玉置神社   ー聖域への旅ー





 奈良県の山中、玉置山に国常立尊を祀る玉置神社がある。杉の巨木に囲まれた幽玄な霊地と聞き、何年も前から訪れたいと思っていたが、大変行きにくい所なので、この神社は半ばあきらめていた。
 出発を決めたのは当日の朝、どうしてまた急に、とも思うが(ときに衝動的な感じで神社を訪れることもある)…ともかく十津川村の宿の予約がとれたので、時計を見ながら一時間半で荷物を詰めるという慌しいことになった。


 JRで大阪駅へ出て、大和路線に乗り王子、高田で乗り換えを繰り返し、五條駅前から新宮行き路線バス(奈良交通)に乗り込んでひと息ついた。五條から十津川村までは、三時間以上の山道走行である。ここは路線バスでは日本一長くて、八木、新宮間を六時間かけて走っている。十津川村は面積では日本一といい、電車はなく、交通手段はバスまたは車である。車内に流れる名所案内のアナウンスを聞きつつ、緑濃い紀伊の山並みに見入っているうち、うとうと眠ってしまった。


 谷瀬の吊り橋に着くと、二十分の休憩があった。長さ二九七メートル、高さ五十四メートルという日本有数の大きな吊り橋である。珍しいのでたくさんの人が渡っていく。試しにとあとをついていくが、風が吹きおろし、人が多いためか橋がよく揺れる。対岸には山々が聳え立ち深い峡谷をなし、はるか下には青い十津川がうねりつつ流れてゆく。絶景なのであるが、雄大な大自然の景色を楽しむ心の余裕はなく、足はすくみ、なんとか往復はできたものの、足元に視線を落とすたび、恐怖で目がくらんだ。

   
 十津川温泉の宿に泊り、翌朝、村営バスで玉置神社までの山道を上っていった。村営バスは完全予約制、十津川温泉から玉置神社まで土日、祝日のみ運行、ということであったが、運よく席に余裕があり、前日の電話で乗せてもらうことができた。ただ神社での停車時間は一時間二十分しかなく、(ゆっくり過ごしたいので)往路のみを予約、帰路は徒歩で下山の予定とする。


 小型のバスは三十分かけて、十一キロの山道を上ってゆき、駐車場に着いた。そこから神社までは徒歩一キロである。駐車場前の大鳥居をくぐり、薄紅色の石楠花が咲きはじめた参道を歩いていくと、辺りに漂うおごそかな朝の冷気に触れ、気持ちが引き締まってゆく。玉置山は標高一〇七六メートル、下界とは異なる冷たく清らかな空気が流れているようである。


 参道途中には、枕状溶岩堆積物の露頭が見られ、これは県の天然記念物とのことであった。太古にはここは海底であったが、海底火山の噴火により、流れ出た溶岩が急速に冷えて丸太状に重なり、堆積した状態(各所で節理が見られる)になったという。そしてそれらが隆起し玉置山ができたということであった。


 苔のついた枕状岩石にそっと触れてみる。むき出しの岩は異界から立ち上がった姿のままここにあらわれて久しい。気の遠くなるような時間の流れに思いをはせつつ、湿った岩の感触をてのひらの記憶にとどめる。
 やがて樹齢千年を超える杉の巨樹が次々に行く手に現れ、その大きさと気品あるたたずまい、存在感に圧倒される。道を進むにつれ、岩と林立する杉の織りなす光景に心奪われ、自然への畏怖の思いが強くなる。


 玉置山に来ると、心身にすがすがしさが満ちるが、人によっては異様な高揚感が生じ、感覚が鋭敏になって、夢告、啓示、超常現象、神秘体験、意識の変革などが起きるそうである。そういうことが起きやすく、特別な気分になったりするのは、前述したようにここの特異な地形、磁場(かなり強いとされる)が影響しているという説も。


