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上町大地から眺める樽井の町は美しく情緒的で妙に人恋しく思われ
る町です
昭和20年代迄は青松生い茂る天神の守が浮島のようにくっきりと浮か
んで 2千年余りの昔 神武天皇と皇軍が敗軍の痛手を癒し 再び
御出征の雄たけびなされた跡 つわものどもの夢の跡 といった2千年の
時を越えた感慨に誘われたものでした
海岸線一帯に広がる松林が緑をたたえ 遠浅で透きとおった海 さらさら
としたきれいな砂浜 青々と広がる茅渟の海 遥か西方には淡路島が
かすみの中に浮かび六甲摩耶の連山がかすみにけむって見え美しい情緒が
ありました
海岸より高台を見上げた時 断崖に立ち並ぶ 専徳治 受法寺 大庄屋
脇田氏の石垣 その間に挟まれた坂 下町の町並みに覆い被さるようすが
すばらしい景観の町だと実感させられました
今 旧樽井浜の堤防(当時は堤防はありませんでした)サザンビーチ 対岸
に関西国際空港 さらに遠方に明石海峡大橋 新しい景観の中にいてふと
昔観た子供の頃の樽井浜 松林や町並みが懐かしく思い出されてきます
日本書紀によりますと 紀元前約700年頃 大和朝廷の国家統一を
進める神倭磐余彦尊(後の神武天皇)と兄君五つ瀬尊は 九州日向より
逆賊を平定される為 瀬戸内海を東へとお進みようやく浪速に着かれ
大和にお入りになろうとされましたが
河内生駒山の凶賊の頭目長髓彦が饒速日尊を奉じて抵抗しつづけ
天皇方はしばしば危難に頻せられました
そこで天皇方は再び熊野の方から御征伐になろうと謀られました
しかし兄君五つ瀬尊が流れ矢の為傷つき深手を負わされました
手厚い看護もむなしくなかなか出血が止まりませんでした
その為海は真っ赤に染まったと言われています
その大阪湾を血塗りの海 または地沼の海と訛り転化し茅渟の海という
ように至ったそうです
やむなく御乗船され和泉灘を南下されお手当てのため御上陸されたのが
我々が住む 茅渟山城水門こと山井水門であり 今の天神の守から樽井
小学校あたりと伝えられています
この山井水門は 北に樽井の高台をめぐらし西には浜天神(天神の森)
の砂丘を防波堤に理想の港を形成していたといわれています
また この地方は 弥生文化の時代から相当進んだ文化をもつ地方国家
であった為に御上陸の地をお選びになられたのでしょう
樽井の山の井の井戸跡 山の井神社跡 男里浜の天神の森 男神社の
4ヶ所に遺跡があり 山の井の井戸跡 山の井神社跡の2ヶ所に記念碑があり
裏づけのひとつになっております
ご上陸された後 山の井の井戸にて傷を癒しました
この水は甘く冷たくてよくしたたり出て それからも流水がこんこんと
して尽きることがなかったといわれます それ以来 遠方の人々までも
がこの山の井の水を 垂れる井戸と慕って見に来たそうであります
その垂れる井戸が訛って転化し垂井となり今の樽井となったそうです
山の井の地で家来ととも御養生され完治されたのち神倭磐余彦尊
(後の神武天皇)と五つ瀬尊と皇軍は再び御出征となりました
その後 国家統一と代1代天皇としての御偉業を慕い この場所に天皇
を祀られたものと思われます
この出来事を祀った 惣社金熊権現社祭 の名残が今の茅渟神社の祭礼
に受け継がれています
九月十六日の惣社金熊権現社祭は信達荘(樽井含む)十三ヶ村の祭りで
牧野の大鳥居から金熊寺の宮まで延々と列をなし樽井の浜まで渡御しま
した
前・中・後の3躰の神輿を担ぎ そのうちの1躰 中神輿に神武天皇の
御霊が座されました神輿を樽井1カ村で担ぎ 前後2躰を信達荘他12
の村の人々が担ぎました このことは樽井の勢力がいかに強烈だった
かを物語 他の村の人々の羨望の眼差しを受けていたそうです
街道には延々と行列ができ たくさんの人が溢れ大変な賑わいだったと
いうことです
この金熊権現社祭の座は 氏子が氏の上を中心に団結し尊敬して重要
な相談は総て氏の上の前で行なわれ準備されました
氏神は氏子が氏の上を祀る神社でありました
座は春と秋の二回 氏の上の神前に氏子全体が集まり 氏子の繁栄をお
見せすると共に氏子たちが毎日精出して作りました田畑の作物や海の幸
を神殿に供えお神酒をいただいて 氏子の繁栄と山海の豊穣を願いまし
て歌をうたって 氏の上をお慰め申したのが座となりました
金熊権現社祭の座はその年の当番によって準備され座当番といいました
幸い樽井の座当番になった 嘉永七年 明治八年 明治二十四年の
重要書類が茅渟神社に保管され 当時の金熊権現社祭を偲ぶことがで
きます
稚児行列は家系の繁栄とお稚児さんの健康を祈り行なわれていました
しかし この惣社金熊権現社祭は明治43年を最後に財政の圧迫などに
より 長い歴史に終止符がおろされたのです
現在は 樽井だけがその名残の渡御として受け継がれています
樽井のやぐらは少なくとも江戸時代後期から行なわれていて 基本的には同じ
ですが 寸法 彫り物等 それぞれ特徴があります
彫り物は 地車のように立体的な張り合わせではなく一枚板に彫っていくには
彫師が非常に神経を使う また腕の見せ所なのです
四台とも高さが5メートル近く 前兆も11メートル近くあります
また 太鼓が非常に大きく日本でも八台とも六台の中に入ると言われる
ぐらい有名であります 特に獅子講の太鼓の大きさには目を見張るもの
があり響く音はとてもすばらしく大きく感動すら与えることでしょう
昔は 獅子講 東講 提灯講 講戎 若戎 濱中講の六台ありました
現在は 東講と提灯講が宮元講・講戎と若戎が戎福中講(1864年元治元年の
以前より統合)として四台となりました
樽井のやぐらには 雄 雌があるといわれています
獅子講が雄 宮元講が雌の上の櫓 戎福中講が雄 濱中講が雌で下の櫓と
それぞれ1対となると言われています そして雄の角は大きいのが1本
雌の角は小さい角が三本あったといわれます
現在は四講とも角は一本となっています
また こまにも特別な手法を用いて大きくて重い櫓を衝撃から守る構造
になっていたり地車や他地区の櫓に無い形や大きさや曳行方法など
樽井独特の粋な櫓を御覧下さい
最後になりましたが 樽井の櫓は 繊細で6種類(千馬・やぁとこせ・
大文字夜・道中・銀の簪・数え)も曲がある笛の音 雄大な太鼓の響き
独特な造りのこま 彫り物の出来栄え そして櫓の大きさ
この櫓を上手に操り 独特の音頭 笛 太鼓のハーモニーが秋空に
とてもすばらしい音色を響かせます
祭りを愛する思い 伝統を受け継ぐ姿勢は今も昔も変わらず親から子
子から孫へと 受け継がれています
この素晴らしい櫓が樽井には四台もあるということと 由緒ある
お神輿稚児行列が今尚続いている樽井の祭りを何よりも自慢し
誇りに思います 大切に守ろうとする伝統と家族の絆 ご先祖様に
感謝し永遠に持ち続けたいと思います
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