18『易学小筌』新井白蛾著
   

 

   江戸時代の後半に最も流布した新井白蛾(1715〜1792)の代名的な易占書。1巻。本書は各卦に婚姻・遺失・待人・病・胎孕・願望・住所といった占いの項目を含むが、項目が整然と独立しているわけではなく、しかも順不同である。この点、16『日月卦傳鈔』後編や、17『増補卜筮盲筇』と較べると、決して使い勝手の良い易占書とは言えないことがわかる。また、本書の吉凶の内容については、断易書と共通する部分があり、影響を強くうかがわせるものである。
 本書の出版の大きな意義は、『周易』に倣った卦序の形式を初めて易占書に試みたことにあると言えよう。例えば、本書と同時期の16『日月卦傳鈔』や17『卜筮盲筇』は、江戸初期の「八卦」の書物と同様に、同じ上卦毎に整然と並べられていたり、明代の断易書に倣っている。これらは江戸時代初頭以来、150年もの間、一般化されていた易占書の形式であったと考えられるのである。
 また、占筮法については、16『日月卦傳鈔』、17『卜筮盲筇』、『易学小筌』はどれも所謂三変略筮法を説いている。但し、16『日月卦傳鈔』、17『卜筮盲筇』は、八卦占法や梅花心易法と同様に、上卦・下卦の手順で卦を立てていた。これは上述のように、六十四卦の並び順が上卦優先であったことによるものである。そうした中で本書は、初めて下卦の順位優先を提唱した書物である。
 具体的な占筮法の手順を述べる前に、まず占筮具について触れておこう。なぜなら、占筮具についても白蛾は革新的な存在だったからである。金沢市立図書館近世資料室には、短くて携帯に便利な当時の筮竹と算木が保存されている(伝・新井白蛾所持)。正式な周易占には蓍(めどぎ)という植物の茎(地下茎とも)が必要とされるが、実際には本草書の中にしか存在しない幻の植物である。かつて山崎闇斎(1618〜1682)が門人たちの前で竹(筮竹)を用いて『易学啓蒙』の立卦の方法を説明したと蟹養斎(1705〜1778)が記している。しかし、これはあくまで非公式な作法であって、決して正式なものではないと付け加えている。それゆえ白蛾が公然と筮竹を用いた時、対立する片岡如圭の一派からは誤った作法であると猛反発されることとなった。筮竹が正式な筮具として一般に許容されていくのは、1750年代以降であると考えてよい。
 近藤浩之氏の「王家臺秦墓竹簡『歸蔵』初探」には、15号墓から出土した60支の「算籌」について以下のように触れてある。「算籌は一端が骨製、一端が竹製で、竹製の一端には絹糸がぐるぐる巻きつけてあり、紅漆が塗られている。断面は円形、長さ62,5cm、直径0,4cm、出土時、長さ67,5cm、直径5,6cmの竹筒の中に入っていた。」これが2000年前に「筮」に用いられた占具であった可能性は高いと言えるだろう。
 さて、占筮法であるが、実は本書の初期の版本には詳しい手順の記述はなかった。後に『古易一家言』から流用されたものが新井流略筮法として定着したのである。今それに従うと、50本の筮竹と6本の算木(白蛾は「卦木」と称した)を用意し、一本を太極として立てる。残り49本を左右に分け、左手を天策、右手を地策とする。右手の地策を下に置き、地策から一本を拾い、左手小指・薬指の間に差し、これを人策とする。左手天策を8本ずつ分け(八払い)、0から7までの残数を求める。残数に人策の1を加えた数字によって乾1・兌2・離3・震4・巽5・坎6・艮7・坤8を求め、これを下卦として算木に示す。再び49本に束ね、同じ動作を繰り返して上卦を得る。之卦を求めるには、同じ手順ながら、天策を6本ずつ分け(六払い)て0から5までの残数を求め、人策の1を加える。合計が1なら第一爻が変爻、6なら上爻が変爻となる。略筮法に於いては変爻はひとつの爻だけに限られる。新井白蛾は、かつて平澤随貞(1697〜1780)の門人であったが、事情があって袂を分かつことになったと随貞側の著書には記されている。おそらくこれは事実であろう。占筮法を始めとして白蛾と随貞の作法には多くの共通点が認められる。対立原因のひとつは『周易』の形式に倣うかどうかという点もあったのではないかと考えられる。
 本書には、近代以降の夥しい版本が現存するが、それらにはすべて頭注がついている。これは、天保年間の星文堂(浅野弥兵衛)版を踏襲したものと見られている。こうした版には巻頭に「増補例言」があり、そこには文化年間に星文堂の蔵の中から頭注のついた白蛾の稿本が見つかった由が述べられている。ところが、文化2年(1805)に出版された頭注本は、星文堂のものではなく、「文龜堂」という書林から出版されたものであった。この頭注部分を見ると、その最後に「コロコロスルモノ」といった何かを象徴する語が、5、6個ある。これは、同じく白蛾の『古易一家言』中の記述と全て合致するものである。つまり、『易学小筌』頭注部分は文龜堂による付け加えであり、星文堂はその版権を手に入れた上で、例言を付して出版したものと考えられる。
 大坂の書林・吹田屋多四郎(梧桐館)によって見出された新井白蛾は、やはり大坂の書林・浅野弥兵衛(星文堂)から、宝暦4年(1754)に初版の『易学小筌』を出版するが、16『日月卦伝鈔』との重板紛議に敗れ、小川彦九郎に版木を差し押さえられて絶版となった。この初版は未見である。現在確認できる最も古い版は、宝暦4年の年号の入ったまま、小川彦九郎と浅野弥兵衛の版元名が一緒に入ったものであり、おそらく宝暦6年の版である(拙蔵)。再び浅野弥兵衛版が出版されたのは安永9年(1780)のことである。
 本書が出版された後、他の多くの易占書が『周易』の形式を意識し、尊重するようになる。それに伴い、「八卦」や16『日月卦傳鈔』、17『卜筮盲筇』といった旧い様式の易占書が次第に淘汰され、幕末期には儒教経典だった『周易』そのものが占いのテキストとして一般に用いられることとなったと言えよう。

home