親不知の海
中井眞耶
かつて北陸最大の旅の難所であったという親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)。新潟県糸魚川市にある約十五キロの海岸線を指し、JR北陸本線親不知駅を中心にして、西の市振駅までを親不知といい、東の青海駅までを子不知というそうだ。
飛騨山脈が日本海に落ち込み、急峻な地形となっているため山越えは難しく、ここを通ろうとする旅人は、危険を承知で渚伝いに歩かなければならなかった。引き潮になるのを待って、断崖絶壁の砂浜を駆け抜けるとき、親は子をかえりみる余裕がなく、子のほうも親を忘れて走らねばならないので、親不知・子不知という地名になったという。哀しい由来である。
もうずいぶん以前のことになるが、東北を旅しての帰途、北陸本線で親不知を通過したとき、車内に短く地名を告げる放送が流れた。親不知という不吉で悲しみのこもる響きに、どんな所なのかと思わず窓の外の海を見つめた。
視線の先には、切り立った崖に荒波が打ち寄せる日本海が茫洋と広がっており、断崖絶壁が厳しい様相のままそびえ立っていた。車窓から見える浜辺には人影はなく、砂浜も見えず、ただ大小の険しい岩だけが積み重なっていた。列車は海岸のすぐ近くを走っていく。荒れ果てた寂しい感じが漂っている海辺であった。
感傷に浸る間もなく、列車はすぐにトンネルに入ってしまい、風景は遮断された。轟音だけが響きわたる暗い車内で、昔の旅人が必死に岩の多い波打ち際を駆け抜けていく姿を、幻影のように思い浮かべていた。
絶え間なく襲いかかるかのように打ち寄せてくる大波、引いていくときに見せる波の思いがけない力、恐怖や不安におののきながらも、旅人たちは波打ち際を進み、難所を越えていったのだろう。しっかりと手をつなぎ、一緒に走り出したはずなのに、いつか散り散りになってしまった人たちもいたに違いない。不運にも子どもを波にさらわれた親、親を波間に見失った子ども、この海で多くの旅人の命が波に呑まれ、悲劇が起きたのだと思うと切ない気持ちになった。
トンネルを抜けると、再び青い日本海が現れ、ひと気のない海辺の岩を波が洗っていた。そのときいつかここを訪れて海岸を歩き、天険の断崖を眺めてみたいと心で思ったのだった。けれども漠然と思うだけで、親不知を訪ねる旅は実現することなく、長い年月が流れていった。そしてようやく北陸の旅を決意し、断崖の中腹に建つという宿の予約もとれて、親不知駅に降り立ったのは、昨年の秋のことであった。
親不知へは、所用で出かけた東京から回っていった。JR中央線の特急で南小谷まで行き、そこで大糸線に乗り換えて糸魚川へ、さらにそこから北陸本線に乗ったのである。
親不知駅は予想通り無人駅であった。宿からの迎えの車を待っている間、駅の周辺を眺めると、そこは人も車もあまり通らない寂しい場所であった。
車が来て、高台にある親不知展望所へと寄ってもらって車を降り、親不知の断崖と日本海が織りなす雄大な景色を眺めることができた。眺望はここからが一番で、親不知の全容が見られるという。眼下には海が広がり、大絶壁に波が白く打ち寄せていた。ほとんど垂直に近い印象の崖の険しさに息を呑む。荒々しい自然が生み出す厳しい風景美がそこにあった。
森鴎外「山椒大夫」に、親不知・子不知の地名が一度だけ登場している。主人公の母子に起きる悲劇の内容をまるで暗示するかのように、物語の導入部でさりげなく使われているのが興味深い。
任地の筑紫に行ったまま帰らない夫を訪ねようと、妻は二人の子、安寿と厨子王を連れ、女中とともに岩代を出て旅をしている。越後の国に来たとき、一行は陸を歩くか舟に乗るかを選択することになるのだが、船路も決して安全ではなかったのである。
善人を装った人買いの船頭、山岡大夫が、宿がなく橋の下で野宿しようとしている母子を見つけて、言葉巧みに宿や食べ物を提供し、舟を勧めて安心させる。翌日、母親と女中、安寿と厨子王の二組に分け、だまして母子を別の舟に乗せ、子どもたちは丹後に、母親は佐渡へと売られてしまうのである。
…大夫は知れきったことを問われたように、少しもためらわずに航路を行くことを勧めた。陸を行けば、じき隣の越中の国に入る境にさえ、親不知子不知の難所がある。削り立てたような巌石の裾には、荒浪が打ち寄せる。旅人は横穴に入って波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺の難所である。(森鴎外「山椒大夫」より)
明治の頃、親不知の崖の中腹を削って道が切り開かれ、それによって危険きわまりない渚道を歩くという古からの歴史は閉じられた。当時は画期的であった崖に刻まれた道も、今は役目を終え旧道となって久しい。現在はJR北陸本線のほかに国道八号線、北陸自動車道が海沿いに、ときに並行して走っている。
親知らず子はこの浦の波まくら越路の磯の泡と消えゆく
平清盛の異母弟、平頼盛は壇ノ浦の戦いの後、源頼朝から助命されて出家し、越後の五百刈村(長岡市)へと落ちのびて暮らしていた。都からその後を追ってきた夫人が、この地で二歳の子を波にさらわれ、悲嘆にくれて詠んだこの歌が地名の由来になった、という伝承もあるそうだ。
宿に荷物を置き、実際に親不知の海岸を歩いてみることにする。親不知で唯一という海への道を教わる。先日の台風の豪雨で道が崩れてしまい、通行止めにしてあるが、気をつけて歩くなら行けなくはないということであった。
