伊勢・志摩 ー原風景への旅ー 

              内宮・外宮・伊雑宮・斎宮 



 古の神々の面影を求めて、伊勢志摩を巡ることにした。内宮外宮については、朝熊山の旅、滝原宮と、すでに二度書いているので、重なる部分もあるが、今回は伊勢の後、志摩へ向かい、伊雑(いざわ)宮を訪ねる。




 1 外宮(正宮・多賀宮・下御井社・
      月夜見宮・度会国御神社・大津神社)



 
 外宮の参道を歩いてゆく。いつも思うのだが、森が深く、樹木に生命の力や勢いが感じられる。遷宮が数ケ月後に迫り、以前に比べ参拝の人が増えてきているようだ。
 正宮に着く。祭神は、雄略天皇の夢見により御饌津神(みけつ神、五穀の神様)として丹波から迎えられた豊受(とようけ)大御神、左側の新御敷地には社殿がすでに造営され、陽を受けて上部が金色に輝いているのが見えた。現社殿はと見ると、外側の柵や門、桧皮葺の屋根のいたみに、やはり二十年という年月の流れが刻まれている。社殿は一度建てて完成すると、神聖なので手をつけず二十年間そのままにし、途中で工事の人が入っての修理などは行われないそうである。
 パワースポットとして有名になった三つ石の側を通り、水路の上にかかる亀石を通って別宮へと向かう。昔宮川の支流がここを流れていたそうだが、災害で地形も流れも変わり、川は消えて今は境内の池にその余韻をとどめるのみである。三個の石を組み合わせた三つ石は、神事の際の川原大祓の場であったという。


 亀石は、池から流れ出る水路にかけられた平たい石で、亀に似ているのでそう呼ばれている(ちゃんと頭がある)。背後の高倉山の古墳の石(入口の岩、石棺の蓋とも)を持ってきたといわれている。古墳の被葬者に悪いような気がするので、なるべくそっと通り、山側の九十八段の石段を上がって多賀宮へ。
 多賀宮は豊受大御神の荒御魂を祀っている。宮の前に鳥居はなく、その理由は、荒御魂はご正殿の中に祀られる神様であったが、外へ出てお祀りされているためという。
 外宮の神については、雄略天皇のときに、丹波から来られた豊受大神である、というほかに諸説あるので、少し紹介しておこう。


 岡田精司説によれば、伊勢の度会は、本来太陽信仰の聖地で、渡会氏が日の神を祀っていたが、大和大王家による東方経営が進められた雄略期に、大王家の水上来臨の日の神が祀られることになり、度会の国津神である高倉山の太陽神が、外宮の豊受神となったそうである。宮の位置からみて、外宮が高倉山の神(古の太陽神、蛇体、水神とも)を祀る度会の宮であったとみるようだ。


 吉野裕子説によると、外宮の神は、北斗七星をあらわす豊受大神で、その本質は「動く円い車」であるという。そして内宮の神は、太一(たいいつ)といい、北極星の神霊をあらわし、天照大神と習合していったとされる。内宮の神である北極星の本質は、静なる神であり、「動く円い車」を駆ることによってはじめて動く神となり、宇宙を支配するという。そして大嘗祭の折のユキ殿は、北斗七星をあらわし、スキ殿は南斗六星をあらわし、両斗経由で内宮の祭神に神饌を奉奠する儀式であるのだとか。
 また中世の伊勢神道(度会神道)では、度会家行が豊受大神は、天之御中主神、国常立神と同神であるとした。




 新緑の中でしばらく時間を過ごしてから降り、風宮、土宮のあと、土宮の左手の径を入って下御井(しもみい)神社へと向かう。
 細い流れがあって谷になっている。少し離れて井戸も見える。外宮では神事の折や、毎朝のお供えの水を上御井神社(一般人は入れない)の井戸から汲み上げるそうだが、そこが使えないときには、ここ下御井から汲むのだとか。しばらくそこにたたずんでいた。風の道筋に当たるのだろう、ときどき心地よい風が山から吹き降ろしてきて木々が揺れ、どこかで山鳩がくっくうと鳴いては止み、また別の梢で鳴きはじめる。静かな緑の谷の空間であった。


 御厩へ行ってみると、笑智(えみとも)号がいた(前回見た路新号はもう亡くなったらしい)。白いきれいな馬で、狭い厩舎で思うように体を動かせないようなのが気の毒である。神宮の神馬は天皇家からいただくそうで、馬車を引くなどして人を乗せたことがない馬で、老齢で引退した雄馬が来るのだとか。優しくおとなしい感じなので雌かと思っていたけれど、皆おじいさんだったとは。隣の空の厩には草音(くさおと)号という名札がかかっており、どの馬も優雅な名前である。毎年の歌会始の御題にちなむ名で、ここで名づけるのではなく、来たときにはすでにもうその名を持っているのだとか。御料牧場の方が、その年生まれた子馬にその年の歌会始の御題にちなむ名をつけてゆかれるらしい。

