初出史料を中心に紹介することにより、日本近世易学の基礎的研究の方向性を探りたい。 一 梅花心易と白蛾の易
白蛾は宝暦十二年(一七六二)に『梅花易評註』(5)を出版する。『古易精義』(6)寛延四年(一七五一)の凡例に「余ガ心易評註ヲ見テ可知」とあるから、これ以前に『評註』は著されていたことになる。 梅花心易は占う年月日を換算して卦爻としたり、対象物の数や動物の鳴き声の回数などを卦爻とし、それを八卦の象徴する事物によって占断する象数易の一種である。北宋の邵康節(一〇一一〜一〇七七)の考案と伝えられている。 江戸中期の梅花心易の流行については、『評註』凡例に「但只俗間ニ行者ハ斷易天機、梅花心易ノ二書ノミ。就中世ニ盛ナル者ハ梅花易魁タリ」とあるように、民間の易占では『斷易天機』(7)と『梅花心易』が易書として広く普及していたようだ。 ところが宝暦六年(一七五六)『古易精義』の森白淵の序文に「嗟嘆先生於易、誰為不天縦哉乎。然。不得其門而入者謂、彷彿于梅花断易。不知。先生之委棄而不取」とあり、当時白蛾の易が梅花心易と似たものではないかという批判を受けていたことがわかる。 それでは白蛾の易は梅花心易とどう関わっているのであろう。『評註』著述の動機を検討しながら、両者の類似点、相違点を明確にしてみたい。 『梅花心易』には、明の景泰五年(一四五四)の劉■の「邵康節先生心易梅花數序」がある。これによれば、邵康節の没後三百七十八年(8)の間、秘伝とされてきたものを会稽餘姚の夏公昂(字は■舉)が書物にまとめ、劉■が序文を書いたことになっている。 『和刻本漢籍分類目録』(9)によれば、寛永十年(一六三三)に最初の和刻本『邵康節先生心易卦數』が出版されている。内題は、宝永六年(一七〇九)の出雲寺和泉掾版(10)でも同様であり、『梅花心易』は通称である。 抄・注釈書の出版については、『元禄書籍目録』(11)に『梅花心易抄』、注釈は『梅花心易諺解大成』『梅花心易綱目』『梅花心易首書鈔』『梅花心易俗解』など七種が見えている。これについては白蛾の『梅花易評註』凡例に、 梅花易漢本ヲ以テ翻刻シ、世ニ行ルルコト久シ。貞享ノ年間、或人是ガ諺解ヲ作テ梓行ス。又別ニ抄アリ。同板 行ス。共ニ何人ノ著ナルコトヲ不詳。幼童字句ヲ解スルニハ可也。易學ヲ知レル者ノ著述ニハ非ズ。 とあるから、白蛾はこうした注釈書を一通り読んでいたようだ。 白蛾は『評註』「概意」で、 蓋康節先生ノ於易道也、闡微通玄實後世ノ一人已矣。其書皇極經世書、儼然トシテ存ス。未聞有梅花者。(割注、袁氏ガ書隠ニ邵子觀梅占ノ事一所アレドモ此書ノコトニハ非ズ)宋史及文献通考、通志畧經籍諸篇亦不載此目。易數合璧等ノ俗書、初テ此篇ヲ載テ名ヲ康節ニ僞ス。 といっており、『梅花心易』が邵康節の手によるものではないと考えていた。 しかし、その後で、 蓋此書本僞撰シテ康節手澤ニアラズトイヘドモ其卦ヲ解シ象ヲ云フノ意、畧古易ノ法ニ近シ。能味推テ求メバ、則我古易ノ活法ヲ悟ノ一助ナルベシ。 といって、取捨選択すれば古易流へ応用できるものであることを認めている。 同様のことは『易學小筌』巻末の附録に、 抑物ヲ以テ其名状ヲ當コト易ノ本義ニハ非ズ。是易ノ一體ヲ知ル者ナリ。此事今ニシテ始テ有ニハアラズ。既三國ノ代管輅ガ如キ長ズル者也。世ニ稱スル梅花易亦似レリトス。然ニ此許事象ヲ察シ理ヲ識ノ徑路ニシテ古易ヲ學ブ者ノ活法トスル処ナリ。此余ガ不廢ノ由也。 といっている。 また、門人山田順庵の『易學小筌指南』(12)「梅花心易ノ事」にも、 白蛾先生ノ曰、世ニ行ルル梅花心易ト云モノ蓋康節先生ノ真書ニ非ズ。