浅間神社(甲斐一宮)・酒折宮 ー古代への旅ー
JR中央本線に乗って旅をしたことがあった。山梨を過ぎ、甲府に近づいたとき、酒折(さかおり)という駅を通過した。記紀に出てくる景行天皇皇子、倭建命(やまとたけるのみこと)と御火焚の老人(みひたきのおきな)の問答歌で知られる酒折宮は、ここだったのだ。
上の句と下の句を別人が詠むという形式は、後に発展し、中世では連歌となって隆盛をみた。その起源が皇子と翁の問答歌とされる。皇子の五七七の片歌での問いに、翁が五七七の片歌で答えたというのである。通り過ぎる酒折を眺めつつ、いつか連歌発祥の地を歩いてみたいと思った…。
1 浅間神社(甲斐一宮)
二月下旬、甲斐一宮の浅間神社と酒折宮を訪れることにした。所用で行った東京から中央本線に乗ると、土曜だったので車内には色とりどりに装ったハイキングの人たちの姿があったが、(皆さんなかなかお洒落である)やがて高尾の辺りで降りてしまい、車内は空いていった。車窓からまだらに雪の残る山の斜面や、線路際に溜まった雪を眺めるうちに、大月を過ぎ、勝沼ぶどう郷の辺りになると、眼下に甲府盆地の情景が広がってくる。
古代にはここは湖だったという説があるが、確かに周囲を山に囲まれたすり鉢状の地形で、中央部に市街地が開けている。そこがかつて湖底だったというのも納得できる説であった。車窓からは白銀に輝く富士山の頂部も見えてきて、盆地を取り巻く冠雪の山々の雄姿に見とれているうちに、甲斐一宮最寄り駅の石和(いさわ)温泉駅に着いた。
コミニュティバスで一宮の浅間神社へと向かう。本数が少なく、循環バスになっているので、遠回りのほうに乗ると時間がかかるが、笛吹川がゆったりと町の中を流れゆき、柿やぶどうや桃の果樹園が多い笛吹市内の様子がよくわかるのであった。現在は人口もそう多いようにはみえないが、古代にはこの辺りは政治・文化の中心地であり、笛吹川を挟んで甲斐国の国府、国衙が置かれていたともいわれている。
一宮で降りた。浅間神社はすぐ目の前である。浅間神社の読みは、せんげんとあさまの両方があるが、甲斐一宮の場合はあさまと読むそうだ。あさまとはアイヌの言葉であるという。
以前、伊勢神宮の霊山、朝熊(あさま)山にのぼったとき、山頂の磐座(残念ながら肩までコンクリートに埋まってしまっている)の説明板に、「あさまとはアイヌの言葉で、日が出てきらきらと輝く神を意味する」とあったのを思い出した。伊勢の海から朝日が上ってきたとき日を受ける位置に大きな磐座があり、岩全体は暗い赤っぽい色で青緑色にきらきら光る部分があったのを記憶している。
この甲府盆地にも、きっと先住民のアイヌの人たちが住み、彼らの神を祀っていたのであろう。浅間神社に入ると、右手の奧に大きな陰陽石があった。明日香村にもよくこのような古代の呪物がみられるが、ここは注連縄がかかりとても丁寧な祀られ方をしている。
社殿に近づく。参道は左手に折れ、社は東向きで、祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。
垂仁天皇八年の創始というからかなり古く、当初はここから二キロ南東の神山の麓に社を建て、木花開耶姫、大山祇命(おおやまつみのみこと)、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を祀ったとされる。
貞観六年(八六四年)に富士山が大噴火し、駿河国の浅間神社の神職の祭祀怠慢が原因とされたので、神の怒りを鎮めるため甲斐国八代郡でも富士山の浅間神を祀ることとなった。それがここに当たるのだという。
噴火の翌年の八六五年には、神山から木花開耶姫命を降ろし当地に遷座した。(山宮の社には、今も姫の夫神、父神の二柱の神を祀っているという)。富士山を噴火させる荒ぶる神の名は、浅間大神といわれるが、木花開耶姫命はその水徳によって噴火を鎮める力があるとされ、この姫神を祀る信仰が広まったということであった。
往時、甲府盆地では風雨による大きな災害が相次いだため、浅間明神を祀る社が幾つも建てられた。さらに神意にかなうように、山梨郡に立派な社が建てられた。複数の社が各地に造営されたため、一宮に関して諸説が生じることになったようだ。古代にはこの辺りが政治の中心地であったらしく、ここが一宮とされた時期もあったようだが、そうではないとする説もあるそうで、川口湖畔にある浅間神社が一宮ともいわれている。