 
 厩の左手に小径があったので、進んでいく。静かな森の中の通路である。さまざまな種類の大きな樹木が重なり合い、このような美しい森をかたづくっていることに気づく。しばらく行くと度会国御(わたらいくにみ)神社があった。外宮の神職度会氏の祖神を祀るという。さらに進むと大津神社、これは五十鈴川河口の神、葦原神を祀るらしい。古い土地の神々に挨拶し、行く手に根元の部分が洞になった大木があったので立ち止まり、不思議な思いにかられてしばらく見つめる。やがて進路は金網で閉じられて鍵が掛かり、そこから先へはもう進めなくなっていた。上御井神社へと続く道のようであるが、ここで引き返すことにする。


 新しくなった勾玉池を歩いてみた。遷宮館ができて、以前とは感じが変わってしまっていた。前回、この辺りでは何羽も鶏が遊んでいて、長いときの声を聞いたこと、池を一周していたら草むらから蛇が出てきて走って逃げたこと、などを思い出しつつ整備された遊歩道を歩いてみた。鶏たちはどこにいったのかまったく姿を見かけない。
 遷宮館に入って資料や展示品、ビデオ映像などを興味深く見学し、しばらく時を過ごす。帰りがけに係りの方に、勾玉池にいた神鶏のことを尋ねると、以前はたくさんいたが、夜の間に次々に獣に襲われて、いなくなってしまったとのことであった。




     月夜見宮




 神路通をまっすぐに進み、別宮の月夜見宮へと向かう。月夜見は日本書紀の表記、古事記のほうは月讀である。(内宮、中村には月讀宮がある)月夜見という神名には、どこか美しく叙情的な響きがある。古の月神を祀る宮で、道路から入ってすぐ正面にお社がある。


 祭神は月夜見命。天照大神の弟神に当たる。社殿には、月夜見命の和魂と荒御魂の両方が祀られている。記紀では月夜見命はあまり語られず、登場する逸話も少なく、どのような存在なのか、その像をなかなかはっきりと結ぶことができず、とらえがたい。


 ご神木は楠の大木、境内はおごそかな空気に包まれ、柔らかい光が差しこむほの暗い静かな森である。さして広くはないのだけれど、目に見えず漂うもの、流れるものの混ざり合う気配には、どこか懐かしさが感じられる。
 社殿の左には、根元が洞になった楠があり、内部は落雷なのか黒く焼け焦げた部分が見られ、そこにはお稲荷様が祀られていた。境内右手には国津神を祀る高河原神社があり、祭神は農業神、土地神とされているが、月夜見命の荒御魂を祀るという説もある。


 神社では、二礼二柏手一礼で拝するものと思っていたが、ここでは違うらしい。二礼四拍手でお参りする人がおられた。たしか出雲大社も、二礼四柏手一礼だったと思う。伊勢神宮では、神職の拍手は八回も打つのだそうだ。柏手の数が多いのは、丁寧にすることをあらわすためだろうか、それとも祀られている神様の数が多いからだろうか…。




  2 内宮
    (正宮・荒祭宮・滝祭宮・月讀宮・猿田彦神社・倭姫宮)
    ・斎宮(竹神社)




 外宮から内宮へとバスで移動する。いつの間にか夕暮れ近くなっていた。内宮の参道は外宮より長く、森も奥行きがある。五十鈴川に手を浸して清めたあと、川のほとりの滝祭宮へ。五十鈴川の守護神、滝祭神を祀っていて、社殿はなく垣が巡らせてあるのみ、石の座に石神が祀られている。木立に囲まれた場所で、訪れる人は少なくひっそりとしている。


 崇神天皇のとき、神威が強いため畏れられた天照大神は、宮廷から出ることになり、皇女豊鋤入姫命が倭の笠縫邑でお祀りした。まだこの頃は、日神である天照大神は、天照御魂(あまてるみたま)神で、男神であったらしい。その後、御杖代となった垂仁皇女倭姫命に奉戴され、近江や美濃など各地を巡幸の末、伊勢に来て五十鈴川上の地に鎮座した。


 伊勢の海人族が古から祀ってきた水神、日神、月神はみな男神であったとされる。そして男神に仕えた巫女がやがて昇格、姫神となり、大和大王家が伊勢の祭祀権を掌握したとき、巫女(おおひるめのむち)を女神(天照大神)に転化したという説が、学界では有力とのことである。外宮・内宮の社殿が営まれ、神宮祭祀が制度として定まったのは、天武天皇の時代という。古代中国の思想や宗教が影響を与え、日本の古来の信仰に重なるかたちで祭祀が定着、祭神の持つ性格も変遷していったとみられている。