然レドモ其理ヲ察シ義ヲ取ノ転変ハタラキ我ガ易ニ於テ補アリト云ヘリ。 と改めて項を設けて梅花心易に言及している。白蛾が梅花心易に大きな関心を持っていたのは事実であり、取り入れられる部分は積極的に生かしていこうという姿勢である。 白蛾の易が梅花心易とそっくりではないかという批判を受けた理由の一つは、両者が「象」を重視するという共通点があったからだと考えられる。白蛾の初期の易学書には「象」を重視する姿勢が明確に表われている。例えば宝暦四年(一七五四)出版『易學小筌』末尾の「八卦象廣推」、宝暦六年(一七五六)出版『古易一家言』の「八卦ノ秘伝」、同年出版『古易精義』の「説卦外傳」は、いづれも「象」に基づく事物を占いの内容に一致させようとするものである。 これと『梅花心易』第十一「八卦萬物屬類並爲上卦」、第三十七「八卦萬物類占」は、一見すると共通する事物も多く、白蛾の古易流は梅花心易の真似事ではないかという批判は当っているように見える。しかし、そもそも八卦の象徴する事物を列挙した最初のものは『易経』「説卦伝」であり、両者の内容はそれに倣っているに過ぎない。だから共通するものがあるのはむしろ当然といえるだろう。 次に梅花心易の具体的な占断の過程を見てみよう。『梅花心易』第十四「觀梅占」では、辰年十二月十七日申時、邵康節が梅を観賞している時、二羽の雀が争って枝から落ちた。これを見て、隣家の娘が木から落ちて股を怪我するだろうと占を立てると、それがみごとに的中したという。 この逸話では、本卦を得るには、まず辰の五(十二支の順)、月の十二、日の十七の合計三十四を八払いし、残数の二(兌)を上卦とする。さらに申の九を加えた四十三を八払いし、残数の三(離)を下卦とする。こうして澤火革の本卦を得る。次に四十三を六払いし、残数の一を変爻とし、澤山咸という変卦(之卦)を得る。本卦の上爻を除いた三・四・五爻は乾となり、初爻を除いた二・三・四爻は巽となる。この乾・巽が互卦となる。 この後に「斷曰」と続き、卦の解釈に入る。本卦と互卦の部分から、兌金を少女とし、巽を木とする。金尅木で少女が木を折ると解釈し、火尅金で少女が怪我をすると解釈する。変卦の部分から土生金で死亡には至らないとする。 『梅花易評註』「觀梅占」の「評」には、 此断大抵好。然レドモ全體生尅ヲ以テ為主。故妙活ノ断ニハ不至。是心易ノ拘束也。然レドモ象ヲ取リ、義ヲ述ルコト如此ナル。其意古易ノ占用ニ遠カラズ。 といっている。生尅を用いずに同じ占断結果を得ることができるのだろうか。これについては右の「評」に続けて、 蓋占考ノ要ハ、常ニ易經ノ正解ヲ学得テ、象ノ神ナルコトヲ明、而後問筮ノ時ニ臨デ心氣清明ナレバ卦ニ向テ自 然ニ妙断ヲ出スベシ。象ハ多端也。選デ其一象ヲ取リ、以テ其占時ニ應ズ。其妙ハ其妙ハ其人ノ誠敬ニ存ス。心ニ感ジテ其占事ニ通ズ。其心味實ニ他ニ向テ難言。右觀梅ノ占ノ如キ、初学何ゾ少女ト定メ、何ゾ股ヲ傷ト决シテ他象ヲ不取乎ト問ハバ、借令康節先生タリトモ心ニ感得シテ言ニ發出スル微ハ不能言。 といっている。つまり、生尅の理屈ではなく、占者の資質と研鑽によって心に感じるものなのだという。漠然としているが、これが白蛾にとっての易の妙断なのである。 白蛾の『評註』に先行する元禄九年(一六九六)の馬場信武『梅花心易掌中指南』(13)は全五巻のうち、巻三・四で『梅花心易』の五十七項目の全てにカナ混じりの解説を加えた上、「私云」として信武の占法や見解を述べる。 これに対して白蛾の『評註』は、『梅花心易』四十六〜五十七項目の解釈を「前ノ數例ニ異ナルコトナシ。准シテ知ベシ。