熱田神宮・一之御前社 ー古代への旅ー
酒折宮を訪れた旅の帰途、熱田神宮に寄ることにした。新幹線の豊橋駅で東海道線に乗り換えると、ここからは各駅停車の旅である。大高駅で何気なくホームの案内板を見ると、史跡のひとつに氷上姉子神社(宮簀姫を祀っている)とあった。氷上山には倭建命(やまとたけるのみこと)と宮簀姫(みやずひめ)が暮らした居館跡(氷上姉子神社の元宮)があるらしい。もともとその辺りは火高火上の里といったそうだが、火災が相次いだので火高を大高に、火上を氷上に改めたとも…。ちょっと惹かれるが今から訪れるのは時間的に無理、また別の機会にと思いつつJR熱田駅で降りる。
熱田神社は広大な神社と聞いていたが、入口がどこなのかよくわからず、神域に沿って歩くうち名鉄の駅が見えてきて、鳥居があったので入る。東門であった。参道を進むお参りの人は多く、境内は伊勢神宮に似たような重厚な雰囲気が漂い、格式の高さが感じられる。境内には楠の大木が並び立ち、都会の中なのに思いがけず深い森をかたづくっている。
社殿の前にたたずむ。祭神は熱田大神。相殿には、五柱の神(天照大神、素盞嗚命、日本尊命、宮簀媛命、建稲種命)を祀る。熱田大神は、神社の由緒によれば「草薙の剣を御霊代、ご神体としてよらせられる天照大神のこと」。明治二十六年にそう定められ、社殿もそれまでの古制を改め、殿舎の布置も伊勢神宮にならったという。
けれども古来この神社に祀られてきた祭神、ご神体が草薙剣であるのは、よく知られていることであろう。明治以前には、社殿の奧に二つの社が並び、東の土用殿には草薙剣を祀り、西の正殿には神剣ゆかりの五柱の神々を祀っていたそうである。熱田大神については、天照大神、草薙剣の神霊、倭建命など複数の説があるようだ。
草薙剣の鎮座由来について、簡単にみておこう。
須佐之男命が八岐大蛇を斬ったとき、おろちの尾の部分から取り出された剣で、当初は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれ、須佐之男命が姉の天照大神に献上したとされる。その剣は天孫降臨の際に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に託され、以来宮廷内に八咫鏡(天照大神の神体)とともに安置されたという。
崇神天皇のとき、その神威が強いために畏れられて宮廷から出され、天照大神は皇女豊鋤入姫命によって笠縫邑に祀られた。垂仁天皇のとき、祭祀を引き継いだ倭姫によって、神鏡と神剣は大和から鎮座地を求めて伊勢に持ち運ばれ、祀られるようになった(伊勢神宮の起源)。古語拾遺によれば、宮廷には別に形代として神剣が造られ、安置されたとも。
そして景行天皇のとき、天叢雲剣は倭姫の手から、東征に向かう倭建命に渡される。焼津の野で敵にだまされ、倭建命が火に囲まれたとき、その剣で草を薙ぎ払い、倭姫からもらった嚢を開け、火打石で向かい火をつけることによって危機を脱し、敵を滅ぼすことができた。その霊威により、以後は草薙剣と呼ばれるようになる。
東征を終え、酒折から旅立った倭建命の一行が尾張に向かい、内津(春日井市)まで来たとき、副将軍の建稲種命(たけいなだねのみこと)の死を知らされる。酒折から倭建命とは別路をとって、尾張で合流、再会の予定であったが、駿河の海で水死したというのである。建稲種命は宮簀姫の兄に当たり、二人の父は尾張国造、乎止與命(をとよのみこと)といい、建稲種命は倭建命の東征に副将軍として従軍していた。
熱田縁起によれば、建稲種命が駿河の海で船を浮かべていると、珍しい鳥がいたのでこれを捕獲して倭建命に献上しようと追っているとき、突風が起きて船が転覆したとされる。戦死ではなく、偶然の事故のようである。
考えてみれば、倭建命もこの後、伊吹山で遭難、病を得て三重の能褒野で命を落とすのである。東征を成功させた将軍と副将軍が、帰還の旅の途中、思いがけないかたちで亡くなっていく。建稲種命の死は、ひとつの不吉な暗示、次に続く倭建命の死の前触れのようでもある。
