|
注
(1)白蛾の誕生年は『先哲叢談後編』「寛政四年壬子五月十四日、歿于加州金澤。享歳六十八」から逆算した享保 九年(一七二四)、『燕臺風雅』(国立国会図書館蔵本・鶚二三三)「寛政三年七月、應大梁公之聘、來本藩、賜食禄三百石。先生時歳七十有七」から逆算した正徳四年(一七一四)の二説があるが、鈴木由次郎氏は『白蛾 草』の「愚画像」に「安永七戊戌閏七月、六十四叟白蛾書」とあることから、正徳四年誕生説を採る。
(2)鈴木由次郎氏『易と人生ー新井白蛾の生涯とその詩ー』(昭和四十八年、明徳出版社)
また、鈴木氏は『朱子学入門』(一九七四年、明徳出版社、朱子学体系一)「一、朱子と易」二二五頁に「我が国においてもっとも強く朱子の古周易の影響を受けたものに易占の大家新井白蛾がある。…白蛾は主として卦爻によって象を観、意を考えて占断するもので、易の『辭』よりはむしろ『卦象』を重視した」と述べている。白蛾の易は宋学の基礎理論に立脚している点で民間売卜の易と区別される。程頤や朱熹、邵雍についてはそれぞれ「本義出ルニ至テ易始テ上古ニ復ス。故ニ朱子本義ヲ以古易ト稱シ、朱子ヨリ以前、王弼・費直等ガ易ヲ却テ新易トイヘリ。此説近クハ山崎闇齋先生著ス朱易衍義ヲ見ベシ。予本義ヲ以テ正解トシ常ニ読ム」(『古易一家言』対問十七条の一条目)、「蓋程易者易之蘊也。其説極精切學者必不可不讀焉。不可不知」(『易學類編』 巻中「論程易」二十八丁オモテ三行目)、「蓋康節先生ノ於易道也、闡微通玄實後世ノ一人已矣」(『梅花易評註』「概意」)と述べ、ここから「不侫私欲溯皇羲之舊、著古易斷」(『易学小筌』序)、「予伏羲ヲ以テ本ト シ、周易ヲ以テ花實トス。花實ハ常ニ可見、各時ニ発用ス。此故ニ我門ノ徒益古易ト稱ス」(『古易一家言』対問十七条の一条目)という「古易」を見出だすことになる。
その中心理論は「象」であり、「愚立五象目而示二三子、一曰、象像。如鼎卦鼎形、小過飛鳥之類是也。二曰、卦象。乾爲天、爲父、爲金、坤爲地、爲母、爲土之類是也。三曰、爻象。初爲足、上爲首之類是也。四曰、義象。推乾君之義、爲恐懼、推震雷之義、爲猛威之類是也。五曰、意象。以意取象者、如假象・轉象・虚象・旁象之類。其象多端、總稱之意象。如數象則屬爻象、間有屬卦象者也」(『古周易經斷』内篇巻一上、二十五丁オモテ五行目〜)と示されている。 (3)高埜利彦氏は「近世陰陽道の編成と組織」(『陰陽道叢書』3「近世」所収。平成四年、名著出版)の中で、陰陽頭の土御門家が天和三年(一六八三)に霊元天皇の綸旨と徳川綱吉の朱印状を得た後、全国の陰陽道者が組 織化されて行った過程を詳細に考察している。高埜氏によれば、土御門家は宝暦十二年(一七六二)から幕府に全国触れを出すよう嘆願し、寛政三年(一七九一)に全国触れを出させ、これを梃子にして全国の陰陽師の組織化を進めたという。その組織には、祈祷・占考を行う古組・新組・新々組の下に占考のみを許された売卜組があった。また、山本尚友氏は「民間陰陽師の発生とその展開」(『陰陽道叢書』3「近世」所収。平成四年、名著出版)の中で、中世以降「千秋萬歳」という芸能活動に従事した声聞師が、近世に入ってから、民間陰陽道師と なり、祈祷・占考に携ったと述べている。声聞師は政治的には被差別民の扱いではないが、社会的には蔑視される人々であった。つまり、近世初頭に売卜に関わっていくのは中世以来蔑視を受けてきた陰陽師たちなのである。
