熊野三山
熊野本宮大社・速玉大社・那智大社
大斎原・神倉神社・那智の滝・熊野古道
玉置神社の後、折立まで徒歩で下山し、十津川温泉の宿で一泊した。翌朝の路線バスで熊野本宮へと向かう。二年前の大水害の爪あとの残る道である。道路は今も補修工事が続けられているので、バスは迂回路を通ってゆく。乗客は観光客が数名、運転手さんが往時を思い出しつつ、被害のひどかった様子を話してくださる。昨日のバスもそうだったが、運転手さんの、まるで語り部のような説明を聞きながら、自然の猛威を思いつつ、十津川の青い流れを見つめた。
1 熊野本宮大社・大斎原・熊野古道
本宮に着き、さっそく本宮大社へと向かう。社頭には八咫烏の大幟が風に揺れ、参道にも熊野大権現の幟が並び立ち、境内は絶え間ない参拝の人たちで賑わっている。社殿は石段を上った山腹にあり、背後には緑の樹林。ご神木は梛(なぎ)の木である。ここは全国に三千社あるという熊野神社の総本宮、熊野三山の一つで、三山の中では最も古い起源を持つという。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を指す。
熊野三山では十二所権現(十二柱の神様)を祀るが、本宮の主祭神は、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ、別名は素盞鳴大神。本地仏は阿弥陀如来)。古くは熊野坐大神(くまのにますおおかみ)といった。熊野の神は多くの名を持っておられるのだ。
本宮の神は八咫烏を神使とし、太陽神ともいわれている。熊野川の中洲の水辺に祀られたので、水神という説もある。また「け」が穀霊、食物を意味することから食物の神とも、熊野を印象づける深い森や素盞鳴大神との連想から、木の神ともいわれている。
創祀は崇神天皇の御代という。神祭りを重んじた崇神天皇による創建伝承があるとのこと。また社伝によれば、川の中洲の大斎原(おおゆのはら)にある櫟(いちい)の木に、三体の月が降りてきて、獲物を追って森に来た猟師がそれを見て不思議に思い、訳を尋ねると、真ん中の月が、自分は證誠大権現(家津美御子大神、別名スサノオ)で、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神、別名イザナミ、速玉之男大神、別名イザナギ)であると名乗られた。そこで神意に従って社殿を造り、神を斎き祀ったのが起源であるとも。
平安時代に入ると、歴代の天皇、上皇、法皇の崇敬が深まっていく。毎年のように京からの大がかりな参詣があり、やがて蟻の熊野詣といわれるほど、多くの人々が、狂おしいようにこの地を訪れるようになっていく。熊野本宮は、「貴賎を問わず、男女の別を問わず、信不信、浄不浄を問わず、綿々と無数の人々を受け入れてきた」のだとか。(「熊野・神と仏」九鬼家隆より)
何年か前のこと、熊野古道に関心を持ち、部分的に古道を歩いたことがあった。箸折から近露を経て継桜王子までと、発心門から本宮までの二箇所である。箸折峠の近くでは牛馬童子像を探し、木立の中で五十センチほどの石像を見つけて眺めた。牛と馬にまたがった童子像で、花山法皇の旅の姿をかたどったものということである。
花山天皇は十七歳で即位するが、十九歳のとき藤原氏の策謀により出家、失意のうちに都を離れ、那智の滝の上流に庵を結び、三年籠って行をされたという。花山天皇に仕えていた安倍清明も呼び寄せられ、那智に滞在したそうだ。天皇は、奇行、問題行動が多かったとされるが、芸術、和歌の道にすぐれ、近畿の三十三箇所の観音霊場を訪れたさい歌を詠み、それが今も残る御詠歌になっているのだとか…。ちなみに那智山青岸渡寺の御詠歌は、次のような歌である。
補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬
