鉄路


 私が鉄道研究のクラブに関わってから、早くも十年が経とうとしている。自分の人生の四分の一にもなろうという年月である。これは運命的なものであると思っている。

 私の父方の祖父・靖司は、新潟県三島郡三島町の鳥越という地域の出身であった。現地には同姓の家が多く、お互いは屋号で呼び習わしている。次男として生まれた祖父は、長じて群馬に出た。大正時代の始め頃のことと思われる。当時、前橋市内は生糸産業の全盛時代であり、祖父もまた製糸工場に職場を得た。

 祖母・梅子は群馬県松井田市内に生まれた。三人姉妹の末っ子で、長女・次女が当時の女学校を卒業したのに対し、自分だけが「蚕糸学校」に就学せざるを得なかったことを終生悔やんでいた。その祖母も前橋市内の製糸工場で働くことになり、やがて祖父と縁を結ぶことになった。

 祖父母夫婦は、前橋市内の城東町に住んでいたが、祖父は、折りしも開業したばかりの「上毛電気鉄道」の保線区員として働き始め、上電・中央前橋駅に程近い所にあった官舎に移り住んだ。私の父は、この線路際の官舎に生まれ、広瀬川を目の前に育ったのである。

 母方の祖父・源造は前橋市内の農家に生まれ、長じてから当時の鉄道省の機関区に勤務、蒸気・電気機関車の整備に従事した。やがて祖母・竹と結婚し、上越線の水上駅にあった機関区の官舎に長く住んだ。竹は、幼くして両親が別離、貧しい母親の手で育てられたが、結婚後は家族に恵まれ、終生家族を愛した。慈愛に満ちた祖母であった。

 源三の勤務先が、水上の機関区から高崎第二機関区に移った頃、父・仁も高崎第二機関区所属の若き機関士として勤務していた。そして、周囲の勧めによって、母・静枝と結婚することになった。

 その後、源三は国鉄の技術者時代の腕を買われ、「上信電鉄」の車両整備係りとして再び腕を揮い、「デキ」等の整備を手掛けることになる。  こうして自分の生まれるまでの命の糸を手繰ってみると、確かに「鉄道」という運命のレールがあったのだと感慨深く感じられる。

 私が上毛電鉄の沿線で生まれ育った時、その車両は黄色かった。世間を知らない子供の目には「電車とは黄色いもの」という印象が強烈に焼きついた。既に上電を定年退職していた祖父・靖司は、孫の私を連れて、時々上電に乗った。どこの駅でも「よっ!」と言って顔パスであった。切符を買ったことはない。「顔パス」というのはこういうものかと、私まで偉くなった気がして嬉しかったのを覚えている。

 ある日、中央前橋駅の改札で、若い駅員に切符の提示を求められた祖父は、「俺を知らないのか?」と言って、苦笑した。昭和の初期から、二十年以上も上電の線路を守ってきた祖父のさびしい戸惑いを見てしまった気がした。時代は昭和の高度経済成長期を迎えようとしていた。

 父は太平洋戦争が勃発した昭和十六年十二月に、蒸気機関車を運転する夢を追い、前橋駅前の丸通に嘱託社員として入社した。当時、国鉄に入るためのひとつのルートであったようだ。父の自慢は、国鉄の機関士になったことである。父は「機関士になれるのは級長だけだった」と言っている。だから、級長ではなかった父にはこの上ない喜びだったのであろう。

 しかし、機関士への道のりは楽なものではなかった。周りは皆、「級長」である。機関助士(蒸気機関車の釜焚き)として同時入社した仲間たちは、次々と機関士への昇格試験に合格して行く。いつか、重いスコップのせいで父の親指は曲がっていた。しかし、まだ父に朗報は届かなかった。

 ある日、いつものように機関助士として乗務すると、同期の仲間が機関士として運転席に着座した。機関車が動き出す。汗だくになって石炭を投げ入れ続ける父に向かって、機関士は「君もがんばれよなぁ」と声を掛けた。下を向いたまま、父は小さく「・・・うん」と答えた。

 六回目の昇格試験に合格し、父は晴れて「機関士」になった。機関士として最初に運転したのは、貨物輸送のEF15であった。EF55を始めとする様々な機関車を運転し、その後、新前橋の電車区に移った父であるが、一番印象に残った車両は、やはり機関士として最初に運転したFE15なのだそうだ。

 父にはもうひとつ自慢がある。それは「我慢」なのだそうだ。徒弟制度のような機関士の世界である。同期入社の優秀な「級長」たちは頭がいい分、プライドが高く、我慢ができずにその多くが辞めていったそうだ。そんな中で、父はがんばり抜いたのである。そして、国鉄の機関士・運転士として30年もの歴史を刻み、一家を支えて来たのだ。これはエライと思う。

 父も母も、今は悠悠自適の日々を送っている。しかし、遠くを見つめる父の記憶の底では、黒タキを牽いて、鉄路を走り抜ける力強い機関車の動輪が響き続けているようだ。

 

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