安房一宮  洲崎神社・安房神社


      上総一宮  玉前神社




 東京を朝早く出発したつもりだったが、房総半島の端まで乗り継ぐのに時間がかかり、JR館山駅前からバス(本数は少ない)で洲崎神社に着いたのは昼前になった。洲崎灯台を見るために一つ手前の集落で降りたため、そこから神社まで歩いていったのである。
 洲崎神社(読みはすさき、すのさきの両方)は御手洗山(みたらしやま)の中腹に営まれている。御手洗山は神体山で標高は一一〇メートル、高い山ではないが整ったかたちをしている。百数十段の石段を上っていくと、樹木に包まれた中にひっそりと社殿があった。


 祭神は天比理刀当ス(あめのひりとめのみこと)。同じ館山市にあるこれも安房一宮とされる安房神社祭神、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神という。二社合わせて一宮とみてもいいのだろうか。今は安房神社のほうが一宮とされ、賑わっているそうだが、洲崎のほうが一宮とみなされ、隆盛をみた時代もあったようである。


 由緒によれば、洲崎神社の創建は古く、神武天皇の御代にまでさかのぼるという。勅命を受けて天富命(あめのとみのみこと)が四国阿波の国を開拓、さらに天富命は阿波から忌部一族を率いて船出、東国を目指しこの地に上陸、開拓していったという。故郷の阿波にちなんでこの地も安房(あわ)と名づけられたそうだ。上陸後は天富命とその一族はこの地域に定住、やがて支配者となっていった。忌部氏の祖神天太玉命(ふとだまのみこと)を祀ったのが安房神社で、后神のほうを祀ったのがこの洲崎神社ということであった。
 ただ天富命らの上陸地はここではなく、布良(めら)の海辺ということであるので、ここに社が定まったのはさらに後ということだろう。天冨命は布良の海辺の二つの山を男神山、女神山と名づけ、それぞれに天太玉命、天の比理刀当スを祀ったとされる。所縁の社として布良崎神社があるという。


 洲崎神社は海に面して建てられており、社殿から振り返ると房総の海が眺められる。眼下に広がる青い太平洋の海の色を見つめていると、心ものびやかに開放されてゆくような気がする。海から来た人々によって、遠隔地にあった彼らの神もまたこの地にもたらされたのであろう。古に人々が新天地を求めて旅をするとき、その氏族が奉じる神々もまた旅をともにしたのである。
 神社の背後の整ったかたちの神奈備山や、半島の先端という地形をみていると、もともとここは古の聖地だったのかもしれないと思う。洲の神、洲崎の神として、土地神がひっそりと祀られていたような気もする。時代によって祭神の交替や祭神名の変更もあったかもしれない。
 ここにたたずんでいると、この地に根づき鎮まった神が長い年月、その遠い海の彼方に視線を向けて、憩っておられる様子が想像できる。
 そしてこの社殿に詣でる人もまた、ここに来るたびに潮風に吹かれながら茫洋と広がる海を見つめ、遥かな海路や海に隔てられた遠い地に思いを馳せてきたのではないだろうか。そのような遠方に対する、ある感情を呼び起こす古代の海の情景がここにはあるのだった。


 急な石段を下りて道路を横切り、海に向かって歩いてゆく。浜鳥居を目指していくかたちになる。これが一の鳥居で、鳥居を抜けるとその先には海が広がっていた。岩には波が打ち寄せ、風は強い。この海上の真正面に遠く富士山が望まれるはずであるが、あいにく雲に閉ざされていた。
 鳥居の近くの草原には、聖石とみられる大きな石が祀られていた。祭祀の場所は最近になって新しく整備されたもののようであった。黒ずんだ御神石で、神社由緒によると、二つの伝承があるという。
 ひとつは伊豆大島に流された役行者が、霊験をあらわして一対の石のうち一つをここに置き、もう一つの石を横須賀市吉井の安房口神社に置いて鎮護としたというもの、また別の伝承によれば、これらは龍宮からもたらされた一対の石で、対になるほうの石は、横須賀市吉井に飛んでいきそこで祀られた、ということである。
 一対の聖石は古の呪物とみられ(陰陽石かとも思われる。吉井の石は見ていないが、こちらは陽のほうともみえる)、海上安全の守り神として信仰されてきたようである。神社の説明によれば阿吽の石というそうで、こちらの石はその形状から吽であるとか。


