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Ryukyukoku Matsuri Daiko Tokai Division

プロフィールプロフィール

琉球國祭り太鼓とは

沖縄の伝統芸能「エイサー」をベースに、空手や琉舞の型などを取り入れた独自の振り付けと
伝統的なエイサーで使用される沖縄の古典曲に加え、ロックやポップスを積極的に取り入れた
「創作エイサー」団体です。
1982 (昭和57)年に沖縄市の泡瀬を中心とした若者たちによって結成されて以来、沖縄県内だけでなく、県外、海外でも活動を広げ、東京国立劇場やニューヨークカーネギーホールといった大舞台をはじめ、 ヨーロッパ、オーストラリア、シンガポール、インドネシア、中国、台湾など国際的にも活躍し、沖縄が琉球と呼ばれた時代から伝わる 「万國津梁」(世界の架け橋となろう)の心意気と沖縄が大切にしてきた「迎恩」の心を世界中で打ち響かせてきました。
1998年2月には「長野オリンピック文化芸術祭」 また同年8月にはアルゼンチンにて開催された「沖縄県人南米移住90周年記念祭」、 2005年8月には「愛知万博 愛・地球博」、2010年6月には「上海万博」ジャパンウィークにも参加しました。
2012年10月の時点で、沖縄県内に10支部、沖縄県外に36支部、そして海外にも11支部あり
総勢約2500名あまりの世界規模での広がりを見せています。
日本国内だけでなく沖縄の文化を世界にと、会員一同新たなる感動の創出に取り組んでいます。


琉球國祭り太鼓 東海地区について

琉球國祭り太鼓 東海地区は岐阜支部、岐阜西濃支部、愛知支部、三重支部、静岡支部によって
構成されています。

■東海地区の旗印

沖縄の『迎恩』の心や『いちゃりばちょーでー(一度出会えば兄弟)』の思想を学び、
様々な人々との交流を通じて、人間対人間の心暖まる関係を築き上げることで、
身近なところから世界の平和に貢献したい。

■主な出演実績

2005年8月  愛・地球博にて、全国の仲間と一週間連続出演を果たす。
2006年4月  初の自主公演『沖縄LOVEフェスティバルin GIFU 2006』を開催。
2008年6月28日&7月5日 自主公演 琉球芸能マレーシア壮行公演開催。
2008年7月19日 マレーシア国在ペナン日本総領事館と日本人会の招きにより、 ペナン盆踊り大会にて約3万人の観衆を前に演舞

その他、各地のイベントステージ、お祭り会場、芸術鑑賞会、福祉施設の慰問、エイサー講座や教室の開催など。

琉球國祭り太鼓 東海地区の歴史

西暦2000年6月、独りの男が沖縄‐那覇空港に降り立った。
琉球國祭り太鼓、その偉大な芸能を東海の地に広めるため、沖縄市の本部道場へ向けて…。

その男の名は屋比久(やびく)……のちに初代岐阜支部長となる者である。

それからさかのぼること3ヶ月前、桜の蕾がほころび出す頃に、屋比久は名古屋の中心地、栄にいた。
毎年行われていた『旅まつりin名古屋』の沖縄観光PRステージに、彼の目は釘付けになっていたのである。

静寂の中の緊張感、そして、弾ける若き躍動感、ダイナミックなバチ捌き……。
いつしか屋比久の頬には、熱いものが止めどなく流れていた。

その夜、沖縄観光ブースで物産展を任されていたことが縁で懇親会へと誘われ、
挨拶を請われた屋比久は、初めて観たステージへの想いをぶちまけた。
『自分も是非仲間に入れて欲しい…』と。
しかし、年齢制限に阻まれ、入会を断念せざるを得なかったため、
一旦は名古屋市内にある他のエイサー団体に加入する。

しかし……どうしてもあの時の感動が忘れられず、
当時西尾市(三河地方)にあった愛知支部の練習見学に、毎週通うことになった。
自宅の土岐市から片道2時間半の道のりは、決して近いものではなかったが、
彼にとってはワクワクと胸を躍らせる車中でもあった。

そんなある日、愛知支部長から紹介され、
本部創立者である目取真(めどるま)氏と電話で話すチャンスを得ると、その熱い胸の内を話した。

『本気でやる気があるなら、直ぐに沖縄まで挨拶に来なさい』
目取真氏は、こう語った。

『よし、沖縄へ行こう…。』
その一週間後、屋比久は父の故郷、沖縄の土を踏みしめていた。

その夜…台湾遠征から帰国したばかりの目取真氏は、
屈託のない笑顔で『よく来たね〜、晩ごはん、一緒に食べようね〜』と、本部近くの居酒屋へ手招きした。
着席するなり、
『うん、キミの熱意は分かった。早速、岐阜支部を作りなさい』
と目取真氏は半ば強制的に語った。

その当時、基本のバチ回しや動作も知らない状態の屋比久にである。
(なんて懐の深い方なんだ…)
そう感じた屋比久は、目取真氏の言葉に即座に反応し、支部結成の覚悟を決めた。

翌日は、サンコーストホテル代表取締役であり、琉球國祭り太鼓の会長(当時)であった
照屋(てるや)会長や、楽曲提供をされているオキナワンmusicアーティストの
日出克(ひでかつ)氏に挨拶回りをして、岐阜支部結成のスタートを切った。

自宅へ戻ると、沖縄物産展でアルバイトに来ていた水野(後の初代岐阜副支部長、三代目岐阜支部長)
に早速声を掛け、共に結成メンバーとして活動する確約を得て、
西暦2000年7月1日、2人きりの支部が誕生したのである。
毎週の西尾通いと、地元での練習を重ねていたが、
『1年以内に100人のメンバーを集めよう!』
のスローガンは虚しく散り、2人だけのまま2年目を迎える。

その後、地元のお祭りなどのゲリラライブを継続してPRに努めたが、
新規メンバーは屋比久の勤務先の同僚の子供2人のJrメンバー(中学生以下)の加入のみで、
4人での2年目がスタート。そのまま3年目を迎えた。

3年目に入ると、Jrメンバーの叔母・いとこにあたる水野(のちの岐阜副支部長)親子が、
また解散した愛知支部メンバーから川村(沖縄の西原支部出身)、
ヴァレリア(アルゼンチン支部→東京支部出身)が加入。
ヴァレリアの紹介で、当時名古屋勤務をしていた
仲泊(なかどまり:東京支部出身、のちの新生愛知支部初代支部長)が加入した。

また各地でのゲリラライブや公開練習、エイサー講座の開催が功を奏して、
観客や通行人から1人、また1人とメンバーが増えていった。
そこには、小林(のちの二代目愛知支部長)や花井、
お笑いのザ・タッチよろしく平田兄弟や村上(いずれも、のちの愛知副支部長)、
田中、林(いずれも、のちの岐阜副支部長)もいた。

地道な活動を続けながら、東京支部、とりわけ水野氏(元関東地区長)を始め、
他支部や本部の仲間達に支えられながら発展を続け、
2004年7月には愛知支部を岐阜支部から分離独立させ、2007年2月には東海地区を発足し、
初代地区長に屋比久が就任した。
また、岐阜支部長の後任には、田代が二代目として就任した。
その後、2007年10月には、三代目愛知支部長として瑞慶覧(ずけらん)が、
2008年2月には、三代目岐阜支部長として、水野(初代岐阜副支部長)が就任した。

また、2009年10月には岐阜西濃支部が発足し、エイサー講座出身の青木が支部長
2009エイサーページェント参加者であった棚原が副支部長に就任した。