|
はじめに
平澤隨貞(一六九七〜一七八〇)は、江戸時代の宝暦年間(一七五一〜)に一世を風靡した易占家である。隨貞の考案とされる三変略筮法は、後世の日本の易占家に大きな影響を及ぼした。平田篤胤は『三易由来記』に「近く寳暦の世頃に、平澤常矩と云る人あり」と言い、「十有八変の筮法を看破せる、見識の高きこと、古今に類なく、是また易学者流中の一偉人にぞ有りける」と評している。篤胤が称賛したのは『卜筮經驗』の内容であったが、実際に著書としてまとめたのは松宮觀山(一六八六〜一七八〇)であったと見られる。兵学家として知られる觀山の学問領域は非常に広く、九十五年の生涯で多くの著作を残している。また尊王思想家として、幕府からは江戸所払いの処分を受けている。しかし觀山が隨貞の門人であり「隨運堂」と号していたことはあまり知られていないのではないだろうか。『卦爻問荅』『卜筮經驗』などは、いずれも平澤隨貞が口述し、觀山が編集したものだ。 平澤流の隆盛は、隨貞期(宝暦年間)と隨龍期(文化年間)である。隨貞期は詳細な易学理論書の出版が特筆される。それが觀山が関わった『卦爻問荅』『卜筮經驗』などの易学書である。はたして平澤流の易とはどういうものだったのであろうか。そして觀山は編集に関わる中でどんな役割を果たしたのであろうか。 本稿ははじめに隨貞の伝記資料を紹介し、次いで平澤流の易の特徴を明確にし、さらに関連する觀山の思想について考察しようとするものである。
一 平澤隨貞について
平澤隨貞は名は常知、字は左内、隨貞と号した。『米澤市史』には「平澤左内(享保頃)享保の頃小國郷に生れ、長じて江戸に上り易學を研究して一流を開く。著書に卜筮經驗、卜筮樞要、其他數種あり」とある。また『国書人名辞典』にも、「羽前米沢の人。医を能くし、のち江戸に赴き易学を究め、平沢流易断を広めた。」とある。 ところが、『卜筮經驗』巻頭の「卜筮經驗題辭」の末尾には「寳歴壬申歳仲秋之吉/野下州産隨貞平澤左内常知書於東都負郭市中僑居奠辰楼」と隨貞自身の署名がある。 また、『卜筮樞要』附言にも、 先生諱ハ常知、称左内。平澤氏、随貞ハ其号ナリ。下野国並村ノ人ナリ。世保正ヲ勒ム。其先、蜷川氏ノ後裔ナ リ。故有テ母氏ノ姓ヲ冒ス。以元禄十年正月元旦、生于本州、安永九年三月廿九日於東都卒ス。壽八十三歳。東 叡山下妙宣山徳大寺埋葬ス。元亨道覚ト謚ス。 とある。このふたつの資料から、山形県米沢市の出身とするのは誤りであり、本当の出身地は下野國安蘇郡旗川村、現在の栃木県佐野市並木町としてよいと思う。元禄十年(一六九七)正月元旦に代々村の長を務めた家柄に生まれ、安永九年(一七八〇)三月二十九日に江戸で没した。墓所は現在の台東区上野四丁目の徳大寺である。 隨貞が故郷を離れ、江戸に赴いた時期については『卜筮靈狐傳』「平沢流易道盛ナル事并隨貞子陰徳アル事」の本文に「當時隨貞子易道盛ニ行ハレテ都鄙遠近ニ普子ク其名ヲ知ラザル処ナク、海内ニ満ル者、是亦人カノ克スル処ニアラズ。其人此処ニ来リテ卜筮ヲ弘メントスルノ始、不図盗難ニ掛リシ者ヲ占ヒテ財ヲ與ヒ、其難ヲ救ヒ、人ノ命ヲ助ケシ事アリ」とあり、觀山はこれについて、 評曰、此事旧キ門人ハ此傳ヒテ知レリ。後ノ聞カザル人ノ爲ニ粗記之。隨貞子田舎ヨリ東都ニ来リシ初、一人ノ 知音ナシ。止事ヲ得ズ柳原ノ堤ノ上、往来ノ路ニ出テ衢ニテ卜筮シ、其日ノ渡世ヲ營ム時、田舎者ト見エタル者 一人来タリテ占ヲ乞フ。則トスルニ甚困窮ニ迫リテ死生ノ間決シ難ク占ヲ乞フ者ト見エタリ。因テ其方如何ナル 事アリテ斯ニテ心苦シムニヤト問フ。彼人荅ヘテ、サレバ某ハ遠境ヨリ渡世ノ爲ニ當地ヘ参リタル鏡磨ナルガ、 此近キ所ニテ鏡ヲ磨道具ヲヲロシ置キ、小用スル間ニ盗人ニ其道具ヲ取ラレタリ。