拝殿正面には、子持ち石という大きな陽石があり、北側に別の陽石もあった。全部で三基ということになる。どれもただそこになんとなく置いてあるというのではなく、きちんと祭祀されており、子授けなど信仰の対象になっているのが感じられた。
もともとここは先住民の聖地であったかと思われる。垂仁天皇の御代になって、この地域は畿内勢力の支配下に入り、祭神も祭祀の方法も替わったのであろう。社伝にあるように垂仁八年、天皇家ゆかりの神々が神山山麓に祀られたということが、この地で新たな勢力が入って祭祀権が移り、新しい神々の祭祀が始まっていったことを意味するのだと思われる。その神々とは、九州に天孫降臨した天皇家の祖、瓊瓊杵命と妃の木花開耶姫命、姫の父の国津神、大山祇命であった。今回訪れることはできなかったが、二キロ南東にある神山が、おそらく先住民の崇拝する最も神聖な地であったのではないだろうか。位置からみてここは山宮に対する里宮のかたちで在ったかと思われる。
原初の古い縄文祭祀の巨石信仰が行われている地に、新権力者が持って来た彼らの神が祀られていく。大和の勢力の拡大に伴い、各地で同様のことが起きていたかと思われる。さらに後の時代になると、当地では浅間神を祀る富士山噴火の神鎮めの宮としての祭祀も始まったのであろう。
社殿の周りを巡ってみる。一花に二つの実を結ぶという、珍しい神木の梅の木が玉垣の中にあった。夫婦梅というそうである。二月下旬であるがまだ花は開いておらず、この地の気候の厳しさがしのばれた。社殿の右手には、「清めの砂」が盛り固められてあり、神籬(ひもろぎ)で囲ってあった。これは上賀茂神社にある立て砂(盛り塩の原型)のようなものであろうか。立て砂ほどには鋭く尖らせてはおらず、ゆるく盛り上がっている程度である。参拝時にこれを頂いて持ち帰り、家の玄関先や庭を清める人もいるのかもしれない。
また人型に刳りぬかれた祓いの石門があり、それをくぐっていくと十二支をかたどった石像が並んでいて壮観であった。これらはまだ新しく、可愛い姿に造られている。ほかに山型に刳りぬかれた富士石、富士山を遥拝する台石があった。その台石は富士山の方向を正しく示しているのだが、見ると浅間神社の社殿は、富士山の方向を向いているのではないのであった。(もっとも神社は一般に東向きが多いのであるが)
そのほかにも丸い太陽石、方位石なども置いてあってまさに石尽くしの境内、縄文の石も印象的であったが、さまざまな石の存在感が濃く感じられる神社であった。
2 酒折宮
石和温泉駅に戻り、JRでひと駅甲府方向に進んで、酒折駅に降り立った。酒折宮は駅から数分歩いた山の斜面にひっそりとあった。
もう夕刻であったため、ひと気もなく、静かに暮れかかる山を背にしたお宮のたたずまいである。境内には本居宣長の酒折宮寿詞(よごと)の碑が建ち(かなり長文で漢字のみ、難解で読めない)、西側の山の斜面には磐座らしいものが散見される。酒折神社は酒折宮とあるように、いかめしさもなく、山あいに営まれる村の鎮守社ほどの規模であるが、感じの良い雰囲気であった。
祭神は倭建命。問答歌の場面は記紀の両方にあるが、まず古事記のほうをみてみよう。
…すなはちその国より越えて、甲斐に出でて、酒折の宮にまします時に歌よみしたまひしく、
新治(にひばり)筑波を過ぎて、幾夜か宿(ね)つる
ここにその御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続(つ)ぎて歌よみして曰ひしく、
かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日(とうか)を
と歌ひき。ここを以ちてその老人を誉めて、すなはち東(あずま)の国の造(みやつこ)を給ひき。(古事記)
(倭建命は東国を平定しての帰途、この地で宿営していた。あるとき命が、新治筑波を過ぎて幾夜寝たことだろうか、と歌のかたちで、お供の人たちに問いかけられた。火を焚いている老人が続いて、日数を重ね、夜は九夜で、日は十日でございます、と歌ったので、命は誉め、老人をあづまの国の造になさった)。