 大神鎮座のくだりを日本書紀から少し引用してみよう。


…天照大神を豊鋤入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託(つ)けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐(ま)させむ処を求めて、菟田の笹幡にいたる。さらに還りて近江国に入りて、東美濃をめぐりて伊勢国に到る。
 時に天照大神、倭姫命に誨(をし)えてのたまはく「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重(しき)波帰(よ)する国なり。傍(かた)国のうまし国なり。是の国に居らむとおもふ」とのたまふ。故、大神の教えのまにまに其の祠(やしろ)伊勢国に立てたまふ。よりて斎宮(いはひのみや)五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮といふ。すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり。(垂仁紀)


 これを読むと、天照大神は大和から伊勢に向かうのに、一志越えでも鈴鹿越えでもなく、伊賀、近江、美濃を巡って行くという大変な遠回りをしている。気になる点は二つあり、一つは「さらに還りて近江国に入りて」とあるくだりである。なぜ「還りて」なのかがわからない。
 これをふつうに、さらに引き返して、戻って近江国に入って、と解すれば、大神は大和を出発して伊勢を目指したというのではなく、はじめは伊勢から大和に来て滞在していたが、大和から伊勢に帰っていった、という意味にとれてしまう。大神のもとの出発点は伊勢であり、伊勢から大和に来て長く祀られていたが、やがて伊勢に戻られた、というように読めてしまうのである。


 もう一点は、「すなはち天照大神の始めて天より降ります処なり」で、この文の通りであると、大神がはじめて降臨された地は伊勢、という意味になる。


 日本書紀にはこんな記述もある。


…天皇、倭姫命を以て御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ。…神の誨(おしへ)の随(まにま)に、伊勢国の渡遇(わたらひ)宮に遷しまつる。(垂仁紀一書)


 これをそのままに読めば、倭姫は現在の内宮ではなく、度会宮つまり外宮に大神を遷座させたということになるが…。


 次に「太神宮諸雑記帳」をみてみよう。それによると、


…皇太神宮の託宣として、次のような次第が告げられた。自分(天照大神)がまだ天上の宮にあったとき、天下四方を見渡し、天下の宮としてふさわしい場所を物色し、見定めたので、そこに降ろうと思う、といわれた。そこで倭姫命が旨を受けて各地を歩き回った。ようやく伊勢に至り五十鈴の川上が「最も勝地なり。その妙、他処に比すべからず」ということで、大神を迎えようとすると、大神は託宣し、この地こそ天上から見定めた所、といわれた、とある。(川村二郎著「伊勢の闇から」講談社より)


 これを読むと、あらかじめ大神の鎮まられる地は伊勢に決まっていたかのようである。


「伊勢国風土記逸文」では、次のような記述もみられる。


…神武天皇の軍が、(九州を出て)東征の旅で大和の菟田まで到ったとき、天日別命(あめのひわけのみこと)に剣を与え、東方の国の平定を命じられた。それで天日別命は山を越えてゆき、その国の神、伊勢津彦に会って服属の諾否を問うが、拒絶される。そこで天日別命が兵を興し、伊勢津彦を殺そうとすると、伊勢津彦は平伏し、領地を献上、自らは伊勢を去ることを誓い、そのしるしとして、大風を起こし、波に乗って去ると告げた。
 その夜、大風が起きて波が高くなり、海も陸も光り輝くようになったとき、伊勢津彦は約束どおり波に乗って東方に去った。「神風の伊勢の国、常世(とこよ)浪寄する国」というのはこのことをいうのである…。天日別命がこのいきさつを復命すると、天皇は喜ばれ伊勢の国を天日別命にたまわり、その任国とされた。(伊勢国風土記逸文)




 ここでは地方の国が中央に統合されていく様子が表現されている。伊勢津彦は出雲と関連があるといわれ、そうなると伊勢津彦もまた外来の一族であったのかもしれないが、それはともかくとして、伊勢はこのときから大和大王家の支配下に入ったようである。伊勢津彦が祀っていた神(おそらく太陽神)は、そのとき神武の軍の信奉する神に敗れたことになる。
 古代では、実際の戦闘は人が行うが、それぞれの軍が奉ずる神と神の戦いであると考えられていたらしい。土地の神が、侵攻してきた新来のより強力な神霊に敗北するとき、人もまた敗れ去るのである。祭祀権は大王家の手に移り、地方神は大和に従属、習合されていったかと思われる。


 一般に地方の国が大和に屈した場合、神宝など祭祀の対象は支配者側の手に委ねられる。海、山、川の土地の産物が貢進され、首長の娘や妹などが(釆女として)差し出されてゆく。霊力ある女性が多かったそうである。彼女たちは服属の証として、それぞれの土地の魂がこもっている国魂神を身にそえて大和に旅立ち、国魂の霊威を大王のために捧げ(国魂を得た者が、その国を支配できる)、宮廷にとどまることになる。
 

 記紀を読むと、古代の大王、天皇の妃の名として、出身の地名とともに○○の女(むすめ)や妹と、記載されている例がいくつかみられる。宮廷内にはそうやって多くの地方神の神霊が集約、吸収、祭祀され、それらの神威を身につけて束ねるかたちで統治したのが大王ということになるのだろう。