(4)闇齋派の一例では、蟹養齋(一七〇五〜一七七八)の『読書路径』「易」に「易は山崎先生の点本の本義、是朱子の註本にて誤なし。是にて読べし」「程伝は専ら義理を説のべらる。義理の精微は至極にゆきとどき誠に大切なる書ぞ」「易学啓蒙は朱子の作にて、易中のせんぎのかかることは説のべられたり。本義を読には、これを引合てすますべし」「この外の考べき書は、第一は山崎先生の作られたる朱易衍義をよむべし。此書をよく熟せ ずしては易はひらけの事ぞ」等とある。崎門の易とは朱子の『周易本義』『易學啓蒙』、山崎闇齋の『朱易衍義』 を熟読することであった。(『名古屋叢書』第一巻、文教編二〇九頁。昭和三十五年、名古屋市教育委員会編集)
(5)『梅花易評註』は昭和三十八年に鴨書店から謄写版で出版されている。
(6)『古易精義』は新井篤光の『古易精義指南』と合冊になり『古易精義大成』として星文堂から出版された。同書は昭和三十九年に鴨書店から『古易射覆大成』として謄写版で出版されている。
(7)明版『斷易天機』(萬暦二十五年版)は、和刻本として正保二年に藤田長吉版が出ている。 国立国会図書館蔵本『斷易天機』(一五四・三八)六巻六冊。二五五H×一七〇W。見返しなし。無界。花魚尾。刊記はないが巻頭に「増補鬼谷源流・寳善堂梓行」とある。 遠藤克己氏の示す宮内庁書陵部所蔵『大史局草』には、寛保元年(一七四一)に陰陽頭安倍泰邦が禁中で「神符紛失之事」について占断している記事がある。擲銭法で「晋之豫」の卦(第六爻が変爻)を得た泰邦は占考に及んで「晋天機説曰、日出於地穿而上…」「豫天機説曰、雷出於地、開蟄皷翼…」と『斷易天機』の本文を引用して吉の判断を下している。(遠藤克己氏『近世陰陽道の研究』第三章「易道」二「占筮」参照。昭和六十年、未来工房)
(8)和刻本では「二百七十八年」となっているが、薮田曜山氏は『譯注・梅花心易・家傳邵康節先生心易卦數』(昭和四十七年、三密堂書店)の序文では、計算上「三百七十八年」の間違いだとする。 (9)長澤規矩也氏『和刻本漢籍分類目録』(昭和五十一年、汲古書院)一一九頁上段。
(10)『新版改正・梅花心易』(架蔵)一巻一冊。二五二H×一八九W。見返しなし。無界。四周単辺。一行二十文 字×十二行。序三丁、目録二丁、本編四十一丁。最終丁ウラに「舊本改細字而爲大字。点之誤者正之、畧者詳之。且於首爲目録而占者備捷覧耳」、続いて「時寶永六丑季春吉辰/御書物屋 出雲寺和泉掾」とある。
国立国会図書館蔵本『家傳邵康節先生心易卦數』一巻一冊。二八〇H×一九〇W。見返しなし。無界。四周双辺。一行二十文字×十二行。序から通し丁で四十一丁。最終丁ウラに「寛永十暦正月吉祥日」板元名はない。
(11)禿氏祐祥編『書目集覧』第一、三三一頁上・下段(昭和三年、東林書房)
