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一 はじめに
平澤隨貞(一六九七〜一七八〇)は江戸時代の宝暦年間に一世を風靡した易学者である。平田篤胤は『三易由来記』に「近く寳暦の世頃に、平澤常矩と云る人あり」と言い、「十有八変の筮法を看破せる見識の高きこと、古今に類なく、是また易學者流中の一偉人にぞ有りける」とその業績を高く評価している。 隨貞は自ら書を著すことをせず、門人に口授するのみであった。現存する隨貞の著書の全てが門人の筆記・編集によるものである。宝暦三年(一七五三)四月に隨貞口授の『卜筮盲筇』が出版されたが、同年四月に非常に性急な形で校訂・増補版である『増補盲筇』が完成されている。 最初に述べておかなければならないが、『卜筮盲節』『増補盲節』という書名表記は誤りである。「節」ではなく「筇」としなければならない。「筇(キョウ)」は「杖」、つまり「盲筇」とは盲人の為の杖であり、手引書を意味するものである。ところが、『増補盲筇』版刻の際に「筇」とすべき所を「■」としてしまったものがそのまま江戸書林仲間の割印帳に載り、後にこれを活字に翻刻する時に「節」の略字と誤解したらしい。序文中に「もうきやう」の読み仮名が付してあることからも「節」が誤りであることが分かろう。割印帳の活字索引をもとに作成した現行の活字目録類は『卜筮盲節』と表記しているが、これは今後訂正されなければならない。また、『国書総目録』の「■」も「筇」に改めるべきであろう。 本稿は宝暦三年に出版された『卜筮盲筇』と『増補盲筇』のそれぞれの版本の特徴を紹介するとともに、出版を巡る事情についても考察しようとするものである。
二 平澤隨貞について
『卜筮盲筇』の著者、平澤隨貞の生涯については『卜筮樞要』附言に、 先生諱ハ常知、称左内。平澤氏、随貞ハ其号ナリ。下野国並村ノ人ナリ。世保正ヲ勒ム。其先、蜷川氏ノ後裔ナ リ。故有テ母氏ノ姓ヲ冒ス。以元禄十年正月元旦、生于本州、安永九年三月廿九日於東都卒ス。壽八十三歳。東 叡山下妙宣山徳大寺埋葬ス。元亨道覚ト謚ス。 とあるのが最も詳細な伝記資料である。 隨貞は元禄十年(一六九七)に下野国安蘇郡旗川村(現・栃木県佐野市並木町)の代々村の長を務めた家柄に生まれた。十四歳頃までには江戸に出て易占を始めたらしく、安永九年(一七八〇)に八十三歳で没するまで江戸の神田周辺に住み続けた。没後に埋葬されたのは、現在の台東区上野四丁目の徳大寺である。 隨貞の若き日の逸話としては、門人の松宮觀山(一六八六〜一七八〇)が『卜筮靈狐傳』の評に、 隨貞子田舎ヨリ東都ニ来リシ初、一人ノ知音ナシ。止事ヲ得ズ柳原ノ堤ノ上、往来ノ路ニ出テ衢ニテ卜筮シ、其 日ノ渡世ヲ營ム時、田舎者ト見エタル者一人来タリテ占ヲ乞フ。則トスルニ甚困窮ニ迫リテ死生ノ間決シ難ク占 ヲ乞フ者ト見エタリ。因テ其方如何ナル事アリテ斯ニテ心苦シムニヤト問フ。彼人荅ヘテ、サレバ某ハ遠境ヨリ 渡世ノ爲ニ當地ヘ参リタル鏡磨ナルガ、此近キ所ニテ鏡ヲ磨道具ヲヲロシ置キ、小用スル間ニ盗人ニ其道具ヲ取 ラレタリ。國ヘ皈ランニハ貯ヘノ路錢ナク、當地ニ居ベキニ渡世ノ道具ナシ。進退ココニ極ツテ入水センカト存 ズル也トイフ。隨貞子聞テ如何程ノ料物アレバ道具ヲ調フベキヤト問フニ、二百錢程ト荅フ。則其日卜筮ニテ得 タリシ鳥目集メテ百五十錢程有シニ、並居テ見物セシ人ニ其訳ヲ述テ乞求メテ二百銅トナシテ與ヒラレタリ。