尾張に着いた倭建命は、かねて約束のあった宮簀姫を娶り、火上山にあった館でしばらく暮らしたという。婚姻については「伊吹山 神話への旅」の項でも書いたので略すが、倭建命は東征の前に火高の館を訪れ、宮簀姫と婚約していたようである。
…すなはち婚(まぐはひ)せむと思ほししかども、また還り上りなむ時に婚せむと思ほして、ちぎり定めて東の国にいでまして…(古事記)
古事記にはこのようにあるので、推測すると、宮簀姫がまだ年のゆかない少女であったため、結婚をためらったというようなことであろうか。それとも東征の途に就く前の慌しい時期だったので、先延ばしにしたのであろうか。ちなみに命の軍が東征に費やした期間は、約三年間だったそうである。
古事記によれば、宮簀姫が帰還した倭建命を館に迎え、食事を差し上げたとき、宮簀姫が生理中であるのにもかかわらず酒盃をささげ、きものの裾の血に気づいた命と、生理についての歌をとり交わす、という場面がある。
記紀では歌が多く詠み込まれているが、女性の生理を巡って、男女で歌が交わされるのは、おそらくこの場面だけではないだろうか。それだけでもかなり唐突感があるのだが、宮簀姫の返歌が当意即妙、堂々と思いを歌い上げていることにも驚かされてしまう。このやりとりの場には色んな解釈があるかと思われるが、「古事記伝」によると本居宣長は宮簀姫の初潮の場面であるとみている。
一族の人たちは、建稲種命の急死を知り、悲嘆にくれたであろう。海難事故で亡くならなければ、建稲種は父の後を継ぎ、尾張を治める地位につくはずの人であった。東征の副将を務めたほどの人にしては、実にあっけない死に方で、謀殺も疑われるくらいであるが…どこかに油断があったかと思われる。後継となるべき建稲種の子どもたちは、おそらくはまだ幼かっただろうし、このとき尾張は有力な若い指導者を失って混乱し、情勢は不安定であったかとも思われる。
そんな中で、帰還した東征の英雄、倭の皇子を火高の館に迎え入れた宮簀姫の心の動きとしては、もう必死の思いで皇子にすがろうとしていたのではないだろうか。兄の急死によって延期されることなく、この婚姻はなされなければならなかった。
外観はまだ少女のような人だったのかもしれないが、生理がきているということは、すでに一人前の女性となった証、結婚が充分可能だと、暗に女性側から歌に託していざなったのではないかと考えられる。
倭建命は大切な神剣を宮簀姫のもとに置き、伊吹山へと旅立っていく。伊吹の神の討伐という新たな命令が下っていたのであろう。なぜ剣を置いたかという点については、酒折宮の項ですでに述べたので、ここでは省く。たとえ双方にとって政略的な意味を持つ婚姻であったとしても、そこには強い愛情関係が生じていたとみるのが自然であろう。
伊吹山で遭難し、病に倒れた倭建命は、ついに宮簀姫のもとへは戻らなかった。形見となった神剣は、倭建命の死後、宮簀姫が火高の地で奉戴していたが、老年になって身体が衰えたとき、神剣を一族の祭祀の場であった熱田の社地に卜定して遷し、以後はそこで祀られるようになったという(熱田神宮の起源)。宮簀姫は有能な祭祀者であったのだろう。
熱田の地は、古地図でみると、今と随分地形が異なっているようである。熱田は岬の突端にあり、二人が暮らした館のあったという火高の地も海の近く、現在陸地となっている名古屋市内も海である。年魚市潟(あゆちがた)と万葉歌にも詠まれているように、熱田の地名も、年魚市潟に由来するという説が有力で、海が近かったようである。ここにはかつてどんな情景が広がっていたのであろうか。
いくつかの摂社を回っていくことにする。なにしろ境内は広大であるので、全部は訪ねられなかったが、その中では別宮・八剣宮に心惹かれるものがあった。八剣宮は、規模は小さいものの本宮とほとんど同じ様式で建てられており、祭神も同じなら、祭祀も本宮に準じて行われるという。人が少なく、とても静かであった。社殿の周囲は緑豊かな森に包まれ、本宮のように社殿が壮麗で遠くに見えるのではなく、ほどよい距離感のなかに何かの気配が感じられ、神さびた雰囲気が漂っている。
