| 1985年5月 イギリス−ロンドン スイス海外出張のついでに行った、俺にとっては始めての海外旅行。それはスイス、イギリス、フランス、そして最後はシンガポール経由だったね。初めてだから常時とても緊張していた気がする。 先ずは軽い話しから。俺はスイスからイギリス ロンドンに移動した。ここで翌日家内と待ち合わせることになっていた。ロンドン市街のリージェント パークに程近い、4星クラスの立派なホテルだ。会社のスイス人が俺の始めての海外旅行の安全の為に、こんな良いホテルを紹介してくれた。俺達には上等過ぎる。夕方ホテルに到着するや、日が暮れる前に俺は先ずホテルの周りを見て回る事にした。ここは市街からチョッと離れているせいか、人通りの少ない静かな様子だった。実はあの頃は(今はもう、そんなことはないだろう)水曜日の午後は殆どの商店が閉まってしまうのだ。小一時間歩き回り、日が暮れて来たのでホテルに帰ることにした。自分の方向感覚に従いながら歩いたが見覚えのあるホテルの景色にめぐり合えない。誰か人が通ったら尋ねてみるか。いや待てよ、ホテルの名前は何だったっけ。覚えていない。まさかこんな事態になるとは、思わなかったもんな。ポケットにもホテルの名前や電話番号を書いたものなど何もない。店も閉まっているし、人にも聞けない。でも聞くとしたら、「私は何と言う名前のホテルに泊まっているのですか?」。そんな事聞けるか!俺はあっせってさらに歩き続けた。しかししばらくしたら運良く、何となく見覚えのある場所に着いた。「そうだ、これが俺の泊まるはずのホテルだ」。周りはトップリ日が暮れて、ホテルの明かりが眩しかったよ。神様有難う! |
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1985年5月 フランス−パリ 上に続き、これはフランス パリでのお話し。 朝早くコンコルド広場からルーブル美術館に向かっていた時だったね。前から8人程の男女の子供の集団がこちらに向かってやってきたよ。一人の男の子が新聞を俺の胸の辺りに向けて近付いて来て、何が言っていたね。多分「新聞を買って・・・」だろうね。あまりこちらに近付いて来るので、「N.o・・・・・!」と言いながら離れ様としながら、家内に「財布に気お付けろ!」って叫んでいたよ。その後子供達はワイワイ騒ぎながら離れて行ったよ。何もなく安心した俺だが、「ハァ?」と我に返り自分のジャケットの胸の裏ポケットに手を当てたんだよ。バカだよな。胸のポケットに財布を入れる奴がいるかよ!日本人だよな! その通り上手い事財布やられていたよ。アイツ等常習スリのジプシー(「差別語」らしいけど、お許しを)のガキ共だ。コノヤロー 覚えてろよ! 焦ったよ。現金はそんなに入っていなかったけど、クレジットカードが入っていたからね。まさに初めての海外旅行をする日本人。やっと公衆電話を探し、カード会社に電話したよ。あちらも慣れたもので、「警察に行って「盗難届」をもらって下さい。」と言ったかな。警察を探そうとしたんだけど、警察なんかそんな簡単に見つかるかよ!。やっと中国系の店のおじさんに事情を話したら親切に警察の場所を教えてくれたよ。行った先は悪名高きフランスの警察署だ。受付にいた無愛想な女に英語で言ったら、「○X△X・・・ワカンネー!!」と無視だ。俺はそれでも粘ったよ。そしたら近くにいた男のポリスが嫌々事情を聞いてくれて、やっと盗難届らしき物を作ってくれたよ。でも、日本の警察みたいに、犯人を捜す振りすらしないんだね。「盗られたお前が悪いんだ。」って顔に書いてあったよな。でもこれで一安心。 その後はどうしたかって? 文無しだ(勿論ホテルにはお金があったけど)。昼飯も食ってない。ただ、運良くポケットに小銭がチョッと在ったんだ。だからパン屋で小さな菓子パンを1つ買って二人で分けて食べたよ。市内観光もやめてトボトボとホテルに歩いて帰ってんだよ。翌日は朝から市内観光を続けたよ。 フランスなんか2度と行くものか!(実際その後行ってません)。 |
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1989年12月 イタリアーミラノ ミラノの駅前でエアーポートバスを降りる時だったと思う。乗客は殆どが西洋人で日本人は俺達2人だけだった。バスを降りる際、バスの扉の外を見ると、またジプシーのグループが出口に集まっている。奴等にとっては俺達日本人は「いい鴨だ!」。俺達をバッグを抑えながら、扉から出ると奴等が案の定俺達を取り巻く。俺達も奴等の目的は分かっている。同じ轍を2度踏む程バカじゃねーよ。奴等を掻き分け遠ざかった。コノヤロー!他にすることはないのか! |
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1989年12月 ギリシャーアテネ エーゲ海クルーズツアーで小さな島、ミコノス島だったかあるいはエギナ島だったかな。ここの土産物屋で素敵な銀細工の蝶のブローチを発見。気に入ったので買うことにした。当然値切ってやったが金額はお互い同意したんだ。クレジットカードで支払うことにした。ところが、店主がカード支払用紙に記入している金額欄を何気なく見ていた家内が、値切る前の金額を書いているのに気が付いた。で思わず「エッツ!元の金額を書いている!」と日本語で言う。俺もそれに気付き店主に怒鳴ってやった。フェアーじゃないぜ。ごまかそうとする事が許せねぇ。俺達は気分が悪いので買わず店を出てやったぜ。店主は店の前まで出て来て何か怒鳴っていたな。お前が悪いんだ!まだ支払用紙にカードナンバーを記入していな時点で気付いたので、オッサンに騙されずに済んだよ。危うく金額を確認せずにサインさせられる所だったよ。コノヤロー!いくら「銀細工屋」でも「騙しの小細工」までするんじゃーねーぞ。洒落言ってる場合か? |