其 者大ニ悦ビ、寔ニ命ノ親也ト感涙ヲ流シツツ謝シテ別レシト也。 という美談を書き残している。 当時、神田川の筋違橋から浅草橋までの南岸に柳の土手が続き、柳原堤と呼ばれていた。隨貞は初めて下野国から江戸に出て以来、向柳原と呼ばれた佐久間町側に住み、ここで享保・元文の頃まで細々と売卜を生業として暮らしていた。元文年間以降、繁盛するようになってからは、神田の本銀町(現・千代田区鍛冶町二丁目)・亀井町(現・中央区日本橋馬喰町一丁目)・米沢町(現・中央区東日本橋一・二丁目)と転居を繰り返した。転居の理由としては、同時代の馬場文耕(一七一八〜一七五八)は占断結果を巡る諍いによるものだと伝えている。 また、浅草山本宮内隣(現・台東区北上野二丁目か)・鞘町不動院方(現・中央区八重洲二丁目か)・木挽町五丁目与八方(現・中央区築地四丁目)には、それぞれ「会所」を設けた。月の内で日を決めて各会所を巡り、易占や門人の指導に当たる日々を送っていた。 こうした中で、宝暦元年(一七五〇)までには兵法家の松宮觀山が門人に加わり、隨貞の著書編集に尽力した結果、宝暦三年以降に『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』『卦爻問荅』『卜筮經驗』といったいくつかの著書が版刻され、板元書肆から出版されることになる。
三 『卜筮盲筇』『増補盲筇』の完成と板元
架蔵の『卜筮盲筇』は神田本石町四丁目大横町の堀野屋仁兵衛の版である。ところが堀野屋仁兵衛が書林仲間の割印を受け、『卜筮盲筇』を出版したのは寛政十二年(一八〇〇)であり、隨貞の没後既に二十年が経過している。再版自体は珍しいことではない。ところが『卜筮盲筇』は宝暦三年の四月には既に増補版の『増補盲筇』完成しているのである。増補版が出た五十年も後になって、再び初版が出版されたことになるのである。 宝暦三年(一七五三)に『卜筮盲筇』が出版されていたことは、江戸の書林仲間の割印帳からは確認できない。しかし京都大学付属図書館蔵本『卦爻問荅』巻末の「隨貞先生著述目録」は出版の事実を伝えている。 卜筮初心傳 同校正 刻成 ひらかな伝書 卜筮盲筇 同校正 刻成 同上 上下二巻 醫道便易 刻未成 上下二巻 卜筮奇辨 近刻 五巻 卜筮經驗 近刻 不門出人之外 十六巻 卜筮卦爻問荅 刻成 不門出人之外 三巻 卜筮極秘傳 近刻 不門出人之妙 傳 以 下 八巻 これは隨貞の出版書目としては最初のものと考えられる。宝暦三年の『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』『卦爻問荅』の最初の出版の後に『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』の校正が完成し、宝暦六年に『卜筮經驗』が出版される間までの書目である。目録作成の段階では校訂が済んだのみで、『増補盲筇』は完成していなかったようだ。 京大本『卦爻問荅』の末丁の刊記には「奠辰楼藏本認此印爲眞」と印枠があり「隨貞」の印がある。板元は「書林・門生・小倉屋金兵衛發行」。所在地は本石町四丁目大横丁である。また「彫刻・小嶋茂八」神田八軒町とある。出版年がないが、序・跋ともに「宝暦癸酉仲秋」とあり、宝暦三年として良いと思う。 ここで気付くのは『卦爻問荅』を出版した小倉屋金兵衛の所在地が「本石町四丁目大横町」となっており、先に述べた堀野屋仁兵衛と同じということである。