(12)尊経閣文庫所蔵『易學小筌指南』(八・一一)一巻一冊。各丁を開いたまま装丁されている。横長の155H×175W。山田順庵序一丁。目録二丁オモテまで。本編二十二丁オモテまで。末丁オモテに順庵の識語。ウラ に刊記「寳暦七年丑二月吉日/書林 永田調兵衛・上坂勘兵衛・山■金兵衛・浅野弥兵衛」
(13)『聚類參考・梅花心易掌中指南』(架蔵)五巻五冊。二二〇H×一六〇W。見返し「馬場信武著/聚類參考梅 花心易掌中指南/浪華書肆」但し書肆名は削除され空白。巻五の四十九丁(末丁)オモテに「元禄十年丁丑正月吉日/文化二乙丑年新刻/皇都書林 若山屋喜右衛門・野田藤八」とある。刊記に「京都市寺町通/山城屋文政堂/藤井佐兵衛」。出版年なし。『掌中指南』の序文を書いているのは、泉田梅翁である。この人物については『梅花易評註』凡例に「昔京師ニ泉田梅翁ト云者アリ。俗ニ易ヲ知ト稱ス。其ノ門弟ニ菅泰翁、同姓伴司ト云者 アリ。伴司余ガ門ニ遊。因テ梅翁秘スル所ノ書、悉得見。皆断易等ノ俗説ニシテ聖易ノ義ニ於ハ一向ニ窺コトヲ不知者ナリシ」と批判している。
(14)『評註』は宝暦年間以前に著されたと考えてよいが「附録」は宝暦十二年の出版の際に加えられたと考えられる。中野白水「生類二品射覆」に「寳暦十辰五月十七日」、古澤白泉「病占」に「寳歴十辰五月廿一日」とある。 「附録」には釋白純の占断だけが二例あり、同門に対して射覆の出題をしているなど、宝暦十年以降の門人の中では釋白純が指導的立場にあったことをうかがわせる。『評註』序文も白純が書いている所から、『評註』出版を勧め、白蛾の占断例を発表させたのは白純であると考えてよいのではないか。
(15)国立国会図書館蔵本『非白蛾』(二〇九・一〇四)。題箋「(古易評議)非白蛾」見返し「片岡門人田龍甫著/古易評議・非白蛾/平安書林永田文昌藏」。二〇〇H×一四〇W。有界。口題「非白子」。序一丁、本編七丁(通し丁)、末丁オモテに片岡如圭著書目録、ウラに刊記「明和五戊子歳十月吉日/皇都書林永田調兵衛刊行」永田調兵衛は寳暦七年の『易學小筌指南』の出版の共同板元のひとり。
(16)『先哲叢談後編』巻八によれば、片岡如圭は十三四歳から占筮を始めている。射覆を得意とし、二十歳の時に開塾し、易學を講じている。 (17)『日月卦傳鈔』前編に「蓍之事」とあり、「蓍ハ一根ニ百茎アルヲヨシトス。百茎ノ下ニハ神亀アリテ、イモリイル。長サ一丈、上ニ雲氣アリテ是ヲ掩フト史記ノ亀策傳ニ見エタリ。我朝ニモ一根五十茎ノ蓍ハアリ。蓍ハ 常州築バ山ノモノヲ第一トス。丹波亀山ノ産ハコノ次ナリ。稽古ノ時ハ竹ニテケヅリ用ユベシ」とある。これは 『史記』巻一百二十八、龜策列傳第六十八「龜千歳乃遊蓮葉之上、蓍百茎共一根」、徐廣の集解に「劉向曰、龜 千歳而靈、蓍百年而一本生百茎」による。
京都大学図書館蔵本『日月卦傳鈔』(八一・シ・二)前編一巻・後編一巻。前編、一五五H×一〇〇W。見返しなし。全て五十七丁。刊記「文政十丁亥年孟春再刻/淺野■兵衛蔵」。後編、寸法同じ、見返しなし。全て六十七丁。末丁ウラに「文政十丁亥年孟春再刻/大坂書林 井狩佐吉・淺野■兵衛」
