北海道の旅

          ー知床半島・知床五湖・野付半島・釧路湿原ー




 女満別空港からウトロまで、約一〇〇キロメートルの距離をバスで移動した。菜の花が風に揺れる網走市内を離れると、窓の外には広大な畑が続いていく。北海道の作物といえばまず思いつくのは、とうもろこし、じゃがいも、てんさい、小麦、大豆…何が育ちつつあるのだろうかと、規則的に並んだ畝の葉を見つめる。道路は定規で引いたような直線道路、民家は少なく、対向車も、歩行者も見かけない……それが初日の印象であった。


 左手に青いオホーツク海が見えてくると、爽やかに視界が開け、水平線に大きな広がりが感じられた。バスはやがてオシンコシンの滝に近づくが、観光バスではないので、速度を緩めずにそのまま通過、目を凝らすものの、扇のように広がった白い滝水が、走り過ぎる車窓からちらっと見えたのみであった。海上に目を向けると、不思議なかたちの雲がたくさん出ていて、空想動物が空中で雄大に絡み合うような面白い構図、見とれているうちに、バスは夕暮れ近いウトロの町に着いた。


     知床五湖・フレペの滝


 ウトロで一泊、翌日、十五キロほど離れた知床五湖を訪ねた。バスで山中に入り、五湖の入口まで行く。そこからは、ガイド引率(有料・かなり高額)で複数の湖沿いに散策するコースと、無料で一湖まで歩く高架木道コース、に分かれるのである。無料のほうを選び、木道を歩き始めると、風はひんやりと冷たく心地よい。
 高架木道には両側に電気柵が設置してあり、これはヒグマ対策とのことであった。知床半島はヒグマの生息地として知られ、五湖付近でもこの時期はよく出没して、コースに目撃情報があると、散策ツアーはそのつど中止になるという。
 そういう話を聞くと思わずヒグマを目で探してしまうが、動物園ではないので、いつでも会えるとは限らない。好奇心と恐怖心が入り混じり複雑である。木道を進んでいくと展望所があり、そこでベンチに坐ると、目の前には青い鏡面のような湖が広がり、その背後には冠雪の知床連山がそびえている。うっとりするような景観である。
 五湖に流れ込む川はなく、湖水は知床連山に降った雨や雪が地下水となり、窪地に湧き出て溜まったものという。空気は澄み渡り、近くの林からはひとしきり波のように鳴いては止み、またものうく鳴き始めるエゾハルゼミの合唱が聞こえてくる。ヒグラシほど高い声ではなく、哀調も帯びてはいない。カジカガエルが間のびした声で鳴いているとも聞こえ、じっと耳を澄ませていると、読経を聞いているような感じに陥り、頭のどこかが軽く痺れてきて次第に蝉界に引き込まれていく。自らの命のはかなさを歌っているようなエゾハルゼミであった。
 

 知床連山のうち、最高峰は羅臼岳(標高一六六〇メートル)。雲がかかっているが、風で雲が切れると、その稜線が姿を表してくる。王者の風格が感じられ、ところどころに雪が残る堂々とした山容であった。
 湖の周辺を見回すと、なだらかな丘陵地が続き、草原には笹やしだが生い茂り、黄色い花が見え隠れする草の間にエゾシカの姿もみられた。団体客は次々バスから降りてきて、にぎやかに通路を進み、記念撮影に余念がない。なかにはパンプスを履いている人もいた。たしかに整備された散策路ではあるが。
 考えてみれば、人が歩くことを許されているのは、地面から数メートル上に設けられた高架通路のみであった。人は高みに設けられた安全地帯から、限定された景観を眺めて楽しみ、湖近くに降りることすらできないのであった。自然保護という観点に加え、数年前に観光客が行方不明になった事件があり、安全面も考慮してのことらしい。もっとも有料コースのほうは、引率されて実際に湖の岸辺を歩けるそうであるが…。周囲を見回すと、通路設営時に邪魔になる木は整備のため伐られたようで、完全に自然のままというわけでもないらしく、観光用の工夫や演出も透けてみえる自然散策路であった。