実は小倉屋金兵衛というのは堀野屋甚兵衛の旧称であり、同一の書林なのである。『近世書林板元總覽』には名称の変更時期や営業年数等は載っていない。 堀野屋仁兵衛版『卜筮盲筇』巻末の目録には、 卜筮初心傳 ひらかな折本 一冊 卜筮卦爻問荅 片カナ本 圖入 三冊 とあるが、先の小倉屋金兵衛の目録と比べると『卜筮經驗』を始めとする多くの書名がなくなっている(図1参照)。これは例えば、慶應義塾大学付属図書館蔵本『卜筮經驗』が、宝暦六年(一七五六)に本白銀町通二丁目の近江屋藤兵衛から出版されている事実を見ればわかるように、他の多くの板は近江屋藤兵衛など他の板元に譲渡されたと考えられる。こうした中で『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』の板と『卜筮卦爻問荅』の出版権だけは辛うじて小倉屋金兵衛のもとに残された儘、五十年後に子孫の堀野屋仁兵衛が再版を出したと考えられる。 小倉屋金兵衛から初版『卜筮盲筇』が出版された後、すぐに校訂・増補が行われたらしいことは『増補盲筇』の校訂者・龍足子(未詳)の跋文に「宝暦癸酉夏四月」とあり、松宮觀山の『卜筮盲筇』序文の「宝暦癸酉初夏」と殆ど差がないことからもわかる。 『卜筮盲筇』の完成後、すぐに校訂・増補が行われたのはなぜであろうか。その事情を語る資料は、先の京大本『卦爻問荅』の跋である。以下にその全文を示す。 隨貞先生卜筮の名、海内に震ふ。世に謗を貪る鄙夫あり。風に乗じて擬書を作て行ふ。門下の諸生これがために あやまられん事を恐れて忽に卜筮初心傳、卜筮盲筇の二書を刊せらる。然に都下の書肆制ありて一家の藏板廣く 鬻く事を禁ず。僕辱く門牆の末にをり。故に命を奉て私庫に秘して同門諸賢の來り買ことあるを待。はからず四 方の君子争ひ求て已ず。発行未二月して所賣三千餘部に至れり。弘る事遠に不及して然り。況や数千里の外、同 好諸賢首を延て刻成るを待者の多きをや。異日の流る所はかるへからす。近日印本の世に行る如此盛んなること を聞ず。然るに事倉卒に出て刊誤失校少からす。故に今特に校正増補せらる。これより先、経驗の書已に刊に命 せらる。紙葉聚多にして彫刻いまに畢らす。又奇辨の書、先生及ひ高弟諸賢發明する処、輯録以成編と。又卦爻 問荅成る。嚮に行ふ所の二書を見て嗣出の書名を聞、其刻成を遅しとす。使□を馳て出るの期を伺ことの日々に 数十所。故に以成月の先後を不編、刻成物先發して其責を塞んと欲す。四方君子奠辰楼の印記を認て擬似の欺を 吃する事なかれ。 寶暦癸酉中秋下浣 門生書林北敬堂主人謹識とある。これは『卦爻問荅』の跋文であるが、北敬堂が隨貞の一連の著作を出版し、校訂・増補するに到った経緯がまとめて語られている。北敬堂は小倉屋金兵衛の屋号と考えて良いと思う。 最初に着目したいのは、隨貞の易占書の出版より先に何者かによって「擬書」が出版されていたという事実と、それによって急遽『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』の出版を決めたという点である。「擬書」とは『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』の模倣を意味するのであろう。