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1990年7月 タイーバンコック それはバンコックの寺院を見学するために家内と二人で街を歩いていた時だったね。タイ人の一人の学生風の男が近付いて来て、不自由そうな英語で言ったね。「私はタマサート大学の学生です。今英語の勉強をしています。」 色々話しをしているうちに、「良かったらバンコックの寺院を案内しましょうか。」 彼(学生としておこう)は良い子に思えたし、信用できそうだったので、つい気を許したのが悪かった。チャオプラヤー川をボートで案内し、素人では行けない様な寺院や公園に案内してくれた。今考えると、こちらもどんどん気を許していった様な気がする。 2時間ほどのボートでの観光も、終わりに近付いた。ところが何故かボートは川の真ん中に止まった。周りに他のボートが見当たらない。ボートの船頭(確か若かったな)急に我々にタイ語で何か言っていた。その学生に「彼は何を言っているのか。」と尋ねると、「金をよこせ!」と言っていると言う。「しまった!」と思った時は、それこそ「後の祭りだ」。学生を通して船頭と色々話しをしたが埒が明かない。しまいにその学生が「自分の腕時計を船頭に渡すから、あんたはお金を渡して欲しい。」だって。川の中央で脅されたらお金よりも身の危険を感じたから、財布からお金を出そうとしたら、その学生は俺の財布を取って、自分の腕時計と共に船頭に渡してしまった。それを受け取るとボートを近くの岸に着けた。俺達も学生もそこでボート降りた。そこがどこかはわからなかったが、そこから歩いてホテルに帰ることにした。学生は俺達に親切そうに尋ねたね。「これからどうする?」。「歩いて帰るしかねーだろ!」俺は興奮して答えた。奴は俺達とは違う方向へ歩いて帰ると言った。俺達は歩きながら色々と冷静に考えた。財布の中には確か2千円チョッと入っていたかな。奴は本当に「良い奴、それとも船頭の仲間か?だとすると、上手い芝居を時間を掛けてうったのかなぁ。・・・・」 俺達は意気消沈してホテルへ戻った。部屋で持って来ていたガイドブック、「地球の歩き方−やすらかなる国 タイ」を取り出しゆっくり読んでいると、「あー あった!!」57ページ。「うますぎる話には御用心!」 「彼等の巧妙なやり方を分析してみよう。」だって?。「ある時は高校教師であり、またある時はタマサート大学生。すぐに親しくなろうとする。 ボートに乗せられる。 自分もお金を払う。」 全く一緒だ!コノヤロー。 同じ手口を度々使うな。既に本にも出てるだろう。 先に「地球の・・・」を読まない奴が悪いんだ! 反省。でも命はとられなかったよ。 |
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1992年6月 カナダートロント バンクーバーからトロントに行った時の話しだ。トロント空港には夕方遅く着いた。トロントには俺の会社の後輩が長期海外研修で来ている所だった。俺達が行くことは連絡していたが、空港に迎えん来てくれるとは思わなかった。彼の車でホテルに着く。ホテルの14階の部屋に着くや否や、会社の事など夜12時過ぎまで話し込んでしまった。彼の帰った後、少々して眠りについた。疲れていたので直ぐに寝てしまったようだ。 それは確か2時過ぎ頃だったと思う。突然サイレンが聞こえる。寝ぼけているので十分理解できていない。しかし、サイレンは止まない。「アッ!火災報知機の音だ!」。家内も目を覚ましたようだ。一瞬どうすべきか考えた。いつもならホテルに着いたら必ず、非常口のある方向を確認するが、今回はお客さんが居たのでしていない。ここは14階だ、そう簡単には降りられないだろう。サイレンは止まらない。俺達は危険を感じてドアをソット開けて廊下を眺める。近くの部屋の人たちも、ドアを開けて覗いている人、廊下に出てきている人。俺達もそのまま廊下に出た。確か部屋の前がエレベーターだったと思う。勿論エレベーターを使う人はいない。非常口から階下へ逃げる人もいなっかたようだ。目に映る客は全部西洋人のようだ。構内アナウンスもない。その内やっとサイレンが止まった。皆ブツブツ言いながら各部屋に戻っていった。その後、構内アナウンスがあったような気もするが、興奮していて良く覚えていない。いずれにしても誤報の様だ。俺達の命が掛かっているのだ。コノヤロー!死ぬ前の早い段階でチャンとアナウンスしろ!皆さん、ホテルに着いたら直ぐに非常口を確かめよう。 |
