「断易天機」のテキストと陰陽道への浸透

    六 『斷易天機』について

 明版『斷易天機』は、管見の限り国内に三点現存する。東京大学東洋文化研究所本、名古屋市蓬左文庫本、京都大学文学部図書館本である。いずれも明の万暦二十五年(一五九七)に福建の鄭雲齋(寳善堂)から出版されたものである。
 和刻本では尊経閣文庫本が最も印刷の状態が良く、刊記も完全な形である。和刻本は、東大本明版の封面、目録、頁内の字数、巻末の蓮牌木記等の特徴をほぼ忠実に版刻し、訓点を施している。そのため「寳善堂」を日本の書林と勘違いしている図書目録もあるようだ。
 刊記については、尊経閣本のように蓮牌木記、「正保二年乙酉年正月吉日」「寺町本能寺前藤田長吉」と刊記が揃っている版の他、「寺町本能寺前藤田長吉」部分だけが欠けた版、「正保二年乙酉年正月吉日」以下が欠け、蓮牌木記だけになっている版がある。宝暦年間(一七五一〜)には大坂の浅野弥兵衛(藤屋星文堂)が『斷易天機』の板株を所有したことが星文堂の目録からわかるが、藤田長吉以外の板元名の和刻本は未見である。
 和刻本の目録は八丁であるが、第一巻から第二巻の途中までに該当する第一丁から第四丁までは無界となっており、第五丁以降が有界となる不統一な目録となっている。全てが有界になっている目録の和刻本は未見である。東文研本、蓬左文庫本、京大本の明版の目録は全て有界であるから、この点は和刻本の特徴である。これについては、明確な説明を欠くが、例えば、「圖式」の扱いなどに問題があったのではないだろうか。
 明版、和刻本ともに六丁にわたる詳細な挿図による十二面の「圖式」が第一巻の前に配されている。版心にも「断易天機圖式」とあり、丁数も独立している。しかし、目録では明版も和刻本も、これを第一巻に入れている。実際の第一巻は、内題「新・纂集諸家全書大成斷易天機」に続く「筮儀文」の項目からであり、「圖式」を第一巻に入れている明版の目録編成がそもそも誤りなのである。
 次に序文の問題である。和刻本には魏禎(未詳)による嘉靖十七年(一五三八)の序がある。『東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録』を始めとして、『斷易天機』を所蔵する図書館の目録では、著者を劉世傑(未詳)としている場合が多い。それは、この和刻本の序文によるものだと考えられる。しかし、魏禎の序文が万暦二十五年版『斷易天機』に付いていたから、和刻本もそれに従ったのだとすることには疑問がある。
 序文によれば、「書林君子」である劉世傑が、当時流布していた『卜筮全書』という書物を参考にして『斷易啓蒙大成』としてまとめ、自宅に秘蔵し、それを知った魏禎が出版を勧めたのだという。
 序文の通りとすれば、劉世傑の書物は、序文が書かれた嘉靖十七年頃に『斷易啓蒙大成』、あるいは『斷易大成』の名称で出版されたと考えるべきであろう。
 実際に、一九九八年出版の『明代版刻圖釋』第四冊には、嘉靖版とされる『斷易大成』四巻が図版として収録されており、そのうちの二頁を見ることができる。版心には確かに「断易大成」と書かれている。
 やはり、序文に「刻断易大成序」とある通り、劉世傑が著した書物名は『斷易大成』であり、和刻本『斷易天機』に付いている序文は『斷易大成』のものだったと考えるべきであろう。
 ただし、東大本、蓬左本の明版には序文はなく、京大本も墨書の序文を巻末に綴じ込んでいるに過ぎない。したがって、明版『斷易天機』に付いている序文は未見であると言って良い。
 『斷易天機』には本来序文がなく、藤田長吉が和刻本を出版する際に『斷易大成』の序文を流用したに過ぎないのではないだろうか。
 日本に於いては、三百五十年前に藤田長吉版が出版されて以来、『斷易天機』と『斷易大成』は同じ本であり、その著者は劉世傑であるという考えが定着しているようだ。
 しかし、明版の断易書は書名が違っても内容的に類似したものが多い。実際に、明版『斷易天機』升卦の「觧曰」注の「乃無瑕疵」、澤卦の「評曰」の「忻将」、「觧曰」注の「乃歩蟾宮之兆也」といった部分は、『斷易大成』では「乃無瑕庇」「忻匕」「乃歩蟾宮之兆」と、異同が認められるのである。そしてこれは『通玄斷易』『斷易神書』の語句と合致する。つまり『斷易大成』は、『斷易天機』よりも『通玄斷易』『斷易神書』に近いのである。
 明版『斷易天機』の序文の存在が確認できない以上、劉世傑を著者とすることには疑問を呈したい。