金沢市立玉川図書館近世資料室には、「新井白蛾先生所持器具」(〇九〇・一六〇)が保存されている。その筮竹は竹製であり、長さ二三四ミリ、切り口は黒と赤に塗ってある。一方を細く削っていない。小川彦九郎や浅 野弥兵衛が占筮具も販売していたことはそれぞれの目録にある通り。
(18)『朱子語類』巻六十六「曰、卜筮之書、如火珠林之類、許多道理、依舊在其間」(中華書局理學叢書『朱子語類』四、一六二四頁四行目)
(19)国立国会図書館蔵本『非白蛾辨』(二一〇・一五七)。二七五H×一八〇W。有界。見返し「古易館門人白賁先生著/非白蛾辨/平安博厚堂」。中川常達序一丁、三木長雄序一丁、武白羊跋一丁、凡例三丁、本編十二丁。 末丁オモテに附録、ウラに刊記「明和巳丑春三月田中白賁識/非白蛾辨附録終/皇都書林武村嘉兵衛刊」
(20)国立国会図書館蔵本『易話』(二一〇・一六一)上篇一冊。二六〇H×一八二W。見返しなし。有界。半葉十行。松平得眞序三丁、本編三十二丁、附録三丁、如圭先生雅言三丁。巻頭に「如圭先生口授、門人速水玄説録」、巻末に「明和丁亥夏五月/門人 東越 自噛齋 原貞美撰」とある。末丁ウラ刊記「安永二年/書林 蓍屋勘兵衛・升屋喜八・野田藤八・藤屋■兵衛」
(21)『聖學自在』巻上「本朝古へ學校の教有」(『白蛾叢書』十六頁) 尊経閣文庫蔵本『聖學自在』(三二四・一)三巻三冊。見返し「寛政二年再刻(上欄)/新井白蛾先生/聖學自在/皇都 博厚堂/浪華 星文堂發行」。無界。二六五H×一八二W。上巻は篤光序一丁、白蛾序二丁、目録一 丁、本編三十六丁。中巻三十二丁。下巻二十九丁。刊記「安永六年酉十一月/朱章為正板(朱章あり)/武村嘉 兵衛・淺野弥兵衛」 また、国立国会図書館には文化十三年の吉田善蔵(加賀屋松根堂)版『聖學自在』(一一三・四五)が所蔵さ れる。巻末松根堂目録に『聖學自在』『闇の曙』『牛馬問』がある。
(22)山煕の序文は、天保十四年の文林堂版『鼇頭定本・易学小筌』(筆者蔵本)では割愛されている。 (23)大阪府立中之島図書館蔵本『古易一家言』(一六九・一八八)一巻一冊。一五〇H×一一〇W。有界。半葉七行。上巻は芥煥彦序四丁、目録四丁、古維嶽序四丁、本編五十四丁。下巻五十五〜八十三丁オモテ、附録八十三ウラ〜九十丁、白蛾著書目九十一丁オモテ(通し丁)、刊記末丁ウラ「宝暦六丙子九月吉日/京都 野田藤八・上坂勘兵衛・桂源次郎・武村嘉兵衛、浪花 浅野弥兵衛」。序は「古易一家言序」だが内題は「古易對問一家言」 である。「對問」は序文・目録完成時に取ったらしい。
(24)尊経閣文庫蔵本『古易一家言補』(八・一一)二巻一冊。各丁を開いて装丁してある。横長の一四七H×二一三W。有界。見返しなし。白烏・白瑩(印はまだ「隨波」になっている)附言三丁。本編三十八丁。八卦附属六丁。百首考二十九丁。蓍和名ノ事二丁オモテまで。新井流筮竹卦木ノ事前ウラより次オモテ二丁にわたる。新井白蛾先生著述書目ウラのみ一丁。ここまでの各丁数字は切り取ってある。星文堂蔵版目録八丁オモテまで。目録 末尾に「寛政元年己酉秋九月/淺野弥兵衛梓」 (25)国立国会図書館蔵本『一筮萬象』(二一一・一九)二巻一冊。もとは二冊か。見返しなし。