 高架通路を引き返していると、林の中で動く黒い動物の親子の姿があり、手すりから観光客がその様子を見つめていた。ヒグマであった。じっと目を凝らすと、遠望ではあるが、たしかに野生の熊らしいものが、茂みを歩く姿がとらえられた。
 北海道の野生動物といえば、キタキツネ、エゾシカ、オジロワシ、タンチョウ、クマなどが知られている。旅を始めるにあたり、そのうちのどれかひとつにでも出会えたらいいなと、ひそかに願ってはいたが、二日目にしてかなったのだった。


 羅臼岳が望まれる岩尾別でバスを降り、川沿いに少し歩いてみた。さすがに川の流れは清冽で水量も多く、手を浸すと驚くほど冷たい。せせらぎの音を聞きながら岸辺に坐っていると、対岸の斜面にエゾシカが一頭現れた。観察していると、人間を気にする様子もなくゆうゆうと草を食み、急勾配の傾斜地をゆっくりと進み、やがて崖を上りきると姿を消した。


 知床自然センターでバスを降り、フレペの滝まで片道一キロを散策した。道はなだらかである。薄暗い森を抜け、開けた草原の中を歩いていくと、エゾシカが三頭、すぐ近くを歩いてゆく。のんびりした表情のまま、人を警戒しているようにも見えず、黙々と草を食べ続けていた。遠くには知床連山がそびえている。まだらに雪の残る景観に見とれつつ海の方向へと進んでいく。
 草原の道が尽きると、海に面してあずまやがあった。そこは断崖絶壁になっていて、岩の間から水が幾筋も湧き出ていて、海に流れ落ちていく。落差約一〇〇メートル、フレペの滝であった。フレペとはアイヌ語で赤い水(夕陽に染まって赤く見えるのだとか)という意味だそうである。滝は岩から涙を流しているような印象を与えることから、別名乙女の涙といわれているという。
 滝の上には川はなく、知床五湖と同様、地下水が岩盤の間を縫って流れているそうである。この辺りは古に羅臼岳の火山活動が活発だった頃、溶岩が流れ出て形成された地形で、その名残が、このように岩から水が染み出て海に落ちるという珍しい滝を生み出しているという。水を通しやすい層と水を通さない硬い岩盤、地下水という組み合わせによる現象であるらしい。
 切り立った断崖は近づくのもおそろしい。滝の全景は海からでないと見えないが、やや斜め上方から滝を眺めることができ、ぎりぎりの地点にたたずんで、崖と流れ落ちる水を見つめた。先ほどの知床五湖よりも、遥かに迫ってくる大自然の力を感じ、目の前に広がる光景に畏怖の念を持った。
 ウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥が鋭い声で鳴きながら、たえまなく海上を旋回していく。群生地のようである。わずかな岩の隙間や窪みを見つけては巣をつくりヒナを育て、海と巣を往復しているのだろう。
 海鳥の動きを目で追っていると、崖の上の斜面に、可愛い小鹿たちを連れたエゾシカの家族が現れた。草を食んで移動していくその様子をしばらく観察する。母親と子どもたちなのかも知れないが、一家はゆっくりと柵を越えて道を横切り、丈の高い草が揺れる野原に入り、やがて姿が見えなくなった。


