江の島紀行
中井眞耶
弁才天信仰で知られる江の島を訪れることにした。日本三大弁才天は、安芸の宮島、琵琶湖の竹生島、吉野の天河といわれるが、江島神社では、天河の代わりに江島を入れて、三大弁才天としている。
江の島では、山の斜面に建てられた三つのお社を訪ねたあと、信仰の発祥地とされる南の海岸にある岩屋(洞窟)にも降りてみることにした。
JR鎌倉駅から江ノ電に乗り換えた。交通機関の駅名では「江ノ島」が使われているが、住居表示では「江の島」とされ、古くは「江島」と表記されて、読みは、えのしまである。江ノ電の車両は二両連結で、レトロな雰囲気が漂っており、京都の嵐電にどこか似かよっていた。電車は立ち木や民家の軒先をかすめるようにして進んでいく。思いのほか海の近くを走るのに気づき、窓から鈍く光る海を見つめた。今日は波もなく海は穏やかである。
降り立った駅前から人の流れについていった。江の島へと続く長い橋を渡っていると、潮の匂いがする。渡りきるとすぐに土産物屋、飲食店が立ち並ぶ参道へと入っていった。平日にもかかわらず人はかなり多く、雑踏を抜けて鳥居をくぐり、急な石段を上ってゆくと、江島神社の第一の宮、辺津宮が現れた。社殿は山の斜面に建っている。
江島神社の祭神は、宗像三女神(たぎりひめ、いちきしまひめ、たぎつひめ)である。神社由緒によれば、天照大神と弟の須佐之男神の誓約によって、三女神が生まれたとされる。誓約は弟に悪心がないことを証明するため天空で行われ、天照大神が弟の剣を三つに折り、天の真名井で振りすすぎ噛み砕いたところ、その息吹から三姉妹の神が出現したという。
神仏習合の時代になると、いちきしまひめは弁才天と同一視され、好字を当てて弁財天とも表記されるようになっていく。古来この三女神は海上航海の護り神で、九州の宗像氏ら海人族の信仰する神であったが、時代を経て国家神に組み込まれ、各地に祀られるようになった。社の多くは海辺の要所、川辺に造営されている。江の島では、欽明天皇のとき岩屋に三女神を祀ったのが創祀起源とされる。
辺津宮にはたぎりひめが祀られている。神社の表記では田寸津比売命。水がたぎって激しい様子を神格化したものという。弁才天像(鎌倉時代)を安置する八角堂が別にあって拝観できる。ここをお参りしただけでその先には行かず、すぐに引き返す人も多くて、社殿の近くはたいそう賑わっていた。
左側の道に入り、第二のお宮を目ざす。坂や階段が苦手な人のために、有料のエスカレーターが設けられている。歩いていると、道端に野良猫が多いのに気がついた。どの猫も丸々と太っている。近くのお店で名物のシラス丼の残り物でも、もらえるのであろうか。人が近づいても逃げないし、頭を撫でられ写真を撮られても悠然と構えている。寺社ではネズミの害を防ぐために猫を飼うことがあったというが、それにしてもたくさんの猫であった。
ほどなく中津宮に出た。ここではいちきしまひめを祀っている。市寸島比売命である。いちきしまとは神霊を斎き祀る島という意味。この女神は、神仏習合では弁才天とされる。弁才天はインドの河の女神、サラスバティのことで、手に楽器を持ち、芸能、財宝、福徳の神という。お社はひっそりしていて、先ほどの第一の宮の賑わいがもう遠いものになっている。社殿はまだ新しく神さびた感じはしないが、赤い彩色で可愛い印象である。弁才天は美女とされるが、それにふさわしい華やぎが感じられた。
しばらく歩くと、三つ目のお社、奥津宮に着いた。海近くの崖の上という位置にあり、ここにはたぎりひめが祀られている。多紀理比売命と書く。辺津宮の女神と同様、水がたぎる様子を神格化したそうだが、そのほかに海上の霧を意味するという説もある。このたぎりひめが三姉妹の一番上に当たるそうである。
奥津宮の天井には、酒井抱一作の八方睨みの亀が描かれてあった(複製画)。正面を向いた亀で、緑色の甲羅、目玉は黒と白で、くっきりとした筆づかいである。どの方角から見ても、亀に睨まれているように見えるというので、何度か位置を変えて見上げる。なるほどそのようであった。