二二五H×一五五W。上巻は序三丁を含む二十三丁(通し丁)、下巻二十七丁。絵入り。後序に「寳暦丙子/洛東本正寺/白純誌」続いて「皇都書林 蓍屋勘兵衛・菱屋新兵衛」とある。 『一筮万象・易学早合点』(架蔵)二巻二冊。二二五H×一五五W。上巻序文二丁、本編二十三丁。下巻二十 七丁、後序一丁、含章堂蔵板書目三丁。絵入り。見返し「新井白蛾先生閲/一筮万象射覆早合點/浪華書肆含章 堂」。口題「一筮万象」。刊記はないが文化四年以降の含章堂(藤屋徳兵衛)の出版であろう。 (26)『先哲叢談後編』巻八に「白蛾既唱易説於平安、以建門戸、生徒輻湊。而當時儒流皆以占筮家目之、賤其所爲。 嘗詣芥丹邱、相與論易。丹邱雖以名望蚤成一家、固不精易學。擧王弼韓康伯程頤朱熹等之數家之説、與之論談。白蛾商■歴代百三十有餘家、指摘其説醇疵。悍然曰魏晋之人淆亂虚玄。宋元之儒拘束性理。咸是迂遠于易義也。丹邱然焉。後序所著古易對問云、白蛾氏於易學顕微闡幽、悉削後儒陋見、別立一家之旨。自丹邱出此言、儒流皆知白蛾精于易、不世占筮者類矣」とある。この会談は宝暦七年以前のことである。 (27)国立国会図書館蔵本『煙霞綺談』(一四六・一五五)四巻一冊。二五八H×一八一W。見返しなし。無界。白蛾序二丁、林自見序二丁、白烏自序一丁、目録四丁、巻一は十六丁、二は十七丁、三は二十丁、四は十八丁。末丁ウラに「寛政十二庚申正月/浪華書林 河内屋太助・小刀屋六兵衛板」 同所蔵『筆乃儘』(一〇九・七〇)四巻一冊。『煙霞綺談』の改題本である。柱書に「霞」とある。林自見、白烏の序がない。刊記「文政九戌十一月/書林 河内屋茂兵衛・山城屋佐兵衛・大阪屋茂吉」 同所蔵『筆乃儘』(一九〇・二四)四巻四冊。やはり林自見、白烏の序がない。表紙題箋『新井見聞(角書) 筆乃儘』、見返し「新井白蛾著/筆の儘 全四冊/摂都 三木文繍堂發兌」とあり、著者名が西村白烏から白蛾にすり替わっている。末丁ウラに「大坂心斎橋通南本町 河内屋平七」 京都大学地理学研究室所蔵の写本『西村白烏随筆』(一四六九八一)も『煙霞綺談』と同じ内容。二二〇H×一六〇W。林自見序二丁、白烏附言一丁、本編六十六丁。写筆者・書写年不明。白蛾序がないのは出版前の原形をとどめているためだろうか。『国書総目録』に『西村白鳥随筆』とあるのは誤り。 (28)尊経閣文庫所蔵伝白蛾自筆稿本『秋夜草・明和秋月記』(四一〇・六)合巻一冊。270H×185W。表紙付箋朱書「新井白蛾自筆稿本/明治四十一年九月六日/新井董獻」。虫喰あり。「秋夜草」は無界、行書、十六丁。「報岡眉山」有界、楷書、一丁。「明和秋月記」無界、行書、四丁。各朱点あり。 (29)蒔田稲城『京阪書籍商史』第二部大阪書籍商史、第二編、第三章「板株」二七〇頁、六行目に「武村嘉兵衛殿挨拶に下り被申」とある。 『史記評林』の和刻本については、戸川芳郎氏「『史記評林』の版刻について」(『二松』10所収。平成八年三月、二松學舎大学大学院文学研究科)に詳細に述べられている。 (30)桜田虎門『五行易指南』天保二年版、巻三の末に、二文字下げの注として書かれている。 (31)尊経閣文庫蔵本『易学小筌』(安永九年第二版)末尾に「右八卦附属也。