 古に太陽信仰は盛んであり、各地で太陽神は祀られていたという。大和でも天照御魂の名で、太陽神はいくつかの神社で祀られているが、伊勢にも強い自然霊、太陽霊が多く祀られていたことだろう。伊勢が大和の傘下に入ったとき、(太陽をかたどった)鏡は神宝として大和に献じられ、宮廷内で祭祀されたのではないだろうか。


 宮廷に祀られた天照大神は神威が強く、崇神天皇のとき「その勢を畏れたまひて共に住むに安からず」というほどであったので、皇女豊鋤入姫に託(つ)けて天照大神を宮廷から出して倭笠縫邑に祀った、と書紀は伝える(崇神紀)。
 笠縫からさらに大神は皇女に奉戴されて各地(丹波、紀伊、吉備など)へゆき、地方でも祭祀されていった。地方の神霊を服属させ、霊威をさらに増幅させる意味もあったろうか。神霊(八咫鏡)は各地を経て大和に戻るものの、長くはとどまらず、再び倭姫に奉戴されて大和を出て旅の日々を重ね、最終的には伊勢に鎮まるのである。


 山中智恵子によると、奉戴する皇女と大神(神鏡)の旅の様相は、
「固有名としての倭姫ではなく…みずからの神を負うて、異境の神を礼拝しつつ、国境や川のほとりに、斎瓶(いわいべ)を据えて歩いた、国まぎ、神まぎの遍歴の姿を語っている」(斎宮志)
と表現される。




 内宮の長い参道を歩いてゆく。玉砂利の道は歩きにくいものだが、石を踏むときの音は邪気をはらうとされているのだそうだ。古代の呪術なのであろうか。確かに歩くたびに空気を切るようにざっざっと独特の音が連続して響いていく。


 石段を上って正宮に着いた。主祭神は天照大御神。相殿には天手力男神(たじからをのかみ)と万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)。
 御垣内の西北隅には、地主神の興玉神(おきたまのかみ・猿田彦命)と妻の宮比神(みやびのかみ・天鈿女命)が鎮座、ほかに神庭守護の神として、屋乃波比伎神(やのはばきのかみ)も。これら三神の社殿はなくて、石畳の上に石神として祀られているという。御垣内なので一般人が参拝することはできない。


 新御敷地にはすでに新しい社殿がほぼ完成しているようであった。新社殿を眺めようとするが、見えるのは上部のみ、まばゆく輝いているのは外宮と同様である。
 荒祭宮のほうへと回り込んでゆく。谷になっていて、石段途中(かなり下のほう)には聖石「踏まぬの石」があり、踏んではいけないとか。神様が歩かれるので道の真ん中を避ける戒めという説や、天から降ってきた石との言い伝えもあるそうだ。これを探しながら歩くと、自然とゆっくりした足どりになってゆく。


 荒祭宮では天照大御神の荒御魂が祀られている。鳥居がないのは、もとは内宮の神様と一体であり、内宮に祀られてのち、外に出されたためという。外宮の多賀宮と同じ理由であろう。正宮に比べるとかなり人は少ないが、小川が流れゆき緑に包まれた社殿周辺の空気はすがすがしい。ここを荒祭宮というのは、神がみあれ(御生れ、顕現)される場であるからという説も。
 

 荒祭宮を出て野鳥の声を聞きつつ、路をたどっていくと、四至神(みやのめぐりのかみ)の石の座に出る。社殿はなく、地面から小高くなった石垣に、小石が敷き詰められた空間があり樹木がみえる。ここには四方の神域を守る神様が祀られている。


 橋を渡り、風日祈宮(かぜひのみのみや)へと向かう。濃く影を落とした緑が心に染みるようで、ここは情景の素晴らしさに惹かれ、どうしても立ち止まってしまう場所である。風日祈橋の手前や橋の上から、また振り返ってと、夕暮れの中に沈みつつある景色を見つめる。わずかな時間の経過にもそのつど趣が変わり、眺めて飽きない。


 御厩のほうに回ってみるが、時間が遅いので、もう神馬は帰ったあとであった。神苑の池に行って寄ってくる鯉を見て、鶏を探すと木の側に一羽だけ白い鶏がいた。人が近づく気配を感じると急いで逃げ、高い木の枝に飛び上がる。よく見ようとして枝の下に立つと、警戒してさらに上の枝に飛び、身を隠して動かない。夜はいたちなどに襲われないように、こうやって安全な木の上で寝るのだろう。



 
 神宮会館に一泊する。ここでは毎朝、早朝参拝があり、職員の方が内宮の案内をしてくださるそうなので、参加しようと思い、朝六時半にロビーに降りていった。この日は二班編成、外へ出てみると、思いのほか寒い日で、大変な強風であった。宇治橋の手前で、鎮座の説明を聞き、橋を渡って参道に入り、火除橋を渡っていく。防火のための橋で、昔はここまでお店があって賑わっていたのだとか。