 社殿は杉や檜が林立する谷間に営まれ、野鳥のさえずりが聞こえてくるほかは、ひっそりとしていた。鳥居、社ともに往時の彩色は褪せ、古色そのままの姿である。城郭風に石垣を築いた上に社殿が営まれている。
 明治の廃仏毀釈で仏教色は一掃されたといい、付近に多数あったという仏堂や宿坊、塔頭も残ってはいないようである。神仏分離以前には、玉置三所権現の霊地とされ、修験道の聖地であった。
 

 主祭神は国常立尊。伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大御神、神日本磐余彦尊を合わせて祀る。 国常立尊は記紀に登場する始原の神である。


 天と地が開けはじめたとき、あるものが生じた。形は蘆の芽のようだったが、まもなくそれが神となった。国常立尊(くにのとこたちのみこと)と申しあげる…神は陽気だけを受けてひとりでに生じられた。純粋な男性神であった。(日本書紀 現代語訳より)
 

 次に成りませる神の名は国の常立神…この神も独神(ひとりがみ)に成りまして身を隠したまひき。(古事記)


 古事記では、国常立尊はこの世に出現し、かたちを顕さずして消えていった、という神秘的な神である。国土の神であるのにもかかわらず、この神を祀る神社は全国でも思いのほか少ない。


 神社由緒によれば、神武東征の折、八咫烏(やたがらす)の案内で大和を目ざした磐余彦尊(いわれびこのみこと・神武天皇)の軍は、玉置山に至って兵を休め、十種神宝を奉じて、祈願したと伝えられている。
 ちなみに十種神宝とは、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津(へつ)鏡、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるかへしのたま)足玉(たるたま)、道反玉(ちかへしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)。その内訳は鏡、剣、玉、護符のようである。磐余彦尊はここに(十種の宝物を納めたとも)、玉のみを置いたともいわれ、社号の由来となっているという。
 

 崇神天皇の御代になり、王城火防鎮護と悪神退散を祈願して、熊野本宮とともに玉置神社を創建されたと伝えられているそうである。玉置山の神は、このとき熊野の早玉神を勧請したといわれるが、古来十津川の鎮守、地主神を祀ったとも。


 また玉置神社の奧社にあたる玉石社(たまいししゃ)は、玉石という巨岩を神体としている。玉置山を神降臨の神奈備山とし、磐座を崇拝する古の信仰が、玉置神社の起源であるともいわれている。

 
 さらに時代が下ると、この地は熊野と吉野大峰を抜ける修験の道、奧駈道として開かれていき、役小角(えんのおづぬ)がここに如意宝珠を埋めたとも伝えられている。玉置神社は靡き(行場、参篭宿)としての役割を担う重要な宿(玉木宿)であったそうだ。


 山道を十分ほど上がり、玉石社を訪ねてみる。玉置山の登山道の途中にある。急斜面には岩盤が露頭し、この山全体が堅固な磐座であるかのような印象を受ける。


 木立の間に玉石社があった。大己貴命(おおなむちのみこと)を祀るとされる。柵で囲ってあるが社殿はなく、白いきれいな丸い小石が花を撒いたように地面に敷き詰められた奧に、磐座の頂がわずかに見えていた。土に埋まっている部分が大半と思われ、その全体の大きさは計りしれないという。以前訪れたことがある香取神宮と鹿島神宮の森に、地震を鎮めるという要石があったのを思い出した。やはり地表にあらわれているのは頂部のみで、地中にその大半が埋まっており、ここと形状は似通っている。
 今見ているこの磐座も、おそらくは大地を鎮めてくれている要石なのであろう。十種神宝は、磐余彦によってここに鎮められたとも伝えられている。


 鳥のさえずりと梢を通りぬける風のそよぎの中で、しばらくたたずんでいた。たくさんの白い小石は、お参りを思い立った人が海岸でかたちのよいものを探し、ここに納めて祈願したという説も。どれも洗い晒したように純白である。


