今月の読書
「高丘親王航海記」 澁澤龍彦 (文春文庫)
高岳親王は平城天皇皇子で実在の人である。仏門に入って唐に渡り、天竺を目ざしたとされる。その幻の船旅を描いたのが本作、幻想的色彩が濃い小説である。長編小説というよりは、連作短編といったほうがいいのだろうか。全部で七編の短編から成り、各作品は読み切りのかたちになっている。それぞれに凝った漢字二文字の題がつけられていて、この表題をみているだけで幻惑される。
澁澤龍彦はサドの翻訳者、サド裁判でも知られており、多くのエッセーもあるが、次第にその関心は西欧から日本的なものへと傾斜していったようである。喉頭部に病を抱えながら「高丘親王航海記」の執筆を続けていったという。第一話の「儒艮」(じゅごん)から五話の「鏡湖」までの作品は、喉頭ガンであることを知らないまま書かれ、最後の二話「真珠」「頻伽」(びんが)はガン告知を受けてからの作品だそうである。
声帯除去の手術により声を失い筆談の生活となるが、創作力は衰えず、次作「玉虫物語」を構想し意欲も持っていたという。最後の二話を書き継いで「高丘親王航海記」を完成させるが、本の出版を見ることなく、一九八七年、頚動脈瘤破裂により五十九歳で死去した。遺作となった本作で読売文学賞を受賞。私生活では最初の妻矢川澄子(詩人、晩年になって自殺)と三十八歳で離婚、翌年には元編集者の女性と再婚している。
「高丘親王航海記」を史実のほうでみると、高岳親王は平城天皇第三皇子、在原業平のおじに当たる人である。薬子の変に絡み、皇太子を廃されるが後に出家、真如の号を得て空海に師事、その高弟となっている。親王は六十四歳で入唐を果たすが、六十七歳のとき広州から海路天竺へと向かい、そのまま消息を絶った。一説には、マレー半島南端で虎の害により亡くなったとも伝えられる。
あらすじ
「儒艮」(じゅごん)
六十七歳の高丘親王は唐の広州から天竺へ向かって船出する。お供は僧の安展と円覚、秋丸少年(実は少女)。親王は幼児の頃から父帝の寵姫薬子に可愛がられ、ある夜、薬子が「天竺まで飛んでゆけ」と投げた光るものに魅せられ呪縛されていた。船は南下し、親王が吹く笛に誘われてジュゴンが海から上がり旅をともにする。占城(チャンパ、ベトナム)に上陸して密林を進むうちジュゴンは「おれはことばと一緒に死ぬよ。南の海でふたたび」と言い残して息絶えた。弔いの笛で今度は大蟻食いが現れ親王を蟻塚へと導く。そこには海の彼方から飛んできた翡翠の石が嵌まっていた。満月の夜、親王が輝く翡翠に手を伸ばすと落ち、ただの石になった。
「蘭房」
一行は真蝋(カンボジア)に着き、川をさかのぼる。秋丸と釣りをしていた親王に見知らぬ唐人が舟で近づき、二人をジャヤバルマン一世の後宮へと誘う。親王は睡魔に襲われ、夢の中で薬子に連れられ竹生島へ行き、塔の内部で迦陵頻伽(かりょうびんが、顔は女で体は鳥)の絵を見て心惹かれる。島の後宮に着くと、白猿に案内されて親王は一人進み、蘭房に入る。七つの房室があり、順に開けていくと、色違いの羽毛で下半身が鳥の動かぬ女たちがいた。
「獏園」
盤盤(タイ南部)に着いた。草上に丸いふわふわした物があって香気を放ち、密林で同じ物に触れると悪臭であった。集落があるので安展らは偵察にゆき、親王と秋丸が残る。猪に似た動物が来て糞をするが、それが丸い物の正体であった。獣を追ってきた土民たちに二人はつかまり連行される。太守に夢のことを聞かれ、親王が毎夜良い夢をみると答えると獏園に連れてゆかれ寝かされる。太守の娘の病に良質の獏の肉が要るのだった。獏は人の夢を食べて糞をし、それは夢の滓(かす)で良夢は香気、悪夢は悪臭を放った。親王は夜ごと獏に良夢を吸い取られて頭が空っぽになり、しだいに悪夢にうなされるようになる。薬子が父帝に毒薬を勧めており、それは幼い親王の頼みだからというのであった…。親王は秋丸に起こされて目がさめる。偵察から安展らが戻ったのだった。
「蜜人」
船は吹き流されて驃(ビルマ)に着いた。巨大な竹林の中で裸の犬頭人に出会う。この国の貴族の女たちの淫風のせいで、奇人が誕生していたのだった。アラビア人の船主に天竺への便乗を頼むと、砂原から蜜人(ミイラ)を採ってくることが条件という。ミイラは貴重な薬品なのであった。親王は即身成仏した師の空海を思い出し引き受ける。丸木舟に乗り砂上を滑走するうちに舟は空中を走りだし、親王は点々と散らばる蜜人を眺め、夢うつつに空海や孔雀と化した薬子と出会い、空海の葬列に連なる自分自身をも見る。丸木舟でさまよううち山に降り、石窟に結跏趺坐している蜜人を拝すると、それは空海和上であった。