宝暦三年秋までに出版された易学書で、『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』と類似の内容を持った書物という条件に該当するものと言えば、宝暦三年三月出版の『日月卦傳鈔』前編である。著者は越後の自噛斎、或いは庭田見龍子となっているが、割印帳には序文を書いた越後の竹内豊軌が著者となっている。 新井白蛾の『易学小筌』も隨貞の『卜筮盲筇』と似た体裁ではあるが、『易学小筌』の出版は宝暦四年二月である。『卜筮盲筇』と『日月卦傳鈔』の類似については、新井白蛾の門人・田中白賁が明和六年(一七六九)出版の『非白蛾辨』の中で述べている通りである。 『日月卦傳鈔』前編の板元・小川彦九郎と『易学小筌』の藤屋弥兵衛は、宝暦四年に互いに版権を巡って争い、結局小川彦九郎が勝って初版の『易学小筌』は差止めになっている。この差構に先だって『卜筮盲筇』出版され、『増補盲筇』が完成している事実は重要であると思う。この点に就いては後述する。 次に「然るに事倉卒に出て刊誤失校少からす。故に今特に校正増補せらる」とあることに着目したい。最初の出版物は「擬書」に対抗するために作業を急ぎ過ぎたせいで誤りが多く、校正と増補の必要があったというのである。これは特に『卜筮盲筇』を指したものと考えて良いだろう。そして『増補盲筇』は初版と同様に小倉屋金兵衛の所から出版されることになっていたようだ。確かに『増補盲筇』には内題の後に「門人・龍足子仲祇貞校訂」とあり、龍足子の跋文があるが、堀野屋仁兵衛版『卜筮盲筇』には校訂者の名も跋文もない(図2|a・b参照)。やはり堀野屋仁兵衛版『卜筮盲筇』は校訂・増補前の小倉屋金兵衛の初版の板を用いていると考えて良いだろう。 また、堀野屋仁兵衛版の「八卦之傳」の最後には「自癸酉仲秋/用此印發賣」とある。この部分は『増補盲筇』にはない。堀野屋仁兵衛版を初版とするならば、初版は宝暦三年の秋から販売予定だった。にも拘らず、既に四月に増補版が完成していたことになる。一体、『卜筮盲筇』の初版は本当に宝暦三年に出版されたのであろうか。
四 『増補盲筇』の板元の変更
架蔵『増補盲筇』の末丁の刊記には、 先板盲筇夥發刷書板木摩滅付/今亦之再板増補普門葉出者也 宝暦四甲戌九月吉日 奠辰楼蔵板 印 とある。印は「平澤」となっている。続いて以下の様な「平澤隨貞先生書目録」がある。 卜筮盲筇 ひらかな伝書 上下出来 卜筮爻影解 近日出来 二冊 医道便易 やまひのうらなひ 全 卜筮奇辨 近日出来 五冊 増補卦爻問荅和解 近日出来 二冊 卜筮經驗 十六巻 この後に板元の刊記があり、 似判起板吟味改 馬喰町三丁目 書林 門人 伊勢屋甚兵衛/門人 下野屋金兵衛 彫工 門人 小嶋茂八 となっている(図3参照)。伊勢屋甚兵衛・下野屋金兵衛は日本橋馬喰町三丁目の書林とあるが『近世書林板元總覽』には該当するものがない。刊記の印刷は濃淡のムラがあり、板元名は改彫されているようだ。『増補盲筇』は宝暦十一年には小川彦九郎によって出版されているので、伊勢屋甚兵衛・下野屋金兵衛は宝暦四年から十年までの板元と考えて良いと思う。彫工の小嶋茂八は、小倉屋金兵衛版の『卦爻問荅』の彫工として既に名前が見えている。時期的に『卜筮盲筇』初版の彫刻を手掛けた可能性はあると思う。残念ながら堀野屋仁兵衛版の刊記には彫工の名前がない。 小倉屋金兵衛は宝暦三年に『卜筮初心傳』『卜筮盲筇』『卦爻問荅』を出版した後、急いで校訂・増補の必要に迫られ彫工・小嶋茂八によって『増補盲筇』が版刻された。