詳ナルコトハ定本ノ易學筌ニ載」(この部分は第三版以降削られている)とあり、『易學筌』には「伝」の記述が多かったと思われる。 (32)土屋泰男氏「白蛾の『唐詩児訓』について」(大修館『漢文教室』一〇五号、昭和四八年一月) 尚、白蛾校訂の『梅雪争竒』には、見返しに「梧桐舘・星文堂發行」、刊記に「吹田屋多四良・藤屋弥兵衛發行」とある。星文堂は藤屋弥兵衛であるから、梧桐舘は吹田屋多四郎と考えて良いのではないだろうか。 筆者蔵本『梅雪争竒』三巻三冊。二二二H×一六〇W。有界。框郭内180H×122W。見返し「大清百拙生■志■纂/梅雪争竒/浪華 梧桐舘・星文堂發行」。上巻は白蛾序二丁、武夷蝶庵小引二丁、目次一丁、本編三十三丁、中巻は三十一丁、下巻は三十一丁。刊記「中野白水・田中白賁藏板/明和元年甲申六月/吹田屋多四良・藤屋弥兵衛發行」 (33)藤屋弥兵衛(星文堂)は『先哲叢談後編』に「一家言刻成。大坂書賈星文堂發販。鬻了一千部。平安及江戸書賈、求之陸續不息。又鬻一千五百部。未終一年、販得二千五百部。資産給業、家暴致千金。嘗謂白蛾曰、僕家産 書舖二世於此、未聞若斯販得之夥。實未曾有之大盛事也」とある。宝暦六年出版の『古易一家言』の売れ行きに 「未曾有之大盛事也」というのは宝暦四年の『易學小筌』重板紛議の影響であろう。 (34)『鼇頭定本・易学小筌』(架蔵)一巻一冊。一七二H×一一〇W。山煕序三丁、目録四丁、本編九十四丁。弘 化四年第六版の刊記の最後に河内屋喜兵衛がある。末尾に印刷濃度の違う河内屋和助蔵書目録がある。『享保以後板元別書籍目録』(坂本宗子氏編、昭和五十七年、清文堂)によれば河内屋喜兵衛(柳原氏・享文堂)は延享 四年(一七四七)から明治六年(一八七三)までの営業。河内屋和助(石田氏)は嘉永五年(一八五二)から明治六年(一八七三)までの営業。『国書総目録』には福井県立図書館松平文庫本を宝暦四年版とするが実物を見た所『増補頭注・易学小筌(平仮名つき)』東都金幸堂梓・菊屋幸三郎謹製である。出版年はないが星文堂第三 版の模倣版である。 尊経閣文庫所蔵の安永九年第二版(八・一一)は各丁を開いて装丁してある。横長の一五〇H×一七五W。本 編の丁数・文字位置は頭注版と同じ。刊記「安永九年庚子夏六月新刊/山崎金兵衛・永田調兵衛・上坂勘兵衛・浅野弥兵衛」 (35)「弘化四年」の部分は字体が異なるため、後に改彫されたものであろう。 (36)星文堂出版目録は「文化年間」の語があることから文政以降の出版物に付けられたものと思われる。 (37)蒔田稻城『京阪書籍商史』昭和四年発行。昭和五十七年修正復刻版発行。臨川書店。第二部「大阪書籍商史」第二編「大阪本屋仲間の制度」、第五章「重板及類板」、第一節「重板紛議」の(ニ)参照。 (38)国立国会図書館所蔵の宝暦四年版『日月卦傳鈔』(特二・八〇五)後編(前編欠)、一五〇H×九〇W。見返しなし。序二丁、凡例二丁、秘傳類十九丁、本編四十四丁。巻末には「獲麟」の文字があり、これに奥付が続き「宝暦四甲戌年立夏穀旦/後編日月卦傳鈔終/江戸書林 小川彦九郎・奥村喜兵衛」とあり、重板紛議のものと同版である。