近くの銀杏の木の近くには、亀甲石という甲羅の模様に筋目の入った平たい石があった。手水舎は亀蛇口。これ以外にも海岸には波に洗われる大きな亀石があるという。なぜそんなに亀尽くしなのかというと、神仏習合の時代、ここは金亀山与願寺といったそうで、その山号に因んでのものという。明治の神仏分離令によって島の寺院は廃され神道に復し、仏像仏具も壊され、僧侶は神職になり、江島神社となったそうである。
奥津宮の隣には、龍神を祀る龍宮の社があった。リアルに造形された龍が岩窟の上に乗っており、なんとなく雰囲気がおそろしいので避けていく人が多く、私も怖くて敬遠した。
左手に進み、岩屋のある海岸に降りてゆくことにする。石段を下ると眺望が開けて海風が吹きつけてくる。やがて広い海岸が見えてきた。残念ながら曇り日で相模湾の上は雲が厚く、その向こうにある富士山は隠れたままである。海岸には降りられるようになっていて、岩棚には浅く水が溜まり、その上を歩いて遊んでいる人たちもいた。岩に沿って付けられた堅固な通路を進み、料金五百円を払って岩屋の中へと入る。
この岩屋は海の浸食作用によって自然にできた海蝕洞で、洞窟の奧には神が祀られ、古来聖地であったという。役行者、空海、日蓮も参篭したと伝えられる。江戸時代になると、庶民の間で江島詣でが盛んになり、名所、景勝地として賑わったという。崩落の危険が生じて一九七一年から洞窟は閉鎖されていたが、二〇〇五年に藤沢市が整備、再開の運びとなった。
入口の通路の壁には、岩屋の歴史や背景が解説されている。歌川広重の浮世絵を見ると、荒々しい波と岩屋の口が雄大に描かれ、明治の頃の情景も写真やパネルで展示されていた。木で組んだ足場のような通路、印象的な荒削りの岩。昔の方が野趣にあふれ魅力的で、近代的に整えられた現在の設備が残念に思えてくる。次第に洞窟博物館へ見学に来たような気分になってくるので、通路は早々に切り上げて先へ進んでいくと、与謝野晶子の歌碑が立つ浅い池があった。
沖つ風吹けばまたたく蝋の灯に
志ずく散るなり江の島の洞 晶子
ほかには夜光虫を光であらわしたものなどの展示物もあった。天井は金網でしっかり防護されており、落石の心配はないようである。左右を照らされながら道を進み、第一岩屋の奧へと導かれていく。
第一岩屋の中はさらに二つに分かれていて、この辺りから道が狭くなり、照明も薄暗く、岩屋の神秘への期待が高まっていく。左側の番屋でろうそくを手渡してくれた。手燭である。それがないと困るほどではないが、炎の揺らめきとともに歩いてゆくと、古の参詣が思われ、心は遥か昔へとさまよっていく。行く手には石像が左右に置かれ、炎にぼうっと浮かび上がる。これらは昔から洞窟に祀られていたもので、石仏、蛇、摩滅した石造物などである。保護のためアクリル板で覆ってあった。いたずらや盗難避けのためなのだろうが、こういう博物館風の展示の仕方は、古い岩屋の雰囲気にはそぐわないものがあった。
洞窟の突き当りには柵があり、日蓮ゆかりの聖石が祀ってあった。ぱっくりと口をあけた暗い洞窟がさらに奧へと続いているようだが、そこも小さな柵で閉じてあり、その先は真の闇であった。この奧は富士山の洞窟へと続いていくという伝承があるそうだ。しばらくたたずんで闇の奧を見つめていた。果てしない虚無へとつながっているような感覚に陥る。
引き返して右の洞窟に進んでみると、やはり奧に柵があって中に石祠が置かれ、ここが江島神社発祥の地ということであった。聖地の中心部で、静かな空間である。社伝によれば、
「欽明天皇十三年(五五二年)の御宇、神宣により詔して宮を島南の龍穴に建てられ、一歳(一年)二度の祭祀この時に始まる」
とあり、ここにはじめて宗像三女神が祀られたのだということがわかる。龍穴という言葉もみえるので、この地ではそれ以前に龍神信仰があったことが想像できる。おそらく洞窟内に祀られていた龍神は、新来の三女神にその座を譲ったのであろう。
古代祭祀の様子を思い浮かべつつ、ろうそくが尽きるまでそこにいて、番屋で手燭を返し、通路を抜けて海岸へ出てから第二岩屋へと向かった。磯ではちょうど亀が海へ泳ぎだしているかたちの亀石が見られた。満潮時には波に隠れてしまうそうである。
