遠江一宮 小国神社


駿河一宮 浅間神社



 新幹線の浜松駅で降り、浜松を南北に走る遠鉄電車に乗った。終点の西鹿島駅で天浜線(天竜浜名湖鉄道)に乗り換え、遠江(とおとうみ)一宮駅に降り立つ。天浜線は二両電車で、のどかな田園風景の中を走りぬけてゆき、駅舎もこぢんまりとしていて可愛い。
 日曜だったので小国(読みはおくに、おぐにの両方)神社からの送迎マイクロバス(無料)が運行されており、駅前からこれを利用した。そのおかげで徒歩四十分のところを歩かずにすんだ。バスは緑色の茶畑の広がる道を数分進み、山麓に寄ると、ほどなく深い森がのぞまれる社頭に着いた。ここのお社の鳥居の色は、朱ではなく薄い肌色に塗られているのが珍しい。
 参道は山側に向かって真っ直ぐに延びており、事待池(ことまちいけ)という池が左手に見えてくる。小さな赤い塗り橋を渡ると、池の奧には五男三女神を祀る八王子社があり、ひっそりとした雰囲気が漂う。事待池というのは、当社に願掛けをして事のままに待ち、成就すれば池に鯉を放つ慣わしがあったためという。
 小国神社は時代により、許当麻知(ことまち)神社、事任(ことのまま)神社ともいわれていたという説がある。また掛川市の郊外には、事任八幡宮(事任神社)という由緒ある古社も存在し、清少納言が「枕草子」の中でこの神を「ことのままの明神いとたのもし」と記述しており、事任は当時よく知られた社であったことがわかる。そちらが一宮とされていたという時代もあったといわれていることから、遠江一宮は二社とみる説もある。


 小国神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。川村二郎氏の「日本廻国記 一宮巡歴」によると、小国神社の祭祀伝承、祭神は、三河一宮、砥鹿神社のそれと、奇妙なほどによく似通っていると指摘しておられる。両社とも北に本宮山があり、まず本宮山に神が鎮座したという起源を持ち、山中の奧宮に祀られた後、現在地に遷座という経緯も同じなら、祭神名も同じであるという。そして「一宮記」を見ると、日本各地の一宮の中で、大己貴命を祭神とする社は十社もあるそうだ。その十社すべてが、出雲またはほかの地から勧請したとするのは単純にすぎるとも。そしてさらに氏によれば、大己貴命とは、常識的には出雲の神とみなされていて、大国主命の別称であるが、天津神に対する国津神、つまり高天原系の神々に対する、先住土着の神々の、代表者をこの名は指している、とも述べておられる。
 氏の説に従うと、小国神社の祭神は、特に出雲の大神との関連を持ち出さなくても、この地ゆかりの神霊、つまり遠江に由来する先住の神とみなしてよいのではないだろうか、とも思えてくる。
 神社由緒によれば、小国の社号は、出雲の大己貴命の宮である出雲大社に対して、ここの宮を小国と美称することによるという。そして遠江とは、近つ淡海(近江)に対する語で浜名湖のことであるが、律令制下の遠江国(静岡県西部)をも指すとされる。

 
 山麓の緑濃い森に抱かれた場所に大社造の風格あるお社が建っている。北側に本宮山(標高五一一メートル)という山があり、境内には宮川という清流が音を立てて流れゆき、うっそうとした杉木立が重なり合い、深く美しい森をかたづくっている。
 社伝によれば、創始は神代の時代にまでさかのぼるそうだが、社記では欽明天皇の御代(五五五年に)に本宮山にまず神霊が祀られ、後に山麓六キロの現在地のお社に遷座したということであった。本宮山には現在も奧宮があるそうだ。山頂に磐座があるのかどうかはわからないけれども、奧宮から東に下った山中には、葛布(かっぷ)の滝という幽玄な滝が一ノ滝から三の滝まであるそうだ。ただ道が消えていて、一般観光客が気軽に入れるという場所ではないようだ。かっぷというのは地名で、くずふ、とは読まないそうである。珍しい読みであるが、どこか古代的な響きが感じられ、古地名であるのなら地名に残る先住の人たちの存在をもふと想起させる。本宮山も美しい滝も、古にここに住んでいた人たちの祭祀の対象であったかもしれない。
 