日本書紀のほうをみてみよう。
…酒折の宮にまします。時に挙燭(ひとも)して進食(みをし)す。この夜、歌を以て侍者(さぶらひびと)に問ひて曰(のちまは)く、
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
諸(もろもろ)の侍者、え答えもうさず。時に挙燭者(ひともせるもの)あり。王(みこ)の歌の末に続けて、歌よみしてもうさく、
日日並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を
即ち挙燭人(ひともし)の聡(さとり)を美(ほ)めたまひて、敦(あつ)く賞(たまもの)す。(日本書紀)
皇子と老人の問答歌の場面は、古事記と同様であるが、老人は「ひともし」とある。褒美を与えられたようではあるが、その地域の長に任じられたようには表現していない。
社伝によると、老人の名は塩海足尼(しおのみのすくね)といい、倭建命は酒折を発って信濃国に向かうとき、老人に火打ち嚢(ふくろ)を授けたという。この品は、後に倭建命とともに酒折宮に祀られることとなった。
倭建命の軍は、東国を平定後、酒折に立ち寄ったという。記紀に語られる倭建の東征経路には二通りあり、古事記では、上総、新治、筑波から足柄、甲斐、信濃、尾張と続く。書紀によれば、上総、陸奥、日高見、常陸、新治、筑波、甲斐、武蔵、上野、碓日坂、信濃、美濃、尾張へとなる。
酒折には行宮があったようだ。すでに甲斐は畿内勢力の支配下に入っており、酒折の地は東国へ向かう皇軍の前線基地であったといわれる。もっとも現在酒折宮が建つ地は、往時はまだ沼地であり、命が滞在した頃の宮の位置は、社の背後をもう少し上った山の中腹にあったと伝えられている。古代と現代では景観も大きく異なっていただろう。
(勝手な想像であるが)歌の場面をもう一度みてみることにする。酒折の行宮に命の軍が滞在し、遠征の疲れを休めていたある夜、命は歌を詠んで臣下の人たちに問われたのであろう。
新治筑波を過ぎて幾夜か宿(ね)つる
神はしばしば高貴の人や神職者に降り、歌のかたちでものをおっしゃるので(たとえば住吉の神、託宣は常に歌でなされる)このときも神が降りたような感じで、命は歌い出されたのであろう。
座にいた人たちは居ずまいを正したかもしれない。単に軍旅の日にちのみを答えるのであれば、九日でございますとか、ただちに返すことはできただろうが、これが神詠であるのなら、誰でも気軽に答えるという訳にはいかない。神に向かい合い対等に歌で答えられるのは、神と同様の資格を持つ人、ということであろうから。
かがなべて(日日並べて)夜には九夜 日には十日を
しんとしずまったときが流れるうち、やがて翁の歌声が朗々と響いたのであろう。それは御火焚きの翁であった。古では、冬に日の光が衰えることから、山中で火を焚き、神に太陽の復活を祈る祀りを行うのである。
(余談になるが、火焚祭は今も多く京都の神社などで行われている神事で、収穫の感謝の祈りとも。特に伏見稲荷大社は、規模が大きいので有名である。毎年十一月に社頭で盛大に行われるが、伏見山中の各社でも御火焚祭の神事が行われている。
もうずいぶん以前、京都府に住んでいたときのことであるが、その日たまたま気が向いたので、伏見大社のお山に上っていった。熊鷹社の先のほうの参道をのんびり歩いていたら、茶店のおばさんと目が合った。「ああもう始まりますよ、はよう、はよう行きなさい」と急かされ、何のことかよくわからないまま、おばさんが指さしている山へと続く階段を、急ぎ足で上っていってみた。すると山中のお社に人が集まっていて、まさに何かの神事がはじまろうとするところ、神主さんから「玉串をどうぞ」といわれ動転した。
燃え上がる炎を見ていて、やっとこれはお火焚祭ではないかと気づいたのだった。そのとき火に対して厳かに接しておられる神主さんの所作を見ていて、ふと古事記の酒折の場面が心に浮かび、御火焚きの翁とは、こういう人のことをいうのではないかと思い当たり、ひそかに納得したのだった。流れてくる煙で目と喉が痛かったが、炎がしずまるまでその場でずっと見ていた。参列者はみな帰りにみかんやお菓子などをいただいた。はじめは何の神事かよくわからないまま見せて頂いていたが、予想もしなかっただけに、印象に残る体験となった)。