 浜に降りていくと上空にはたくさんの鳶が舞っていた。折り重なった岩棚には浅く水が溜まり、岩の先端では釣りをしている人が一人。砂浜はなく、少し回りこんで歩いてみると小さな集落があって、水辺には漁船が係留されている。潮の香りが濃く漂う漁村であるが、そこで働く人影は見られず、上空を風に乗って鳶が舞い、時折ピーヒョロローと鳴き声だけが降ってくるのだった。
 洗濯板のようになっている岩棚に坐って、館山駅前のコンビニで買ってきた昼食をとることにした。日差しも風が強かったので傘を差し、風を防ぎつつ食べた。先ほどから鳥居の上に猛禽類の鳥がとまっていて、海を眺めているようである。鳥居とはよく言ったものだと思う。もう一羽いて、それは立て看板のほうにとまっている。二羽とも鳶のようであった。鳶は案外大きい鳥なのだと改めて気づいた。
 眼前には青く広がる海原、ここは東京湾の入口に当たるのだろう。洲崎の沖は「汐の道」と呼ばれ、古来航海の難所であったらしい。遠い時代、天冨命に率いられたという忌部一族の船団も、もしかすればこの辺りで漂流、風に漂いつつ布良の海辺に流れ着いたのかもしれない。




    安房一宮 安房神社




 洲崎神社から同じ館山市内にある安房神社へと向かうことにした。両神社間をうまく結ぶ路線バスがないので、植物園の前まではバスで行き、そのあと三キロほどを歩いていくことにした。海外沿いの変化のない直線の舗装道路を行くのだが、日ごろの運動不足がたたり、道のりを遠いものに感じた。
 安房神社に着いた。鳥居の色は白ですっきりとした印象である。深い森を伐り開いて造営したと思われる大きく立派な社殿があった。背後の吾谷山(あづちやま)も緑の樹木が鬱蒼と茂って圧倒される。とても威厳のあるお社である。安房一宮をいうとき、普通はこちらの安房神社のほうを指すようである。


 祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)、洲崎神社の祭神、天比理刀当スの夫神に当たる。相殿には后神のほか忌部五部神(阿波、出雲、讃岐など各地の忌部の祖神)が祀られている。
 由緒によると、神武天皇の御代、天富命の率いる忌部氏は神殿の造営や、種々の神宝、鏡、玉、神具、麻などを作り、神祭りに従事する氏族であった。あるとき天冨命が勅命を受け、肥沃な土地を求めて四国阿波の国に赴き、そこで殻(かぢ、梶、神事の供え物の敷物などに使う)や麻を栽培した。さらに良地を求めて、天富命は阿波から忌部氏を率いて発ち、海路東国をめざして進み、布良海岸に上陸、そこを本拠として麻・殻などを植え、土地を開拓していったという。故郷の阿波にちなんで当地を安房と名づけ、祖神である天太玉命と后神の天比理刀当スを、当初は布良の男神山と女神山に祀り、後に現在地に遷したという。
 

 天富命をして…斎斧(いみおの)斎鋤(いみすき)を以て、初めて山の材(き)を採りて正殿(みあらか)をつくり立てしむ。…また天富命をして、斎部の諸氏(もろうじ)を率て、種々の神宝、鏡、矛、盾、木綿(ゆふ)、麻(を)等を作らしむ。…よりて肥饒(よ)き地を求(ま)ぎて阿波の国に遣わして殻(かぢ)・麻の種を殖(う)ゑしむ…。
 阿波の斎部を分ち、東の土(くに)に率往(いゆ)きて、麻・殻(かぢ)を播殖(う)う。好き麻生(お)ふる所なり。故、総(ふさ)の国と謂ふ。古語に麻を総(ふさ)と謂ふ。今上総(かみつふさ)下総(しもつふさ)の二国と為す、是なり。阿波の忌部の居る所、すなはち安房郡(あはのこほり)と名づく。天富命、即ちそこに太玉命の社を立つ。今安房の社と謂ふ。 (「古語拾遺」より)