 宮川に沿って散策路がつけられていたので、参拝の後、社殿を左手に見ながら少し上流へと歩いていった。横をさらさらと清らかな水が流れ、ご神木らしい杉の古木なども聳え立っていて、緑したたる爽やかな道、心が洗われるようなすがすがしさである。日曜なので散策の人は多く、道のある限りどこまでも歩いて行きたくなるような、そんな小道であった。さらに奧へ分け入れば、おそらく本宮山へと続く山道に続くのであろうが、今日はそういう心づもりもしていないので、流れを見ながら川沿いに境内の事待池へと引き返すことにした。
 帰りの送迎バスの時間まで、池のほとりに坐って暗い静かな水面を眺め、しばらく時を過ごした。びっくりするほど大きな黒い鯉が一度だけ悠然と現れて消え、朱色の鮮やかな錦鯉も時折浮かび上がってくる。池の側の木々の枝が水に映って揺れるのをいつまでもぼんやり見ていた。
 小国神社は交通の不便な一宮で、ひと気もない閑散としたところと勝手に想像していたが、来てみると、家族連れの参拝の人が次々訪れその数の多いのに驚いた。地域の人たちが大切にしている神社なのであろう。皆さん乗用車で来ておられて、鳥居左手のうどん店も賑わい、各種ジュースやソフトクリームもよく売れている。市内から遠く離れているのに、こんなに賑わっている一宮も珍しいと思ったことであった。
 遠江一宮にはもう一社候補があると前述したが、その事任(ことのまま)八幡、ことのまち神社ともいわれるお社のことがふと気になって地図を見るが、掛川市から東の方向にあり、訪れるのは無理とわかった。

 
 遠江一宮駅に引き返し、同行者の希望により、天浜線の二俣本町駅に降り、二俣城址を訪れることにした。駅から山麓を目指して十五分ほど歩き、急な石段を上り、さらに山道を折れ曲がって進んでいくと、戦国武将の城跡、二俣城址にたどり着く。山道が急角度に曲がっているのは意図的なもので、敵の侵入を防ぐためという。
 城跡には建物はなく、そこには築かれた当時の石垣だけが残っていて、そのほかは均されたような静かな空間が広がっていた。無の空間である。樹木はほどよく刈り込まれ地面には芝が敷かれ、適度に整備がなされたらしく、荒れ果てた感じではなく、公園風のたたずまいであった。石垣はきちんと形を保ってはいるが時を経て苔むし、上ってみるとその向こうには流れゆく天竜川がのぞまれた。見たところ比較的水量は少ないようであった。
 二俣城は要害の地にあり、群雄割拠の時代、今川、徳川、武田と支配者が目まぐるしく入れ替わり、激戦が繰り返された山城である。それを思うとおびただしい人々の死の光景が一瞬脳裏をよぎり、戦慄を覚える。説明板の前で立ち止まり、書かれた内容を読んで往時をしのび、青草を踏みながらしばらく城址を散策した。
 石垣の傍らでは明るい陽ざしの下、萩の花が咲きこぼれ、川から吹く風に揺れている。穏やかできれいな秋の午後のひとときであるが、二俣城址の情景には、寂寥感とともに、多くの人の哀しみが今も漂っていると感じられるのであった。