國ヘ皈ランニハ貯ヘノ路錢ナ ク、當地ニ居ベキニ渡世ノ道具ナシ。進退ココニ極ツテ入水センカト存ズル也トイフ。隨貞子聞テ如何程ノ料物 アレバ道具ヲ調フベキヤト問フニ、二百錢程ト荅フ。則其日卜筮ニテ得タリシ鳥目集メテ百五十錢程有シニ、並 居テ見物セシ人ニ其訳ヲ述テ乞求メテ二百銅トナシテ與ヒラレタリ。其者大ニ悦ビ、寔ニ命ノ親也ト感涙ヲ流シ ツツ謝シテ別レシト也。自身モ其日暮シノ節ナリシカド人ノ難儀ヲ見捨ル事ナラザル生質ニテ、カヨフノ事ハ其 後モ度々アリシ事、門人皆傳ヘテ知ル事多シ。世ニ名達ノ人数多ケレドモ隨貞子ノ如ク上下ニ通ジテ聞ユル者ハ 近頃聞処ナシ。 と評言を付している。この話は隨貞の若き日の美談として社中では有名な話だったようだ。 觀山の評言に「止事ヲ得ズ柳原ノ堤ノ上、往来ノ路ニ出テ衢ニテ卜筮シ、其日ノ渡世ヲ營ム」とあることから、隨貞が「柳原ノ堤」の周辺に住んでいたこと、売卜で暮らしていたという二点を知ることができる。「柳原」は馬場文耕(一七一八〜一七五八)の『當世武野俗談』巻一「平沢左内之事」にも、 平澤左内(隨貞と号す)と云卜者あり。其以前は柳原いつみ橋向新道通りに、かすかにして辻なとへ出て、手の 筋を見、其日を細きけふりを立たるは、享保元文の頃なり。不圖はやり出して、今占の一流平沢とは、片腹いた きいやなる奴なり。偖々文盲千万の匹夫、店かへをする事一ヶ月に二三度つつなり。白銀町も店たもたれす、亀 井町をも追立られ、此ころ両国米沢町なり。是も引越すこともややあり久しからすして変宅うたかひなし。爰を 以知るへし。其人となりの宜しからさる事を。己みぢんも何も知らず、却て人を人と思はぬゆへ、人々是を悪み て或時は半可の輩も来て問答するに悉く打負たり。隣々外聞わるく、居たまられずして迯巡りけり。江戸中に四 五カ所會所を拵置、一六は木挽丁五丁め本屋与八方、二七はさや町の不動院方、三八は浅草山本宮内隣などと人 の家をかりて門弟と称して何もしらぬ鉄火打を見るやうなる下郎をあつめ算木蓍木取散して素人おとかしをして 金銀をむさぼる媒としけり。表の障子這入口に、知る人の外、前以て仰もなき方、不意に御出成候うは不到對談 候とはあんまりよはき迯言葉をかいて前知れる人ありて来り、難問せん事をこはがりての事なり。軍書講師神田 杏林と云者白銀丁へ推参して論談して大きに左内云こめられ、赤面しての後、右の通の張札を出して人をこわが りたるとなり。ある時去る歴々衆の方へまねかれ、左内へ其御方尋玉ふは、此箱の内へ入れたるものあり。占玉 へとありけれは、左内占て申けるは、是は箱の内にあれとも、正しく生類なり。されとも何の役に立つものにて なし。生類にても國土のつひえとるに足らさる者なりと、志さゐらしく述けり。其御方大きに感じ笑はせ玉ひ、 是はよく当りたり。いかにも何の役にたたぬとるに足らさる馬鹿者の名を書て入置きたり。是見られよと、箱を 明て見せ玉へは、紙に平沢左内と書て入れ玉ふ。是は左内が一生の占の大あたりなり。うぬが事を占ひたる、誠 に無益の役にたたす、取に足らさる輩というへしと心ある人々は是を一笑しけり。 とある。「柳原いつみ橋向」は、現在の千代田区佐久間町と岩本町を結んで神田川に架かる和泉橋らしい。佐久間町側に藤堂和泉守の屋敷があったことから、和泉殿橋とも呼ばれている。筋違橋から浅草橋まで、神田川南岸に柳の土手が続き、柳原と呼ばれていた。『江戸生活辞典』によれば、柳原は遊女が多く、治安の悪い地域だったらしい。隨貞は享保元文の頃までは向柳原と呼ばれた対岸の佐久間町辺りに住んでいたようだ。 隨貞は売卜を続けるうちに、自分の易を更に深めようと志を立てた。『卜筮經驗』題辭の一条目には、 志ヲ振テ一タビ蘊奥ヲ窮ンコトヲ欲ス。