故ニ今以下ヲ省」といって省略している。その理由は、 生克ノコトハ必切要ノコトニアラズ。初學拘泥スベカラズ。心易者流ノ病此ニ限ル。故ニ生涯ノ沈痾ト成テ終ニ 易道ノ活々妙々ヲ窺コト不能ナリ。 だという。白蛾は『梅花心易』に五行相生相克的解釈をする部分があることに異論があったのである。 『古易精義』凡例の、 余嘗テ梅花易ノ国字ノ注書ヲ見レバ悉ク納甲ヲ附シテ断易書ト混ズ。是梅花易ヲ不知者ノ手ニ成。況ヤ周易ヲヤ。余ガ心易評注ヲ見テ可知。 の部分は、暗に『掌中指南』を批判しているものと思われる。 同様の内容は『評註』凡例にも、 近世梅花心易ニ卑劣ノ抄アリ。世ニ行ハル。其書ヲ見ルニ右ニ云所ノ抄ト諺解トノ間ヲ出入前後シ、雜ルニ断易天機ヲ以シ、童蒙ヲ欺ク。蓋梅花與断易其趣ノ不同、如白與黒。又心・断ノ聖易ト不同、薫猶不可同日而語。彼 卑抄ヲ作者、未知易之名義。他何ヲカ責ニ足ン。然初学、彼書ノ為迷サレ、闇ヨリ闇ニ墮スル者多。余厭之。故此篇ヲ述テ、彼言ノ蒙ヲ發。且尚彼書六十四卦ノ解アリ。陋陋甚矣。妄妄不可言也。抑納甲飛伏等ノ説ハ京氏ガ臆見ヨリ出。聖法ニ非ズ。而世儒或取之、或為竒。其本皆不知聖易ノ故也。 と見えている。つまり、既成の注釈書が梅花心易に秘められた易の深遠さを無視し、強引な断易的解釈をしていることに我慢がならず、それを正す目的で『評註』を著したことがわかる。 それでは、白蛾は生尅を全く用いなかったのだろうか。『評註』「互卦」の「評」に、 又生尅ノコトハ梅花ニ於テハ多ク主用タリ。家学ニ於テハ必トシテ此義ヲ不取用。此理非無。然ドモ此ニ拘々タレバ大ニ活法ヲ失ス。其説後ニ具ス。故ニ余罕ニ生尅ヲ云。百ニシテ一二已矣。 といっているから、古易流にもまれに生尅を用いて解釈することがあったのである。 辛口の解説が続く『評註』の中で、白蛾が非常に高く評価しているものがある。それは『梅花心易』第十六「聞聲占例并夜扣門借物占」である。すなわち『評註』では、 冬夜酉時、先生其子息ト同ジク爐ヲ擁シテ坐ス。時ニ門ヲ扣者アリ。初一声シテ止、又引ツヅケテ扣コト五声ス。且物ヲ借ト云。先生來人ヲ止テ曰、其借ント云物、名ヲ云コトナカレト。其子息伯温ヲシテ試ニ借ントイフ物何物ゾト占シム。伯温曰、一声乾ヲ為上卦、五声巽ヲ為下卦。天風■也。乾一、巽五、酉ノ時十、總數十六也。二六十二引テ四零。四爻變ニテ、巽為風トナル。断曰、乾ハ金ニシテ短、巽ハ木ニシテ長シ。今借ニ来物ハ必ズ鋤ナルベシ。先生曰、鋤ニハアラズ。斧ナラン。果シテ斧ヲ借ニ來。伯温曰、何ヲ以テ鋤ニアラザルコトヲ知レ ルヤ。先生曰、論數又須論理。以卦論之、則鋤モ亦可也。理ヲ以テ推之、晩夜ニ入テ安ゾ鋤ヲ用ン。斧トスルコト理ノ當然ナリ。冬夜寒シ。斧ハ薪紫ヲ切テ焼ナルベシ。 とあり、これに続く「評」で、 此断、理與象所論、甚ダ古易ノ旨ニ應ズ。余常ニ■二三子、常理ヲ明ニセヨト云モノ、即チ是義ナリ。鋤与斧於 卦共ニ有此象。深ク味之、則斧ノ象義尤至當トスベシ。況ヤ常理ヲ以テ考合スレバ益斧トスベシ。余此占考ヲ稱シテ云、我ニ先ダチテ我心ヲ得タリト。 と述べている。『梅花心易』の中に、邵康節の本来の易を見出だしたということであろう。 白蛾は『古易精義』凡例の末尾に「邵子既ニ卓爾タリ。不肖伏シテ所希邵子万分ノ一ヲ窺得コトヲ」といっている通り、易の実践では邵康節の卦象判断を高く評価し、聖人視していたのである。 『評註』の附録(14)に「古易占筮例」として、白蛾自身の占断例が三つ、門人たちのものが八例ある。どれも白蛾の古易流の占断までの卦爻解釈を述べたものであり、梅花心易の注釈とは直接関係しない。