 長く引用したが、「古語拾遺」は平安時代になって、太玉命の子孫である忌部広成が氏族に伝わる伝承を編纂したものなので、祖神や忌部氏にまつわる活躍の記述が、他の史料よりも多いとされている。


 安房神社は山麓に営まれたお社で、ここから海が臨まれるような位置にはないが、昔は海がもっと近くにあったのかもしれない。安房神社の元宮である海辺の布良崎神社(開拓英雄の天富命を祀る)とは、一キロほどの距離ということであった。
 天富命の一行は、布良海岸の阿由戸の浜と駒ケ瀬の二箇所に上陸したと伝承されているそうだ。往時は無人の海辺であったのだろうか。それともそこにはすでに先住民が住んでいたのであろうか。いたとしたら上陸してきた異族の人々は、集落でどのように迎えられたのであろう。当初は漂着した遭難者として助けられたのだろうか。それとも突如現れた見知らぬ武装集団が定住するとわかり、おそれられ、軋轢も生じたであろうか。あるいは遠い海の向こうから、籾種や麻や殻など珍しい植物の種子も携えて来たので、幸いをもたらしてくれる来訪神のような存在として認識されたであろうか…。


 想像世界では、さまざまな情景が浮かんでくる。何はともあれ開拓という名のもとに土地は拓かれてゆき、天富命の一族はこの地に根を下ろしたのであろう。
 布良の海は、天富命の上陸地という古代の伝承地であるが、加えて画家青木繁が滞在してすぐれた絵を描いたことでも知られる地であった。「海の幸」で表現されているたくましい海の民の収穫の姿は、まるで古の漁の一情景をそのまま切りとったような力強さにあふれ、現代の絵でありながら、古代の男たちがそのまま生き生きと立ちあらわれたような感覚に陥る。立ち寄ることはできなかったが、古の布良の海に思いを馳せつつ安房神社を後にした。




       上総一宮 玉前神社
 



 洲崎神社、安房神社を訪れた後、内房線から外房線に乗り継いでいると、窓の外はだんだん暗くなっていき、心細くなる。上総一宮駅に降りたとき、もうすっかり日は沈み、商店街には夜の気配が立ち込めていた。いくら自分の都合とはいえ、(遠方に住んでいるので、はたして今後来る機会があるかどうかわからず)こんな夜間の参拝ははじめてで、神様にも申し訳ないと思いつつ駅前にたたずんだ。
 商店のシャツターを閉めている人に神社への道を訊くと、案外近いとわかってほっとする。十分ほど歩いていくと鳥居が見えてきた。玉前(たまさき)神社は、住宅や商店との距離が非常に近い町中の神社であった。
 

 道路際に鳥居が立ち、立て続けに三基の鳥居をくぐるともう社殿であった。修理中ということで社殿はシートに覆われ、どこへお参りしてよいのかわからない。神霊をおさめてあるという仮殿を探すが、当然鍵がかかっており外から手を合わせた。
 社殿は漆で黒く塗られた珍しいお社と聞いていたが、夜の闇の色に溶け込んで黒はさらに重なり、背後の樹木が影絵のようになって揺れ、もう黒一色の世界である。これがもし深い森の中であればおそろしかったであろう。町の中というのがありがたく、街灯に照らし出された町の賑わいも間近にあり、人の生活の気配が濃く感じられるのがあたたかく安心とも思えるのであった。


 由緒によると、創建の時期に関しては、永禄年間の戦火により社殿、宝物、文書を失ったため不詳とのことである。(一説には景行天皇の御代ともいわれている)「延喜式」には明神大社として記載があるそうだ。
 川村二郎著「日本廻国記一宮巡歴」によると、祭神は社伝では玉依姫命(神武天皇の母)とされるが、古記録によれば「玉埼(たまさき)神」、一宮記では「前玉命(さきたまのみこと)」また江戸期の記録では「ご神体は黒い玉である」とも記されているそうだ。鎌倉時代の「古今著聞集」にはこんな話がみられるという。


…平安の後期のころ、上総一宮の神のお告げとして、自分は妊娠してもう三年経つが、良い時代だからいよいよ子を産むことにする。お告げを聞いた者が海辺に出てみると、美しい玉が一つあった。これこそ若宮のご正体に違いないと人々は信じた…。