適水戸府ノ小川養軒先生者、斯道ニ精キコトヲ聞テ往而請教。旬歳間卒 業、爾來潛修密練、殆四十年千辛萬苦、寝食世産皆共ニ廃墮ス。遂ニ家資ヲ敗リ、居處ヲ失ヒ、漂泊殆極ル。然 ドモ尚手ニ周易ヲ釋ズ。 とある。隨貞は水戸の小川養軒に丸一年にわたって師事したという。資料には修行を終えてから今日まで四十年とあるが、『卜筮經驗』題辭は五十五歳の宝暦二年(一七五二)に書かれているから、四十年溯ると正徳二年(一七一二)となる。すると、養軒への入門は、隨貞十四歳の正徳三年(一七一三)頃、下野国を離れたのはもう少し早い時期だったと考えるべきであろう。隨貞の水戸滞在の事実を示す資料は未見であるが、養軒への師事は事実と受け取っておく。 修行を終えた隨貞は、二十五歳の享保七年(一七二二)以降に経済的に非常に苦しい時期があり、住む家も失い、漂泊生活を送った。寛延三年(一七五〇)にはすでに觀山が門人となっているから、五十歳までには隨貞はある程度の評判を得ていたと考えてよいだろう。『卜筮經驗』題辭一条目に、 王侯士庶の徴問、不求而到り戸外履常に盈つ。風声の及ぶ所一世悉く傾く。從游の者、亦數十百人。於是所蘊を 吐て人を導くに、不曰にして妙處に至る者多し。 とあり、当時の繁盛ぶりがうかがえる。門人が集まり始めた様子もわかる。また、隨貞には元文元年(一七三六)生まれの娘がいたことがわかっており、隨貞は享保の末頃までに結婚したようだ。 有名になった後も隨貞は転居を繰り返した。『當世武野俗談』によれば早い時は月に二、三度も移転した。わかっているだけでも、神田の本銀町(現・千代田区鍛冶町二丁目)・亀井町(現・中央区日本橋馬喰町一丁目)の後、両国橋近くの米沢町(現・中央区東日本橋一・二丁目)に住んでいた。転居理由は経済的な事情の他に、占断結果を巡る諍もあったというが、それは批判的な馬耕の目から見た事情である。 隨貞は日によって木挽町五丁目与八方(現・中央区築地四丁目)、鞘町不動院方(現・中央区八重洲二丁目か)、浅草山本宮内隣(現・台東区北上野二丁目下谷清掃事業所か)などの「会所」を巡っていた。 隨貞が拠点とした奠辰楼は、隨貞が柳原から転居した後も、非常に多くの場所を渡り歩いたので一カ所とは言えないようだ。後の隨龍の頃には現在の港区神谷町界隈に移ったらしいが、隨貞の時代に移ったのかどうかは不明である。但し、隨貞の埋葬は「東叡山下妙宣山徳大寺」であるから、下谷辺りで没したのではないだろうか。 この他に隨貞の逸話が引用された資料としては、津村淙庵(一七三六〜一八〇六)『譚海』巻十二に、 寳暦の頃平澤左内と云人有、易に通じたる事妙を得て、物をおほひ、うらなはするに、其内の物をさして中る事 神の如し。林大學頭殿へも度々謁して、林家より天府の像を給はりて安置せし也。 とある。これは隨貞の易が権威側から認められたことを示す資料であると同時に、隨貞の易が射覆の的中率の高さによって支えられ、人々の耳目を集めていたことを示す資料である。 それとは反対に『當世武野俗談』には、箱の中に「平澤左内」と書いた紙を入れて射覆をさせた上、隨貞が「何の役にも立たないもの」といったのを囃立てる意地の悪い連中がいる。隨貞が易占家として有名になる一方で、『當世武野俗談』の馬場文耕をはじめ、隨貞を揶揄する人々も少なくなかったようだ。 また、『武江年表』巻五には、「卜者平澤左内、相學者神屋登、軍書講釋師深井志道軒、滋野瑞龍軒、成田壽仙等行る」とあり、『武江年表補正略』巻一には宝暦年間のこととして「卜者平澤左内、軍書講釋師深井志道軒/平澤左内ハ講釋師ニテ馬文耕同時ナリ」とある。