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1995年4月 フィリピン―マニラ 初めてのフィリピンだ。街を歩くと各店の前にガードマンが座っている。良く見ると皆腰にピストルを付けている。俺達には信じられない。ところで、あれはマニラ空港を出国する時だった。あの時で2,000円の空港税が必要だった。長い列が出来ている。殆どが西洋人のようだ。俺達も出国カウンターの列に正しく並んでいた。隣のブースは、やっていないようだが、数人の係官が暇そうにたむろしている。その内の一人が俺達に向かって手招きしている。俺達は何も悪い事はしていない、でも素直な日本人、係官に呼ばれたら従うべきだろう。係官の所へ行くと「パスポートと空港税を出せ、手続きをするから」と、おっしゃる。おっしゃる通り係官にパスポートと空港税4,000円を渡すと奴はカウンターの方へ行った。俺は「ヤバイナ!」と思ったが仕方がないので、係官を見失わない様に目で追っていた。すると他の係官が俺に黙って手のひらを出し、金を出すように要求してきた。 ふざけんな!コノヤロー!俺は英語で大きい声で言ってやったよ。「俺はあんたにそうしてくれる様に頼んじゃーいねーよ」。先程の列に並んでいた西洋人達が何事かと、こちらを見つめている。その係官は、それ以上要求はしなかった。でも俺達の心配は、さっきの係官が戻って来るかどうかだ。数分後、奴は処理を済ませてパスポートとレシートを持って戻って来て、何もなかった様に俺に返して通過するようジェスチャーをした。お前等、何者だ。恥ずかしくねーのか。きっと同じ手口で日本人を騙して賄賂を受け取ってきたんだな。おあいにく様、俺にはそうはさせめーぞ!奴らはどこかの国の政治家のように、今でもやっているのかな。 |
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1998年9月 スペイン―バルセロナ・マドリード これもスイス海外出張の帰りに休暇を取って、ぜひ行きたかったスペインへ、特にオリンピック後のバルセロナへ。バルセロナは有名な建造物は多いし、穏やかだったし、問題は殆どなかったよ。でもこの旅行では、全部で確か6件ものトラブルに遭遇したが、その内2件は今は思い出せない。 (その1) バルセロナから列車でマドリードへと向かったんだ。バルセロナのホームで列車に乗る。チャンと列を作っての乗車だ。家内の後ろに俺が並ぶ。家内はあの頃確か流行っていたリュック(モダンな名前は何と言ったけ?)を背負っていたよ。突然俺の前に女が入って来ていた。女の手がそのリュックの蓋から入ろうとしている。俺は一瞬、訳がわからなくなったんだ。次の瞬間、俺は我に返り声を上げた。得意の「コノヤロー!」と日本語で叫んでいた。誰も気付かないのか、今迄通り普通に列車に乗ろうとしていた。女はもはやそこには居ない。やっぱりあれは女スリだったんだ。連れが後ろに居るのを知りながらやるとは、大胆な女だな。さすがプロ。「褒めてる場合か?」 (その2) ここからはマドリードでの出来事。マドリードの地下鉄のホーム。俺達は次の地下鉄を待っていた。ぜひホームに地下鉄が入るのをカメラに収めたかった。地下鉄がホームに入る、俺はカメラのシャッターを切る。その時変なオッサンがカメラの前を通る。写ったのは地下鉄と俺の間をカメラ目線で通過する南米系のオッサンの写真だ。あの写真どうしたかな。誰だ、あいつは! 俺達は列に並び地下鉄に乗る。誰かが無理やりに押し込んでくる。東京の地下鉄か?俺達が乗る時、誰かがコインを地下鉄の床に落とした。一人のオッサンが俺を無理やり押し退けてそれを拾おうとする。するとドアが閉まりかける。オッサンは慌てて地下鉄を降りたようだった。俺はそのコインを拾った。確かその頃のドイツの10と刻まれた安い茶色のコインだった。オッサンは2、,3人のグループの一人だったのだ。地下鉄に乗る前から俺達変な日本人を狙っていて、こちらも過去の苦い経験から、薄々気が付いていたのだ。オッサン達はグルになってわざとコインを転がして俺達が気を反らせた隙に、財布を狙おうとしたのだ。どうせやるならもっと上手くやれ コノヤロー! ところで、俺は今でも記念(?)に、その時のコインを保管している。「オッサンのコインなら、俺が持っているからな、いつでも取りに来いよ。待ってるぜ!」 (その3) これもマドリードの街の歩道で。歩道は一部工事中で片側しか通れなかった。俺が先に行き家内が後に続いた。前からも狭い片側を通り抜けようとする男達と擦れ違った。男のグループだったようだ。すれ違いざま、グループの一人が俺の着ている薄めのカーデガンにタバコの火を付けた。俺は殆ど気が付かなかったが家内は当然見ていた。そう、日本でも一時流行った、すれ違いざまに服にマヨネーズやケッチャップを付けて気を反らせる手口の海外版だ。服は少々焦げていたが、財布も無事でなによりだ。やる事が荒手だね。「コノヤロー、ふざけるな!その後、日本でも流行ったじゃネーか!」 (その4) これはマドリードのマヨール広場への道すがらだった気がする。歩道を歩いていると、前から中年の女が二人。ジプシー風だ。外国語の新聞持って歩いてくるよ。気を付けよう。一人が俺の直ぐ前に来て、新聞を俺の胸のあたりに付けながら、また何か言っているよ。お決まりのコースだ。俺は日本語で「そんなのいらねーよ! そんなの読めるか!」と言いながら横へ逃げた。女達は執拗に俺に付いて来る。女達はやっと俺達の進行方向に歩き去ろうとしている。俺はいつもの通り「ウルセー、コノヤロー!!」