むしろ梅花心易との違いを強調して、古易流への理解を求めようとする目的であると考えた方がよい。 宝暦七年(一七五七)の西村白烏『一筮萬象』は、門人の占断例を集めたものであり、白蛾自身のものは含まれていなかった。だから『評註』附録の「婦人願事占」「一男子問旅行占」「一男子問物占」の三例は白蛾の具体的な占例が公開された数少ないものである。特に得卦を示した上で占断した前の二例は希少である。これまで秘伝とされてきた白蛾の占断の公開に踏み切った理由は、梅花心易との相違点を明らかにし、古易流が独自の易解釈をしていることを世間に知らしめる必要に迫られていたためと考えてよいのではなかろうか。
二 白蛾批判
明和五年(一七六八)に片岡如圭門の田中龍輔(田龍甫)が『非白蛾』(15)を出版する。白蛾批判の書物である。片岡如圭は白蛾と同じ易学者であり、擲銭法を用いた易占家である。生没年は不詳だが『先哲叢談後編』(16)に「六十有餘歳天明中没」とあるから、白蛾より若干若い。 『非白蛾』の序文には、白蛾批判の書を出版したいという田中龍輔に「若白蛾子牽合附会ノ説アリトモ、今ニヲイテ先ヅ一家ノ師也。子妄リニ舌頭ヲ動カサン事ヲ欲セバ、我門外ニ在レ」と言った如圭の言葉が記されている。同時代の易学者の如圭が白蛾に対して「牽合附会ノ説アリ」と見ていることは注目すべきことである。 『非白蛾』の内容は次の通り。但し原文は一部を示すにとどめる。 ○古易ノ二字ヲ冠ラシメテ、書中ハ如圭先生造ル處ノ當物ノ辞ヲ出入ス。 ○徂徠先生出テ古学ト稱シ、一時ニ鳴ル。京師ノ醫家者流亦古流ト唱ヘテ業行ハル。白蛾子コレ等ノ事ヲウラヤミテ古易ト称スルナラン。 ○彼子江戸ニアル頃、京師ニ如圭先生ノ擲銭ヲ以テ卦爻ヲ得ルコトヲ聞ツタヘ、同ジ様ニ擲銭ヲ用ヒナバ一家ノ流義分カレズト思ヒ、是非ナク竹ヲ以テ正法ナリト云。紛ス物カ。不審シ。 ○白蛾子ノ門人ニハ経文スラシカジカ読マザル子モ、早師伝口授ニ依リテ易ノ妙通ヲ得タリト称スル者多シト聴ク。 ○古易一家言ト名ヅクル書アリ。元来草庵一家言、隨翁一家言ナド云ル書アレドモ皆姓カ号ヲ冠ラシムル事文法也。 他に『易學小筌』の名称のこと、算木を「卦木」と言っていること、蓍を使わず竹を使っていることなどが批判の対象になっている。 竹を使うことが批判の対象になったとは、今では不思議なことであるが、当時はまだ蓍に霊的な力があると信じられており、特に筑波の蓍(17)がよいという根拠のない話もあった。つまり蓍がなければ占筮はできないというのが当時の常識であったのだ。白蛾も大坂在住時代に、庭で蓍の栽培をしている。しかし、本草書にはあっても、実際に蓍という植物を見た者は少なかったようだ。擲銭法の流行には、そうした事情もあったのである。中国でも朱熹の時代に、「火珠林」(三銭六変法)という擲銭の占いが流行したことは『朱子語類』巻六十六(18)に見えている。だから如圭が擲銭法を用いたのは、中国に倣った一般的な方法だったのであろう。 問題なのは白蛾が公式に竹を使ったことだ。『日月卦傳鈔』前編「蓍之事」に「稽古ノ時ハ竹ニテケヅリ用ユベシ」とあるように、竹はあくまで非公式なものだった。そうした意味では白蛾の易は革新的な部分があり、伝統的な作法を重んじる人々からは批判されたことであろう。『非白蛾』の批判は内容的に稚拙に見えるが、当時の易学常識を知ることができる史料である。 『非白蛾』に応じて、翌年に田中白賁が『非白蛾辨』(19)を京都の博厚堂(武村嘉兵衛)から出版する。『非白蛾辨』は『非白蛾』の本文を全て引用し、一項目ごとに反論している。