 正宮に着くと、吹き荒れる風に煽られて、ふだんは下がったままの御帳(みとばり)の白い幕がずっと上ったままで、喜んでおられる参拝者もいた。往復の道すがら神宮の由来や逸話など色々お話を聞くことができ、宿に帰ると予定の一時間四十分をゆうに越えていた。寒さに震えたが、すがすがしい朝の参拝であった。




     猿田彦神社




 猿田彦神社へ向かう。祭神は猿田彦大神。猿田彦を祀るゆかりの社は、中村にある宇治山田神社、興玉の森というが、ここは内宮に近いためか賑わっている。
 猿田彦は天孫降臨のさい、天孫を出迎えて高千穂へと先導した異形の神、天狗の相貌で表わされる。その末裔の大田命(宇治土公宮司家の祖)は、倭姫命の一行が各地を巡幸して伊勢に入ったとき、倭姫を天照大神の鎮座地にふさわしい霊地へと案内した。かつて猿田彦が天孫を出迎え、恭順の意を示した神話を、その子孫が反復、再現するというかたち、神話の同化なのであろう。故事はなぞられ、繰り返されるのである。


 大田命が倭姫命に奉ったのは、現在の内宮のある地といわれ、土地神の猿田彦の神霊は、興玉の森の社に遷され鎮まったとされる。内宮の御垣内の一隅には、猿田彦は石神として祀られているそうだ。猿田彦については、色々な説があるが、伊勢の地で古の太陽神を祀った地主神とする説が有力である。


 猿田彦神社の社殿にたたずむ。伊勢を領有していたという猿田彦の神は、天くだった天孫に仕え、高千穂から還ったあと、阿射加(あざか、現在の松阪)の海で溺れ不可解な死をとげた。異形の神のたどった運命の変転を思うが、参拝の人たちの笑いさざめく声に、想念は掻き消されていく。


 境内の中央には道案内の神にちなみ、八角形の方位石が置いてあった。降り注ぐ日差しの中でたくさんの人が石を撫でて、運気上昇を祈願している。境内の一角には近年造営されたらしい猿田彦の妻神の天鈿女(あめのうずめ)命を祀る佐瑠女(さるめ)神社もあり、こちらは芸能・技芸の神とされるが、恋愛の願いもきいてくださるのか、若い女性たちに人気のようであった。




     倭姫宮・徴古館




 バスで徴古館へと向かう。倭姫宮の鳥居が見えたので、先にそちらを参拝してゆくことにする。祭神は倭姫命。倭建命の伯母にあたり、東征の旅の折、伊勢に立ち寄った倭建命に草薙剣と御嚢を授けた人である。倭姫は垂仁天皇皇女、御墓もこの近くの山にあるという(尾上御陵・おべごりょう、伝承地とされる)。倭姫は大神を祀った後、倭に戻っていったという説もあるそうだが、当地には御陵の伝承も残ることから、伊勢にずっととどまったとする説が有力なのであろう。
 ちなみに神宮の中では、この倭姫宮は一番新しく、(大正時代に)その功績を顕彰する機運が高まり、造営されたということであった。若い女性の参拝が多いそうである。いつ訪れても静かで清らかな雰囲気が漂い、緑が美しい宮である。


 徴古館・農業館を見学、今回で二度目になるが、徴古館入口の倭姫の巨大な像には、ちょっと違和感を持ってしまう。倭姫はこんなに丸々して逞しいのではなく、もう少しほっそりした体型に造形してほしかったと残念なのである。杖と笠の旅装、荒野を行く弘法大師のような感じではなくて、神を斎いた高貴な女性らしく、服装も青か茜色の裳をつけた優雅なお姿のほうがふさわしいのではないかと思うのだが…。館内で多くの展示品を見て回った後は、バスで五十鈴川駅に出て、近鉄に乗り斎宮駅へと向かった。




    斎宮(竹神社・斎王の森・歌碑)




 斎宮はさいくうと読み、天皇から派遣されて伊勢の大神を祀った皇女を指すが(斎王ともいう)、皇女の住んだ建物のことも意味するそうである。ここも再訪なので、以前と同様の道筋で線路に沿って数百メートル歩き、竹神社からはじめる。


 挙げられた祭神名が多いのに驚いてしまう。長白羽神、天照御大神、須佐之男命、八柱神、応神天皇…瀬織津姫命まで合わせると二十柱近い。(祭神は倭姫命という説もあるという)主祭神の長白羽神は、麻の栽培や技術に関する神様で、麻績氏の祖神。祭神がこんなに多いのは、近隣の社を合祀したためという。現在のお社は近鉄の線路際にあるが、もとは線路を渡った向こうの斎宮趾の森の西方にあったとされる。
 