第二岩屋は第一岩屋に比べて奥行きは浅く、中には大きな龍が一体鎮座していた。周辺は赤や緑、青の発光する小石で飾られ、近づくと照明で龍が照らされ、なにやら咆哮のような効果音が鳴り響いて驚かされる。稲妻や雷鳴をあらわしているのだろうが、音は洞窟内に反響するので大きく感じられる。センサーで人を感知すると、装置が働く仕掛けなのであろう。照明やおどろおどろしい音響は、この地に伝わる伝説の龍を演出するものであるらしい。江島縁起には「五頭龍と弁天」の話があるので、紹介してみよう。
……今から千五百年前のことである。鎌倉山中に五つの頭を持つ龍がいて、火の雨や洪水を起こしては田畑に害をなし、村の子どもを人身御供に取るなどして人々を苦しめていた。
欽明天皇の十三年に、天女(弁天様)が降臨して神仙の島、江島が海に出現した。龍は弁天に恋心を抱くが、弁天は悪行をやめるよう龍をさとした(このあと龍と弁天が結ばれる展開になる説話もあるという)。
水を司る龍は改心し、日照のときは雨を降らし、嵐のときは神通力で海をおさめ、人々に豊穣をもたらすべく尽くしたが、そのために徐々に身の力が衰えていった。力を失った龍は、江島海岸の龍口山にしりぞいて龍口明神社に祀られ、やがて山にその姿を変えたという。(江島縁起より)
この話はいったい何を語っているのだろうか。江の島といえばまず浮かぶのは、弁天信仰であるが、実はそれよりも古く龍神信仰があったことは前に述べた。伝説によれば、ここで住民を苦しめていたという五頭龍は、あの出雲神話に出てくる八岐大蛇同様、外部からやって来た強力な神によって退治されてしまうのだが、八岐大蛇のように切り刻まれて殺されず、別の地に追放されるだけで済んだようである。
海辺に口をあけている不思議な洞窟は、古来自然崇拝の対象であり、岩屋の龍穴にもともと祀られていたのは、土地神(龍神)であったろう。
宗像三女神の祭祀がはじまった五五二年、欽明天皇の時代といえば、六世紀半ば、大和王権の支配が地方に及び、辺境の地へと拡大していく時期である。新しくこの地を支配した施政者の意向により、洞窟に祀られる神も交代していったということであろう。これまで色んな神社を訪ねたが、新来の神が旧来の神を押しのけて鎮座する例は多くあり、おそらくここも例外ではないのだろう。
大和の王権は彼らの神を持ち運んでくる。宗像三女神は航海神であることから、海辺の洞窟に祀られたようだが、地域の中心部には高天原系の神々が祀られたのではないだろうか。一方で土地固有の神々は、あるときは中央から来た神に合併されて呑み込まれ、またあるときは新しい神にその座を明け渡し、別の地に遷座を余儀なくされて衰退、零落するという運命をたどっていくことになる。
龍と弁天の話にはそのような支配と、被支配の関係を軸に、旧来の神を信奉する旧勢力の追放、あるいは懐柔、従属、衰退の経緯が投影されているのではないだろうか。土地に伝わる龍と弁天の説話を知り、洞窟の奧で青い光りに照らされ大声を発し続ける龍を眺めつつ、そんなことを思った……。
帰路につくことにする。岩屋にゆっくりしていたので日は傾きかけている。もとの道へと引き返し、急な石段をやっとの思いで上りきる。さっき寄らずに通りすぎた龍宮の前まできて何気なく立ち止まり、説明を読んでみた。するとここは、岩屋の洞窟のちょうど真上に当たるため、龍宮の社が建てられたと記されてあった。龍宮は、わだつみのみや、と読むという。
そうだったのかと、やっとここで龍が睥睨している意味が理解できた。江の島はもともと龍神の領する島であり、彼の本拠がこの下にある洞窟だったのだ。
お社の戸が開いていたので、岩窟をかたどった造りになっている龍宮社に入ってみた。怖いのは外観だけで、内部は特におそろしいこともなく、ごく普通の感じ、次々に人がやって来ては手を合わせていく。
龍宮の社を出て歩いていくうちに、辺りはいつしか夕暮れになっていた。陽光は少しずつ弱まり雲に隠れていく。静かに暮れていく江の島の海を眺めつつ、ゆっくりと山を降りていった。
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