     知床クルーズ・オロンコ岩


 知床とは、シリエトク(地の果て)というアイヌ語からきているという。ウトロ港から観光船に乗って、知床半島を海から眺めることにした。知床岬まで行って引き返す三時間半のコースである。大型船なので揺れも少なく、六月半ばではあるが、寒さ対策にセーターとアノラックを着て風の強い外甲板に立ち、景色を見つめた。半島の成り立ち、岩や滝の説明がテープで流れるなか、突如、左舷にイルカ、という放送が入り、海上に目を向けて探すと、たしかに波を切って進む黒い背びれがあった。イルカはこのあと何組も現れ、まるで船と伴走するようにひとしきりついてくるのであった。
 知床半島は切り立った崖が連続している。大型船なので海岸には近寄れないが、昨日訪ねたフレペの滝も海上から眺めることができて納得した。幾筋もの涙が海に注いでおり、静かで優しい滝に見えた。
 知床連山は、はじめのうちはよく見えていたが、霧がかかりはじめ、船が進むにつれて霧は深くなり、山容は隠れて見えなくなった。しばらく白い海霧に包まれる。何も見えない時間が続くと、白い魔にとらわれたようで不吉、不安な感じもする。ぼんやりとして遠近感がなくなり、この世でない夢の中にいるようである。それでも目を凝らしていると、濃い霧が前方に現れたのがわかる。霧の中にさらに白い霧があり、白い帯となってたなびき、それは海面近くを水平に移動してゆく。筋雲のように空中を漂いつつ、尾はどこまでも長く延びて、最後は風と混じりあう。美しいとも思えるし、魂を持つ生物のようにもみえて、どこか不穏でもある。霧の境界が溶けて幻のような雰囲気が醸しだされ、異界を見ているようであった。
 気がつくと細かい水滴でアノラックが濡れ、身体が冷たくなっていた。重なり合う霧の出現に、心が奪われていたのだった。海霧は、冷たい海水に、暖かく湿った風が吹き込んだとき、発生する。そして海面から風が吹き上り、また山から吹き降ろす風がぶつかったとき、おそらくこういう現象を起こすのだろうと、頭ではわかってはいるが、それを神秘ととらえそうになる自分がいた。
 進んでいくうちに霧が少しずつ薄くなり、白い世界は後ろに遠ざかっていった。まるで夢からゆっくり覚めていく感じである。立ち込めていた霧から抜けると、情景に色彩が戻ってくる。浜には小さな番屋が点在していた。漁師が夏の間に泊まり込んで、漁の作業をするための小屋である。岩の多い海岸線の様子もはっきりし、背後の山の輪郭も鮮明に姿をあらわしてくる。
 昔よく聞いた知床旅情の歌が繰り返し流されるなか、船は知床岬に至った。その先へはもう行かない。岬が折り返し点で、灯台の立つ風景を眺めたあと、船は方向転換し、またもとの港へと引き返していくのである。
 若い頃に、北海道を旅したとき、ウトロ港から知床岬を回って羅臼まで船に乗ったことを思い出した。聞いてみると、その航路は廃止になり、今は知床岬まで、ということであった。時の流れを思いつつ、岸に寄せていく波を見つめる。
 若い日にもやはり船上で同じ歌を聞きつつ、青く深い海と岬に見入ったのだった。夏の日差しが照りつけ抜けるような青空であった。よみがえる二十代の日々。頼りない未来への夢を抱えた若い日の自分がそこにいるようであった…。


 帰りは同じコースなので、風景も二度目、おさらいになる。退屈するかもしれない客への配慮であろう、乗務員は野生動物の出現を気にかけていて、「前方海岸にエゾシカ」「岩の上にクマがいます」などと珍しいものが目に入ると、すぐに放送で教えてくれるのだった。それを聞くと、甲板に集まった人たちは目を凝らすのである。遠いので黒い点くらいであるがヒグマを確認、昨日に続いて二度も見ることができた。


 船を下りてから、港の近くにある海を見下ろすオロンコ岩に登ってみた。高さ約六十メートルという、どっしりした大きな岩である。ただ岩は完全なかたちでなく、トンネルが通してあり、そのため岩は筒状に一部をえぐられている。岩は観光船が発着する港への道を塞ぐような位置にあった。見上げると、岩襞に営巣しているたくさんのウミネコが辺りを飛び交い、絶え間なく鳴きたてて騒々しいほどである。
 オロンコ岩の名の由来は、先住民のオロッコ族がこの地に住んでいたからという説と、アイヌ語の「そこに坐っている岩」を意味する語からと二説あるそうだ。オロッコ族はウイルタ族のことで、ツングース系の人々であるとか。オロンコ岩にまつわる伝承では、アイヌの人々とあまり仲がよくなかったようである。伝承をみてみよう。