再び本宮に戻る。入れ替わり立ち代り参拝の人が訪れて賑わっている。立派な社殿の脇には衛士の人が立ち、伊勢神宮なみの警護であった。三種の神器の一つである草薙剣を本殿に祀るのであるから、ものものしいのは当然かもしれない。拝殿横の木の陰でしばらく休憩をとることにした。
このとき左手の奧に、最近一般の人も入れるようになった聖所があって、時間は四時まで、ということを衛士さんに聞いて知った。長く立ち入りが禁じられていたお社があって、そこは神宮で最も尊い場所で、鎮座一九〇〇年にちなみ、二ケ月ほど前から参拝ができるようになったという。時計をみると後わずか、さっそく行ってみる。
立ち木に囲まれた静かな散策路「こころの小径」を抜けて進むと柵があり、そこにも衛士さんの姿が見え、奧に一之御前(いちのみさき)神社というお社がひっそりとあった。
一之御前には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀るという。荒御霊とは、ことに当たって勇猛で活発な行動として顕れる神霊、その働きや様相をいい、和魂(にぎたま)は荒魂がしずまり、穏やかになった神霊を指すという。
伊勢神宮の荒祭宮、西宮の廣田神社と同じ祭神である。先日廣田神社を訪れたばかりだったので、(西宮神社の項)この荒御魂の神様の長い名前をまだ覚えていた。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)。
でもそのような長い神名は書かれておらず、入口の案内板には、天照大神の荒御霊を祀るとあった。天照大神の荒御霊の別名には、撞賢木…媛のほかに、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと、罪や穢れを祓う祓戸神)もある。本居宣長「古事記伝」によれば、宣長は厄災を司る大禍津日(おおまがつひ)神と瀬織津姫命を同一視している…。
現在伊勢神宮に祀られる天照大神は、記紀に女神として表現されている。古来女神であったという説に対し、そうではないとする説もある。自然神の日の神(男神)を祀った巫女、大日霊貴(おおひるめのむち)が昇格したとみる説である。
また天照と漢字で書いても、その読みには二通りあり、アマテラスと読む場合には皇祖神を指し、アマテルと読んだ場合には、古の自然神である太陽神(男神)のほうを指すのだとか。このほかアマテルには、海(あま)照ると海の字を当て、海人族が祀った古の月神(男神)とみる説もある。
伊勢神宮内宮に祀られるのは大日霊貴、それは天照大神の和魂であり、本殿裏(北)の荒祭宮に祀られるのは、天照大神の荒御霊であるという。天照大神の荒御魂に、女性の神名が冠せられることがあるのは、男性神に仕えた巫女が、たびたび神がかりして託宣するので、次第に神と同一視されるようになったためとも。
撞賢木…媛も、瀬織津姫も、その名からみると、ともに水と関連が深いようである。
たとえば撞賢木…媛は、川辺などで水に浸って、禊にかかわるかたちで男神に奉仕、神のみあれを介助する巫女であったが(筑紫申真説)、祭祀を続けるうちに、祀るものと祀られるものとの境界が消えていき、習合し一体化、新たな神格を得て女神(妃神)となったらしい。
天照大神の荒御魂として、となえられるそれら可憐な女神の名の奧には、原像としての男神(夫神)の姿がある。それはまだ名も持たなかった古の自然神(雷や風や雲、太陽、月、星など天空に坐す神々)への原初的な崇拝から出発し、やがてあまてる神、というような名で呼ばれ祭祀されるようになっていく。
あまてる神を祀る神社は各地にあり、(対馬、奈良、京都、大阪府など、多くの地であまてるは祀られたらしい)、その神名には天火明命(あめのほあかりのみこと)が重なることが多いという。
あまてる神は、古の月神とも日の神ともいわれるが、おおむね男性神とされているようだ。信仰は時の政治と結びつき、政権の意向が反映されるので、ある時代には祭祀のかたちが変わったために、神の名が見失われていくが、また別の時代になって、その名が復活し、人々の心に想起されていくのだろう。神は人々の記憶から遠ざかることはあっても、滅んでしまうことはない。