最初の『増補盲筇』が小倉屋金兵衛から出版されたかどうかは版本未見の為不明である。しかし、小倉屋金兵衛との関係は、理由は不明ながら宝暦四年以降には解消されたと考えられる。そして門人の伊勢屋甚兵衛・下野屋金兵衛の所から『増補盲筇』が出版されることになった。その際の板は小倉屋金兵衛のものを用い、板元名だけを改彫したと考えられる。 隨貞の関係した彫工・板元はいずれも隨貞の転居先と関係が深いようだ。彫工の小嶋茂八は神田八軒町、小倉屋金兵衛は本石町四丁目大横町、近江屋藤兵衛は本白銀町通二丁目、伊勢屋甚兵衛・下野屋金兵衛は日本橋馬喰町三丁目である。いずれもが向柳原、本白銀町、亀井町、米沢町といった隨貞の転居先と至近距離にある。隨貞の転居の詳しい年月日は不明だが、板元との関係は転居を機に変わった部分もあるのではないかと思う。 しかし、こうした小規模の板元は徐々に手を引き、少なくとも宝暦十一(一七六一)年には小川彦九郎が版権獲得に乗り出し、更に明和・安永になると山崎金兵衛に版権が集まったようだ。 東北大学付属図書館狩野文庫蔵本『増補盲筇』は安永三年(一七七四)の版である。共同板元名は京都の野田藤八・■屋喜六・箸屋勘兵衛、大坂の藤屋弥兵衛、江戸の山崎金兵衛である。巻末の山金堂(山崎金兵衛)目録には、 増補卜筮盲筇 壹冊 卜筮盲筇大全 全三冊 醫道便易 一冊 奇辨拔■ 二冊 増續卜筮盲筇 全二冊 卜筮經驗 全十二冊 卦象解 全一冊 卦爻問荅 全三冊 とあり、多くの版権が山崎金兵衛の所に集まっていた事実が窺える。
五 『増補盲筇』の校訂・増補部分
ここで『増補盲筇』がどの程度校訂・増補されているのか、堀野屋仁兵衛版『卜筮盲筇』と伊勢屋甚兵衛版『増補盲筇』を例に検討してみよう。 乾為天の丁の匡郭内は『卜筮盲筇』107H×66W、『増補盲筇』119H×86W。匡郭はより大きく広くなっている。 まず、宝暦三年の松宮觀山の序文は『卜筮盲筇』『増補盲筇』とも変わらない。次の目録には全体として大きな変化はないが、括弧内の注の部分が増えている。増補版の目録を示す。
一 ■之例 (并卦たつる傳/変爻付やう) 一 八卦之傳 一 六十四卦之傳 (實■・古人之占・射覆・待人/失もの・願望・天氣・賣買 /并前篇にもれたる秘訣を加ふる也) 一 病之占 一 百人一首之傳 (前篇に出りといへとも□文秘訣をくはえる也) 一 按卦之傳
次に「八卦之傳」の最初にある「乾」を比べて内容に変化があるかどうか、検討してみよう。
『卜筮盲筇』 『増補盲筇』 亥戌 乾天父金 白大北西 圓 ○ 乾天父金 赤大北西 圓 ○ 白 辛 たかく たつとく かたく ひろく みちる 高く 尊く かたく ひろく みちる めくる 水き 物をのする臺 やふきやすく めぐる 水き 物をのせる臺 やふきやすく やはらか 天地一はいの理 地ちの理 天地一つはゐの理 やはらか 地ちの理 うらおもての理 物を施す理 うらおもての理 ものをほどこす理 不休ゑる理 やすまずしてゑる理