愛らしい牛馬童子像は、ポスターや写真などでよく知られている。もっと大きいものを想像していたので、意外であった。まだ損壊、盗難に遭う前の像であった。(その後、持ち去られた頭部は見つかったことが報道されたが)現在は複製されたものが置かれているらしい。
また中辺路の高尾山には、三体月の伝説があり、旧暦十一月二十三日には、山頂で月が三つに見えるといわれているそうだ。昔ある行者が山頂で不思議な月を見、近露の里に降りてきて、村人にそのことを語ったという。月はまず一体が昇り、次いで左右に二体現れて、しばらくすると真ん中の一つにまとまるのだとか。宗教的幻想かもしれないが、地理的な条件とか、光の屈折などで、そのように見えたこともあったのだろうか。前述の、大斎原の樹木に、神がはじめて降りられたという創祀伝承と関連する逸話であろう。高尾山だけでなく、上多和、森山などの地でも同様に、三体月の言い伝えがあるそうで、その夜、人々は山に上がり、月待ちをする風習があったという。
熊野古道では牛馬童子から近露まで歩き、さらに進んで継桜王子、萱葺き屋根のとがのき茶屋、野中の清水、野中の一方杉などを訪ねた。南方熊楠の懸命の説得により、伐採を免れたという深い杉林が印象に残っている。直立する杉の香に包まれ、緑濃い山道を進んでいると、熊野古道にきているという思いがしみじみと湧いてくるのだった。
熊野の参詣道は木立に包まれて薄暗い。そのような暗い森を歩き続けていると、ふっと黄泉路をたどっているような感覚に陥ってくるのだった。どこかで知らずに境界を超え、異空間に足を踏み入れてしまっているのではなかろうか。ここは現世ではなく、見ているものは幻なのではないだろうか…。
昔の旅人のことを思った。情景の中に古代が感じられたせいであろう。参詣を夢見ながらも、山深い難路で力尽き、倒れた人も多かったのではないか。この山中には、そうした人たちの憧憬や、無念の思いが漂っているような気がする。そうした死者の魂は、今も山や森をさまよい続けているような思いにとらわれる。熊野古道を進むとは、生者がそうした死者の思いも一緒に実現して、ともに歩くことではなかったか…。
熊野のうっそうとした森は、暗い想念が交錯する空間である。その根源には、深い森には死と隣り合う危険な領域が存在するということであろう。現代の古道歩きはハイキング気分でもできるだろうが、昔は信仰心に加え、強靭な意思や体力が必要だったかと思われる。命と引き換えになるかもしれない覚悟で旅立ち、困難な旅を続け、険しい熊野路を歩き通すことによって心身が鍛えられ、意識が変革、魂も更新されていったのであろう。
熊野はまた蘇生の国であるともいわれている。よく知られた中世の説教節、小栗判官の物語にもそれは象徴されているだろう。
小栗判官は常陸の国で毒殺されて地獄に落ちるが、閻魔大王の慈悲により、餓鬼阿弥(ハンセン病)の姿でこの世に戻ってくる。土車に乗せられ、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書いた札を高僧に掛けてもらい、常陸から旅立ってゆく。見知らぬ人たちに少しずつ引いてもらい、美濃では売られて落ちぶれた妻の照手姫が、夫と知らずに車を引く。やがて小栗は熊野へとたどり着き、湯の峰に至り、つぼ湯に入れてもらうと、薬湯の効果と熊野権現の功徳により、病が癒えてもとの体になるのである…。
湯の峰には、小栗判官ゆかりのつぼ湯、土車を埋めたという車塚などがある。ひっそりした山間の温泉という感じであったかと記憶する。
熊野古道を歩いているとき、道の真ん中に十数センチのひきがえるがいて、なかなか道を譲ってくれず、通れないのでしばらく待っていた。ようやく動いてくれて道端へ跳んだので、なるべく見ないようにして横をすり抜けた。その後、草叢で大きな百足にも遭遇して飛びのき、なにかよくわからない虫にも刺されてしまい、熊野の自然を実感したことであった。