 垂仁天皇の御代に、竹連(たけのむらじ)の祖、宇加之日子の子、吉日子が天照大神の行幸に供奉して(倭姫の巡幸のことか)この地にとどまり、後の時代になって、その末裔が社を創祀したそうである。お社には古色が感じられ、荒れ果ててはいないけれども、よく手入れされているともいえず、あまり人も訪れないようだ。かつて地域ではよく崇敬されたが、今は寂れつつあるお社に漂う、過去の風格らしいものも感じられるお社であった。


 線路を越えてすぐの建物、「いつきのみや歴史体験館」(無料)に入ってみる。古代の優雅な衣装や乗り物、貝合わせなどの遊び道具、お香、香木の展示があった。麝(じゃ)香、沈香、伽羅、丁子、桂皮、龍脳、などがガラス瓶に入って置かれてあり、蓋を取って香りを試すこともできるようになっている。匂い袋のようなかすかに甘い香りや、インドの香料のような強い香りなど、少しずつ違っているのが面白い。
 体験館はすぐに見終わってしまい、再び外へ出る。広大な草原の中では、あちこちで今も続けられているらしい遺跡の発掘現場が眺められる。強い風が痛いように吹きつけてくるが、風を避けようもなく辛抱して農道を歩き、かたまった緑の樹木を目印に「斎王の森」へと向かう。
 

 黒木鳥居が立ち、まるで墓碑のように斎宮宮趾と刻まれた石がある。付近には山はなく、はるか遠くに山脈がわずかにのぞまれるが、折りたたまれるように重なっていく大和連山、山や谷川の織りなす湿潤な情景とはまったく異質な光景が広がっている。さえぎるものもない広々とした農地が続き、のどかであるがどこか侘しい印象、往時は並んだ斎宮関連の建物のほかは、辺り一面寂しい草原という感じだったのではないだろうか。
 陽は明るく森に降り注いでいるが、心象としては翳っている。風景はごく単調であり、都の生活に慣れた人にはつらいものがあっただろう。ここにたたずむと、都を離れ家族と別れて、神に仕えた高貴な女性たち、ここで過ごした斎宮の孤独や寂寥の日々を思わずにはいられない。以前「斎宮志」(山中智恵子著)を読んだが、斎宮一人ひとりの不幸な生が丁寧に掘り起こされていて、深く共感したことを思い出す。


 道を進むと、道路際に歌碑が立ち並び「歴史の道」と名づけられている。歴代の斎宮の歌だけではなく、伊勢に関する各時代の歌人の歌も選んであるが、その最初の歌は、ひそかにたずねてきた弟、大津皇子を見送った大伯皇女の歌二首であった。


わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし


二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ (万葉集)


 大津皇子は天武天皇崩御の後、謀反の嫌疑を受けて持統天皇に殺され、大伯皇女は任を解かれて大和に戻るものの、後に名張の夏見寺に入って生涯を終えた悲運の女性である。


 伝承上での斎王は(豊鋤入姫や)倭姫など数人の名が伝えられており、それぞれにまつわる逸話も残っているようであるが、どの人も幸せであったとは感じられない。神を斎くため選ばれて遠隔の地に赴くとは、何らかの(政治的、個人的)事情による都からの追放、という側面も持ったであろう。生い立ちが不遇であるとか、母親がすでに亡くなっている皇女の中から選ばれる場合があったとも…。なにはともあれ、最初の斎宮として記録に残る大伯皇女の名は、これら悲しみのこもる歌とともに強い印象を残す。


 歌碑の列は続き、全部で二十四首、中には在原業平や西行の歌も入っていた。一本の柱に二首ずつ表裏に記されてあり、全部見ていった。歌碑の列が終わりに近づく頃、近くには塚山古墳群があらわれ、草に覆われ林の中にゆるく盛り上がった円墳も見られた。おそらくここは五世紀から七世紀ぐらいまでの、土地の首長たちの眠る墓所なのであろう。


 古墳の側に立てられた歌碑の列は、古の死者を慰める列柱のようでもあり、ここで生きることを強いられた斎宮自身のみたまに捧げられた墓標のようにも映るのであった。歌碑は、最後の斎宮とされる祥子内親王(後醍醐天皇皇女、斎宮に卜定されるものの戦乱で野宮から退下し、伊勢下向はされず、斎宮制はここで廃絶)の歌で終わっていた。
 斎宮歴史博物館の近くまでやって来た。近代的な建物で、以前見学しており、斎宮群行を再現したビデオ映像や、復元模型、出土品などもすでに見ているので、今回は省略し、斎宮駅へと戻った。




     月讀宮




 五十鈴川駅から宿へと戻る途中、中村のバス停で降りて月讀宮を訪れた。参道の入口が暗い。昼間は爽やかな森の小路だが、夕刻だとトンネルに入るようである。参道は長く、行く手が何度もねじ曲がっていくように感じられて、なかなか到達しないのであった。何年か前に来たことがあるが、まるで違う場所に来たようで、とまどいを覚えた。見知らぬ異界に入っていくような怖さが漂い、夕暮れのお社には、こんなふうに昼間とはまったく異なる時が流れる空間があるのだ、と思ったことであった。
 ここを詠んだ西行の歌を紹介しておこう。