例えば、白蛾の射覆は如圭の真似に過ぎないという批判に対しては「吾白蛾先生既五十有余歳而在京師已逮二十年也」と言っている。白蛾は既に二十年間京都に住んでおり、如圭との年齢差を考えても、批判は間違いだという理屈である。しかし『先哲叢談後編』にあるように、如圭が天明八年(一七八八)に六十歳で没したとしても白蛾との年齢差は最大で十四歳、それ以下の可能性もある。 白賁は「予産于京師而片岡氏名、今始聞之。況於其門人者乎」と言っているが、如圭が二十歳から易を講じていたとすれば、遅くとも寛延元年(一七四八)には開塾していたことになる。白蛾が京都に来るより前のことである。『非白蛾辨』の反論にも苦しい部分があるのではないか。 これ以前にも両派の確執はあったかも知れないが、これまでの二十年間表面化しなかったのは白蛾の圧倒的な知名度があったからであろう。それが明和五年になって『非白蛾』という形で如圭の側から批判が出たのはなぜか。これより五年前の明和元年(一七六四)に、如圭は江戸に行き、芳村屋という紅屋の三歳の子供が早逝する占いを立てた。この子が本当に七歳で亡くなったことから如圭が一躍有名になったと『易話』(20)「素隠術占例」に見えている。つまり『非白蛾』が出版される前年に如圭の知名度が急激に高まったことになる。それが如圭の門人を奮い立たせ、『非白蛾』の出版に駆り立てたと考えてよいのではないか。同時期に如圭の『易術妙鏡』一巻が星文堂(浅野弥兵衛)から出版されるのも、如圭の知名度の高まりと無関係ではあるまい。 『非白蛾』は対立する他派からの批判だが、当時の人々が白蛾の易をどのように受け止めていたのかを知るためには、こうした白蛾に対する批判史料を更に検討する必要があろう。
三 古易館初期の門人たち
『聖學自在』(21)に、「二十二より東都に於て儒者の名を汚し、講習を以て業とし、今にして四十余年、此年月の間、京、江戸、大阪、諸國に及で門人千を以て數ふべし」とあるように、白蛾は生涯に多くの門人を得た。白蛾の門人層や出身地について整理してみたい。 『易學小筌』には宝暦四年(一七五四)の山熈の序文(22)、『古易一家言』(23)には宝暦四年の古維嶽(虎観)の序文がある。古維嶽は『先哲叢談後編』に、 古易對問既成、生徒競爲書寫。白蛾刻之家塾。門人古維嶽校字。謂白蛾曰、伊藤仁斎以一家言建立其學。物徂徠又然。雖各有功於前聖、僅去其時三四十年、攻撃其學辧駁、其書者不下幾人。於此書後世有非斥之者。然則當以一家言而名之。一家言素不待人之毀誉之意也。白蛾喜從焉。 とあり、『古易對問』から『古易一家言』への名称変更を勧めたのが古維嶽だったことがわかる。山熈と同様、古維嶽もこれ以後は名前が見えなくなる。宝暦以降の門人には、「白」を号の一字に名乗り、古易館との繋がりが深いグループがあるが、これに比べると、山熈や古維嶽は「白」を名乗らず、短期間の関係に終わった門人らしい。 宝暦五年(一七五五)の『古易精義』の序文には森白淵、同年の『古易一家言補』(24)の集録には西村白烏と住川白瑩、校訂には平松白梨の名が見える。「白」を名乗る最初の門人グループである。白瑩は始め「隨波」と号したが白蛾の門人となって白瑩と改めた。 宝暦七年(一七五七)に山田順庵は『易學小筌指南』を出版する。その「白蛾先生京大坂江戸當物ノ例」の項目には「大坂泉町即チ予ガ亭ニテ」「去年ノ夏、江戸ニテ門人集マリ坐ス處ヘ…」とある。大坂・江戸の門人の存在を示す史料である。 宝暦七年、西村白烏は『一筮萬象』(25)を出版する。