伊勢神宮で続けられてきた女神の祭祀の中にも、そこには古の男性神の残像がうかがわれると思うが、それら古の男神の姿は、もう長く深く秘められたかたちであったために、付せられた女神の名に隠れ、姿をよくみきわめることは難しい。
瀬織津姫もまた謎に包まれた神といわれ、記紀に正式なかたちでは登場せず、その名がみられるのは、「大祓祝詞」と「倭姫命世記」のみであるという。その中で瀬織津姫の神格は、大祓祝詞によく顕れているので少しみてみよう。
遺れる罪はあらじと、祓へたまひ清めたまふことを、高山短山(ひきやま)の末より、さくなだりして落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売といふ神、大海原に持ち出でなむ。
かく持ち出でなば、荒塩の塩の八百道(やしおぢ)の、八塩路の塩の八百会に坐す速開都比売(はやあきつひめ)といふ神、持ちかか呑みてむ。
かくかか呑みては、気吹戸に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)といふ神、根の国底の国に気吹き放ちてむ。
かく気吹き放ちては、根の国底の国に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ)といふ神、持ちさすらひ失ひてむ。(大祓祝詞)
(残っている罪がないようにと、天津神、国津神が祓い清められることを、山の麓から激しく流れ落ちる急流の瀬におられる瀬織津姫という神が、罪を大海原に持ち出す。そして次に潮が激しく集まって渦巻く中におられる速開津姫という神が、罪を飲み込む。次に気吹戸におられる気吹戸主という神が、罪を受け取って根の国に吹き放ち、それを根の国におられる速佐須良比売という神が受け取ってさすらい、消滅させてくださる)
もろもろの穢れや罪は河川に流され、次々に神によって海からさらに遠くへ持ち運ばれてゆき、やがて深い世界の果てで消滅していくのだという。人が身に負った罪や穢れが、最終的に消えてなくなってしまうという考え方には、救済がある。それらの罪穢れを最初に受け取って、海に押し流してくださるのが瀬織津姫である。そのためこの神は水辺に祀られることが多いという。
さらに後の時代になると、瀬織津姫の姿はやがて仏教と習合し、そのかたちを変えていく。若く美しい女性を連想させる名の瀬織津姫は、三途の川のほとりで待ち、死者の衣をはずす役をする恐ろしい容貌の「奪衣婆」(だつえば)になっていく。渡し賃を持たずにやって来た死者から奪衣婆が衣をはぎ取り、「懸衣翁」(けんえおう)という老人がそれを受け取って、衣領樹(えりょうじゅ)の枝にかける。そこで衣の重さをはかって、死者の罪の有無や量刑を決めるとされる。この懸衣翁とは気吹戸主が変貌した姿であろうか。このほかに瀬織津姫は橋姫とも習合し、橋のほとりに住む嫉妬深い鬼女のように表現されることもあるという。
再び一之御前社に戻る。社号の一之御前にある御前(みさき)とは、ここでは岬を意味し、おそらくこの社が古の岬に祀られたことを示すのであろう。先に見た熱田の古の地形では、たしかに熱田は岬の突端に位置していたようであった。
一之御前社の前にたたずむ。みると敷き詰められた玉砂利の奧には祠が建ち、そこは清浄感漂う静謐空間であった。ここまで歩いてきた小径は、まっすぐに本殿の横を通りさらにその奧へと直線を引いたように伸びており、まるで古の奧津城へと通ずる一本道のような、そんな雰囲気の漂う静かな森の中の通路であった。
古に、おそらく霊威ある神霊がここに祀られたのであろう。古の神霊は森にひそやかに眠り、しずまったまま永遠の時を生きてゆく。けれども、その神霊をまもり、祀り続ける人間のほうは、目まぐるしく交替し、変遷し、時代の流れに対応しながら、移ろっていくのであろう……。
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