さやかなる鷲(わし)の高嶺(たかね)の雲ゐより影やはらぐる月よみの杜(西行)


 社殿に着いて、四つのお社が整然と並んでいるのを見て、ようやく以前の記憶がよみがえってきた。まず主祭神に詣で、荒御魂に祈り、そのご両親の宮に挨拶する。この順番で間違っていなければいいのだがと思いつつ社を離れ、中村バス停への近道かと思って別の鳥居を出るが、そこで方向を見失う。もとのバス道がわからないのである。  
 適当に歩いて探すものの見つからないので、バスをあきらめ宿まで歩いて帰ることにした。さらに内宮の方向も自信がなくなってきて、もう通行人に聞くしかないかと思い始めたときに、猿田彦神社の大きな看板が右手前方に見えて、正しい方向に進んでいたことがわかり、ほっとしたのであった。
 二日間でたくさんのお社を回ったが(内宮、外宮ともに二度参りした)、伊勢をここで終えることにし、宿に預けてあった荷物を受け取り、バスで五十鈴川へ出て近鉄に乗り、伊雑宮を目ざし志摩へと向かった。




3 伊雑宮(天の岩戸・おうむ岩・御神田)




     天の岩戸(水穴・風穴)




 志摩磯部に泊り、早朝の路線バスでまず天の岩戸へと向かう。バス停からすぐ山中の長い参道に入り、水源になっている神路湖を左手に見ながら歩いてゆく。時折鶯が鳴く山道の途中に、恵利原のオオシマザクラという桜の大木もあり(もう葉桜)、徒歩二十分で天の岩戸に着いた。静かな山の中に禊の滝場やお社があり、小さな石鳥居の奧には洞窟が口をあけ、そこからこんこんと水が流れ出ている。爽やかな水音が耳に心地よく響くここは「恵利原の水穴」というそうだ。洞窟の入口は人が通れるくらい、奧はかなり深いそうである。山の冷気が漂い、修行のお滝場などもあることから、神仏習合の雰囲気も感じられた。


 洞窟内から湧き出る水量は豊かで名水という。竹筒で引かれており、手際よく水をポリタンクに受けている方にうかがうと、定期的に車で汲みにきておられるそうだ。伊勢からも道路が通じており、駐車場もあるので、訪れる人には便利になっているのだった。水を手に受けてみるととても冷たい。
 洞窟に近寄ると、ひんやりとした風が奧から吹いていた。これまで天の岩戸といわれる所を何箇所か訪ねてきたが、(高千穂、天香具山、京都大江町、戸隠、伊勢二見など)同じ天の岩戸という名ではあっても、立地は川辺、山麓、山中、海辺、と異なり、景観の雰囲気も規模も違っている。天上での、天照大神の岩戸隠れや岩戸開きの神話が、各地でそれぞれに解釈され再現されるためであろう。


 山を登った所には風穴があるというので、さらに勾配の急な山道を上っていった。約十五分で山中の岩山の斜面の風穴に着く。さっきの風穴よりは狭く、しめ縄が張ってあった。訪れる人がひとしきり続いていたが、とだえると辺りには静寂が広がってゆく。野鳥の声が木々の間からこだまのように響き、ぽっかりと開いた黒い風穴からは、ゆるく冷風が降りてきて見えない渦を巻き、やがて四方に拡散してゆくようだった。しばらくそこで時を過ごしてから山道を降りた。



 
     おうむ岩




 磯部方面へ向かうバスに乗り、おうむ岩を訪れる。最寄りのバス停で降り、地元の人に道を教わり、舗装道路ではあるが、徒歩で四十分以上、ようやく山上のおうむ岩に着いた。
 見上げるほど大きな一枚岩があり、その前に古いお社が建っている。「聞き場」があり、五十メートル下方に「語り場」がある。語り場でなにか言うと、岩にはね返ってまるで岩が話しているかのように聞こえるのだとか。
 同行者と石段を行き来して交代し、何度か試してみる。語り場には拍子木も置いてあり、声を出すのが恥ずかしい人はこれを打つらしい。確かに山彦のように、人の声がちょっと違う感じに聞こえてくる。私は耳がよくないので、うまく表現できないが、同行者によれば、拍子木の音は高く響きすぎてよくないが、人の肉声のほうは柔らかくふわっと上から降ってくるように響いてきた、ということであった。
 古代では、こういう現象は神秘ととらえられたことであろう。聞き場は神託を聞く場であったのかもしれないと思う。今はほとんど訪れる人もなく、寂しい場所になっている。
 傍らの階段からおうむ岩展望台へと上ってみると、磯部の集落や田園風景が一望でき、これから向かう伊雑宮の森も見渡せた。ここで菓子パンとくだものとお茶の昼食をとってしばらく休憩、山を降りてゆく。途中、傍らの山林から、がさがさと何か小動物らしいものの動く気配が…目を凝らすといたちであった。動きはとてもすばやく、じきに茂みに姿を消した。