巻頭の宝暦六年の白烏の自序に、 大庭白嶺、古澤白泉ノ二子来テ卦ヲ講ジ、象ヲ論ズルノ次デ、稽古ノ問筮、應響ノ二録ヲ取テ一篇ヲ輯集センコトヲ談ズ。 とある。『一筮萬象』は、門人の射覆の成功例を集めたものである。門人の姓名と出身地を明記しており、宝暦六、七年(一七五六〜五七)頃の門人を知る上で重要な史料である。門人を地域別に整理してみよう。 ○京都 釋白純・縣白冲・武村白羊・志殻・芥川彦童 ○遠州 西村白烏(金谷)・平松白梨(金谷)・隋波改住川白瑩(金谷)・山本桑路(金谷)・榎田來阜(柏原)・石井午雲(柏原)・山本詠子(柿ヶ谷)・山田飛栖(高橋)・飯塚梅指(三栗) ○大津 社長大庭白嶺・釋實充・釋冲阿・寺田光實・舟橋重矩・三井ノ泰堂・和田亮郷(以上白嶺門) ○防州 中嶋梅呂(小郡)・高橋白鳳(小郡) ○名古屋 河合子善 ○濃州 加藤机梅(津保)・川瀬高寧(安八郡古宮村)・池戸馬勃(郡上) ○伊勢 紀陽人(白子) ○加賀 堀麦水(金澤) ○不明 森白淵・梅原宜芳(白淵門)・大橋白喬・塚本白圭・横田白琴・中貫道・和四明・吉田子邑 以上である。東海道から畿内出身の門人が多い。白蛾が易を説いて歩いた地域を推測する上で参考になろう。 釋白純は『一筮萬象』の後序を書いている京都本正寺の僧である。『一筮萬象』の出版の時期には、西村白烏・大庭白嶺・釋白純の三人が門人の中心となっていたようだ。 芥川彦童は『古易一家言』の序文を書いた芥煥彦(芥川煥彦)であり、『先哲叢談後編』に出てくる芥丹邱(26)と同一人物である。芥川煥彦のように、既に名のあった儒者の中にも白蛾の易を学ぼうとする者がいたのである。 大庭白嶺は「江州大津社長」と称し、白蛾の門人でありながら七人が「白嶺門」と記されている。森白淵にも門人がいるがこちらはひとりだけである。門人の数からして白嶺は大津に拠点を持つ人物であり、自分の門人共々白蛾の門下に加わったと見ることもできる。ただし白嶺の名は後には見えず、疎遠な関係になったようだ。 西村白烏は安永二年(一七七三)に随筆集『煙霞綺談』(27)を出版している。この西村白烏を中心とする「白」のグループは、宝暦年間の白蛾の著作の編集・校訂など出版に大きく関わっている。彼らが白蛾の著書を刻版し、出版したことで白蛾の易が世に知られ、白蛾の名が後世に残ったと言って良いだろう。 しかしこのグループの殆どは宝暦末年頃には名前が見えなくなっている所から見ると、白蛾のもとを去って行ったようである。これは『秋夜草』(28)に見えるように、白蛾は宝暦の末頃から激しい痔疾の痛みによる療養を余儀なくされ、古易館の運営を門人に任せざるを得なくなったことと関係があろう。 武村白羊(眞平)は『非白蛾辨』の跋文を書いているが、どういった人物なのかを特定する史料が見当たらない。しかし筆者は京都の書肆・武村嘉兵衛が武村白羊ではないかと考えている。 寛政三年(一七九一)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(一七五六)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構(29)に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。 白蛾の門人は本業を持つ裕福な町人層や儒医生が中心である。つまり古易館は生業としての易占技術を授ける所ではなく、生業としての易を必要としない人々の学問の場であったと言えよう。
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