このときは翌日、発心門王子から入って、伏拝王子へと進み、本宮・大斎原までゆっくりと歩いていった。発心門からは二、三時間の行程だったと思う。途中無人販売所が何箇所もあって、季節の果物や、手づくりのお餅などが並んでいた。熊野古道を歩いたと言えないほどの短距離ではあったが、伏拝王子から遥か下に大斎原の大鳥居が遠くのぞまれたとき、やっと本宮が見えるところまで進んできたという、昔の熊野詣の人たちの思いを、わずかではあるが共有することができたのだった。
熊野の「くま」は、神と同義語とされるが、また隈(くま)でもあり、籠もるという意味もあるそうだ。うっそうとした森林に覆い隠されている地であり、死者の霊魂がこもる場所でもあったという。
深い森林の中に巨大な磐や大滝、大木を有し、清流が山間を縫う熊野は、古より自然の中に神がすまうとされた。そこには伊勢とも出雲とも、雰囲気が異なる神域が広がっている。人は熊野に来て、厳しい自然の中を歩くことによって擬似的な死を体験し、それを心身ともに乗り越え、再び神仏の力によって蘇ったときには、活力に満ちた新たな生を得るのだという。心身の蘇りの地としての熊野の信仰があり、それは熊野が黄泉の国、死にもひとしい厳しい試練の地である、という認識の上に立っているのだという。
苦しい山中の旅の中で一度死に、蘇り、新たな生命をさずかるためにこそ、人々は日常から離れ、遥かな地を目指して歩くのだという。またそれに応えるだけの深いものを熊野は持っているかと思われる。
時代が下るにつれ、神道、仏教、修験道が混ざり合い、熊野には独特の宗教的世界が広がっていき、熊野では、神と仏は簡単にほどくことができないくらい、強く結びついていたという。ところが明治初年の神仏分離令により、神仏が融合していた聖地では混乱が起きていく。神社か寺かの選択を迫られて、熊野の聖地からは多くの寺院、仏教施設が消え、修験道は廃され、山伏も職を失っていく。廃仏毀釈の波が熊野にも押し寄せたのである。
明治二十二年、熊野地方において大水害が起きた。川が氾濫して多くの人命が失われ、その被害は深刻で、大斎原にあった熊野本宮大社のうち、中・下社が損壊流失、神社の軒まで水が来たそうである。そのときかろうじて残った上社の社殿を高台にある現在地に遷座、今日に至っているのだそうだ。
上流での無計画な森林伐採が大洪水の原因というが、なにかしら神々の怒りというような感じを受けないでもない。壊滅的な社殿の流失という事態においては、おびただしい人々の願望、想念の蓄積、一千年以上続いた大斎原での祭祀が、いったん神意によって閉じられたような気もするのは、言いすぎであろうか。
人で賑わう境内を出て、旧社地の大斎原へと向かう。古より熊野川、音無川、岩田川がつくる中洲(大斎原)の森に社殿が営まれていた所である。
畑の中の一本道をたどると大鳥居がそびえ立ち、そこから森へと入ってゆく。昔は橋をつくらず、どの人も中洲まで流れの中を歩いて渡ったので、それが自然の禊ぎとなっていたのだという。参詣人は冷たい流水に浸り、一歩ずつお社に近づいていったそうだ。想像するだけで身が清められていくようである。
緑の美しい森の中の道を進んでゆくと、かつてお社が立ち並んでいたという境内に出た。今は緑の芝で一面に覆われ、平らかな広がりの中央、右手奧には聖所を示す石祠が並んでいる。ここにいまだ神はおられるのであろうか。歩み寄って見ると、樹木に包まれたひっそりした空間である。いかにも斎庭(ゆにわ)という言葉がふさわしい。
野鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。植えられた木々の枝は風にそよぎ、頭上からは柔らかい陽が降り注いでいる。かつてここにはどんな光景があったのだろう。たとえば貴人が詣でた日には、着飾った人々の華やかな参拝の列が続いたことであろう。運ばれてきた神への供物が神前に並び、神楽殿では楽が奏でられ、何度も優美な巫女舞が奉納され、お供の人たちが供奉する境内は賑わったことであろう。笛や琴の音、どよめきが遠い潮騒のように耳に蘇る。