隨貞を卜者としながら、改めて講釈師と加えたこの『武江年表補正略』の記述は、隨貞が白銀町にいた頃、講釈師の神田杏林(白竜子か)に言い負かされたという『當世武野俗談』の逸話を指していると考えられる。前後の事情は不明であるが、隨貞が本当に講談をしていたか、さもなければ易の辻講釈の内容を非難されたのであろう。我々には『江戸繁盛記』の「売卜先生」のような地味な易者の印象が強いが、女性の辻占が唄の節回しで粋に行われていたように、易者の中にも派手な講釈を行う者などがいたのかも知れない。 隨貞が一生涯のうちに、いつごろどんな占断を下したかという具体的な資料は非常に少ない。例えば、後に大島中堂氏が大正七年に出版した『古易占法秘蘊』には、隨貞の占断が多く引用されているが、これらのうちの幾つかは隨貞以後の隨龍時代の『卜筮樞要』や『射覆卜淵』と推定される書物に見える隨龍の門人たちの占断例を「隨貞先生の断に曰く」として占者の名を変えて引用したものである。他は全て出典不明のものであり、信憑性に問題がある。隨貞自身の本当の占断例を集め、改めて検討してみる必要があると思う。 隨貞の著作目録として京都大学付属図書館蔵本『卦爻問荅』巻末に「隨貞先生著述書目」がある。以下、割注は括弧内に示す。 卜筮初心傳 同校正 刻成 ひらかな傳書 卜筮盲筇 同校正 刻成 同上 上下二巻 醫道便易 刻未成 上下二巻 卜筮奇辨 近刻 五巻 卜筮經驗 近刻 (門人外/不出之) 十六巻 卜筮卦爻問荅 刻成 (門人外/不出之) 三巻 卜筮極秘傳 近刻 (門人妙傳以下/不出之)八巻 宝暦三年(一七五三)の『卦爻問荅』出版後、宝暦六年(一七五六)の『卜筮經驗』の出版までの書目と考えてよい。右のうち『卜筮初心傳』『卜筮奇辨』『卜筮極秘傳』の三書は未見である。
二 松宮觀山について
觀山は貞享三年(一六八六)十月八日に下野国足利郡に生まれた。名は俊仍、字は旧貫、号は觀山あるいは観梅道人。左司馬、主鈴と称した。父は菅原姓の修験者であった。父の勧めによって十四歳で江戸に出た觀山は、松宮家の養子となり、北条氏如(一六六六〜一七二七)に兵学を学んだ。觀山は三十年もの間、氏如に従って日本の各地に赴き、氏如が辞職した後は自ら見聞を広めるため長崎に赴き、唐話などを修めた。享保十二年(一七一二)、觀山が四十二歳の時に、師の氏如が亡くなった。氏如は北条流兵学の宗家から見れば傍流であったが、宗家の後継者が絶える危機に臨んで觀山が宗師と仰がれることになる。宝暦三年(一七五三)以降は下谷に住み、門人の指導と著述に励んでいた。觀山は七十歳になった宝暦五年(一七五五)に家督を嗣子の俊英に譲り、隠居の身となった。ところが翌年八月に俊英は病没、孫娘の梅も宝暦十一年(一七六一)に病没してしまった。また、これに先立って、宝暦三年(一七五三)頃、当時六十八歳だった觀山は、まだ二十一歳の若き国粋思想の僧侶・法忍と知り合い、大いに共鳴した。ところがこの法忍も宝暦九年(一七五九)に二十七歳で亡くなってしまう。八十三歳になった明和五年(一七六八)九月には、生前の法忍と師弟関係だったことから寺社奉行に取り調べを受けた。これは法忍が、宝暦事件の竹内式部(一七一二〜一七六七)、明和の変の山縣大貳(一七二五〜一七六七)らと同様に、尊王を唱えて幕府の転覆を狙う危険思想の持ち主と見做されたからである。明和四年(一七六七)に山縣大貳が死罪、竹内式部が遠島になったのに続き、觀山は明和六年(一七六九)に江戸所払、著書没収となり、下谷忍ヶ岡から四ッ谷大木戸外に居を移した。すでにこの時、觀山は八十四歳になっていた。觀山の著作意欲は最期まで盛んであったが、安永九年(一七八〇)六月二十四日、九十五歳で亡くなった。法名は仰高院觀山淨巌居士。現在の文京区大塚三丁目の高源院に葬られた。 