 再び天浜線に乗り、今夜の宿泊地である掛川へと向かうことにした。ずっと歩き回ったせいで疲労し、いつか眠りに落ちてしまい、どこかの駅に止まったはずみに眼が覚めるとそこは「細谷」という駅であった。
 動き出した車窓から、辺り一面に広がる緑の田園風景を眺めていると、その中に丘のような塊がいくつか見える。どこか大和を思わせる光景と感じ、大和平野を走っているような不思議な感覚にとらわれた。目を凝らすと、どうもただの小山や丘ではなく、独特の緑の丸い盛り上がり方、そのたたずまいはどうみても円墳、遠くには前方後円墳らしい雰囲気のものも…。
 うっかり眠り込んでいて古墳群を見逃すところだったと思い、しばらく熱心に見つめていた。これらが造られた時代は五世紀、それとも六世紀…被葬者は…その背景は…。大和の勢力がこの地に及び、支配下に入ったのはいつ頃だったのだろう…。次第に想念が駆け巡りはじめる。ここは古くから開けていた土地だったのだ、と改めて思い、通り過ぎてゆく古墳群をしみじみと眺めたのだった。


       大井川の渡し

 
 掛川駅前のビジネスホテルに一泊し、翌日駿河一宮を目指すことにしたが、同行者の希望により、途中JR島田駅に降りて「大井川の渡し」を見学していくことになった。
 島田の駅前通りから歩きはじめる。花がきれいに植えられていて目を楽しませてくれるのだが、人の往来がほとんどなくて、少し寂しい町に感じられた。大きなショッピングセンターの前をさらに進んでいくと川が見えてきて、そこが島田宿、大井川の渡しであった。今は蓬莱橋(明治時代に架橋)という全長八九七メートル、木造では世界一という橋が掛かっていて、通行料(百円)を払うと渡れるのである。
 早速渡ってみる。思いのほか川から強い風が吹きつけてきて、帽子が飛びそうになった。河川敷には秋の草花が咲き乱れ、川の中洲には鳥が群れている。陽光にきらめく川の流れはそれほど広くはなく、水の勢いも速くはないようであるが、昔はもっと水量が多かったらしい。江戸時代の記録によると、渡しの人足は数百人、増水による川止めがひと月に及ぶこともあったようだ。旅人は馬に乗って渡ったり、蓮台という輿で担がれたり、また人足の肩車や、人足の持つ棒につかまって自力で渡ったりしたという。
 蓬莱橋は一キロ近くあるので、渡り切るのに十五分かかった。向こう岸に着くと、古い祠があってお地蔵様などが祀られている。しばらくそこで休んでから引き返す。往路は気がつかなかったが、右手に遠く富士山が見えていて(十月なので頂上に雪はない)ずっとそれを眺めながら橋の上を歩いた。広重の「東海道川尽 大井川の図」では蓮台に乗って川を渡っていく女性たちの向こうに遠景の富士山が描かれているが、(これは冠雪の山)その通りの構図なのでなるほどと納得した。




           駿河一宮 浅間大社



 
 東海道線富士駅から見延線に乗り換え、約二十分で富士宮駅に着いた。右手に富士山が見えるはずなのだが、雲に隠れて見えず、駅にコインロッカーがないので、観光案内所で荷物を預かっていただく。
 駅前通を一・五キロ歩くと鮮やかな朱色の大鳥居が見えてきた。このお宮は正式には、駿河一宮 富士山本宮浅間大社、全国に約一三〇〇社ある浅間神社の起源の社という。浅間の読みは、あさま、ではなく、せんげん、と読むそうだ。あさまのほうが古い読み方で、古代アイヌ語であさまは「火を噴く山」という意味であるとか。(伊勢朝熊山の頂上磐座の説明板では、あさまの意味はアイヌ語できらきら輝く神、とあった)
 富士山は、古から神霊が宿る山として崇められていたようだが、やがて山の神霊は「あさまの神」と呼ばれるようになる。(噴火の荒々しさから男性神とみる説、また山の神の多くは女神とされているので女性神とみる説がある。ほかに男女の性を超越する存在とみる説も)
 富士山は度々噴火したので、神の怒りを鎮めるため山麓に社を建て、浅間大神(あさまおおかみ)の名で祭祀されるようになった。その読みは当初あさまであったが、時を経て変化、中世以降はせんげん、と音読するようになり、それが一般化したらしい。