話が脱線したので、もとに戻すことにする。古事記のこの歌の場面、御火焚きの翁とは、土地の有力祭祀者であろうと思われる。この人は、倭軍の旅程のことはよく知らなかっただろうが、ただ心で感じるままに歌い、その内容はまさしく答えを言い当てていたのだった。
表面上は、まるで宴席の余興のような、皇子と翁の即興の問答歌のかたちになっているが、その本質は、皇子に降りた大和の神からの問いに、土地の神が翁を通して正答した、という情景ではなかったろうか。
神による試しの歌と、その返し歌の場面である。答えの内容は、このときすでに皇子の心にあったはずである。呪者である翁は、神が寄りついているので、相手の心を霊的に読み取り、即座に歌のかたちで答えられたのであろう。翁はこうしてすぐれて霊的な力があることを示したので、神意により(倭建命から)それにふさわしい地位を賜ったのであった…。
社伝によれば、倭建命は滞在するうちに、この地が気に入られたようである。ここを去るとき、塩海足尼に火打ち嚢を授け、「行く末はこの地に鎮座しよう」といわれたそうで、後に足尼はその意に従って社を建てて命を祀り、御嚢を神体として安置したと伝えられる。
火打ち嚢は、命が東征に向かう折、伊勢を訪ねて伯母の倭姫命(伊勢斎宮)から頂いたもので、焼津の野に誘い出され、敵に欺かれて火に巻かれたとき、危急を救ってくれた霊威ある大切な品であった。それを命はここに置いていったのである。
少し話がそれるが、一般に物語世界では、たとえば都の貴人が地方に滞在し、土地の女性を娶ったとき、生まれてくる子への形見の品として、扇、笛、冠、剣などの武具、装飾品、あるいは自分の衣類などを置いて去っていく。成長した子は母から話を聞き、実の父に会いたいと思うようになり、身の証となる父ゆかりの品を携えて都へ上るのである。
倭建命は各地で多くの女性を娶ったことだろう。そのまま旅に伴う場合もあっただろうし、別れる場合には、妻となった女性に、思い出とも形見ともなる品を与え、また次の地へと発っていたかと思われる。記紀には名前が載っていないが、酒折宮でもおそらくは翁の一族の女性(孫娘など)を娶ったことであろう。そして出立の際に、身につけていた嚢を翁に与えたのであろう。
倭建命は酒折を発ち、次の尾張の地に着くと、そこでも宮簀(みやす)姫という女性を娶っている。(熱田神宮の項でも書いている)尾張国造、乎止與(をとよ)の女(むすめ)で、東征の往路に滞在した際、結婚の約束をした女性である。東征後、命は宮簀姫としばらく居館で暮らしたと伝えられ、倭姫から授かった大切な草薙剣を宮簀姫に預けたまま、伊吹山へと旅立っていった。そして伊吹山の神を討伐しようと山に上るが、大氷雨に遭って遭難、病の身となって下山するものの、宮簀姫のもとへは戻らず、三重県の能褒野(のぼの)で没するのである。
伯母の倭姫命からの賜り物である護符のような品物を、そういう風に手放したことで、倭建の命運が尽きたという考え方がある。神剣と御嚢はいわば男性と女性の象徴、倭建命と倭姫の仲を示唆するようなことは、記紀には書かれていないが、伯母の心のこもった品は二つ揃ってひと組となり、倭建を守る霊威を発揮する力を持つものであったろう。(このことは伊吹山 ー神話への旅ーにも書いている)
命が相模(駿河とも)の野で焼き討ちにあったとき、嚢を開くと火打石があり、剣で草を払って向かい火をつけ、それで助かったのである。二つのうちどちらが欠けていても霊力は発揮できなかった。それなのにふと心に生じた慢心や自信からか、倭建命はこの品を手放し、そのときから運命は凋落していくのである。
またこのような考え方もできるであろう。倭建命は若いうちから武勇にすぐれ、西征では女装して熊襲を討つなど、智力も発揮した。加えて人望もあったため、皇位をおびやかす存在として父帝に疎まれ、半ば追いやられるようにして東征を命じられた。それは力を持つ神が、その力ゆえに天上から神やらいに追われ、遠い世界に追放されるようなものであった。厳しい条件下であったのにもかかわらず、命は西征に続いて東国平定にも成功し、任務は果たされたが、命にとってそのことはまた別の意味合いも帯びた。もともとこの旅は、帰還が許されない旅だったからである。