と叫ぶと、一人の女がこちらを振り向き様、「ペッツ!」唾を吐いた。危ない所だった。でも今は俺達はこれに関してはベテランだぞー。 どうもラテン系の国々の人々はオープンでなれなれしいが危険が多いぞ。気を付けよう。 ついでに、もうひとつ。確かこれもマドリードだったと思うよ。日中だったが、街を散策してホテルに帰り、風呂に入っていたんだ。俺が先に風呂から出ると、ドアのノブの辺りで何やら「ガチャガチャ。音がするんだ」。ホテルの部屋に居るときは必ず鍵を掛ける習慣がついている。俺は未だ生まれたままの姿だから、直ぐにドアに出るわけにも行かない。その内、突然ドアが開いたんだ。中年の西洋人のおばさんが無意識にこちらを見て、何やらブツブツ言いながらドアを閉めたよ。俺は履く物も履かずに呆気に取られていたよ。後で色々考えると、多分あれは掃除のおばちゃんだったんだろうな。でも、ベッドメイキングはもう既に終わっていたよ。もしあれがホテルの客だったら、危険だね。この頃は未だ、ホテルの鍵はカード式ではなかったからね。他の部屋の鍵でドアが開いたとしたら・・・。「ゾー!」 |
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2005年4月 中国―北京・上海 (その1) これは危険情報ではないけどね。あれは丁度北京・上海で「反日行動」があり、北京の日本大使館が投石等にあった後だった。個人で行くのは危険のため、俺達は久しぶりに阪○交通社の北京・上海のツアーに参加したんだよ。勿論北京でも上海でも、警察の車が多く走っていたけど全く危険はなかったよ。ツアーを申し込む時に、「上海雑技団の見学」と「蘇州バス旅行で川を船行く」の2つのオプション旅行に参加するかどうか事前に予約する必要があったんだ。俺達はどちらにも興味がなかったんでオプション不参加で申し込んでおいたのさ。良いだろう、個人の勝手だ。 上海の街中観光のバスの中で、現地ガイドが言ったよ。「皆さん今晩、雑技団の曲芸を見に行くと思いますが、もしどうしても行かない人は、手お挙げて下さい。」 申し込み時点で事前に「行かないと言ったのに、行かない人は手を挙げろ」だと?「事前に申し込んだ人以外に、行く人がいれば手お挙げろだろうが。無駄なことをするな。」 俺はムッとしたが我慢して手を挙げたよ。俺等は幼稚園生か!半分位が手お挙げたかな。 翌日、蘇州へのオプションツアーの高速道路のバスの中でまた現地ガイドがのたまったぞ。「蘇州では全員に船に乗ってもらいます。もし、どうしても行かない人がいるなら、バスが到着した所で、皆が帰って来るまで待ってもらいます。行かない人は手を挙げてもらいます。」 おいオッサン!おかしいんじゃねーのかよ。俺はついに切れたぞ!俺はバスの中で大声でガイドに言ったよ。「ガイドさん! おかしんじゃないのかね。旅行の前に日本で既に参加・不参加の申し込みをしたんだぜ。なぜこの場で行かない人を再度聞くんだよ。もし聞くなら、参加する人、あるいは追加で参加する人は手を挙げて下さいだろーが。」 ムッとしたガイドが俺の所に近付いて来たよ。俺達はお互いに喧嘩ごしで揉めたよ。ガイドもカッカしてたが、北京から付いて来ていた中国人のガイドが現地ガイドと話しをして何とか収まったよ。当然同じような不満を述べる客も何組かいたよ。コノヤロー!これが中国人のやり方かよ。 当然ながら、参加しないグループが何組かいたし、船に乗った人たちを待つために結構待たされたよ(ま、これは仕方がないが)。船に乗った人が帰ってきて、「水は臭いし、汚いし、行かない方が良かったよ。」と感想を述べていたけどね。道路から川を見ても、濁って緑色してるし、川周辺の家の窓からはぶら下がった洗濯物が見えるし。 旅行の後に阪○交通社から渡された○X式のアンケートに、俺は○Xのみならず、別紙一枚に旅行中の上記の件を詳しく書き、「こうゆう事が現地で行われているのを知ってるか、旅行会社としてどう思うか」と書いて添付して出してやったよ。その後、阪○交通社からは一切回答はなかったけどね。以前に何回か阪○交通社のツアーを申し込みしたけど、あれ以来、あそこの広告も見ないし、勿論申し込みもしてないよ。安いだけじゃなくて、中身も一流の旅行会社になって下さいね。 (その2) 上記中国ツアーで上海の豫園商城を観光している時の話しだ。ここは旅行会社のガイドブックにも良く書いてある事だか、兎も角スリが多いそうだ。俺達が現地ガイドに連れられて園内を回っている。、東京ラッシュアワーの駅の様な人だかり。スリ達にはもって来いの場所である。俺達観光客は必死でガイドの後を追う。ある場所にガイドが止まり説明を始める。ここは有名な場所なのだろう、他のツアーの団体もあちらこちらに塊り、ガイドが大きな声を張り上げて説明をしている。俺達は後の方から付いて行ったから、俺達のグループの一番外枠に居るのでガイドの声があまりよく聞こえない。ところが、この一番外枠の中に現地人らしき中国人が3人程俺達と一緒にガイドの話を聞いている(振りをしている)。俺は思った。「おかしいな、いつの間にこんな男達が俺達のグループに加わったのかな」、「ハハーン、怪しいな!」。俺はとっさに、そっとこの3人の男の後ろへ回り、ガイドの話を聞く振りをしながら奴等の行動をちらちら横目で見ていた。しばらくして奴等も俺の行動に気が付いたのか、それとも俺の怪しい振舞いに、奴等がすられるのを心配したのか・・・。奴等は商売も出来ずにその場から群集の流れの中に消えて行った。おいおい、もう少しで俺も奴等にやられる所だったかもしれねーな。 ところで俺は思ったんだが、現地ガイドは奴等の方を向いて喋っているのだし、プロなんだろうから、変な中国人らしき男達が俺達と一緒に話を聞いていたら、怪しいと気が付くだろう。まして、北京から来た別のガイドも居るんだから、こんな場合俺達観光客と一緒にガイドの説明を聞いていねーで、ツアー客の安全を考えて後から見守る位のことは出来ねーのかよ。コノヤロー!まさか見ぬ振りをして、あいつ等の仕事を助けてんじゃねーだろうな。ボーとしてねーで、機転を利かせろ!。 |