参拝の人波はこの地から消え去った。かつてあった壮麗な御門、瑞垣、社殿、神楽殿、神馬舎、詰所も失われてしまった。すべてが水に洗い流されて残ったのが、今目にしている無の空間なのであった。
平安時代、宇多法皇に始まる熊野詣は京、大坂を経て田辺から山道に入り、本宮に至るという一ヶ月にもおよぶ行程であったという。本宮のあとは速玉大社、那智大社を回り、再び本宮へと戻って、同じ道(中辺路)を引き返したらしい。
すぐに都へ帰らずに、本宮周辺にとどまり、庵を結んで交流しながら過ごした人たちも多くいたと伝えられる。平安中期に書かれた、増基法師による熊野紀行文「いほぬし」には、法師が熊野本宮に来てみると、庵室が二、三百ほどもあって、みな思い思いの様子で過ごしているとあり、法師が親しい人の庵を訪ねていくと、芋のかしら(里芋の根元)を焼いてもてなしてくれたことなどが記されている。
白河上皇は九回、鳥羽上皇は二十一回、後白河上皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十八回…上皇方は毎年のように、ときには春と秋の年二度も、熊野御幸をされた。それは信仰心に加え、政治的な意味合いも持つ行幸であったかもしれないが、このような貴人の盛んな参詣の旅の様子が、しだいに武士階級や一般庶民にも伝わり、「蟻の熊野詣」の引き金ともなっていったのであろう。多くの人々の心を引き寄せる強い力を熊野は持っていたのだと思われる。
そうしたさまざまな人の願望、欲望、神への切実な祈願が渦巻いていたのが、ここ大斎原であった。壮麗な社殿が立ち並び、一千年にわたって人々の思いが集中し続けた聖地。人々の欲望も執着も夢も、すべて明治二十二年の大洪水で流れ去ってしまったというのだろうか。社殿は、今は跡形もなく、祭神は高台の社へと遷られ、多くの命も失われた末に、大斎原はまたもとの始原の森へと戻ったのだった…。
たとえば、獲物を追ってきた猟師が、神を感じたという木立の梢、神が降りられたという聖樹がそびえていたのは、こういうひっそりとした清らかな森の中でのことだったのではないだろうか。古にこの森に来て、ふっと神の存在を心に感じた人がおり、ここに小さな祠を建て祭祀がはじまったのであろうか。往古の森はもっと深く、さまざまな森の生命に満ちていたであろうと思われる…。
中洲の森には、南無阿弥陀仏と刻まれた一遍上人の碑もあった。これは、一遍上人が道で人々に念仏札を配っていたとき、不信心を理由に受け取りを拒絶されてしまい、そのときは人目もあったので無理に渡してしまった。けれどもそのことで悩みが生じて、本宮に参籠したところ、神から「お前の勧めによって、衆生がはじめて往生するのではなく、一切衆生の往生は、阿弥陀仏が悟りを開かれたときに、すでに決定されている。信、不信を問わず、浄、不浄を嫌わず、いっさい宗旨をもって南無阿弥陀仏の札を配りなさい」というお告げを頂き、全国を行脚して熊野信仰を広めたという故事にもとづくものという。
少し水辺へと降りてみた。ここは地形の関係で、古来、上流からさまざまなものが流れつく場所であったという。霊威あるものも、修行者の死体も、絡み合った不思議なかたちの流木も、大岩も、動物も、水流で運ばれてきては留まり、あるものはまた海へと流れ去っていったのであろう。中洲の森は、古よりさまざまな霊魂のよりつく場でもあったのだ。人々はその中に神威あるものを感じとると、丁寧に祀ってきたのであろうか。
ゆったりとした流れを前にしてしばらくたたずむ。遠い昔の情景を重ねながら、川面の輝きを見つめた。目には見えないが、なにかの気配がかすかに漂い、語りかけてくるような中洲の森であった。
2 速玉大社・神倉神社
本宮・大斎原を訪ねた後、路線バスで五條まで同じ道を引き返すつもりであったが、せっかくここまできているのに、という思いが生じたため予定を変更、路線バスで新宮まで出て、再訪になるが、速玉大社と、那智大社も訪ねることにした。