無事に大和には帰れないのではないか。伯父の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)のような例もあった。(入彦は東征に成功しての帰途、妬まれて讒言され、朝敵として岐阜で討たれた。伊奈波神社の項で書いている)
どこかで自らの死を予感していた倭建命は、大切な品であるからこそ、死後に人の手に渡って散逸することのないよう、帰還の旅の途中で出会った信頼できる人、愛した人に、形見として霊威の品を託したのではないだろうか。これら二つの品は、倭建にとって特別な思いのこもる品であったことは間違いないと思われる。
そして伊吹の神を討伐するために山に上ったとき、遭難が起きる。これが人為的に仕組まれたものかどうかはわからないが(そんなことは記紀には何も語られない)、その後の病状などからみて推測すると、単なる氷雨による遭難ではなく、なにかしらそこに仕掛けられたものがあるような気もする。
倭建の死後、火打ち嚢は塩海足尼によって酒折宮に祀られ、草薙剣のほうは宮簀姫によって熱田神宮に神宝として奉戴された。倭建命が託した人たちの手によって、二つの品は大切に守られ、そして今に至っているのである。
背後の山の中腹には酒折宮の旧跡があって、そこには磐座もあるというので上ってみることにした。社務所の人に道を教わり、いったん神社を出て、不老園という梅林に沿って山道をゆく。酒折連歌の道と名づけられている散策路であるが、勾配は急であった。
酒折宮の背後の山は通称を月見山(標高四八五メートル)といい、この山は神降臨の神奈備山で、古くは酒折御室山といわれたそうである。古の信仰がすたれたのか、由緒あるみむろやまの名が残らなかったのは残念なことである。大和の三輪山に似ていて、三箇所の磐座があるといい、三輪山のような聖地、神山であったのだろう。落ち葉の多い山道を上ってゆくと第一磐座に着いた。
少し平らな空間があり、六世紀頃のものとみられる横穴式古墳の石室跡、また複数の大きな磐座が固まって見られた。三輪山でいうと、ここは辺津磐座(へついわくら)にあたるのであろう。磐座には皇子と翁の歌が記されていた。磐座を見るために上ってきて、こういう細工をほどこしてあるのを見ると、落胆の気持ちが起きる。個人的には、磐座には何も手を加えないほうがいいと思う。
ここは酒折宮の旧跡という。この辺りにおそらく酒折宮が存在していたのであろう。山側にはそのことを示すらしい石祠(古天神)があった。ここからは酒折の町並みが見渡せ、盆地を取り囲む山々が遠望される。往時は青い水をたたえた湖か沼地が広がり、湖水に山々が映えて美しい眺めであっただろう。倭建命は三輪山を思わせるこの山麓の宮に馴染み、心なごむひとときを過ごしたのではないだろうか。しばらくの間そこにたたずんで、暮れなずむ眼下の情景を見ていた。
落ち葉が厚く積もっている山道をさらに進むと、左手の林の中に第二の磐座が現れた。三輪山では中津磐座(なかついわくら)に当たるものであろうか。夕陽が赤く差してきて、磐座を染めてゆく。標高がさっきより上ったので眺望はすばらしい。磐座は複数あって大きいものであった。ここも古代の祭祀跡なのであろう。
もう少し、と思って山道を上っていくが、やがて思い直して立ち止まる。頂上までゆくと、おそらく第三の磐座、神聖な奧津磐座(おきついわくら)があるのだと思われるが、まだ遠そうであるので、この辺りで先へ進むのを断念し、引き返すことにした。もう夕暮れがすぐそこまで迫ってきており、空気が急に冷えてきて、辺りはひっそりと静まっている。山は日暮れが早いのである。
静寂の中に、落ち葉を踏む乾いた音が響いていく。古代の情景を思いつつ下っていく。古の人もこんな風にしてこの山道を歩いたのであろうか。夕暮れ近いので、もう山道に人の姿はなく、さっき通った古墳まで下ってくると、ぽっかりと開口した石室内部は暗い空間に包まれつつあった。そこにとどまっているかもしれない被葬者のみたまにそっと一礼、磐座にも挨拶して山を降りていった。
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