    七 陰陽道と『斷易天機』

 遠藤克巳氏が『近世陰陽道の研究』に引用する宮内庁書陵部蔵本『太史局草』は、陰陽頭・土御門家の安倍泰邦(一七一〇〜一七八三)の自筆本である。(傍線筆者)
 『太史局草』第十四丁オモテからウラに「勘申」として、
   遺失之事 但其品二也
  遇同人・ ・(離下乾上)之革・ ・(・上離下)
   遺失條下曰、去不出方也。在西南方。
   右一物
  遇家人・ ・(巽上離下)之巽・ ・(巽上巽下)
   遺失條下曰、在南方因貴人有失、不然近貴人處。
   右一物
右謹従易天機以擲錢法卒卜之者如此矣。復退考八卦占法、則此一物一失而難得也。若穿求則有禍害人歟。及其出
  則可在丑寅方歟。當年五六月之比、自然見而已。謹勘申如件。
   元文六年二月十二日 陰陽頭安倍朝臣泰邦
とある。元文六年(一七四一)に安倍泰邦が擲錢を用い、二品の遺失物について、それぞれ「同人之革」(第六爻が変爻)、「家人之巽」(第一、二爻が変爻)を得た。
 この資料中に「遺失條下曰」と引用した「易天機」というのが『斷易天機』であると考えられるのである。
 『斷易天機』巻四「天火同人」の「遺失」には、
  此是妻將去不出方也。或因外婦色上有失在西南方。生物在相識人處及兄弟邉。
とあり、同じく巻四「風火家人」の「遺失」には、
  在南方或因貴人有失、不然近貴人處。生物在墓中時下未得見。
とある。部分的な引用だが『斷易天機』と合致するようだ。
 「同人之革」「家人之巽」のどちらにも之卦があるが、この資料では本卦の引用だけで占っていることがわかる。 また、第十四丁ウラから十五丁オモテ、ウラに「勘申」として、
   遺失之事
  遇噬・・ ・(離上震下)之震・ ・(震上震下)
  右今月今日未時、守護神符遺失矣。仍奉旨而欽以断易卜之。擲銀錢得卦、其辞如左。
  噬・之遺失條下曰、生物在竹林水碓辺、死物両人得尋有口舌更防失。
  震之遺失條下曰、東西二方尋之、卯酉戌日見。
復考九曜卜法、則此失物或在于坎乾之間歟。神廟辺、宜尋木橋近人家(云々)。又曰或小屋、或亭舎間、奴婢見
  可問小児也(云々)。此失物色白或青者、則必此占不可有失錯也。謹勘申如件。
   寛保元年 月 陰陽頭安倍朝臣泰邦
とある。寛保元年(一七四一、二月二十七日改元)に泰邦が「守護神符遺失」について占った。
 「噬・之震」(第六爻が変爻)を得た泰邦は、「遺失條下曰」として、やはり『斷易天機』を引用している。
 『斷易天機』巻四「火雷噬・」の「遺失」に、
  生物在竹林水碓邉、死物兩人得尋、有口舌更防失。
同じく巻三「震為雷」の「遺失」に、
  東西二方尋之、卯酉戌日見。
とあって、「遺失」の項目の語句を全て引用している。ここでは、本卦の噬・に加え、之卦の震についても引用しており、場面によって使い分けがあったことがわかる。
 また、第十五丁ウラから十六丁オモテに「勘申」として、
   吉凶可否之事
  遇晋・ ・(離上坤下)之豫・ ・(震上坤下)
  晋天機説曰、日出於地、穿而上行、巡運照耀、昇進其明、居官益位、禍減福生、利見王侯、任意必亨。
  豫天機説曰、雷出於地、開蟄皷翼、天地順動、日時不惑、先王制礼、殷・崇徳、凡事無疑、上下悦懌。
右今日於紫宮、有神符遺失之事而其儀不軽。臣等實恐其吉凶得失之間者也。今幸奉綸命、恭擲神錢以卜之、則所