……昔、オロンコ岩は島であった。アイヌの船がここを通ると、オロッコ族は石や丸太を投げつけ、船を壊し、物を奪うなどのなどの悪さをした。アイヌ側は何度攻めても、断崖絶壁の上から岩を落とされて、負けてしまう。それであるとき、アイヌの人々は考え、夜のうちに海草を集めて、鯨のかたちに似せた大きな人形を作り、そこへ川から取ってきた魚をくくりつけて海に浮かべた。朝になって、海鳥が騒いで魚をつついているのを見たオロッコ族は、それを流れ寄ってきた弱った鯨と思い込み、皆喜んで岩から降り海辺へと走った。岩陰に隠れていたアイヌは、オロッコ族を取り囲み、全滅させたそうである……。


 巨大な動物がうずくまったような重量感のある岩である。入り口は一箇所で、海を眼下に見ながら崖に刻まれた階段を上っていく。勾配はかなり急である。息を切らしながら頂上に着くと、上部は平坦になっていて、回遊できる遊歩道が設けてあり、お花畑になっていた。エゾカンゾウの黄色い花が満開で、開いたばかりの朱色のエゾスカシユリも鮮やかである。ハマナスは季節には早いらしく、つぼみは多いものの開花はまだであった。センダイハギ、エゾタンポポに混じって、優しい薄紅色のエゾカワラナデシコが、岩の窪みでひっそりと風に揺れているのがなんとも可憐であった。
 頂上から曇りがちの空と海を眺める。水平線は遠く霞み、海の色は青鈍色である。また霧が出はじめて、それはみるみるうちに広がって、辺りは白い世界になってゆく。オオセグロカモメがすぐそばをかすめて鋭く鳴きながら飛んでゆき、海からは霧まじりの強い風が吹きつけて、足元の板の通路は濡れていった。視界は閉ざされていく。こんな風にしょっちゅう深い霧が立ち込めるのであれば、この地域に住む人たちは、海霧を重く息苦しいものに感じているのかもしれないとも思う。


 古にここでオロッコの人々とアイヌの人々は、命をかけて戦ったのであろう。そのあとも色んな時代に、人々の争いが繰り返されたのかもしれない。かつて島だったという岩は、時を経て、川から運ばれてきた土砂が堆積し、陸地の岩となった。今はオロンコ岩と名づけられて市内名所のひとつ、威容を誇った大岩も、観光のために削られて穴を開けられ、変貌した姿のまま、船着場を見降ろしているのであった。


     知床峠・羅臼・野付半島


 路線バスでウトロから羅臼へと移動する。ウトロを出る頃は晴れていたが、知床峠に近づく頃には、窓の外は深い霧であった。風も強そうだし寒い。途中知床峠で降りて、二時間ほど散策する予定であったが、霧を見て迷い始める。結局降りることにしたのだが、心配したバスの運転手さんが、すぐにはバスを出さず、少し待っていてあげるという。そして風にあおられながら道路を歩くこちらの様子を、注視している。悪天候におそれをなし、引き返そうと思うのなら、乗ってください、というわけである。大丈夫です、と手で合図し、会釈すると、やっとバスは発車していった。親切な人であった。
 知床峠は、羅臼岳が間近に望まれる景色の美しい場所として知られるが、それは晴天の場合であって、今は強風と霧でまったく何も見えないのであった。次のバスまで二時間もある。吹きすさぶ風で体が一気に冷えていく。手袋を用意してくればよかったと思うほどの寒さであった。
 じっとしていても寒いばかりなので、羅臼側へ向かって散策する。道路脇は雪でいっぱいである。雪崩注意報が出ているとか。今年は積雪が多く、この道路は数日前にやっと開通し、夜間はまだ通行止めになっているそうだ。
 雪景色を眺めつつ道を下る。羅臼湖入口のバス停まで降りて来たが、さすがにそれ以上進むのは…ということで、同じ道を峠の頂上まで引き返した。斜面に積もった雪の量を見ていると、これがもし道路側に崩れてきたら、と心配になり、思わず早足になった。
 峠にはトイレがあるだけで、お店や、寒さを避けられる建物は何もない。吹きさらしのなか、次のバスの時間までが長く感じられ、ようやく霧の向こうからバスが現れたときは嬉しかった。バスで峠を降りると、風は嘘のように止み穏やかになった。