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2005年4月 オーストリア―インスブルック 俺達はオーストリア・ユーレイル・パスを使い、ザルツブルグ〜ザルツカン・マーグート〜インスブルック〜ウイーンを鉄道とバスで回わる旅をしていた。インスブルックに宿泊している時にハイキングを楽しむ為に冬場はスキー場で有名なザンクト・アントンに行く事にした。朝ホテルを出てインスブルックの駅に行った。ここから西のスイス方面のブレゲンツを目指す列車に乗って行く筈だった。ところが駅に着くと何やらアナウンスしている。ドイツ語次は英語で喋っている。良く聞いていると、何々「スイス方面行き列車は事故の為途中の駅までしか行かない。そこから先は振り替えバスに乗り換えとなっています。」だと?「今日に限ってトラブルなんて・・・。」仕方が無い、列車を待つが時間を過ぎても一向に列車はホームに入って来ない。ホームは次第に混雑してくる。遅れてやっと特急列車が入ってくる。俺達も何とか座席を確保。でも直ぐにこの列車の終着駅に近付く。女の車掌が検札をかねて回って来た。俺達のパスを見ながら話し出した。「この列車は次の駅で停車する。そこからは振替バスに乗り換えること。列車を降りたら左の方(Left)に並んでいるバスに乗りなさい。」外国人である俺達に親切に説明してくれた。「OK, Thank you.」おれは答えた。間もなく列車は次の駅に到着する。乗客は一斉にホームに降り立つ。ホームの反対側には進行方向に向かって10以上のバスが並んで待っている。俺は言われた通り左に行こうとするが殆ど全ての乗客が右側進行方向に流れて行く。左に行く人なんか一人もいない様だった。不安になる。「確かLeftと聞いたが、俺の英語のヒアリングは問題ありか?仕方なく俺達も人々の流れに従って右の方(Right)へ歩いて行く。バスの行き先表示を見るが、どのバスもオーストリアとスイスの国境にある「ブレゲンツ(Bregenz)」と書いてある。「これで良いのだろう。」俺達はバスの座席を確保する。バスは発車すると間もなく高速道路に入って益々スピードを上げる。でも何となく心配だ。目的駅ザンクト・アントン(St. Anton)に近付いてもバスは高速道路を降りないのだ。暫くすると道路脇に「St. Anton」の標識が見え、ザンクト・アントンの街が高速道路沿いに見えるけどバスは平気で走って行く。「エエー!このバスは急行なんだ。だから車掌さんは進行方向左側に並んだ鈍行バスを指示してくれたんだ。」時既に遅し。「次のバス停は何処だろう?このままスイスとの国境駅、ブレゲンツ迄ノンストップ?今日は列車事故だから、そこからそのまま折り返しても、今日中には俺達の宿泊しているインスブルックのホテルまで帰れないのでは?」 不安は頂点に達する。だが、既に諦めていた頃、幸運にもバスは途中の駅に立ち寄ってくれた。ホッとしてバスを降りる。当然そこから今度は反対方向行きバスを見付け、それに乗って、その日中に無事インスブルックへ帰ることが出来た。でも本来の目的駅ザンクト・アントンには行く事が出来なかったよ。この際俺は誰に「コノヤロー!」って叫べばいいんだ?悔しいから帰りのバスの写真だけ写しておいたよ。意味無いじゃん。 |
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2006年2月 タイ―バンコック 俺達はバイヨークスカイ ホテルに泊まっていた。ホテルを出る時大きな荷物があったので、最寄のBTSスカイトレインのパヤ・タイ駅までタクシーに乗ろうとしたんだが、ホテルのエントランスが混んでいてドア ボーイの指示に従って並んでいると中々順番が来ない。ふと見ると他のタクシーの運ちゃんがこっちへ来いと呼んでいる。タクシーの色がピンク色だった。チョッと怪しいな!だが無意識にそのタクシーに乗ってしまった。これがいけなかった。俺が事前に地図で調べたのでは、スカトレインのガード下を超えた直ぐ左がパヤ・タイ駅である。しかし、タクシーはガードの上を越えてさらに直進する。さらに進んで高速道路の所まで行き、右折さらに右折して俺達が行こうとするのとは反対側に遠い、ヴィクトリー・モニュメント駅で降ろされた。コノヤローやりあがったな!俺も怒り心頭に達する。車を降りてトランクから荷物を取ってから、俺は英語で言ったよ。「ここはパヤ・タイ駅じゃあねーだろ。」俺は「パヤ・タイ駅。と言っただろ!」。運チャン曰く「ここがパヤ・タイ駅だ。」その後俺達は同じ事をお互いに繰り返して揉めたよ。最後には運チャンも頭に来て怒り出したので、俺もここが引き時と思い、悔しいがメーター通りの金を払ってやった。駅の階段を上がり駅名を見たら、やっぱり「ヴィクトリー・モニュメント駅」となっていた。金額の問題じゃーねーんだよ。「雲助運チャンめ!そこまで細かい細工をして金を稼ぎたいか!コノヤロー日本人を舐めるなよ!」 |