觀山は奠辰楼社中では「隨運堂」または「隨運」と称していた。隨貞と觀山の出会いは、『士鑑用法直旨鈔』に、「隨貞先生近日卜筮を以て名一世に震ふ。餘間之を訪て其説を聽く」とあるように、ある程度隨貞が有名になってから觀山の方から赴き、門人として教えを乞うたようだ。具体的な年代については『卜筮經驗』巻二の「卦爻問荅」の七問目に「奠辰楼の會」の射覆の様子が書かれ、その末尾に、 其座に列て親見之者凡八人。所謂隨貞先生、其女林(時十五歳善占)、高弟石尾隨流、窩松宮隨運堂、滋野一貫 齋、福嶋梅松齋、加藤某、大河内某、實に寛延三年庚午三月八日申刻也。 とあるのが最初である。射覆の証人として八人が名を連ね、年月日から時刻にまで詳細に記されている。寛延三年(一七五〇)時、隨貞は五十三歳、觀山は六十五歳である。ここに見える門人の順番は、そのまま奠辰楼幹部の順位を示すことにもなろう。隨貞、隨貞の娘、高弟石尾隨流に次ぐ位置に觀山がいたとすれば、すでに觀山は社中の重要人物になっていたと言えよう。 隨貞と觀山の交際期間は、長目に考えれば『卜筮經驗』に記されている寛延三年(一七五〇)前後から、明和六年(一七六九)までのおよそ二十年間ということになる。なぜなら、明和四年(一七六七)の明和事件に続き、觀山が明和六年(一七六九)に江戸所払となり、下谷忍ヶ岡から四ッ谷大木戸外に居を移したからである。しかし、觀山が著作活動を通じて隨貞に深く関わった時期は、宝暦七年(一七五七)までの十年足らずの間と考えてよいのではないだろうか。なぜなら、宝暦八年以降は編集に関与していないからである。これ以降の觀山の思想は、平澤派の易学書とは別の著作から窺うしかない。
三 『卜筮經驗』に見る平澤流卜筮術の特徴
隨貞の卜筮術の特徴は『卜筮經驗』巻一、二によく表れている。巻一は隨貞撰の巻である。その冒頭「周易解辭」には、「按如飛伏六親劫殺及卦影等、皆是後世卜筮家之説、先儒已有論焉。然亦是工夫磨錬之所得未必無一理也。其取捨一一有口訣」とあり、その後に『斷易天機』巻三から六までの六十四卦の冒頭がそっくり引用されている。『卜筮盲節』も部分的ながら『斷易天機』を各卦に引用している。例えば乾為天の「六龍御天之卦、廣大包容之象」である。『斷易天機』は納甲易の書物である。納甲易は俗に断易・五行易と呼ばれている。口訣による取捨選択はあるにしろ、隨貞の易が納甲法による卦爻解釈を行ったことは確かである。なお馬場信武の『梅花心易掌中指南』巻五「六十四卦ニ飛神伏神納甲世應身ヲ書記ス」にも『斷易天機』が引用されている。『斷易天機』の解説書とも言える馬場信武の『断易指南鈔』によれば、擲銭によって六擲で一卦を得る。変爻は本筮法と同じ、老陽・老陰が転じる。隨貞は『斷易天機』の本文は尊重したが、占法の擲銭を筮竹法に変えた。隨貞の易は『断易指南鈔』の方法を踏襲する純然たる納甲法の断易派とは区別されるであろうが、一支流であると言っていいだろう。 次に『卜筮經驗』巻二である。冒頭には「隨貞先生口授/卜筮須知八卦五行屬類辨爻法」とあり、その後で繋辞伝や説卦伝を引用しつつ八卦の概説が六丁にわたっている。さらに「洪範皇極内篇五行屬類」の植物属類・動物属類・用物属類・事類吉圖・事類凶圖・支干之圖・人体性情の各象徴物の一覧が二丁ある。これは宋の蔡沈の『洪範皇極内篇』の引用である。表の前には「一定拘ルヘカラストイヘトモ亦童蒙ニ便ナキニアラス。故載之」とある。 易の象と言えば、まず説卦伝(広象)と荀爽九家の逸象三十一種を考えるのが一般的であろう。朱子の『周易本義』説卦伝の注もこれを採る。だから平澤流の象が、六十四卦ではなく八十一首の『洪範皇極内篇』に由来しているというのなら非常に特徴的であると言えよう。 