熊野三山のひとつである熊野速玉大社の近くでバスを降り、神社を目指す。赤い反り橋を渡って境内に入ってゆく。社殿は丹塗りで明るく映えてとてもきれいで、比較的新しくみえる。由緒によれば、旧社殿は明治十六年、打ち上げ花火によって焼失、その後ずっと再建は諦めていたのであろうか、現在の社殿は戦後になってからのもので、昭和四十二年に完成をみたということであった。
参道右手には神宝館、左手にご神木の大きな梛の木(天然記念物)がそびえていて目を引く。この大木は樹齢千年を超えているというのに、樹に勢いがみられ、実に堂々とした姿である。梛の葉は、祭神いざなぎ尊の名にも通じ、縦に葉脈が走っていて横に裂くことができず(男女の縁が切れないようにと、夫婦円満のおまじないにもなった)、丈夫であること、また凪の字にも通じることから魔よけといわれ、熊野詣の人たちはここで梛の葉を頂くと、帰りの道中のお守りにしたという。
新宮の速玉大社は、熊野野本宮に対しての新宮かと思われがちだが、神社側の見解によれば、速玉大社は新宮の南にある神倉神社からの遷座で、この地に新たに社殿を造営したことによる命名という。
主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、伊弉諾尊、いざなぎのみこと、本地仏は薬師如来)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊弉冊尊、いざなみのみこと、本地仏は千手観音)。夫婦神として祀られていたようだ。二神は家津美御子とともに、神倉山山頂のゴトビキ岩に降臨したという伝承を持つ。
神倉神社は、速玉大社から徒歩十五分ほど、急な石段と巨大な磐座、松明をかざした男たちが一気に駆け下りる勇壮な御鐙祭で知られている。
何年も前のことになるが、神倉神社を訪れたとき、石段があまりに険しく上りにくいので、怖かったのを覚えている。源頼朝が寄進したと伝えられ、自然石を積上げた石段で、五百三十八段もあるそうだ。崖をよじ登っているようであった。息をはずませて上りきると、そこにはゴトビキ岩という巨大な磐座とお社があり、岩は複数あって、縄文の聖地という印象であった。
ゴトビキとは熊野ではヒキガエルのことをいう。中心となる大岩を指すようで、下に立って岩を仰ぎみると、その大きさ、存在感、重厚な質感に圧倒される。単に大きいだけでなく、古代祭祀の行われた場としての重み、安易に人を寄せつけない荘厳さも感じられ、なんとも神話的なたたずまいであった。
岩の下に建つお社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。神武天皇の東征軍は、ここに上ったとされる。少し記紀に記述される世界をみてみよう。
…御軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至る。すなはち名草戸畔(とべ)といふ者を誅(ころ)す。遂に狭野を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に到り、すなはち天磐楯(あまのいはたて)に登る。(日本書紀)
天磐楯とは、神倉山のこととされている。古より神降臨の磐座として先住民に敬われていたと思われ、それゆえに神武軍はここを制覇したのであろう。山頂で皇軍はおそらく領有を示す証として、布か旗などを立てたのではないか。古代では土地の祭祀権を手に入れることは、支配権の確立をも意味した。
このあと神武軍は熊野を進んでいくが、熊野の神が毒気を吐いて悩ませたので、皇軍は、皆倒れ伏して窮地に陥った。そのとき熊野の高倉下(たかくらじ)が夢のお告げにより、家の庫(くら)を開いてみると、天から下された神剣が刺さっていたので、それを取って天皇に差し上げた。すると眠っていた天皇と軍は、目が覚めて起き上がったという。