 羅臼の山間部にある宿に荷物を置き、熊よけの鈴を借りて、ビジターセンターを見学、間歇泉や熊の湯付近を歩いたあと、町へと下りて散策した。羅臼の町にはなんとなく寂れた感じが漂い、人の賑わいもないのであった。路線バスに乗って海岸線を適当に進んでみると、山側に「熊の入った家」という看板が目に入り、驚いたことであった。土産物屋さんなのかと思ったが、あとで聞くと、熊が漁師さんの家に侵入し、台所で食べ物を漁ってさんざん荒らしたのだそうで、その後、民宿経営に転じられたとのこと。衝撃的な命名の由来であった。
 土地の人の話では、熊はよくこの辺に降りて来るのだとか。歩いて道を横断し、浜にも行くそうである。リュックにつけていた熊よけ鈴(宿で散策用に貸し出している)を見せると「そんな可愛らしいもん鳴らしたら、熊、しっぽ振って寄ってくるよ」と笑われてしまった。小さい鈴では効きめはないとのこと。ここではかなり大きい音を出しても、熊は逃げないのだそうだ。
 海岸に坐ってしばらく羅臼の海を眺めて過ごした。夕方近く、宿に帰るためのバスを待っていて、ふと道路を見ると、犬に似た尾の長い動物の姿がある。車に轢かれないかと気になって、道を横切っていく様子を見守る。距離があったので確かめられなかったが、キタキツネのように見えた。
 夕方、宿へ戻る道で、思いがけなく雲が切れて、前方に羅臼岳が姿を現し、その威容に驚いた。悪天候で昼間は見えなかったが、間近にこんな神々しい山があったのだ。すぐに雲に隠れていったが、まさに神宿る山のたたずまいであった。


 翌日、路線バスで標津に移動した。海岸線の集落に沿っていくが、ほとんど乗客の乗り降りはなく、海岸の堤防の上に立派なオジロワシが一羽、羽根を休め、じっと海を眺めているのだった。
 バスは海岸を離れ山の中に入っていく。北海道では山野に丈の高いフキが多く自生していて、道路際にもよく茂っている。これまで泊った宿でも、フキとお揚げの煮物やフキの佃煮などがよく出されたが、自生しているのを見ていると、ほとんど傘の代わりに使えそうな大きさである。フキだけでなく他の植物、たとえばエゾタンポポもミヤマオダマキなども(寒冷地のせいであろうか)大型に進化しているように見受けられる。


 標津では自然豊かな野付半島を歩いた。ノツケとは、あごを意味するアイヌ語であるという。野付半島は二十八キロにわたる砂嘴、細長く延びた「つ」の字のかたちをしている。途中のナラワラまではタクシーを利用し(バスはない)、あとはひたすら歩く予定である。
 半島に入ると、右手の入江にタンチョウらしい鳥の集団がたむろしていたが、遠いため確認できなかった。進んでいくと、右手に会津藩士のお墓と碑があり、幕末に野付半島で、会津藩士が北方警備に当たっていたことを知った。今でも子孫の方が墓参に来られるのだという。寒さに加え、お米が思うように手に入らなかったのだとか。藩士とその家族の辛苦がしのばれる墓所であった。