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2006年9月 マレーシア―ランカウイ島 我々にとって始めてのランカウイ島の旅。先ずは島の西海岸パンタイ チュナンに5泊した後、島のほぼ中心辺りにあるプラウと言う田舎の村に移動し、カップントック セニック リゾートという宿泊施設に3泊した。こんな所に宿泊する日本人は殆ど居ないと思うが、兎も角敷地は広いんだ。まさに広い森の中なのだ。その中に沢山の立派な藁葺き屋根のバンガローがあちらこちらに点在している。だから、フロントのある建物とか、レストランのある建物に行くには、坂道を登ったり下りたりして15-20分位歩くか、あるいはフロントに電話して車を頼まないと移動困難なのだ。場所のせいか季節のせいか、あるいは丁度イスラムのラマダン(断食)の期間中だからか、我々以外に宿泊客は常連らしき西洋人の小説家タイプのおじいさん一人しか居ないのである。それ以外は全長一メートル以上もある様な「オオトカゲ」が木に登っているくらいだ。 話は宿泊2日目の夜の事だ。突然大雨と強風で大荒れの天気となった。バンガローは昔の日本の田舎の家の様にブットイ柱を使っているので揺れたりはしないが、周りの大木が「ゴーゴー」と音を立てて揺れ動いている。辺りは真っ暗だ。もし何かあっても近くに助けを求める事も出来ない。それは真夜中に突然起こった。近くで「ドーン」という音が聞こえた。雨や風の音に掻き消されて聞きにくくなっているにも拘らず、物凄い音だったのだ。ただ我々のバンガローで起こった音でないことだけは確認できた。夜が明けるのを待つしかない。本当に怖い夜だった。幸い翌朝は再びとても良い天気になっていた。昨日の音が気になり朝食後、近くを歩いてみると、2−3人のスタッフ達が集まっているバンガローがあった。そのバンガローの屋根の上に、近くの太さ直径1メートルもあろう大木が根こそぎ倒れ掛かり、屋根の一部から入口に掛けて大きく潰れていた。スタッフ達によれば昨日の風で倒れたのだと言う。「どうやって大木を取り除くか思案中だ」と言う。恐ろしい事である。我がバンガローでなくて良かったよ。その日は一日中電ノコの音がしてたが、夕方には先程のバンガローの近くに5メートル毎位に切断された大木が何本も並べてあったよ。 |
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2008年6月 インドネシアーバリ島ウブド (その1) 最近の話しだ。俺達にとってはバリ島は3度目だ。特にウブドは穏やかで昔の日本を思い出させるノスタルジックな場所だ。みんな親切だし、日本人に憧れ、日本人には特に友好的だ。だから、騙されると、なおさら悔しいよ 俺達はモンキーフォレストの東にある日本人にも人気のあるアグン ラカ バンガロウに1週間ほど宿泊していたんだ。ここはとても良かったよ。ところで、ある人がホームページに書いていたんだが、ウブドでの両替は、モンキーフォレスト通りのサッカー場の近くにある両替商が信用できるし、目の前で紙幣を一枚一枚数えてくれる。俺達も必ずここで両替する事に決めていたんだ。 ある日、ホテルからウブドの街へ歩いているとホテルの直ぐ近くに両替所があったんだ。為替レートを見ると交換レートが良いんだよ。先程言った両替商まではチョッと遠いので、決心とは裏腹に、この日はここで両替することにしたんだ。日本円で2万円両替したんだ。ご存知の通り 1円=約90インドネシア ルピア程なんだ。だから2万円両替すると一番金額の大きい100,000ルピア紙幣でも、約18枚も来るんだ。両替所のオヤジが机の引出しから紙幣出してを数える、そして俺に渡す。俺も騙されないように数える。紙幣の枚数は確かに正しい。でも、オヤジは俺が数えている最中に、掛かって来ていない机の上の受話器を取って電話しだすんだ。後で考えたらチョッと臭い(芝居だ)。俺がオヤジの目の前で数え始めたので、チョッと焦って電話掛け出したんだな。日本人の感覚では客が居る前でワザワザ電話掛けないよなー。俺は何も疑わずに、一応「Thank you!」と言って店を出たんだ。両替した紙幣の10枚をホテルの金庫に納めておいたんだ。 後日、金庫から全ての100,000ルピア紙幣を出して。所持金全額を勘定すると90,000ルピア程足りないんだ。金庫にあった100,000ルピア紙幣の束の中に1枚だけ10,000ルピア紙幣があるのさ。紙幣の色は殆ど一緒。10万ルピア紙幣は暗い赤色、1万ルピアはチョッと紫っぽいんだよ。日本紙幣もそうだが、金額の数字のゼロが多いのに3桁毎にカンマがないんだよ。だから紙幣の色もほぼ同じ、数字だけ見ても殆ど見分けが付かないし、数える時は数字ははっきり見ないし・・・。オッサンうまい事を考えたものだ。コノヤロー!日本人と見るや、引出しのある部分から1万ルピアの入った10万ルピア札束を取り出すんだなー。