次に「鬼谷子辨爻法」の象徴物の一覧が四丁にわたっている。ここでも「一定拘ルヘカラス。然トモ亦考索ノ便ナキニアラス。故童蒙ノタメニ姑載之」とある。これと同じ見開きには「四滅没卦」「絶處逢生」の辞などがあるが、これは『斷易天機』の項目名と同様ながら、記述が異なっているので直接の引用ではない。 右の引用の後に「此外諸書所載不遑枚舉學者須觸類推演焉」とある。この点には疑問がある。前の「八卦五行屬類辨爻法」には「荀九家ニ…ノ句アリ」という荀爽九家逸象からの引用が実際にいくつかあるのだ。初学童蒙のためと言うなら説卦伝や荀爽九家逸象を整理して載せるのが妥当ではないだろうか。本文の大部分を占める「解辭餘論」一〜五は象の出典を示さないので『洪範皇極内篇』がどの程度活用されたのか疑問の残るところである。 次に巻二「卦象問荅」の一・二・五条目の問いと隨貞の答えを見てみよう。ここには隨貞の易の特徴がもっと明確に示されていると思う。まず、一条目の問いは、 或人問曰、古ヘ卦ヲ起スノ法、下ニ初テ上ニ終フ。後世ハ先得ル者ヲ上卦トシ、後ニ得ルヲ下卦トス。其ユエ何 ゾヤ。 である。問いは繋辞伝以来の伝統的な十八変法では下の初爻から順に求めていくのに、三変略筮法ではなぜ上卦・下卦の順で求めるのかという問いである。「後世ハ」というから質問者の周囲では上卦・下卦の順で卦を求めることが定着していたようだ。平澤流の筮法としての三変略筮法は『卜筮經驗』題辭の三条目に上卦・下卦・之卦の順に求めているので、隨貞自身に対する問いでもある。隨貞の回答はかなり長いものだが、要点を部分的に引用すると、 太極兩儀ヲ生ジ、兩儀四象ヲ生ジ、四象八卦ヲ生ズ。生々ノ序ニ效フモノナリ。後世ノ端法、三營シテ卦ヲ成ノ 法ハ初ヨリ卦ヲ得テ爻ニ拘ラズ。故心易ノ法、皆先得ルモノヲ上卦トシ、後ニ得ルヲ下卦トス。 というものである。この説明は、当時流行していた梅花心易と同じように上卦から得ているのだと言っているに過ぎない。隨貞は同じ題辭の二条目で梅花心易を「死法」と言っているにもかかわらず、占筮法の上では倣っている部分もあるのである。隨貞は梅花心易について『卜筮經驗』題辭の二条目に、 次ニ京房先生擲銭之法、康節先生心易所載端方捷徑世ニ便アリ。所謂先天占例數ニ因テ卦ヲ起シ、生尅ヲ以吉凶 ヲ斷ジ、爻ノ辭ニ拘ラザル者古意ヲ存スルニ似タリトイヘドモ、年月日時ニ因ルモノハ一定ノ死法ニシテ變易ノ 眞理ニ契ハズ。所謂後天占例先ズ卦ヲ得テ後ニ數ヲ知ノ法、活法トスベキニ似タリトイヘドモ爻ノ辭ニ局シテ本 卦變卦對照斟酌以意味不盡ナルコトヲ知ラザル者ハ羲皇ノ舊ニアラザルコト明シ。 と言っている。梅花心易のように年月日と時間を卦爻に換算するだけなら、一定のものしか得られないという批判である。そして、同じく題辭の五条目に「卦ヲ得テ後、其品位ヲ察ルコト重要ニシテ筮者ノ巧拙是ニヨツテ分ル。心易所謂鋤ト斧トノ違ヒ是ナリ」とあり、「卦ヲ得テ後、其品位ヲ察ルコト」が重要だと説く。「鋤ト斧トノ違ヒ」とは『梅花心易』第十六「聞聲占例并夜扣門借物占」のことである。すなわち、冬の夜に邵雍と息子の所に物を借りに来た男がいた。息子は借物を鋤だと言ったが、邵雍は冬の夜だから薪を割るための斧だろうと判断した所、みごとに斧だったというものだ。「鋤ト斧トノ違ヒ」で分かるほど知られていた話のようだ。隨貞が目指した易は、卦爻の「象」を「意」や「理」によって柔軟に解釈する邵雍の易である。隨貞の梅花心易の長所・短所の捉え方は、後に新井白蛾(一七一五〜一七九二)が『梅花心易評註』で述べる内容と同じものである。白蛾も『梅花心易評註』で鋤と斧の話を一番の妙占としている。白蛾の卦爻解釈は、やはり隨貞の易の理論をもとにしていると考えてよいと思う。 