 参道を進んでゆく。ご神木は桜の木である。富士山の山容や祭神の姫神には似つかわしい花、境内には桜が多く植えられていて、開花の頃にはきっとみごとだと思う。
 社殿にたどり着く。見上げれば赤くて気品のあるきれいなお社、横にまわると本殿は二層で楼閣のついた構造になっていて、その二階部分の流造りの屋根の曲線が優美で、しかも迫力がある。浅間(せんげん)造というそうで徳川家康の造営という。珍しい構造なので惹きつけられて眺める。祭神は美貌で知られる女神、その美にふさわしく華やかなかたちともみえる。
 祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと、別名は浅間大神)。国津神の娘である。天孫瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に見初められ、姉とともに姉妹で嫁ぐが、美人の妹、佐久夜姫だけが受け入れられ、姉の磐長姫(いわながひめ)は醜いという理由で送り返された。そのため父親(あるいは磐長姫自身が)が呪詛したので、天孫と人の命は短くなったのだそうである。
 このお社には佐久夜姫と夫神の瓊々杵命、父親大山祇命(おおやまつみのみこと)が祀られている。(この姉妹の婚姻のいきさつ、および姉妹の社については、「磐長姫の社」の項でも述べている)


 由緒によれば、創祀伝承は古く、霊峰である富士山をご神体とし、浅間大神の名で鎮められたことにはじまるという。孝霊天皇の御代に富士山が大噴火して周辺の民が離散、それを憂えた垂仁天皇が神霊を山足(山麓の地)に祀ったのが起源とされる。倭建命が東征の途中、祭祀を行ったとも伝えられ、また坂上田村麻呂が勅命を受け、山宮から現在地に遷座したとも伝承されているそうだ。
 富士山はたびたび噴火を起こし、この姫神の水徳を以って噴火が鎮まったとのことである。(姫神の持つ水の霊力をもって、火の神の怒りを鎮めたというのであれば、佐久夜姫と浅間大神は、現在では同一視されているようだが、本来は別々の神であったということになるが…。神の世界においては、鎮めようとするほうは、しばしば荒ぶる神と同化していくのだとされているが)
 

 文献をみていくことにしよう。平安時代、都良香(みやこのよしか)という文人が書いた「富士山記」に、貞観十七年秋のよく晴れた祭礼の日、山の峰を仰ぐと白衣の美女が二人、山の頂の上、一尺ほどのところで並んで舞った。居合わせた人々がみなそれを見た、とあるそうだ。


…仰ぎて山の峰を観るに、白衣の美女二人有り、山の嶺(いただき)の上に双(なら)び舞ふ。嶺を去ること一尺(ひとさか)余り、土人(くにひと)共に見きと、古老伝へて云ふ。 (「富士山記」より)


 富士山の上空に舞う二人の美女。富士信仰がもたらした神秘現象のようであるが、ごく普通に考えれば、青空に人のかたちの不思議な白い雲があらわれて、あたかも舞うような風情であったのだろうと思われる。この場面を想像してみると、幻想的でとてもきれいである。祭礼のさなかに、これを目の当たりにした人たちには神秘と映り、二人の美女の舞と感じ入ったのであろう。この二人とは、一人は佐久夜姫だろうが、もう一人は誰であろうか。佐久夜姫と並んでいるのなら姉の磐長姫かもしれないとも思うが、詮索はともかく姫神の霊威ということであろう。
 

 別の史料からも富士山と関連する話をみてみよう。よく取り上げられる「竹取物語」の結びの場面である。かぐや姫が月に去り、悲しんだ天皇が、せっかくもらった不死の仙薬もかぐや姫がいないのではと、家来に命じて山の頂上で薬を焼かせるという結末になっている。注(岩波文庫版)を見ると、そのときつわもの(士)どもをたくさん山に上らせたので、士に富む、つまり富士山になったと、また不死の薬を燃やしたのでふじの山になった、という洒落であると説明されている。