「鏡湖」
山を下り雲南の南詔国に至ると、洞窟で鳥の羽を乾かしている秋丸と瓜二つの少女に出会う。少女は宮廷から逃亡した鳥舞の妓女で、卵生の女(雷が父親)であった。護送される少女とともに親王は湖を渡り、水面を見て自分の顔がうつらないのを知る。それは一年以内に死ぬ兆しであった。親王は王宮に案内され、若い狂気の王と面会する。王の恐怖は二つの鏡が作り出す幻像にあった。親王は鏡の前で自分の顔がうつらぬことを示し、二枚の鏡を合わせて紐で縛って影を封印、王を病から解放した。親王は王から褒賞として少女(春丸)と馬を贈られ、安展らのもとへと帰還する。秋丸は姿を消していた。
「真珠」
船は獅子国(セイロン)を目ざす。親王の笛に誘われて再びジュゴンが現れ、春丸をなつかしむ。春丸はおびえるが、前世でジュゴンと親しんだ記憶がよみがえる。岩礁で出会った真珠採りの崑崙の男たちは、通天犀をくわえて四十分間潜り、大粒の真珠を親王に献上した。円覚は、真珠は病める貝の吐き出した美しい異物といい、不吉なものと懸念するが、安展は美しさには差別がなく、この真珠はみこの精神が生み出したものと擁護する。船はやがて奇妙な霧に包まれた魔域を漂流し、幽霊船が襲ってくる。亡霊に奪われそうになって思わず親王は真珠を呑みこんだ。目覚めると喉に痛みがあり真珠は喉から取れず、叫んでもかすれた声が出るのみであった。
「頻伽」(びんが)
一行はスマトラ島に着き、密林で巨大な人食い花(ラフレシア)を見る。そこで今はこの国の王妃になっている漠園の太守の娘に再会した。妃は子を産むと巨大花の上に座って息絶え、ミイラとなって廟に入る定めという。親王は喉の痛みで物が食べられず衰弱し、虎にわが身を食わせ、虎の一部となって天竺へと疾走する夢を抱くようになる。王妃の配慮で海を渡って羅越(シンガポール)を目ざすが、夢の中で王妃(薬子)は長い指で親王の喉につかえた真珠を取りのぞき、光る石を外へ放り投げた。羅越に着くと親王は虎のいる密林へひとり入ってゆき、安展らが探すと姿はなく骨だけがあった。春丸は鳥(頻伽)になって鳴きながら空へと消えていった。
あらすじをたどっていると、手の込んだ幻想世界が、次から次へとまるで手品のように繰り出されてくるのに驚嘆した。長年培ってきた東西の博識に加え、多くの魅力的な魔のひそむ引出しを、心の中に持っておられたということであろう。本作の執筆に当たっては、「高丘親王入唐略記」などの評伝、伝記を読み込んで下敷きとし、さらに東洋文庫や日本の古典、漢籍などからも興味深い奇譚、逸話を拾い出し、自由に組み合わせ構築していった結果、このような物語が出来上ったらしい。
体調に悩みながらの執筆であったろうが、一話から五話まではある種の多幸感がもたらす軽やかさがあり、話は自在に広がり展開していく。六話と七話ではそういう軽妙さは影をひそめていき、旅の終息への予感と、近づく死を意識したかと思われる親王の足どりが描かれる。いわば死への道行きという雰囲気が濃厚になり、それはまた著者の肉体が少しずつ滅んでいくこととも重なっていて、物語の中の親王の終焉と自らの死が時期的にも合わさっていくのである。
この作品を初めて読んだのはもう十数年前であったので、細部は覚えていなかったが、今回読み返すと鮮やかな印象がよみがえり、あたかも空中に結ばれた儚い夢魔の世界を漂うかのようであった。
私事で恐縮であるが、私の母親はガンの末期、痛み止めの薬が効いてくるとさまざまな幻覚を見、幸福感に満ちた表情でそれを語ってくれた。部屋を飛びまわる金色の鳥、きれいな花園、流れてくる美しい音、物言う鳥などであったようだが、それは本人にしか見えず聞こえず、その極彩色の虚ろな世界は、側にいる者には決して共有できないのであった。もっとも病状が進んでくるにつれ、恐怖に満ちた世界も現れるようになって、幸福な世界は急速にしぼみはじめていったようであったが。