 こういう情景の中にいると、現代に生きていることが感覚的に遠のいていく思いがする。太古の祈りの場に立っているという感慨が起きるのだった。薄暗い山中、畏怖の思いとともに、沈黙する古の大きな磐座の近くにたたずむ。そのようなひとときが、至福であった。世俗から離れた世界にあることが実感され、風に揺れる葉ずれの音や、かすかに鳥が鳴き交わす声、柔らかい木漏れ陽の移ろい、自然の息づかいがすぐ身近にあることを、改めて気づかされる。古の磐座を前にしていると、仏教でも神道でもなく、自然物崇拝という言葉でも言い表せない、それ以前の原初的な思念や祈り、その根源の一端に触れるような思いがした。


 玉石社の横には三つ石社もあり、丸い磐座が三体、(磐裂神・いはさくのかみ、石折根神・いはさくねのかみ、訶遇突智神・かぐつちのかみ)斜面に鎮座していた。国生みのとき、火の神、訶遇突智を産んだため伊弉冊尊(いざなみのみこと)が亡くなったことを怒り、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は訶遇突智を切るが、そのとき剣の血が岩に染みて生まれたのがこれら二神で、神話の一場面が三つの石によって表現されている。


 磐座を離れ、さらに山道を十分ほど進み、山頂へと向かう。山頂には巨大な磐座らしいものは見当たらず、海に面して、沖見地蔵尊が一体祀られていた。近くに電波塔があるのが、神域の雰囲気にそぐわず残念である。山頂は眺望が開け、周囲には熊野の山々が連なっているが、海の辺りは青みを帯びたままぼんやりとかすみ、よく見えなかった。


 石楠花の群落があったので、遠く近く鳴く鶯の声を聞きながら、しばらく花の間を行き来して楽しむ。散策路が二本あるように見えたので、どちらの方向にしようかと迷ったが、緩やかそうにみえた方の道をとって降りてゆくと、意外なことに駐車場に戻ってしまった。数台の車がとまっている広い駐車場はがらんとしている。


 もう一度鳥居をくぐり、分かれ道の参道を今度は時計回りに進んで、再び神社を目ざすことにする。円環運動である。すると行く手の山側に思いがけず巨大な磐座があらわれ、白山社(末社)に出た。大岩の前には古代風の立ち木の標柱があり、菊理媛神(くくりひめのかみ)を祀っている。この媛神は、一度だけ生と死の境界にあらわれ、伊弉諾尊に助言をしたとされる。(日本書紀 一書)


 伊弉諾尊は妻の伊弉冊尊を取り戻そうとして黄泉国に降るものの、変わり果てた妻の姿を見て驚いて逃げ帰り、泉平坂(よもつひらさか)に「千(ち)引きの大岩」を置いて塞ぎ、追いかけてきた妻と激しく言い争う。このとき菊理媛が何かを託宣し、その言葉の力によって二神の争いが止み、二神の間で和解と離別がなされたのだとも、また冥界の穢れを受けてしまった伊弉諾尊に、ふさわしい禊の方法(海潮による)を告げたのだともいわれている。


 この巨大な磐座を、生と死の境の「千引きの大岩」と見立て、ここに菊理媛神を祀ったものかと思われる。この磐座も、やはり神話的な世界の一場面を表し、三つ石の場面とも緩やかなかたちでつながっているように推測される。
 黒ずんだ磐座は重量感があり、湿潤な感じ、周囲は薄暗い森で、目の前に重く迫ってくるような印象を受ける。その規模や神秘感に圧倒されて、おそれを感じ、しばらく立ち尽くした。

 
 道を進んでいくと、境内の三柱(みはしら)神社の前に降りていった。倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、天御柱神(あめのみはしらのかみ)神、国御柱神(くにのみはしらのかみ)の三柱の神を祀っている。古くは三狐神(みけつかみ)と呼ばれたそうで、ここは熊野の稲荷信仰の要の神社、また日本の稲荷信仰の元神、ともいわれているそうである。何気なく社殿にたたずむが、ここもちょっと怖いような感じがあった。