次の二条目の問いは、 又問、變卦ノ法、古ヘ其定ル處アルニアラズ。然ルニ當流一卦ノ變爻三位ニ限ル。其同ジカラザルモノハ何ゾヤ。である。つまり古法では老陰・老陽はそれぞれ転じ、初爻から上爻まで老陰・老陽がなければ変爻はない。反対に初爻から上爻まで全てが老陰・老陽になれば六爻全てが変爻となるわけである。 この問いに対しては、「水火既済」を陰陽の完全均整の卦とした上で、 コレヲ人ノ兩足歩行スルニタトフ。左足動トキハ右足静ニ、右足動トキハ左足静ル。若兩足倶ニ動クトキハ、顛 倒セズト云コトナシ。 と言う。つまり隣り合うものは同時に変化してはならず、これを同時に行えば、調和が乱れて倒れてしまうことになるというのだ。この結果として平澤流では、無変爻や全変爻ということはなく、六爻の内に必ずどこかにひとつが変爻になることになる。「一卦ノ變爻三位ニ限ル」は『占考紀畧』を見ると非常によくわかる。『占考紀畧』は六十四卦を『易經』序卦伝の通りに並べ、例えば乾為天には一・三・五爻、坤為地には二・四・六爻の変爻しか載っていない。どうやら下卦が、乾・離・巽・艮ならば一・三・五爻、兌・震・坎・坤ならば二・四・六爻の変爻としているようだが、その対応については『卜筮經驗』題辭の三条目の割注に「属以下變卦ハ内卦ノ親/ニ命ズル方口傳」とある通り、具体的な変爻の位置は明らかではない。この方法では筮竹で之卦の変爻を求める必要がないと思われる。『斷易指南鈔』の古法通りのものとも、後の新井白蛾の変爻法とも違う非常に独特な考え方である。 次の五条目の問いは、 又問、卦ヲ斷ルノ法、先天ハ吉凶只卦ヲ以論之、易ノ爻ノ辞ヲ不用、後天ハ專ラ爻ノ辞ヲ用、兼ルニ卦ヲ以シテ 斷之。其他体用等ノ説アリ。何レヲ以是トセンヤ。且、當流爻ノ辞ヲ不取ニ似リ。果シテ然ルヤ否。 である。これは北宋の邵雍の唱えた伏羲の易を先天易とし、文王の易を後天易とする考えを言う。この問いにあるように、先天易は八卦・六十四卦の象によって占断し、後天易は『易經』の卦辞や爻辞の内容によって占断する。「体用」とは邵雍の『觀物外篇』の体数・用数の説である。平澤流も『易經』本文の解釈には頼らないが、梅花心易のように数字を常用することはなかったようだ。さて、この問いに対しては、答えの最後に、 又爻辞ノ如キハ是正ニ聖人ノ言ナリ。今庸學ノ言トイヘドモ實驗誤リナキモノハ尚取之。況ヤ聖人ノ言、豈可廃 ヤ。但不拘之ノミ。凡占考ノ道、功驗ノ眞、其要變易ニ在テ占者ノ感通ニヨル。口授心傳ノ妙處、筆墨ノ尽ス所 ニアラズ。務テ悟入スベシ。 とある。つまり、爻辞を用いてもいいが、絶えず変化するものを捉えるには、そうした固定したものにこだわらず「占者ノ感通ニヨル」のがよいのだという。つまり得卦に対する柔軟な発想を大事にせよということである。この点については「口授心傳ノ妙處、筆墨ノ尽ス所ニアラズ」と伝える難しさを述べている。 右の問答から隨貞の易の具体的な特徴と、そのもとになっている隨貞の考え方を概説することができたと思う。 しかし、こうした隨貞の易も世間から批判を受けていた。同じく題辭二条目の末尾に、 世ノ學易者、或ハ予ヲ扣テ雄辨蜂起ルアリトイヘドモ、予是ニ荅ルニ詞ヲ以セズ。直ニ蓍ヲ立テ其應驗ノアヤマ ラザルヲ示スノミ。 とある。新井白蛾の場合は朱子学の一環としての易の実践を目指していたにも拘らず、売卜者の易と似たものだとの批判に苦悶していた。その結果、白蛾は自らの立場を明確にするためか、繰り返し売卜者を批判することになる。隨貞の場合はどうであろうか。少なくとも『卜筮經驗』には、白蛾のように売卜の易を「俗易」と言ったり、売卜者に対して卑しむような表現はない。隨貞は自分が売卜に関わった経験から、売卜者に対して寛大なのであろう。隨貞が江戸に出たと推定される正徳二年(一七一二)頃、易とは売卜の易を指すのが普通だったはずであり、白蛾の意識は隨貞や一般の理解よりも先んじていたと言えよう。