「高丘親王航海記」を読んでいると、かつて母親が饒舌に私に語ってくれたいくつかの儚い幻をふと重ねてしまうのだった。特に一話から五話まで、その自由な筆づかいには随所に多幸感が漂い、現実から遊離して自在に心が浮遊する感覚が織り込まれている。
「儒艮」では親王の笛でジュゴンが海中から現れるが、その弔いの笛で今度は大蟻食い(従者には見えない)が出現する。笛の音がきっかけとなって現世と異界の結界が崩れ、この世にないものが流れ込んでくる仕掛けである。ちょうど耳なし抱一の奏でる霊妙な琵琶の音色が、平家の亡霊たちをこの世に呼び込んだように…。
高丘親王はその後も各地で妖しく美しいものに出会い続け、珍しい体験を積み重ねていくが、親王の反応はだいたいいつも「驚いた」「つくづくあきれた」などである。どんな謎めいた状況も淡々と受容し、それらの体験には特に深い意味などはなく、それを経たことによって精神的に何かが変わっていくわけでもない。ただ華麗とも珍奇ともいえる現実離れした状況が親王の前に忽然と出現し、万華鏡のような夢幻の世界が眼前に繰り広げられていくのである。けれども怪奇もそれに伴う現象も、その多くはお供の人たちには見えず、それは親王の脳内で起きた空想の産物、または親王の見る夢の中で起きた出来事という設定になっている。
ただジュゴンが「おれは言葉といっしょに死ぬよ」というとき、それは著者の近い死を暗示し、まるで遺言のような響きとなって読み手の心に刺さってくる。また鏡湖で姿が映らないのを知った親王が「湖水に顔のうつらぬものは、一年以内に死ぬ」と知ってどきりとするとき、読み手もまたそこに著者の近づく死への心象風景を垣間見た思いがするのである。本作が著者の遺作となったことをすでに知っている読者は、この瞬間に著者にとっての不吉な言霊が発生したかのような感じが起き、なんともいえない気持ちになる。良い言葉を言うと吉事を引き寄せ、不吉なことを言うと不幸を呼び寄せるという言霊、言葉にこもるという霊的で不思議な力のことをつい思ってしまうのである。
「蘭房」では親王が後宮の通路を進んでいくと、「八角形の部屋を中心にして八つの房室が放射状にならんでいる」建物に至るというくだりがある。八角形とはまた珍しい建物だと思うが、なんとなく法隆寺の夢殿(八角形のお堂である)を連想してしまった。加えて密教の曼荼羅図の中央に描かれている八葉の蓮弁の絵も思い浮かべた。(中央に大日如来、周りの花弁の中に仏様が一体ずつ描かれている構図である)作中では建物は一方が通路になっていて出入りの扉があり、そこを進むと中央部分に八角形の空間、周囲に七つの部屋が配置されているという構造になっている。
鳥の身体を持つ女たちの房室は全部で七つ、「高丘親王航海記」も七話で構成されているので、数合わせのようにもなっている。蘭房の構造は、密教の曼荼羅図が親王の夢の中で歪み、変容した情景なのかとも考えられるし、また親王が未知の扉を順に開けて内部を見ていくことは、七つの曼荼羅的世界をひとつずつ旅していくことになぞらえた小説の趣向で、これはその暗示なのかとも思った。
「真珠」には、静かに忍び寄ってくる死への漠とした思いが行間ににじみ出ている。ガンを真珠に見立てるという着想、その象徴したことの真意はわからないけれども、命を奪っていく暗くまがまがしいものを、この上なく美しい白い珠にたとえている。それは意表を突く表現であり、死が純化されたもののように感じられる。
著者はこれが遺作になるとは考えていなかったようで、次作「玉虫三郎物語」を、文芸誌「海燕」に連載の予定であったという。「高丘親王航海記」と同様の短編読み切り形式で、時空が入り混じって展開するような内容であったらしい。主人公の名は玉虫三郎だったという。玉虫と聞くとまず法隆寺の玉虫の厨子を思い浮かべてしまうし、三郎の名からは、洞窟に入って地下遍歴をする諏訪縁起の甲賀三郎(甲賀三郎については、敢国神社の項で書いている)の物語を連想してしまう。いったいどのような物語が構想されていたのだろう。もし玉虫三郎が地底をたどる物語であれば、それはそのまま冥界を想起させるし、著者がこの物語の表題を予告したこととまるで呼応するかのように、物語よりも先に、自身が先に冥界に入ってしまったことになる。