…大きなる熊、髪(くさ)より出で入りてすなはち失せぬ。ここに神倭伊波礼彦の命、にはかにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時に熊野の高倉下(たかくらじ)、一横刀(たち)をもちて、天つ神の御子の伏せる地にいたりて献るときに、天つ神の御子、すなはち覚め起ちて「長寝しつるかも」と詔(の)りたまひき。(古事記)
…時に武甕雷神(たけみかずちのかみ)すなはち高倉(たかくらじ)にかたりていはく、「予が剣、今まさに汝が庫(ほくら)の裏(うち)に置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉…夢の中の教によりて、庫を開きて視るに、果たして落ちたる剣ありて、倒(さかしま)に庫の底板に立てり。(日本書紀)
これらの逸話は何を語っているのであろうか。勝手な想像を混じえてみると、このような状況ででもあろうかと思う。
…熊野の地に住む人々は、武器では神武軍にかなわなかったので、山野で待ち伏せをして、毒性のある植物を焚いて煙でいぶし、(たとえば大麻のような催眠作用のあるもの)兵士たちはそれを吸うと皆倒れてしまった。ところが突然の雷雨により火が消えたので、皇軍は覚醒し、折よく援軍として高倉下もやって来たので、皇軍は勢いを取り戻した…。(剣は雷神を象徴するものとみて、夕立などを想起した)
その後皇軍は八咫烏の道案内によって険しい山中を進み、玉置山に至って兵を休め、神宝を奉納、祈願し、(このことは、玉置神社の項でも書いている)やがて宇陀を経て大和へと入ってゆくのである。
古代的な世界でみると、神倉山は縄文時代にさかのぼる霊地であり、記紀にもその名が登場する由緒ある地であった。時代が進むにつれ、神倉山は、熊野速玉大社の元宮として、熊野信仰の聖地の一つとなってゆく。
熊野本宮に詣でた人々の多くは、船に乗って熊野川を下り、河口の新宮に着くと速玉大社に参詣し、健脚の人はさらに足を延ばして、神倉山をも訪ねたことであろう…。
神倉山の下りの石段は、上りのときよりももっと恐ろしかった。途中からは、迂回路があるのに気がついて、横の道を降りたのだが、そこも折からの雨で滑りやすく、ぬかるみとなっていた。
新宮では以前、徐福伝説の地を訪ねたことがあった。徐福は、秦の始皇帝の時代、皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて船出した法士である。童男童女三千人、海神と戦うための兵士、ほかには工人、五穀の種子なども携え、東方にあるという蓬莱島に向けて出発したが、結局復命はしなかった。海上に広々とした土地を見つけ、永住してその地の王になったとされる。
伝説上の人物であり、九州など各地に上陸地とされる地があるが、一行は熊野の新宮に渡来した、とこの地では古くから言い伝えられていて、農耕、医術などさまざまな技術ももたらしたらしい。新宮市内には顕彰碑などが建てられていた。
遠い時代には、そんなこともあったのだろうか。なにか事情があって、徐福一族うち揃っての政治亡命、また一村あげての海外移住かと思われる様相であるが、もし伝説通り数千人にも及ぶ大船団を仕立てたのであったのなら、海上で嵐に遭うとか、はぐれるとか、風の吹きようで各地に分散していったことであろう。
その人たちは住みなれた故郷を捨て、異郷に新天地を求めたのであろう。ある船は沈み、ある船は海流に乗って流れ着き、土地の人たちに助けられたりして、そこに住みついていったのだと思われる。そんな人たちのさまざまな旅路が思われるのであった。
3 那智大社・那智青岸渡寺・那智の滝
以前那智の滝を訪れたときのこと、大滝への道を歩いていると、滝の音が地響きのようにだんだん大きく近づいてくる。足元までがなんとなく揺れるような感じ、滝が発するエネルギーが強いのに驚いた。