色と味が加えられているが、逆に最初の方角の記述が削られている。「象」の部分は表記を除いて殆ど変化がないことがわかる。この「八卦之傳」部分にはあまり増補の意図はなかったようだ。 次に「六十四卦之傳」の最初にある「乾為天」を比べてみよう。改行は便宜的に揃えてある。傍線は筆者による。 『卜筮盲筇』 『増補盲筇』 乾爲天 廣六大龍包御容天象卦 すくやか 乾爲天 廣六大龍包御容天之之象課 うまれたる位はかりよくて甚しきくろう有 うまれたる位はかりよくてはなはたしきくろうあり めうへのきつかひきりに金銀にくるしみたるなり 目上の気つかひきりに金銀にくるしみたる也 金銀あつかへども手に入らす 位有人はよし 金銀あつかへども手に入らす 位ある人はよし かろき人はことのほかにくるしむ事おおし かろき人は殊の他くるしむ事のみ多し たつとき人をまねたりいつはる事あり たつとき人をまねたり又はいつはる事有 目上の人とすき合てし案をそこなる事あり 金ものの理はもちまへ也 たつとくたかく 金ものの理はもちまへなり たつとく高く うらおもてあり ひろき理 みちてかくる理 うらおもて有り ひろきり みちてかくる理 くらいはかりよくそのもといやしきよりいでたるもの 位ばかりよくして其本いやしきより出でたるもの也 へりのたつもの 水気あり 臺にのするゑんあり へりのたつものか 水きあり 臺にのするゑんあり 体の崩れ破るるもの 古きもの 古人ならばたつとく 大に廣き理 はなはたくろうのみ 古人たつとく大にひろく 甚くろう 高き所にのぼりたるか 水辺あるきたるか 高き所登たるか 山水の辺歩たか 文花あり 勇力あるか 大に徳あるか 文画 勇にして大に徳あるか 人のためにほねおりたるか 人の為にくるしみたるか 世の法となる事を仕出たる人成べし 世の為に成事を仕残たるか
右のように、「六十四卦之傳」には増えている項目がある。また、最後の文は結果が逆のようだ。確かに手は加えられているが『増補盲筇』には助詞の欠落などが目立ち、校訂に関しては改良されたとは言えないようだ。目録に「秘訣」と示された他の増補部分も一行程度加えられているに過ぎず、また「秘訣」というには物足りないようだ。 『増補盲筇』の「六龍御天之課・廣大包容之象」の語の横には「コレヨリ下ハ卦象ノ字ヲ畧」と注して、『卜筮盲筇』では省略していなかった部分を削っている。ここは『斷易天機』の引用だが、「六龍御天之卦」ではなく「六龍御天之課」が正しい引用表記である。注は「課」を「卦」としており、統一を欠く。この『斷易天機』の引用は伊勢屋甚兵衛版ではかなり文字が小さく、しかも窮屈に刻されている。他の部分に比べて、軽視されている。このようにさほど校訂・増補が行われていない所もある。 一方、『増補盲筇』では、右の「六十四卦之傳」の各卦の最後に、待人・失物・願望・天氣・賣買の項目が独立して設けられ、しかも非常に印象的に図形表現されているのである(図4|a・b参照)。以下は『増補盲筇』乾為天の占断の語である。 ○松手有。おそし。 ○数有。近所に有。出かたし。方は西北。 ○たふす半よし。叶かたし。 ○くもるか。ふるか。 ○うるによし。買にあし。 『増補盲筇』はこの「六十四卦之傳」部分を増補するのが最も大きな目的だったと言えよう。そのためには匡郭の枠を広くする必要が生じ、改めて違う板を彫り直したのである。 六十四卦の順はどちらも『易經』序卦伝とは違う。『卜筮盲筇』の方は規則性に欠けるが、『増補盲筇』は上卦毎に整理して並べようという意図があるようだ。この点も『増補盲筇』の大きな特徴である。しかしこの変更によって、『日月卦傳鈔』前編の六十四卦の並び方と殆ど同じになったのも事実である。これは隨貞側が『日月卦傳鈔』前編を意識した結果なのであろうか。そして『日月卦傳鈔』と『卜筮盲筇』には、体裁上に何らかの関係が見出だせるのであろうか。