 玉にまつわる伝承がいくつかみられ、祭神に関しても諸説あるようだ。一宮は土地神が祭祀される場合が多いので、ここも本来は土地にゆかりのある神霊を祀り、「玉前の神」として鎮めていたかと思われる。それにしても江戸期にはご神体が黒い玉とは…黒曜石とか碁石のような黒石を思い浮かべてしまうが、社殿が黒い色で塗られていることと何か関係があるのだろうか…。


 この地域には古から続く玉の信仰があって、九十九里浜は古名を玉の浦といったそうである。そのいわれは海から美しい玉、石が上ることがあり、人々はこれらに霊力をみて、光り輝く神として祀ってきたという(寄石信仰)。たとえば大あわびの中からめったにないようなみごとな真珠が見つかったとき、個人では所有せず社に献じられたのであろう。


「日本書紀」安閑天皇の項に、上総国と真珠献納にまつわる話が載っているので引用してみよう。


 安閑天皇元年の夏、内膳臣大麻呂(かしわでのおみおおまろ)が勅命を受け、使者を遣わして珠(真珠)を上総の伊甚(いじみ、現在の夷隅、いすみ市)に求めさせた。伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)らは京(みやこ)に参上するのが遅く、期限を過ぎても進上しなかった。大麻呂はたいそう怒って、国造らを捕縛してその理由を尋問した。国造の稚子直(わくごのあたい)らは恐懼(きょうく)して、後宮の寝殿に逃げかくれた。春日皇后は、逃げ込んできたことをご存じなくて、驚いて転倒され、たいそう恥ずかしい思いをされた。稚子直らは、真珠を奉らなかった罪と、後宮に乱入した二つの罪によって重い罪科に処せられた。それで謹んで、ひたすら皇后のために、伊甚屯倉(いじみのみやけ)を献上して、乱入の罪を贖(あがな)いたいと請うた。そこで伊甚の屯倉(みやけ)を定めた。今、分けて郡(こおり)とし、上総国(かみつふさのくに)に属させた。(日本書紀 現代語訳より)


 この話は伊甚から真珠の進上ができなかったので(書紀には単に珠とあり、注をみると真珠と説明されている)贖いとして土地を献じたという、伊甚に屯倉(天皇、朝廷の直轄領)が定められた起源を説明する内容になっているが、もう少し背景もみてみたい。この例だけではなく、さらに古い時代から中央政権が地方に対しさまざまな神宝、宝物、土地の産物の進上を命じることは多くあった。
 伊甚の場合は安閑天皇の時代なので、だいたい六世紀前半とみていいのだろうか。大和政権の支配が強まり地方にも浸透していく時期である。多くの屯倉が定められていき、書紀安閑天皇の項でも、新たに各地で設定された屯倉の名が列挙されている。
 地方産物の奉献は、中央への従属の証でもあり、進上しない場合は不服従とみなされたのであろう。珠の献上を伊甚国造に命じているが、単に地方産物としての真珠だったのか、それとも神として社に祀られているような特別な玉(たとえば変わったかたちの珍しい真珠や大真珠など神宝、ご神体としての玉)の献上を命じたのか、書紀にはそこまで詳しく書かれていないので、どちらなのかはわからない。


 仮に前者であるとしよう。伊甚の海ではあわびがよくとれ、真珠の産地として知られていたので、大和から献上を命じてきたのだろう。でも国造が捕縛されるという重大な事態になるまで、なぜ地方産物が献上できなかったのだろうかという疑問が残る。
 後者の場合を考えてみよう。玉には古来霊力があるとされてきた。貴人が玉を連ねたものを首や手や足に巻いたのは、装飾もあるだろうが、玉の持つ霊力で悪霊や魔の侵入を防ぐという意味もあったそうである。伊甚ですぐれた真珠が海から上がり、神として社に祀られているというような噂が広まり、大和側がこれに関心を持ったということが考えられる。


 神秘的なものには霊力が宿っているという考え方から、中央政権はしばしば地方に対し、神宝や宝物の献納を命じた。ものに宿る霊力は、その所有者に力が付加されるので、各地の神々や神宝、国魂のこもった神体、宝物などは大和に運ばれ、歴代の天皇のもとに集められたようである。神宝献納の例を日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇の項から二例ほどみてみよう。