滝口に着き、落差百三十三メートルの那智の滝を仰ぎ見て、流れ落ちる水のあまりの迫力に言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまった。聞こえてくるのは、体の芯に響く爆音である。鳴り止まない音の洪水と奔る水の勢い、渦のただ中に立っているようなおそれを感じ、このとき滝は確かに神であると納得した。滝を間近で見た驚きと喜びに加え、ほとばしる滝水の水量に圧倒され、辺りに飛散する水飛沫の清涼感と、自然への畏怖が混ざり合い、時を忘れ呆然と滝に見入ったのだった…。
那智の駅前から那智大社へ向かう路線バスに乗り、終点で降りると、雨が降っていた。熊野三山の一つである熊野那智大社と、那智山青岸渡寺への石段が濡れそぼっている。石段は四百七十三段もあるそうだ。そこを上がりきると、那智大社と青岸渡寺が並んでいた。神社と寺院が聖地に並立する、このような光景は現在では珍しいかと思われる。(ほかに思い浮かぶところでは、四国八十八箇所霊場の一番札所の霊山寺と阿波一宮の大麻比古神社、並立とはいえないかもしれないが、一キロほど隔たって隣接している)
熊野三山の一つである熊野那智大社のほうを先に訪ねた。祭神は熊野夫須美大神(伊莊冊尊・いざなみのみこと、本地仏は千手観音)。祭神は熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)という説もあるそうだ。
社伝によると、神武天皇が那智の海岸、「にしき浦」に上陸したさい、山中に光が輝くのを見て、大滝を探り当てられ、神として祀られた、という由来があるそうだ。おそらくはそれ以前、古からの霊地であったろうと推察されるということであった。
現社殿は桧皮葺で一殿から六殿までで構成され、江戸時代の造営という。一列に並んでいるのではないが、丹塗りで気品があって視覚的にも美しい。境内には樹齢八百年という、根元に空洞のある大楠があり、空に手を大きく差し広げたよう、静かな雨に打たれていた。
隣の青岸渡寺のほうへ回ってみる。ここは西国三十三番札所の第一番札所として名高いお寺である。降り出した雨を避けるためか、本堂が人で埋まっており、立ち込めるお香の中、薄暗いお堂の隅にしばらくたたずんでいた。
青岸渡寺の起源は古く、伝承では仁徳天皇の御代、インドから渡来した裸形上人が、那智山に籠り、滝壷で千日行をして、その行中に如意輪観音を感得、寺を開いたとされる。(那智山という山号も、サンスクリットのナディ(川)に由来するのだとか)。
明治の廃仏毀釈の折、熊野本宮も、新宮の速玉神社も、仏堂、仏教施設がことごとく破壊されてしまい、残らなかったというが、ここ那智大社においては、ゆかりの如意輪堂だけは破壊を免れ残されたという。後に信者の手によって如意輪堂は青岸渡寺としてよみがえり、今日に至っているということであった。
裸形上人とは、何者なのだろう。船で漂着したというが、嵐に遭い流れ着いたのであろうか。浅黒い肌に布をゆるく巻きつけ半身を晒した、インドのガンジス川にいるサドウ(聖者、行者)のような人を連想すればいいのだろうか。裸形上人という呼称には、その人から受けた印象を、端的に言い表しているような感じを受ける。その人が生きたのは仁徳天皇の時代かどうかはよくわからないが、妙に実在感があるようにも思う。ともかくそのインド人の僧が、開祖となったというのである。
雨が少しおさまったので、外へ出て、青岸渡寺の境内から那智の滝を遠望した。音もなく静かに優美に、白い筋となって山中から流れ落ちている。ただうっとりとその情景に見とれた。昔から多くの人がこの滝に魅せられてきたのだ。山腹に柔らかい靄がかかり、滝水は清らかな白布となって流れ続ける。縦長にこの景色を切り取れば、生きて動いている一幅のお軸そのもの、今回の旅の最後の情景と思うと立ち去りがたく、いつまでも眺めて飽きなかった。
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