京都大学所蔵の文政十年版の前編・後編には巻末の「獲麟」はない。 文政以降のものと思われる星文堂の目録に『易学活法・日月卦傳抄』一巻「自噛齋家秘・懐中本」とあり、著者を「庭田見龍子」とはしていない。 (39)星文堂蔵書目録に「程子傳、朱子本義」とあり、程伊川の『伊川易傳』と朱熹の『周易本義』を合わせたもの。中国では宋の董楷撰『周易傳義附録』(『通志堂経解』『四庫全書』所収)や元の趙采撰『周易程朱傳義折衷』(『四庫全書』所収)がある。弥吉光長氏は『江戸時代の出版と人』(『弥吉光長著作集』3、一九八〇年、日 外アソシエーツ)に和泉屋喜兵衛(柳原氏)の天保年間の控え帳を載せている。その経部の最初に『周易傳義』二八匁・『周易傳義大全』四五匁とあり、唐船持渡書の中に同名のものがあることがわかる。 (40)京都大学図書館蔵本『易術活法・日月卦傳鈔』前編・後編は文政十年(一八二七)の藤屋弥兵衛版である。安 永九年の『易學小筌』同様、小川彦九郎から藤屋弥兵衛への板株の売買が行なわれたのではないか。 (41)(20)と同じ。 (42)『卜筮盲節』(架蔵)二巻一冊。平澤左内常知著。一五三H×一〇六W。見返しなし。上巻三十八丁、うち序三丁、目録一丁(通し丁)、下巻三十一丁。堀野屋仁兵衛版。 『増補・卜筮盲節』(架蔵)一巻一冊。平澤隨貞先生口授、門人龍足子仲祇貞訂。一五六H×一一〇W。見返し「平澤隨貞先生著/卜筮・増補盲節/奠辰楼藏板」。七十八丁(序から通し丁)。五丁目ウラに板権印。七十七 丁目に仲祇貞跋。刊記「寳暦四甲戌九月吉日/奠辰楼藏板」。奠辰楼版は見易く便利になっているが、堀野屋仁兵衛版は初版の形を保っているようだ。 (43)朝倉治彦・大和博幸編『享保以後江戸出版書目』(新訂版、平成五年、臨川書店)一〇三頁、上段に「易學小筌 全一巻 板元・売り出し 小川彦九郎」とあり、宝暦六年十二月二十五日に割り印を受けている。重板紛議のあと『易學小筌』の板木は、宝暦四年九月に江戸から上京した山崎金兵衛に預けられ、小川彦九郎に渡された。 この板木が宝暦六年に割り印を受け、出版されたものと考えられる。 (44)『論語』雍也篇に「觚不觚。觚哉觚哉」とある。 (45)『卜筮樞要』「附言」二条目参照。 国立国会図書館蔵本『卜筮樞要』(一四一・一二四)二巻二冊。二二〇H×一五五W。上巻、見返しなし、有界、半葉十行、全て四十一丁。下巻、二十八丁、附録八丁、跋一丁。刊記「文政七甲甲年二月補刻/江都 須原屋茂兵衛/大坂 秋田屋太右衛門」。上巻「附言」六条目に平澤隨貞(左内)の生没年が載っている。
附 新井白蛾年譜
正徳四年 (一七一四・零歳 )儒医・新井祐勝(金左衛門)の子として江戸下谷に生まれる。
享保元年 (一七一六・二歳 )祖父・如水、房州にて没。
享保五年 (一七二〇・六歳 )江戸大火。家財・先祖の記録焼失。 享保六年 (一七二一・七歳 )父、病没。家庭で勉学を続ける。江戸大火。
享保十二年(一七二七・十三歳 )崎門の菅野兼山に師事する。兼山四十七歳。 享保十三年(一七二八・十四歳 )荻生徂徠没。