宿の横から歩き始めると、すぐに道が崩落しており、折れた木の枝が散らばっていた。階段も土砂にまみれ、荒れたままであった。途中、階段と交差するように、使われなくなった旧北陸線跡のトンネルが、ぽっかりと黒い口をあけているのが見えた。崩れてきそうで内部を歩いてみる勇気はなかったが、遠い日に、列車の車窓から見つめた親不知の海は、たぶんここからだったのだろうと思うと、感慨深いものがあった。トンネルの周囲は草に覆われ、すでに線路は取りはずされて廃墟の雰囲気が漂っている。異世界への入口のようで、しばらく見つめていた。
浜に降りると、日本海の洗い波が砕け散っていた。冷たい潮風が吹きつけてくる。流木やびんなどの漂流物が打ち上げられている浜辺には、大岩が行く手をはばむように迫り、海辺とはいうものの、歩けるのはわずかな空間だけであった。砂浜といえるような所もなかった。
親不知の海岸には、退避のための洞窟があり、旅人は潮の引いたときを見はからっては砂浜を進み、また悪天候の折には回復を待って、洞窟で何日も過ごすことがあったという。そうなると飢えともたたかわねばならず、まさに命がけの旅であったろう。
戦国武将たちもここを往来した。越後の上杉謙信の大軍は何度も通ったそうである。
芭蕉と曾良も「奧の細道」の旅でここを歩いている。句も詠んでいるので少し引用してみよう。
…今日は親知らず、子知らず、犬戻り、駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面の方に若き女の声、二人ばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も混じりて、物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は故郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり…。
一つ家に遊女も寝たり萩と月
芭蕉「おくのほそ道」より
難所の親不知・子不知を無事に越え、芭蕉たちは市振に着き、疲れて宿で横になっていると、一間隔てた道に面した部屋から、若い女二人と老人の声が聞こえてきた。女たちは新潟の遊女で、伊勢参宮に向かうのであった。ここまで送ってきた男を新潟に帰らせるので、手紙や伝言を頼んでいる。
翌朝、女たちは道もよくわからない女旅の心細さから芭蕉に、道連れは無理でも、せめて見え隠れについていくことだけでも、と涙ながらに願う。気の毒に思いながらも芭蕉は、自分たちはあちこちに留まる予定が多いので、と断り、伊勢参詣の人たちを見つけてついていくことを勧めた後、宿を出発した。「あはれさ暫く止まざりけらし」と感想を述べている。
ぼんやり海を見ていて、たちまち岩に足をとられ転びそうになる。磯は歩きにくく、波の飛沫で岩も濡れている。今は引き潮なのか満ち潮なのか、それもわからない。普通に歩くのも困難なこんな場所を、旅人はどう急いだというのだろう。
海岸から上り、元の道へと戻っていった。親不知コミニュテイロードという崖の道を歩くことにする。明治十六年に絶壁を開削して造られた旧国道である。この道ができて、人々はようやく危険な浜を走らなくても済むようになったのだ。
海側はずっと急傾斜の崖がそのまま海に落ち込んでいた。今歩いている所は、ちょうど親不知の崖の中ほどにあたる。見回すと、分け入る小道も容易に見つからないような厳しい岩山である。崖下の海を眺めると、砂浜を駆け抜けた旅人の緊張や不安が伝わってくるようであった。
大絶壁の下に来たとき、旅人は神仏に祈りながら、思いきって走り出したことであろう。打ち寄せる大波は白く泡立ち、とどろきながら足元をすくい、えぐっていく。風や波を避けようにも、絶壁は巨大な屏風のように立ちはだかって旅人を圧倒する。海の色は深く青い。美しい日本海と大絶壁と白波。そこにひそむ怖さは、今もここに立つと心に迫ってくるのだった。
道を進んでいく。見晴し台があって、明治の開削工事の様子を示す写真パネルが数枚展示してあった。人力で行われた難工事であったようだ。
傍らには、等身大のウェストン像があった。明治の頃の宣教師で登山家、日本の山々を踏破してヨーロッパに紹介し、日本アルプスの名付け親になった人という。銅像があるのは、親不知が北アルプスの起点と知って関心を持ち、ここを訪れた縁による。断崖がそのまま日本海に落ちているのを眺めた英国の登山家は、納得がいったことだろう。ウェストンは椅子に腰掛け、足を組み、海ではなく山を見つめていた。
さらに行くと、大岩に「如砥如矢」という言葉が力強い筆致で刻まれていた。ここに道ができた折の記念碑である。砥石のように滑らかで、矢のように速く通れるという意味である。崖下の険しい渚道を、時間をかけて行くことの対義語らしい。長年にわたって人々が切望してきた道、もう波にさらわれる心配がなくなったという完成の喜びや感謝の思いが、この四文字には込められているのだろう。
この崖道はたまに訪れる物好きな観光客以外、今はもう歩く人もいないようで、海側に設置されたガードレールは錆びつき、足元には落ち葉が積もり、風で折れた木の枝もそのままに放置されていた。
進んでいくと、途中に小さな滝があり、山中から細く水が流れ落ちている。道はだんだん荒涼とした雰囲気が濃くなっていき、やがて車の行き交う現在の国道八号線へとつながり、そこで終わっていた。
たたずんで国道を見つめる。交通量は多く、吸い込まれるように車が絶え間なくトンネルに入っていく。百年以上も前の明治の静かな道をたどっていったら、急に現代に来たのである。
車の騒音に背を向けるように、また同じ旧道を引き返していった。水上勉の「越後つついし親不知」に登場するのも、この道であった。立ち止まって日本海を眺める。ちょうど夕陽が落ちていくところで、空も波も赤く染まり、光が筋になって海面が揺れている。寂寥感の漂う道であった。
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