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 崇神天皇のとき、天皇の使者が出雲を訪れた。天皇が出雲の神宮にある神宝を見たいとおっしゃるので、大和に差し出すように、という命令であった。神宝を管理している兄は筑紫へ行って留守であったが、おそれた弟は神宝を使者に献上してしまう。戻ってきた兄はそれを知ると「数日待つべきであった。なぜたやすく神宝を渡したのか」と怒り、日を経ても感情がおさまらず、弟を川に呼び出して殺害した。そのいきさつが大和に伝わると、天皇は兵を出雲に差し向け、兄とその勢力を滅ぼしてしまった。出雲の人たちは大和をおそれるようになり、しばらくの間は出雲の神を祭祀することをやめてしまった。(このときの神宝は鏡と玉だったという説がある。出雲は玉の産地として知られていた)。
 この出雲の神はその後、神がかりをする家の小児にとり憑いて、水底に沈んでいる出雲の石や鏡を神秘的な宝とたたえる不思議な歌のかたちで託宣、何ごとかを告げてその霊威をあらわした。家の人は皇太子に申し上げ、天皇は皇太子から歌のことを聞かれ(遠方に持ち運ばれた出雲の神や、神宝を奪われた出雲人の思いなどをおもんばかられて)、命じて出雲の神、鏡の祭祀(鏡を出雲へ返却したという説もある)をおさせになった。(日本書紀崇神記)


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 垂仁天皇のときのことである。新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)が但馬にもたらした宝物が、土地の人たちに敬われ神宝となっていることを聞かれた天皇が、それらを見たいとおっしゃって、神宝献上を天日槍の子孫である清彦に命じられた。その神宝とは、羽太(はふと)の玉、足高の玉、赤石の玉、日の鏡、熊のひもろぎ一具、それと出石(いずし)という名の小刀であった。
 清彦は献上の七品を携え大和へ来るが、神宝の中で刀子だけはどうしても渡せないと思い、衣の中に隠して参上した。天皇は刀子に気づかれず清彦をねぎらいお酒を賜った。その折に刀子があらわれてしまい、問われて隠しきれず清彦は刀子を献上、神宝はすべて宮殿の神府(みくら)に納められた。その後、神府を開くと刀子だけが消えていた。清彦にただすと、「夕べにはいったん自分の所に帰ってきて、翌朝には消えてしまいました」と返答した。不思議なことに、刀子はひとりでに移動したようであった。天皇はもうそれ以上は追及されなかった。刀子は後になってひとりでに淡路島に逃れていった。淡路島の人々は刀子を見て神と思い、祠を立ててお祀りしたという。(日本書紀 垂仁記)



 寄り道したが、話を伊甚の真珠献上に戻すことにする。勝手な推測でいうのだが、伊甚ではみごとな真珠が光り輝く神として、人々に崇められていたのであろう。そのため大和から献上を命じられたが、その珠を奉れば自分たちの神を失うし、土地の祭祀権を差し出すことにもひとしい。神を召し上げられれば、住民の心の拠り所も喪失してしまう。伊甚側は献上をためらううち期限が過ぎてしまい、国造が捕縛されて糾問という事態にいたる。でも結局このことによって伊甚側は罰せられ、屯倉(みやけ)が設定され、伊甚は直轄領とされてしまうのである。


 允恭天皇の項にも、大真珠にまつわる話が載っているので紹介してみよう。


 允恭天皇のとき、天皇は淡路島に遊猟された。鹿や猪など獲物はたくさんいるのにまったく獲れない。占うと、島の神(いざなぎ神のことか)の祟りで、赤石(明石)の海底に大真珠があるのでそれを神に奉れ、との仰せであった。あちこちの海人(あま)を集めて探らせたが深くて海底に達することができなかった。しかしすぐれた海人(あま)の男狭磯(をさし)という者が潜り、海底で光っている大あわびがあると報告した。ふたたび潜ってそれを取り、あわびを抱いて浮かび上がるものの力尽き息絶えた。縄で測ると海底までの深さは六十尋あった。あわびの腹を割くと桃の実ほどの真珠があり、島の神にお供えし狩をされると、多くの獣を得ることができた。天皇は男狭磯が海で死んだことを悲しまれ手厚く葬られた。その墓は今なお残っている。(日本書紀 允恭記)