六 『日月卦傳鈔』前編・後編の体裁
『日月卦傳鈔』には宝暦三年三月出版の前編と、宝暦四年出版の後編がある。前編の「六十四卦一卦之傳」の各卦は初版『卜筮盲筇』と同様、象徴物を列挙するだけの形式である。ところが宝暦四年の後編は、各卦の最後に天時・賣買・失物・生産・願事・他出・待人・疾病の項目を設けているのである。ここで「乾爲天」の卦によって両者の形式の違いを比較してみよう。
『日月卦傳鈔』前編 乾爲天 廣六大龍包御容天之之象課 乾ハ健也。天ノ徳也。尊貴ニツク。小人ハ甚ダ苦ミ、生質バカリヨク、幸アレドモ得ガタシ。諸事不幸ニテ心ヲ 苦ミ、願望大ニシテ叶ハズ。金銀ヲアツカヘドモ手ニ入ラズ。小人ニハ甚凶ナリ。
『日月卦傳鈔』後編 乾爲天 ○金モノ ○ミツル ○難所 ○タツトク/○高シ ○満テヘル ○ウラオモテアルモノ 今人ナラバ、徳ヲソナヘシ人。慈悲ヲ施セバ、ヨロヅ心ノママナルベシ。古人ナラバ、人ノ爲ニ苦勞スル人カ。 末ノ世ノ手本トナリタル人カ。 天時 ヨヒルルハノア内メハフテルン キ ヨ シ 賣買 利ウ分リアカルフベニシハ 大 ニ 失物 オ西ソ南ケノレ方バニ出アズル ベ シ 生産 オハソヤケケレレババ女男ナナリリ 願事 オハソヤケケレレババ不吉足な り 他出 オハソヤケケレレババ口吉舌ナアリリ 待人 オオトソヅクレ来ハルナベシシ 疾病 ガナタガカビルキベテシ治 リ
前編が出版された一年後に、後編は右のように改められている。つまり『増補盲筇』に於いて待人・失物・願望・天氣・賣買が増補されたのと同じ形式で『日月卦傳鈔』後編も改められたのである。また後編では『斷易天機』の語が全く引用されていないことがわかる。 体裁上の変化から見ると、『卜筮盲筇』と『日月卦傳鈔』前編、『増補盲筇』と『日月卦傳鈔』後編という対応があり、相互に無関係とは思われない。両者はそれぞれ体裁・内容的な類似から、宝暦三年頃に類板・重板の差構があったであろうことが予想される。『日月卦傳鈔』の小川彦九郎と『卜筮盲筇』の小倉屋金兵衛との版権争いにこそ『増補盲筇』の完成が急がれた理由が見出だせるのではないかと思う。この点を明らかにするためには、京都書林行事・上組の『済帳標目』(国立国会図書館所蔵)のような差構の資料を確認する必要がある。残念ながら、江戸のこうした資料は寡聞にして未見のため推測の域を出ないのであるが、この問題の解明のために引き続き資料調査を進めて行きたいと思う。
七 おわりに
宝暦三年に出版された『日月卦傳鈔』前編、『卜筮盲筇』『増補盲筇』、そして宝暦四年の『易学小筌』『日月卦傳鈔』後編は、いずれも実用的な占いのための易学書である。こうした書物の完成・出版は、その後の易占の流行に大きな役割を果たし、江戸時代の人々の易に対する見方を大きく変えたと考えられる。これまで朱子学者たちが取り組んできた『易經』解釈の難解な易や、宗教的で呪術めいた易とも違う、平易で実用的な易が大衆に認識されたのである。そしてそれは隨貞の易占活動の中で完成した実践的な易理論なしには有り得なかった。しかし、宝暦三年に隨貞流を真似た「擬書」の出版がなかったら、『卜筮盲筇』や『増補盲筇』の出版もなかったのかも知れない。もしそうなっていたら、江戸時代の易占事情は全く違う様相を呈することになっていただろう。
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