 社務所からは、(依頼が多いらしく)、たえずご祈祷の祝詞や太鼓の音が響いてきていた。ここでは悪魔退散という特殊なご祈祷もされるそうである。また狩野派の襖絵(板絵という)もあって拝観できるのだとか。
 お下がりらしいお神酒は、参拝の人が自由に頂けるように、盃を添えて通路側に置かれてあり、池の近くの長机には、ポットに入った湯茶、湯のみが用意されていた。荒行で疲れてたどり着いた奧駈の行者さんたちを、もてなしてきた伝統なのであろう。
 

 休憩所で緑に包まれた景色を眺めながら、宿で作ってもらったおにぎりの昼食をとって休憩、そのあとは谷間に降りて、県下随一という大杉を訪ね、谷にすっきりと立つ大杉の端正な姿に見とれた。境内の多くの杉は、樹齢三千年を超えているという。神代杉、常立杉、夫婦杉、磐余杉、どれも気品があり、中には幹や枝を失い大きくえぐれて痛ましいものもあったが、それでも長寿を保ちつつ、みごとに森で生きている姿に心打たれた。
 
 
 山を降りることにする。朝に杉の参道を歩いたときには、身が引き締まるような冷気が辺りに漂っていたが、午後になった今は気温も上り、木漏れ日が樹木の間から射し込み、明るい陽光に包まれていて、また違った雰囲気をかもし出している。
 参道で、スニーカーにリュック姿の若い女性とすれ違って挨拶をかわした。車で来た人のようには見えず、下から一人で歩いて上ってきたらしい。十津川温泉からか、折立からかはわからないが、歩けば三時間もかかるのではないだろうか。


 玉置神社は最近、若い人の間で人気のある神社という。それを知ったのはここへ来てからで、社務所にあった神社報を一部頂いて昼食時に読んでいると、ここは荻原規子原作、新作アニメの舞台地になったという記事が載っていた。物語の主人公は神社の娘、超能力があり、少女時代をここで過ごしたという設定のようである。


 舗装された車道を折立集落まで徒歩で降りるつもりであったが、折立まで旧登山道が通じているようなので、茶店のおじさんに情報を聞き、折立中学が学校登山のとき使うという道を教わった。駐車場下から斜面を降り、四キロの山道という。


 その旧道に入っていく。中学校生徒会手づくりの道標が幾つも立てられていて、中には可愛いものもあった。膝を庇いつつゆっくり休みながら下っていく。草が刈られよく整備されていたが、朝から随分歩いたので、後半の山道がちょっとつらく感じられた。けれども車道が通じるまでは、皆ここを歩いていたのであろう。昔の人の苦労がしのばれる道である。車を気にしながら単調な舗装道路を下るよりは、このような参詣道の静かな雰囲気を味わいつつ歩けてよかったと思うが、山中ではついに誰にも出会わず、一部落石で荒れている所もあり、薄暗い森を抜ける少し寂しい道でもあった。


 途中車道と交差する所もあり、下っていくうちにやがて登山道は尽き、車道に降りて右に行くと、ほどなく八大竜王の社に出た。奧に滝(地元では猫又の滝というそうだ)が見えたので、水際に下りて飛沫を浴びながら岩の上で休んだ。
 こんな所に滝があるとは思わなかったので、驚きつつ眺めると、落差は十メートルくらいであるが、大岩から流れ落ちる様子が豪快できれいである。豊かな水量で迫力があり、白く泡立つ様子を飽きずに見つめる。力強い水音が耳に快く響き、滝つぼは深そうで青く澄んでいた。


 ここからさらに車道を下ってゆくと、ようやく折立の集落に出て、十津川温泉へと戻る路線バスに間に合い、宿に戻ることができた。夕暮れ近い車窓からみると、二年前の台風で流失した橋の残骸が、今なおその無惨な姿を岸にとどめていた。あのとき十津川村の被害は大きく、道路が寸断されて復旧も進まず、十津川村は孤立したと聞く。自然の力、その猛威のあとが残る心痛む光景であった。




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