 またこんな文献もあるので紹介しよう。「本朝神社考」の冨士山の項には、竹取物語に似てはいるが、奇妙な物語が載っている。


…老夫婦が竹の節から女の子を見つけて育てると、わずかの間に美しく成長した。天子が諸国に美女を求めたとき、立ち寄った使者が見出し、天子に仕えるよう説得するが女は応じない。女は老夫婦に、自分は山に上りここから去ると告げる(月に帰っていくのではない)。天子は使者からそれを聞くと、みずから駿河にやって来る。女はすでに山に去った後だったが、天子は追って山に入り、第五層で休んだとき玉冠をとってそこに置く。さらに進むと岩窟があり、女が現れて誘うので天子は中へ入り、そこが墓所になったというのである。
「女出で迎へて微笑していはく、願はくば天子ここにとどまり給へと。因りて共に崛中に入る。玉冠の在りし所に石を積みて以て陵と為す」


 物語の設定は、桓武天皇の時代となっているそうで、天皇にまつわる話としてはありえないが、たとえばこの世のものでない美女の幻に招かれて洞窟に入り、消えてしまった男の物語、としてでも読めばいいのだろうか。富士山には洞窟、人穴が多く口を開けているが、そういうおそろしい想像を喚起させる力を、地下世界へとつながる洞窟は持っている。暗い岩屋の入口にたたずんで、男を冥界へといざなう美女の幻影。美の女神は冥府の女神と密接な関係にあるのだろうか。不吉なほどの美しさはどこかに恐怖を孕み、その美の裏には死がひそんでいるのかもしれない。



 右手にまわって、湧玉池(わくたまいけ)という湧水の池へと足を運んでみる。そこには思いがけずすがすがしい空間が広がっていた。富士山の雪解け水が溶岩の間を通り抜けて、ここに湧き出ているのである。水屋神社というお社があり、柄杓で水を汲んで頂くこともでき、試してみると冷たくて心地よい水であった。昔富士山を登拝する人たちは、身を清める慣わしであったというが、ここはその禊の池であった。
 樹木の緑に包まれた池のほとりをゆっくりと巡っていく。池には絶えず底から水が湧いていて澄みきっており、鴨が群れをなして泳ぎ、鯉も鴨も人影を見ると寄ってくる。透明なので水中に靡く緑の藻がゆらゆらと揺れているのも、底の石や苔、泳ぎまわる小魚の様子も観察できる。こんなに美しい池があるとは思わなかったので見とれてしまい、しばらく木陰で坐っていた。
 池には一箇所流れ口があり、そこへ行って眺めてみると、ごうごうと音を立て、激しい勢いで水がなだれ落ちていた。小さな橋を境にして、上のほうは鏡のように静かな水面であるが、橋から下流のほうを覗くと、水は白く泡立ち岩を滑り落ちて渦を巻き、こわいような急流である。でもこの川はすぐ緩やかになってお社の横を通りぬけ、市内を流れてゆくのである。
 池の近くでおばあさんが鯉の餌を売っていたので一袋求め、水辺に立つと、たくさんの鴨と鯉が寄ってきた。餌は食パンの耳を切ったもので、さらにそれを細かくちぎって鴨に投げていると、鳩も飛んできて集まりはじめた。そのうち背後で妙な鳴き声がするので振り返ると、境内に放し飼いされている鶏も来て、しきりに催促しているのであった。動物に餌を与えるのが面白く、楽しんで時を過ごした。やがて最後のパンのかけらを投げ、袋が空っぽになってしまうと、あんなに集まって騒いでいた生き物たちはたちまちみなどこかへ散ってゆき、辺りはまたもとの静けさに戻ってしまった。服についたパン屑を払いながらふっと一抹の寂しさも感じるのだった。


 駅へ戻ると、雲が晴れて富士山の山容がぐっと迫って見えた。まだ雪はついてないので、全体に茶色くてどっしりとした夏の山である。電車が来るまでの間、そのくっきりした輪郭と重量感のある山肌をじっと見つめ、さらに動き出した車窓から姿が消えていくまで、山を眺め続けていた。



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