誤魔化す金額は少ないが、やる事が女々しいぞ!アグンラカ ホテルに宿泊する若い(若くなくても)日本人女性が多いそうだが、絶対 騙されるなよ。 (その2) バリ島からの帰り、バリの空港で持ち帰っても困るので、残った紙幣約240,000ルピアを日本円に交換する事にした。空港ロビーには確か3件の交換窓口があった。先ずは交換為替レートを見て、大体日本円で幾らになるか計算してみる。約2,700円だ。一番左のブースへ行くと中にオッサンが2人いた。窓口で紙幣を渡し交換を頼む。オッサンが紙幣を数え、直ぐに計算機に入れ、「2,5XX円だ」と言う。俺は思わず「エッツ!」と叫ぶ。オッサンはいやいや再度やり直す。答えは一緒だと言う。俺は直ぐにカウンターの奥に手を伸ばし、渡した紙幣全部を両手で自分の方へかき集める。これはオッサンが紙幣をカウンターの奥へわざと落とさないためだ。俺は言った。「オイ、よく見とけよ!」。今度は俺が紙幣を一枚づつ声を出して数え始めた。「One, two, three・・・・・」。オッサンはついに諦めて俺の言う通りの金額の円貨を出したよ。 差額はたいした金額ではないのは知っている。でもな、コノヤロー!お前もチャンとした仕事に就いているんだろう。日本人と見ると直ぐに「細かい悪さ」を働こうとする奴が許せねんだ。きっと沢山の日本人が騙されたのにも気が付かず、オッサン達を喜ばせているんだろうな。 |
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2009年5月 オーストリア 最近はここに追加できる話題が無いんだ。勿論今迄通り旅は続けているが、行く場所の問題か、年のせいで危険な場所を避けているのか分からない。これは最新の話しだ。俺達にとってはオーストリアは2度目だ。オーストリアはスイス同様「観光優先の国」、景色も良いし、おまけにとても安全だ。だから今回は危険情報ではない。個人旅行者の参考になれば有難い。 この旅では、人との触れ合いを求めて、出来るだけペンションやゲストハウスに宿泊するようにした。これはグラーツの街にあるペンションに宿泊している時の話だ。このペンションをチェックインした時、オーナーのお姉さん(若いおばさん)から当然鍵が渡され、「この鍵はペンションの建物に入る扉の鍵でもあり、各個人の部屋の鍵でもある」と告げられた。このシステムはザルツブルグのザンクト・ヴォルフガングのペンションでも同じだったが、あまり気にしなかった。 我々が部屋で一休みしてる時、部屋の鍵穴の所で「ガチャガチャ」音がする。「掃除のおばちゃんかな?」とその時、扉が開いて女性が部屋に入ろうとするが、我々を見て慌てて扉を閉めて遠ざかって行く。俺は扉を開けて、階段を降りて行く若い女性に英語で声を掛けた。「部屋の掃除ですか?」女性は手を左右に振りながら階段を下りて行った。我々は後で色々考えたのだが、多分彼女は一階下の部屋の宿泊客で、階を間違えて自分の部屋に入ろうとしたのだろう。ただ、全ての宿泊客がペンションに入る扉を自分で開けられるように、各部屋の鍵は皆一緒なのかもしれない。と言う事は・・・・宿泊客は誰でも他人の部屋に簡単に入れるということね。でも今回は裸じゃなくて良かったよ。ペンションには室内金庫が無い事が多いので「気を付けないとね」と言う事だ。だから、今回はコノヤローは無し。(この話はこのホームページの「オーストリアの旅」にも書いている。) |
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2014年5月 オーストリア・ドイツ これは家内とオーストリア航空を使い成田〜ウイーン〜インスブルック〜ドイツ・ミュンヘン〜ウイーンへの旅で。それはウイーンの空港からオーストリア航空に搭乗して成田空港へ戻る機内での話である。飛行機は揺れもなく、穏やかに飛行していた。成田へ帰る機体のため乗客の殆どが日本人客と思われ、とても静かである。離陸してから5〜6時間たっていたと思う。旅の疲れから殆どの人が眠りにつきたくなる時間帯でもある。そんな時我々の座席の後ろの方から突然大きな声で「ギヤー!!」と男の悲鳴のような声が響いた。直ぐに機内乗務員たちが慌てて機内の後ろの方へ走っていくのが見えた。間もなくして機内アナウンスがあり、「乗客に急患が出たので、医療関係の人が居たら乗務員に連絡して欲しい。」と伝えた。あちらこちらで乗客達の不安そうな話し声が聞こえる。しばらくして俺は座席前のディスプレイの「飛行マップの画面」(離陸空港から到着予定空港間と当機の位置示す画面)を見ると、到着空港が成田空港からアフリカのケープタウン辺りの空港に代わっているのに気が付いた。「きっと近くの空港に緊急着陸しようとしているな」と感じた。またしばらくすると機長から英語でのアナウンスがあった。「当機に急患が出たので、最寄りのロシア軍事基地の空港に緊急着陸する。」との内容だった。「ロシア!」。その後機体は上空で何回か旋回した後で軍地基地の空港に緊急着陸した。機内乗務員の緊張が高まったのを感じた。機内の窓側の乗客の数人が、窓から空港の写真を撮り始めた。乗務員が慌てて駆け付け「ノー カメラ! ノー フォト!」と大声で注意する。そうさ、ここはロシアの軍事基地、写真を撮るのが見つかったらヤバい・・・・・。数十分後、機体のドアが開き、3〜4人の大柄の軍人達が乗り込んできた。