 ナラワラで車を降りてからは一本道を歩いていった。両側は海である。ナラワラとはかつてミズナラの木が多くあった所で、地盤沈下して塩害のために立ち枯れになり、ナラの木がわらのように積み重なった状態になっていたことからの命名という。遠くてよく見えないが、白っぽい林が広がっているようである。
 ヒバリの声が遠く近く聞こえているのどかな道である。水辺で二羽のタンチョウを見つけた。餌を漁っている様子、水に浸かってしきりに何かを突ついている。しばらく観察を続けていると、このあと、背後にオジロワシが飛来した。カッコウらしい鳥が電線に留まっているのも見つけた。ポッポーポッポーとさかんに鳴きたてる。鳩に似た青みを帯びた灰色の鳥で、カッコウに似ているが、体型が細すぎるようにも感じた。(あるいはツツドリかもしれない)
 ナラワラからネイチャーセンターまで、徒歩四、五キロであった。そのあと野付灯台までさらに歩いていった。センダイハギの黄色い花が咲き乱れる野である。ほとんど人はおらず、エゾシカにたびたび出会った。野原からふいに現れては道を横切っていくのである。
 灯台に着いたが、海はかすんでいて国後島はみえなかった。この辺りは江戸時代には漁の拠点として栄え、集落もあって賑わったそうであるが、今は建物の跡かたもなく、一面に草の生い茂る野が広がり、それに続く先はぬかるみとなっているという。
 野付半島は、近年、砂の流出が止まらず、少しずつ砂洲が狭まってきているそうで、そう遠くない将来に道路の埋没がはじまり、半島は島になり、やがて海に沈んで消滅してしまうという予測もでているそうだ。
 散策はここまでとし、灯台からネイチャーセンターへと引き返した。センターからトドワラ桟橋まで歩き、そこから船で尾岱沼へと向かう予定である。丈の高い密集した草の中に刻まれた遊歩道を歩いていくが、横は観光馬車道になっていて、そこをのんびりと馬が進んでいた。
 トドワラはナラワラと同様、トドマツが立ち枯れとなった地域のことで、白骨のようになった木々が、黒いぬかるみに倒れ伏していた。木道から眺めると、荒れ果てた雰囲気で陸の風景の終末という感じ、そこには静かな虚無が広がっていた。海水に浸食され、陸が緩やかに海に呑みこまれつつあるのだった。陸が滅び、海の支配がはじまるのである。
 木道が設置してあるので、人はそこをたどって海と陸の境界の雰囲気を見ることができる。野鳥の声も聞こえず、動物の姿も遠ざかり、辺りには寂寥感が漂っている。陸に棲む生命が次々消えていったとしても、海には海の別の豊かな生命が満ちる世界が存在するわけであるが…陸地の端にたたずんでいると、まさに生と死の狭間を見る思いであった。


 トドワラの危なっかしい桟橋から小型の観光船に乗り込んでひと息ついた。散策の後半は船の発着時間が気になり、急いだので疲労した。朝からもう十数キロは歩いているのである。どこかの草叢で虫に刺されたらしくて、ずっと悩まされる。
 海上から長く延びた野付半島を眺めた。この半島は、やがては消滅していくのだという思いが再び脳裏をよぎっていく。
 あそこにアザラシですよ、という声が聞こえた。海面を見ると、ゴマフアザラシらしい黒いものが遠くに浮かんでいた。しっぽなのか頭なのか、よく見分けられないが、三角のかたちに見えるものがふたつ、波の上から顔を出しているのだった。乗務員は目を凝らして探してくれていたらしい。今日は珍しい生き物にたくさん出会えて幸運であった。
 尾岱沼の港に着き、標津まで戻るバスをしばらく待つことになった。時間があるので、土地の人に訊いて「白帆」という食堂に入り、漁が解禁になったばかりのシマエビ(茹でたもの)を頼んでみた。甘くておいしい。ここの名物ということであった。