     伊雑宮




 伊雑宮の森を目指し、田に舞い降りる小サギを見ながら農道を歩き、鳥居前に着いた。志摩一宮であるが、雰囲気は伊勢内宮の別宮である。参道を進むとじきに神明造の社殿に出る。ここは天照大神の遥宮(とおのみや)と呼ばれ、祭神は天照大御神御魂。
「倭姫命世記」の鎮座伝承では、倭姫命が御贄地を定めるため志摩を巡幸した際、夜昼なく鳥が高く鳴くのを怪しんで人を遣わすと、伊雑の葦原に稲が生え、白い鶴が穂をくわえて鳴いていた。稲を伊佐波登美神(いざわとみのかみ)に抜かせて大神に献上し、宮を建てたことが起源であるという。
 

 伊雑宮は中世には戦乱に巻き込まれ、荒れはてたらしい。
 源平合戦の折には、熊野衆に襲撃されて社殿が破壊され神宝を奪われ、さらに後の時代になると、九鬼氏に広大な神田(磯部地区の神田は四千二百石という)を奪われ、やがてそれらの神田は鳥羽藩の領地となってゆく。神職らは神領回復をはかって江戸へ上訴を試みるが、鳥羽藩に阻止され、神官五十余人が捕らえられて神島に流された。


 その後も上訴を続けるが失敗し、内宮・外宮より伊雑宮が尊いことを強く主張しはじめるものの(伊雑宮は最も古い宮で天照大神を祀り、内宮は瓊瓊杵命、外宮は月読神を祀るとした)内宮・外宮の反発を買い、三宮本家争いの末、朝廷の決裁で「伊雑宮は内宮の別宮」と定められた。納得できない神職らは将軍家綱に直訴するが、神人四十七人が伊勢志摩から追放処分となる。


 この後神人らは、神道家や儒学者、僧に依頼し、伊雑宮が内宮外宮に比して優位であることを記した書物「大成経」(伊雑宮を本宮としている)を刊行、知識人の間に広めていくが、幕府は偽書と断定、本を発禁とし、版木を破壊、関係者は流刑・追放となった。




 伊雑宮はその歴史をみるかぎり、敗北し続けたお宮なのであった。伊雑宮の祭神は、「延喜式」「皇太神宮儀式帳」では天照大神御魂、中世以降からは伊射波登美神、玉柱屋姫の二柱とされ、また外宮神職だった出口延経(江戸時代の人)によれば、伊雑宮の祭神は伊勢津彦であるという。明治からは再び天照大神御魂となった。


 伊雑宮は志摩一宮というが、たたずまいは完全に伊勢別宮のものであった。また所管社(所属社)の佐美長(さみなが)神社には、地主神が祀られているそうである。鳥羽市にも(鳥羽藩が造営したとされる)志摩一宮を称する伊射波神社があるというが、交通不便なところにあるため、訪れなかった。


 伊雑宮の境内には、樹齢七百年という古木が多く、ねじれた木、風変わりなかたちをした木が目につく。印象に残る神木は、勾玉池の側に立つ、根元が丸くふくらんだ特異なかたちの楠であった。近寄って眺めるが、こういう異様な木は今まで見たことがなく、畏れさえ感じた。


 (この木は長く生きたから、ここで起きたさまざまな出来事を見てきたのに違いない。見なかったとしても、境内のほかの木から伝え聞いたことだろう。兵が押し寄せて神人が殺され、神宝が持ち去られ、広大な神田が奪われ鳥羽藩のものになっていったこと、神職たちの訴えが届かず、争いの果てに多くの神人が縄打たれ引かれてゆき、ここへは二度と戻らなかったこと…。この木はここで繰り返された戦いや、神と人の係わり、宮の変遷をじっと見つめてきたのだろう)。


 伊雑宮を出て、隣接する御神田(おみた)へ行ってみた。毎年六月二十四日には、お田植祭りが行われるという。笛や太鼓の音に乗って、可愛い早乙女さんたちが並んで植えるという。田植えの前に、長い青竹を立て、その先につけた「太一」と墨書された大うちわごと田んぼに倒し、男たちが争ってちぎり取り、家に持ち帰ってお供えするという神事が行われるという。この祭りの日、海から七本のサメが川をさかのぼってお参りに来るという言い伝えや、安乗の海底に鳥居があり、伊雑の宮に通じているという伝承もあり、伊雑宮が、古から太陽や星、海の信仰と深いつながりがあったことが感じられる。


 祭りの日には賑わうのであろうが、今はひっそりとしている。眼前には磯部町ののどかな田園風景が開け、正面に立つ鳥居の奧には、御料田が広がっていた。




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