緊張した機内を先頭の小太りのボス的オジサンが、我々を落ち着かせるせるためか笑顔で何か喋りながら俺達の席の脇を通り後方の席に向かう。しばらくしてこの男達、乗務員達が、病人らしき人を抱えながら機内の外へ出て行く。その後ろには奥さんらしき女性、ツアーの添乗員らしき女性が続いて機内の外へ下りたようだった。多分病人と思われる人はツアー客だったんだろう。脳溢血なのかな?その後機内は沈黙が続く、乗務員たちは飲み物を配りだした。落ち着かせるため?しばらくこんな状態が続く。続いて機長らしき人からのアナウンスがある。「今、離陸の許可を待っている。それが済み次第、離陸するのでしばらくそのままで待つように・・・。」緊急着陸してから約3時間過ぎごろ、やっと空軍基地空港を離陸することができた。いずれにしても遅ればせながら当機は無事成田空港に着陸することができたよ。あの病人の男性はその後どうしたのだろう。どうやってロシアを離れて日本に帰って来たのだろう。あの人達はツアー客だから、添乗員さんの助けを借りて無事帰国しただろう。俺達みたいに個人旅行の乗客が、同じ様な状態に置かれたら、どうなるんだろう。ロシアから日本へどうやって帰ればいいの?高齢者にはこんな危険もあるんだなぁ。今回の旅は俺達のような高齢者の個人旅行に不安さを感じさせる旅となった。今回もコノヤローは無しとしよう。 |
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| −− おまけ −− これは昔の国内旅行の際のお話だ。あれは会社の慰安旅行で愛知県の伊良湖岬にある、「伊良湖Vホテル」に宿泊した時だったと思う。俺は同室の仲間と部屋で「駄弁った(だべった)」後、男3人で寝る前に風呂に行くことになった。風呂場の近くまで来ると、風呂番のオッサンが、「あー!今男湯の掃除をしているんだ。なんなら、女湯は誰も入っていないから、そっちへ入ってもらおうか」。俺達は尋ねたよ、「いいんですか?」。「ああ、いいですよ」。俺達は、興味深々で女湯に入ったよ。しばらくして、俺が最初に風呂場から出て、更衣室の扉を開けたんだ。当然俺はさっきのオッサンが入口で見ててくれていると思うわな。だから、俺は前も隠さずスッポンポンの「振りチン状態」で扉を「ガラー」と開けたわな。すると同時に女湯入口の扉が「ガラー」と開いて、女の子3−4人が入って来たよ。当然のことに彼女等もビックリしただろうが、俺はもっとビックリしたわなー。彼女等が会社の社員だったか、それともよその人か、見ていないし、覚えていない。 オヤジー、コノヤロー!”チャンと見張りをしておけよ!」 でも、俺達がもっとゆっくりお風呂場にいたら・・・・・、と思うと今更ながら残念だ。 オヤジー!「もっとゆっくり風呂に入っていて下さい −− おまけのおまけ −− 1987〜1992年頃の初夏だったと思う。会社の忙しさが一段落したので休暇を取り、俺は一人で車でブラーと日本海若狭湾か丹後半島の方へドライブに出かけたのさ。あの辺は紺碧の海の景色が素晴らしいので、車を止めて崖の高台からビデオカメラで海に向かって撮影してたんだ。平日の日中、遊んでいる人は誰も居ないよ。一休みした後、崖の海沿いの車がすれ違えない程の細いクニャクニャ道を、のんびりと走っていたんだ。その内俺の車の後ろに白い乗用車が、ずっと付いて来ているのに気付いたんだ。バックミラーで見ると向こうも男一人。「細い道なので追い抜けないのかな?」と思ったり、「もしかして、ヤッチャンの車かな、それだったらヤバイナ!」。でも仕方が無いからそのまま運転しいてたんだ。暫くして、対向車とすれ違える程度の所に来た時、後ろの車が急に俺の車を抜いて俺の車の前にピターっと止まったのさ。「逃げたらヤバイ!」から俺も止まった。車から男が降り俺の車の方へやって来た。俺は言われる前に素直に運転席の窓を少し開けたんだ。男は内ポケットから小さい黒い物を出して、「○X警察の者です。」とか言ったよ。俺は慌てて黒い手帳を見ると確かに「京都xxxx」の金文字が見えた。奴は「運転免許証を見せてくれますか?・・・どちらから来られました?・・・お仕事は?・・・・・・」等などいわゆる職務質問だ。俺は頭の中で、道中信号機は無かったし交通違反はしてないはずだし???。しばらくして男は何も言わずに、そのまま免許証を返してくれたよ。俺は車を止められた理由を聞こうかと思ったりもしたけど、この場は黙って死んだふりしていた方が良いと判断。男は車に戻り、そのまま行ってしまったよ。話はこれで終わりだが、あの頃は拉致事件なんてニュースでも殆ど見た事も聞いた事もなかった。その後拉致問題がニュースに成り出した頃から、あの時の事を思い出しては、良い方に考えれば: 男は本物の警察官で、俺が海に向かってビデオで撮影していたのを何処かで見ていたのであろう。俺が拉致の場所を下見してビデオで撮影していたか、仲間と連絡していたのではないか等と怪しんで、付いて来ていたのであろうか。悪く考えれば: 男は偽刑事で偽警察手帳を俺に見せた。つまり奴は拉致犯の一味で、カモを狙っていた。俺の免許証の年齢を見て、「なーんだ、オッサンか。使えねーナ。」と思ったか。(刑事ドラマの見過ぎか?) もしかしたら、俺は今頃北朝鮮で日本語通訳として働いていたかもな。クワバラ、クワバラ。 |