四 平澤流の筮法の変更
明和七年(一七七〇)の序・跋のある『卜筮早考』は『卜筮盲筇』と同じ即時占の書であり、どちらも『斷易天機』の語を引用する。『卜筮早考』の完成時、隨貞七十三歳、觀山八十五歳と存命あるが、序・跋ともに「東都平信子篤」となっており、どこにも觀山の名は見えない。この『卜筮早考』の「蓍法畧式」では三変略筮法を説いている。しかし、下卦・上卦・之卦の順に求めている。これは『卜筮經驗』の上卦・下卦・之卦と求める方法と、順が入れ替わっている。また、之卦の求め方も既に述べた『占考紀畧』に則った方法と異なり、三変目の残数により初爻から上爻までの一爻だけを変爻とするようになっている。これは非常に大きな改革である。 『卜筮早考』の「蓍法畧式」は、新井白蛾の『古易一家言』の「取蓍の傳」と全く同じ方法である。これまで三変略筮法の考案は隨貞の方が早く、白蛾はそれに工夫を加えたに過ぎないと言われてきた。しかし逆に、平澤流が古易流から取り入れた部分があるということになる。 しかし、こうした占法の変更は一時的なものだったようだ。なぜなら、文化九年(一八一二)の隨龍の序文のある『卜筮樞要』では三変の順が、再び上卦・下卦・之卦の順になっているからである。但し、変爻法は『卜筮經驗』には戻っていない。ところが『卜筮樞要』の占法と変爻法は宝暦三年(一七五三)出版の『卜筮盲筇』『増補盲筇』と全く同じになっている。宝暦三年と言えば、『斷易天機』を引用しながらも所属流派の不明な『日月卦傳鈔』前編が出版されたのと同年である。そして、この『日月卦傳鈔』前編の占法と変爻法も『卜筮盲筇』『増補盲筇』と全く同じものなのである。だから『卜筮盲筇』『増補盲筇』の変爻法は、宝暦三年の時点で実際に平澤流で用いられていたことになり、『卜筮樞要』はこれに戻ったことになる。すると変爻三位というのは、觀山の『卜筮經驗』『占考紀畧』などの完成とともに始まったことになり、隨貞と觀山の協力によって考案されたと考えられる。それが明和七年の『卜筮早考』の完成とともに元に戻ったのは、觀山が江戸所払いになり、奠辰楼社中から觀山の影響力が消えたことを示すのではないか。そして、同時に隨貞の奠辰楼に於ける実質的な引退の時期をも示すものではないかと思う。 また、隨貞の存命中に拘らず、部分的にしろ白蛾の易占法に切り換えたのは、江戸に於ける平澤流の勢力が、白蛾の古易流に押されて逆転を許した結果、追随せざるを得ない状況になったからではないか。平澤流が宝暦の始めに江戸で評判になっていたのとほぼ同時期に、白蛾の古易流が京都を中心に近畿圏に広がりを見せていた。これは白蛾の『古易一家言』が宝暦六年(一七五六)に大坂の藤屋弥兵衛から出版され、占筮具との抱き合わせ商売で大評判になっていたからである。白蛾の占法は隨貞のものより簡単であったため、白蛾の古易流は既に江戸市中にも流行していたと思われる。 右の点に関して補足しなければならないのは、架蔵の『卜筮早考』が、文化十年(一八一三)の星文堂(藤屋弥兵衛)の再訂版であることである。つまり「蓍法畧式」が初版の段階にはなかった可能性があるのではないかと危惧しているのである。なぜかと言えば、星文堂にはもともと白蛾の『古易一家言』にあった「取蓍の傳」を、後に『易学小筌』の第三版(増補版)以降に勝手に転載している例があるからなのである。同様な事が星文堂版『卜筮早考』にもあり得るのではないか。この点は重要なので、ぜひとも初版を探して確認を急ぎたいと思う。
|