元文元年 (一七三六・二十二歳)神田紺屋町に塾を開く。徂徠派に論破され、朱子学を捨て、放蕩の日々を送る。
延享四年 (一七四七・三十三歳)菅野兼山没。享年六十七歳。
宝暦元年 (一七五一・三十七歳)京都の衣棚押小路(烏丸夷川上る丁)に古易館を開く。
宝暦三年 (一七五三・三十九歳)『老子形気』(『老子随筆』)出版。
宝暦四年 (一七五四・四〇歳 )『易學小筌』出版。しかし重板紛議に破れる。 宝暦五年 (一七五五・四十一歳)『牛馬問』出版。
宝暦六年 (一七五六・四十二歳)『古易一家言』『唐詩選兒訓』出版。
宝暦七年 (一七五七・四十三歳)『古易精義』出版。西村白烏『一筮萬象』、山田順庵『易學小筌指南』出版。
宝暦十年 (一七六〇・四十六歳)『同文通攷補』出版。
宝暦十二年(一七六二・四十八歳)『梅花易評註』出版。痔疾療養のため、大坂の門人宅に滞在。
宝暦十三年(一七六三・四十九歳)五月、知恩院新門前袋町に転居。 明和三年 (一七六六・五十二歳)『易學類編』出版。
明和五年 (一七六八・五十四歳)『唐詩選絶句解』出版。片岡如圭の門人『非白蛾』出版。
明和六年 (一七六九・五十五歳)『古易斷時言』『古文孝經發』『滄溟尺牘兒訓』出版。田中白賁『非白蛾辨』出版。
明和八年 (一七七一・五十七歳)『書經通攷國字箋』出版。
安永四年 (一七七五・六十一歳)二月、門人中野白水没。五月釋白純没。
安永五年 (一七七六・六十二歳)『古易斷』内篇、『聖學自在』出版。
安永六年 (一七七七・六十三歳)五月、大坂から下関経由で鹿児島まで海路の旅に出る。十一月帰京。
安永七年 (一七七八・六十四歳)母、病没。
安永九年 (一七八〇・六十六歳)『易學小筌』第二版が星文堂から出版される。
天明三年 (一七八三・六十九歳)門人たちによる七〇の賀が開かれる。 天明四年 (一七八四・七〇歳 )加賀藩家老・奥村尚寛、病占を依頼。白蛾召抱えの契機となる。
天明七年 (一七八七・七十三歳)『左國之八考』出版。
天明八年 (一七八八・七十四歳)京都の大火で罹災。大津の知人宅に滞在。
寛政元年 (一七八九・七十五歳)帰京。洛東瑞龍山下の寿光院に滞在。後、四条堺町に移る。『闇の曙』出版。
寛政三年 (一七九一・七十七歳)四月、加賀藩主前田治脩の書簡と奥村尚寛の添え状が届く。『孝經集傳』出版。
八月二十一日、金沢到着。
九月一日、登城して藩主前田治脩に謁見。
寛政四年 (一七九二・七十八歳)二月、文校「明倫堂」の学頭に任命される。
三月二日、明倫堂の開校式に臨み、藩主らに『孝經』を講じる。
五月十四日、持病の癪気のため病没。
十八日、金沢野田寺町法勝寺で葬儀、野田山に葬られる。
嫡子升平が二百石で跡目相続、学校助教となる。
※加賀藩召し抱え前後の史料は『加賀藩史料』(昭和十一年、侯爵前田家編輯部)に引用される『御親翰留』、奥村尚寛『袖裏雜記』による。両書は『加越能文庫解説目録』に載り、現在は金沢市立玉川図書館近世資料室に収められている。
本稿を作成するに当たり、尊経閣文庫の所蔵資料について、同文庫の菊池紳一氏より多くの御教示を戴いた。紙面を借りて感謝申し上げたい。
home
|