 この赤石の場合はかなり大きな真珠だったようである。以後はおそらくそのまま神宝として島の社に祀られたのであろう。


 話を元へ戻すことにする。前述の出雲、但馬、伊甚の三例の献納逸話を比較してみると、出雲と但馬の場合ははっきり神宝と記述されており、天皇に召し上げられても霊威をあらわし、そのとどまる場所をみずから定めていくという展開になっている。神宝は天皇の命にも屈することなく、超自然的な力を顕わすのである。土地の神は本来ゆかりの地に鎮まるものであり、その神の意思に沿うかどうかわからないのにもかかわらず動かすのも問題であるけれども、大和へ遷した結果、神はまるで抗議するかのように不思議な力を発揮したため、逸話として残ったのだとも考えられる。
 伊甚の場合は、単に珠とあるのみで神宝とは記述されておらず、また霊威が起きたとも記されていない。(霊威が語られなかったからといって、神に力がなかったわけではないだろうけれど)。もし神霊の宿る珠が天皇に献納されていたなら、あるいはそこで何らかの不思議を起こし、みずからの霊力を人々に提示してみせたかもしれないとも思うが…。


(真珠に関しての余談であるが、以前奈良の正倉院展で古代の真珠を見たことがあった。光明皇后のお品が展示されており、その装飾品の中に真珠があった。千三百年の時を経てもその輝きは失われず、ガラスケースの中できわだって存在感を示し、心惹かれたのでしばらく見とれていた。真珠はだいたい小粒で大きさが揃えてあったが、まん丸い玉ばかりでなく、細長いものやかたちが少し変っているものも多くあって、天然真珠の特徴をよく示していた…)。


 年代の点からも考えてみることにする。神宝の霊威が起きたという崇神天皇(第十代)垂仁天皇(十一代)の時代といえば、だいたい三世紀半ばから後半とみていいだろうか。そのときから安閑天皇(第二十七代)の時代、六世紀前半まで、約三百年が経過しているのである。
 時が流れるうち、地方神の霊威を語り、その神秘に視点を置くような神話的な大王の世界は、書紀の中からも遠ざかっていったとみていいのではないだろうか。少しずつ神秘性が薄れていくにつれ、人々の意識の中には、実務的で具体性を持つ政治とのかかわりが関心を持たれるようになり、そういう事例が、時代が進むほどに日本書紀にも多く記述されるようになっていく。


 土地に鎮まる神は、土地で崇敬され、常に人々の心に寄り添っている。玉前神社はいま町中にあって海岸から二キロも隔たっているが、このお社も、かつては海辺に営まれていたのであろう。いま玉前神社の社殿の周囲には「はだしの道」が設けられていて、靴を脱ぎ裸足になってお参りする人もおられるそうだ。なにか古代的な風習を思わせる。かつてお社が浜辺にあったことの名残でもあるのだろうか。


(また余談になるが、以前琵琶湖岸の菅浦へ行ったとき、集落の須賀神社が石段下からは土足厳禁だったので、素足で参拝した記憶がある。古代からの慣わしということであった。冷たい石段を踏みしめて上っていると、古が感じられ印象深かった…)。


 嵐の後、砂浜に打ち上げられた美しい玉を神とみなし、アワビの中からみごとな真珠があらわれたとき、その輝きに神を感じる…。波打ち際できらきらと輝く珍しい玉や石を手にしたとき、それを海の彼方からの幸運をもたらしてくれる来訪神と信じ、丁寧に祀ってきた古の海辺の人たちの信仰、その心を社頭にたたずんでふと思うのであった。


 神社を後にして駅前まで戻っていった。明かりの点る一軒の食堂に入り定食を頼んだ。この日最後の客であったらしく、店内はテレビの音が聞こえてくるほかはひっそりしていた。でも運ばれてきたご飯もお味噌汁も小魚のてんぷらも熱々で、今日一日の疲労が回復していくようであった。帰りがけにお店のおばさんが、茹で落花生をプラスチックの袋に入れてくださった。なんでもこの時期にしかないもので、珍しいものなのだとか。お礼を言って頂く。電車の中で殻を剥いて味わってみると、塩茹でしてあり豆はほどよく柔らかい食感、紫がかった色をしており香ばしかった。




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