  得二卦共至吉矣。蓋是其應其感、更足安天心歟。謹勘申如件。
   寛保元年 月 日 陰陽頭安倍朝臣泰邦
右神符紛失之事、如勘申状、酉日出自北方之小屋而女嬬某取之、傳近童。近童獻上畢。其色白也。與勘状能合之
  条、依叡感。為賞賜黄金三方。
とある。これは「紫宮」、つまり宮中からの易占依頼である。「晋之豫」(第六爻が変爻)を得た泰邦は、「天機説曰」と、今までとは違う箇所の引用をしている。
 これは『斷易天機』巻三「火地晋」の「評曰」に続く、
  日出於地、穿而上行、巡運照耀、昇進其明、居官益位、禍減福生、利見王侯、任意(必亨)。
であり、同じく巻三「雷地豫」の「評曰」に続く、
  雷出於地、開蟄皷翼、天地順動、日時不霑、先王制礼、殷・崇徳、凡事無疑、(上下)悦懌。
という部分の引用であると見て良い。
 依頼主が不明な元文六年二月十二日の占いでは本卦の「遺失」のみの引用で済ませ、之卦の項目は示していなかった。しかし、宮中の依頼では「評曰」と引用部分が違う上、本卦と之卦の引用を示しており、特別丁寧に検討されている様子がうかがえる。
 『太史局草』では、豫卦の引用文中で「殷・」と記しているが、これは明版『斷易天機』豫卦と同じ字であり、和刻本は「殷・」となっている。『断易心鏡』『斷易神書』『通玄斷易』など、他の明版断易書では「殷薦」となっていることから見ても、泰邦が和刻本ではなく、明版『斷易天機』を引用したと考えて良い。
 『太史局草』に見える断易の用い方は、得卦に対して、飛伏や六神の位置といったことは問題にせず、『斷易天機』巻三、四の六十四卦占の語句のみが占断の根拠となっている。
 土御門家は天和三年(一六八三)以降、全国の陰陽道者を統括する権限を幕府から与えられるようになる。売卜と称される巷間の占いに多くの下層陰陽道者が携わっていた実情から察すると、土御門家が『斷易天機』を公的な場で用いたことは、全国の陰陽道者に大きな影響を与えたと思われる。
 管見の限りでは、元文六年(一七四一)二月十二日の安倍泰邦の記事が『斷易天機』を実際の占断に用いた最初の例となるが、他の陰陽道資料にはもっと早い使用例があるのではないかと思われる。

    八 おわりに

 中国では『易經』解釈の学問が非常に盛んであり、易は四部分類の筆頭である。しかし、断易は易の扱いを受けず、雑占のひとつとして子部の占卜属に分類された。
 霖版の占卜書の出版数は決して少なくなかったと思う。しかし、中国の目録に収録される明代の占卜資料の数は多いとは言えないようだ。これは占卜書に対する評価の低さによるものではないだろうか。
 こうした中国の状況に比べて、日本に舶載された明代の占卜書は、非常に高く評価されたと言えよう。特に断易は、公的な場所に於いても卑下されることなく、周易に代用され得るものとして受容されたと考えて良い。
 蓬左本『火珠林』は、寛永十二年(一六三五)に集書家の種村肖推寺が尾張藩に献上したために今日まで残ったわけであるが、これは雑占の『火珠林』が献上に値する書物と認められたからである。また、僧侶や陰陽道者といった占卜の担い手たちによって占卜書が尊重され、日本国内に貴重な資料が残ったと言える面もあるだろう。

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2002年09月18日 20時12分50秒