5『易占秘訣』熊阪定済著
   

 

   江戸時代に流行した断易や梅花心易を否定し、京房易の理論や占法を和歌の形式で説いた書物。2巻。
 著者の熊阪定済は、名を伯美といい、青森の人であるが、わずか19歳で夭折した易学者である。自序文は安永6年(1777)に書かれているので、その頃に完成したと見られるが、定済の生前に出版されることはなかった。寛政8年(1796)に弟の熊阪秀が兄の遺業を世に広めるようと序文を書き加え、寛政10年(1798)に出版されることとなった。
 定済は「世に行はるる所の卜筮の書、何れも杜撰の作にて取るに足らず。」(自序)と言い、世に流布している易占書を強く否定している。例えば12『断易天機』については「世に断易天機といへる書あり。中華より伝へ来れる書なりと雖、もと書林劉世傑と云ふ者の輯めし書なるゆへ誣罔甚多し。」(凡例)と言い、11『梅花心易』についても「且つ梅花心易ももと中華より伝へ来る偽書なり。村学究ありて邵康節の名をかりて作りしものなり。」「梅花心易の年月日時にて卦を起す法、誠に笑ふべし。」(凡例)と非難している。
 定済の立場は「全く京房易に本づきて納甲飛伏より諸占法に至るまで残さず知りやすく覚へやすきやうにあらはして名づけて易占秘訣と云ふ。」(自序)、「此の書おおむね京房易伝によれり。但京氏五星二十八宿を隆し、建積算を論ず。」(凡例)とあるように、京房易に立ち戻ろうとするものであった。
 但し、定済の京房易に対する理解がどの程度のものであったのかは疑問である。すなわち定済の知識は12『断易天機』に代表される断易書の前半にある理論部分に含まれている内容が多く、馬場信武の『初学擲銭鈔』(『断易指南鈔』とも)(1702年)の影響下にあることも否めないからである。
 本書は24章から成り、図を多用して読者の理解の助けとしているが、注目すべき点は、京房易の原理や占法のポイントを和歌の形式で説いていることである。それは例えば「飛神伏神を知る秘歌」として、
・一世より遊魂の卦まで六つの卦の伏神問はば本宮を看よ
・本宮と帰魂の卦とは本宮の其のうらの卦を伏神と知れ
 「応爻を知る秘歌」として、
・応爻は何れの卦をも世爻より二位隔てつつ付くと知るべし
 「身爻を知る秘歌」として、
・身爻は只十二支を二行にし世爻を看つつ六位まで知れ
といったように全部で19首の「秘歌」が収められている。
 但し、こういった占法の要点を和歌の形式で諳んじることはもっと早くから行われている。彦根城博物館琴堂文庫所蔵の八卦占法の資料である『本卦之聞書極秘伝』(1637年写本。国文学研究資料館にマイクロ有)には、132首もの和歌が収められ、同じ歌が『古今八卦大全』(1671年)「十二運図絵」にも12首収められていることから、江戸時代の初期には占法の要点や吉凶判断が和歌の形式で伝えられていたことがわかる。
 定済は具体的な占法については、「蓍の揲やう」で用具や呪文を細かく述べて、18変の本筮法の作法を説いている。その末尾に「世俗只梅花心易等の俗書のみを観るゆへ周易は只一爻変ずるものとおぼゆるは大なるひがごとなり。左氏などの筮法とあはず。」と述べているように、当時一爻変の略筮法が既に一般に浸透していたことがわかる。
 本筮法の後に「擲銭の法」を述べているが、やはり規定は細かく、用いる貨幣については「但古銭を善とす。銭文にかかわらず開元通宝等の銭三文を珍重し、錦嚢等に入れ置くべし。」と言い、握り方については、「緩く握るは変化窮りなからしめんがためなり。」としているが、3枚の貨幣を6回投げる擲銭の方法そのものは明代の断易書に収められている方法と同じである。
 本書は易占理論を述べた書物であり、具体的な吉凶が得られる性質の書物ではない。日常的な吉凶判断に用いられることはなかったので、おそらくそれほど多くの読者を得たわけではないと思われる。しかしながら、吉凶判断部分を捨て、4『京氏易伝』の易理論のみに着目した著書は、江戸時代において非常に貴重な存在である。
 

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