「頻伽」に出てくる巨大な花、ラフレシア(世界最大の花)については少し思い出がある。また私事になって恐縮であるが、若い頃に北ボルネオを旅した折、キナバル山の山麓でこの花に出会った。今は国立公園として整備されているようだが、当時はまだ観光地というにはほど遠く、行きにくい場所であった。旧日本軍が密林の中に開いた温泉(ポーリンという地名であったか)、その先にある危なっかしい吊り橋を渡った密林に、その巨大花は自生していた。ひと抱えもあるようなくすんだ茶色のまさに大椿花が、広がったきのこのように地面から顔を出していて、異様さに驚かされた。半ば枯れているようにも見え、近づくと変なにおいが漂っていたのを覚えている。
文中ではこれは人食い花で、人がその花の上に座ると水分を吸い取られてミイラになる、というように描かれている。たしかに間近で眺めてみるとあまり気分のよい花ではなかったし、圧倒されて、言葉もなく見つめていた。そのとき私は花に気をとられていたのか草むらで蛭にやられてしまい、しばらく経ってからやっと足首から流れる血に気づく始末であった。長い蛭が二匹も取りついて恐怖を感じ、思いきって引っぱるとちぎれ、噛まれたところは深く穴があいてなかなか血が止まらず、傷も残ってしまった。そのため巨大花を見た記憶と蛭に取りつかれた恐怖が、いつも前後して思い出されるのである。ラフレシアを不吉なものとし、死を感じさせるような印象となっている七話の展開にはどこかうなずけるものがあった。
「高丘親王航海記」は、旅の前半は風変わりで魅力的な逸話がたくさん入っており、その奇譚の面白さ、意外性に惹きつけられて読み進んだ。後半になるにつれ、しだいに死が忍び寄ってくる感じがあり、なにか切ない感情が呼び起こされ、心に迫ってくるものもあるので、読み終えたときには、前半の軽さがかなり打ち消されてしまい、重くて哀切な作品を読んだという印象が残ってしまうのである。
著者は珠に対する愛着があったのだろう、特に光るものや球体への関心が強く、そういう嗜好が文中にも反映されているのが感じられた。また薬子の名も頻繁に登場し、薬子の幻やら思い出が必要以上に繰り返されるのでちょっと過剰気味…とも感じた。薬子はもう少し出番を減らし効果的に使う方法もあったのではないだろうか。
あと文中のところどころに英語やカタカナ表現が入っているのが、残念であった。せっかく古代の幻想世界を味わいながら読み進もうとしているときに、「毒物学のスペシャリストときこえた薬子に」とか、大蟻食いが「おれたちは新大陸の大蟻食いにとってのアンチポデスなのだ」などと言うので落胆させられる。「みずからポリグロットをもって任じている安展もこのあたりの土語までは…」とか「船はウォーミングアップでもするように小きざみに…」など外国語が飛びだすたびに、こんなふざけた表現はなかったらよかったのに、と思いつつページを繰っていった。
その思いはずっと続いていき、特に最後の「モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった」の箇所では違和感を持った。そぐわないカタカナ語をどうしてまたわざわざこの大切な場面に……。何でも、モダンな親王に…の部分は雑誌発表時にはなくて、本にするための校正のときに、著者が病床で書き入れたらしい。
でもそういう表現が著者の最後の意思による選択であったのなら、それを尊重し(ふさわしいとかふさわしくないという詮議は抜きにして)、読み手はそのまま受け入れるしかないだろう。高丘親王の旅はまた著者自身が試みた幻の旅でもあったのだろうが、特に最後の二話では作中の親王と著者の心理が近づいていき、重なったかたちで読めてしまうところがある。著者は病床での校正時、改めて読み直してみると、主人公の最後の場面に漂う深刻さが気になり、手すさびに文章をちょっといじり、軽く崩してみたかったのであろう。そういう遊び心の表れなのだという風に読み手は理解し、雰囲気を味わい楽しむように読めば、著者の遺志に沿うのかもしれない。気になる点はいくつかあったものの、他の人には決して描き得ない独特の幻想世界を心ゆくまで表現し尽くした、すぐれた作品と感じた。
参考資料
「澁澤龍彦を語る」 河出書房新社 著者 巌谷國士ほか三名
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