     釧路湿原


 バスと列車で移動して釧路に入った。塘路駅で降りて、駅構内の喫茶店(貸自転車屋を兼ねている)で自転車を借り、二時間ほど湿原や湖畔を走ってみることにした。
 もらった地図を見ながら、二本松を経てコッタロ湿原の辺りへと向かうことにする。青い塘路湖を右手に見て心惹かれるが、道路から左手の道をとり、コッタロ湿原の表示板の通りに進んでいく。途中から砂利道に入ると、急に走りにくくなった。
 釧路川がうねりながら流れゆく二本松という所で橋を渡る。ここにも湿原を見る展望所はあるようだが、さらに先へ進む。
 この辺りは釧路湿原の端にあたる地域で、左右に広がる風景は、湿原というよりも草原に近いものであった。所々に沼や池が現れるので、眺めつつ走ってゆく。水辺には青々としたヨシが生い茂り、水面には水草が浮かんでいる。
 心安らぐ水辺の情景なのであるが、残念なことに、道は未舗装道路、車が立てる砂埃には悩まされた。近づいてくる車の気配を感じると、端に寄り息を止めて通過を待つのだが、こちらの事情にはお構いなし、速度を緩めず、もうもうと砂埃を巻き上げて走り去る車には、ため息が出るのであった。でもそっといたわるように最徐行で横を通っていく車もあり、そんなときは、気配りに深く感謝した。要はその人のふだんの心が、運転にもあらわれるということであろう。
 砂利道には深く車の轍の跡が残っており、何度かはまり込み転びそうになる。波板状に刻まれたタイヤ跡も同様で、その上をがたがたと走るのは、かなり身にこたえるのであった。実は、転倒しないように走りに集中するあまり、景色を見る余裕がなく、そして日ごろ電動自転車にばかり乗っているので、体力も持久力もないのであった。
 そんなわけで走りながら断片的に眺めた、青みを帯びた夢のような湖沼のたたずまい、行く手に忽然とあらわれたうねる釧路川、湿原とはいいがたいような彼方に広がる草原、まるで幻をみるように情景と印象がいくつか短く記憶されたのみで、あとはよく思い出せず、そして帰りもまた(二時間の制限時間を気にして)必死に漕ぎ続けたため、苦行めいたことになり、なんのためにこんな苦労をしているのかわからなくなった。でも往復十四キロをなんとか走りきり、時間内に自転車を返すことができてほっとしたのであった。


 駅には思いがけず「ノロッコ号」という観光電車がとまっていて、偶然ではあるが、まるでそれに合わせて急いだような具合になった。本数が少なく人気の電車であるという。
 流れが緩やかな釧路川に差しかかると、川下りのカヌーを楽しむ人たちが何組もいて、ノロッコ号のお客さんと手を振り合っていた。川というよりは水路という感じ、互いに笑顔が見えるくらいの距離である。列車は部分的にではあるが、ゆっくりと釧路湿原を走ってくれるのである。
 釧路湿原駅(無人駅)で降り、細岡ビジターズラウンジを経て、細岡展望台まで歩いていった。駅からは二、三十分の緩い上りで、丘に設けた二つの展望所を訪ねることができる。下にある展望台のほうが、風景が開けていて、湿原の広がりを感じることができた。観光写真や絵葉書などでお馴染みの夕陽の名所なのだそうだ。カメラの機材を持った人たちが、日没の瞬間(まだ二時間以上もある)をとらえようと展望台の先端で時間待ちをしていた。西日がまぶしい上、ヤブ蚊やブヨも寄ってくるし、頭上の木から虫も下がってくるのだが、皆さん粘り強い。
 展望台にたたずみ、蛇行する釧路川と、緑の湿原を眺めてしばらく時を過ごした。遠景の静止画面である。そうやって遠くから見つめる釧路湿原は、たしかに絵画的できれいである。でも、先ほど自転車で湿原の中に入り、苦しい走行のさなかに眺めた、青々と広がる草原、道端に咲き乱れていた赤や黄の可憐な草花、ヒツジグサの浮く湖沼のたたずまい、静かに流れゆく釧路川、そこを吹き抜けていった初夏の風、橋から見つめた水面の情景、などが鮮明に脳裏に焼きついているので、ここから受ける風景の印象は、ごく普通のものと感じられた。


 細岡ビジターズラウンジまで戻ってくると、前庭を二匹のキタキツネが歩いていた。それほど人間をおそれている様子ではない。用心しながらも建物のすぐ近くまで歩いてきて立ち止まり、じっと人のいるほうを見つめる。実に鋭い目である。思わずこちらも動かずに、二匹を観察した。人間に食べ物をもらったことがあるのだろう。ほとんど二メートルの距離にまで寄ってきた。そして、まっすぐな目で見つめてくる。人が食べ物を出して、自分に投げ与えてくれるかどうか、キツネの関心はその一点にあるようだ。野生動物に餌を与えてはいけないことは知っているので、期待を抱かせないように、そんな素振りはみせず、こちらも無言のままじっと見つめていた…。旅の最後になって、至近距離で出会った二匹のキタキツネであった。


 久しぶりに北の旅の紀行文である。最近は神社紀行が多くなっているけれども、この北海道の八日間の旅のあいだ、神社を見かけることはあまりなかった。神社の造営は、時の政治とも結びついているだろう。けれども神社がないからといって、北海道に神がいないというわけではないと思う。その土地には土地の地霊が鎮まっているはずだし、アイヌの聖地といわれるところも数多くあるのだと思われる。
 たとえば知床半島で、忽然と雲の間からあらわれた羅臼岳を仰ぎ見たとき、まさに神宿る山だとその威容に心打たれた。羅臼岳の山頂にも麓にも、いわゆる神社は存在しないかもしれないが、神は社の有る無しにはかかわらない。社に祀られるものだけが神ではないだろう。知床の自然の中にいると、風景の中にある聖性を感じ、この半島自体が聖地であるかのような感覚を持った。


ふろく ー北海道の味ー


 釧路で、駅の近くの和商市場に行ってみた。テレビでよく紹介される勝手丼を試してみたのである。白いご飯を買い、サーモンやイカ、えび、まぐろ、ほたてなど、好みのものを載せてもらい、自作の海鮮丼を作るしくみである。贅沢にするのか、質素にするのかは、自分で決められる。五、六種類のねたを選んで盛りつけてもらうと、千数百円ほどであった。この量にしては、少し値段が高いような気もしたが、これも旅の記念、観光客が楽しむままごと遊びであろう。市場の活気の中での、旅の味の思い出づくりである。テーブルの汚れやごみの散らかりは見ないことにして、周囲を見まわすと、 観光客の皆さんは楽しそうに食しておられた。(土地の人は、まずこんな所には食べに来ないであろう)ただお店のおばさん、お兄さんたちの声かけ、呼び込みはかなり派手で、気後れした。
 釧路の町では、前夜、夕食にザンギというからあげも試してみた。鶏肉をざんぎりにして揚げたことからの命名らしい。もともとは鶏肉で作ったようであるが、食材は貝、魚類などいろいろあるようだ。ころもに濃い味がつけてあり、牡蠣のザンギにレモンを絞ったものがあつあつで美味であった。またさんまと、にんじんなどの野菜を麹に浸け込んで発酵させたという飯鮨も珍しいものであった。
 ほかには、羅臼で出されたエゾシカのシチューの一皿(鹿さんごめんなさい)、知床で食べたかに、ほたて、鮭のチャンチャン焼、こけもものソフトクリームなどが、北海道らしい味わいであった。




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