東北の旅
志波彦神社・鹽竈(塩釜)神社(陸奥一宮)と多賀城
鹽竈(しおがま)神社を訪れた。字画が多く難しい字である。鹽竈神社は「延喜式」には載っていないそうであるが、仙台や松島にも近い上、知名度や社の風格からいっても、現在ではこの神社が陸奥一宮とみなされているようだ。ただし「一宮記」では、都々古和気(つつこわけ)神社(福島県東白川郡)が陸奥一宮であるが、交通不便のため今回は立ち寄らなかった。
鹽竈神社の創建は古く、国府多賀城が置かれたとき、その艮(うしとら)の方角に当たる鬼門の位置に、東北鎮護の社として営まれたことが起源であるという。人々の精神的な拠りどころでもあったらしい。平安時代になると、塩釜の浦は景色の美しさから歌枕としても知られ多くの歌に詠まれたという。
JR東北本線の塩釜駅で降り、大きな道路に沿って一キロ半ほど歩くと、山を背にして神社の大鳥居が見えてくる。表参道は急勾配の石段で二二〇段、斜面に梯子をかけたようなたたずまいに思わず息を呑む。
ゆっくりと上っていく。高所に弱いかたはあまり振り返らないほうがいいと思う。上りきると楼門があり、境内へと導かれる。あいにく正面の社殿は修復工事中であり、シートが掛かっていて社殿が見えないのが残念であった。現在の社殿は伊達家の造営になるもので、国の重要文化財であるという。
祭神は三柱である。正面に左右の宮があり南面している。左に武甕槌神(たけみかつちのかみ、鹿島の神)、右に経津主神(ふつぬしのかみ、香取の神)を祀り、ともに国譲りにも登場する強力な武神であるが、この二神は実は主祭神ではなく、主祭神の塩土老翁神(しおつちのかみ)は右手の別宮で西向きに祀られている。あまり見かけない布置である。
普通は主祭神が正面であるが、あえてこのような向きにしているのは、社殿を仙台城に向けて建て、藩主が仙台城から武神軍神である鹿島、香取の神を遥拝できるようにという配慮から、また塩土老翁神は、松島湾を背にして海上を守護するかたちにしたためという。
これら三神の関係をみてみよう。武甕槌神、経津主神はそれぞれ鹿島、香取の神であるが、東北平定の命を受けた折、塩土老翁神が海上の道案内をつとめて、七ケ浜町に上陸したのだそうである。鹿島、香取の神は船団を率いてやって来たのであろう。そして任務を終えた後、二神は戻っていったが、塩土老翁神のみはこの地にとどまり、人々に漁業や製塩の方法を教え、それが塩釜という地名や社号の由来となったそうである。
塩土老翁神は、記紀にもたびたび登場する海上の道案内の神である。「海幸と山幸」では、兄の釣り針をなくして悲しむ火遠理命(ほおりのみこと)の前にあらわれ、竹で編んだ小舟に乗せて海の道を教え、海底のわだつみの宮へと導く。火遠理命はそこで海神の娘と結ばれ、釣り針も取り戻すことができた。そして帰るときには二つの珠をもらい、それらを操って兄を支配するのである。また塩土老翁神は、九州にいた神武天皇から問われたとき「東方に良い地があり、四方に青い山が取り巻いている」と答えたので天皇は東征を決意、九州から船出されたという。
鹽竈神社の祭神は、現在は前述の三柱の神とされているが、江戸時代以前には諸説あり、鹽竈明神、鹽竈六所名神など呼称も色々で判然としなかったそうである。祭神をこの三柱と確定させ、社殿の配置が現在のように定まったのは、伊達家による造営時であったという。それにしても由緒ある古社であるのに、延喜式に名がないというのは謎である。神名帳から漏れたのは、創建から時を経て神社としての発展期が終わり、衰微していたのかもしれない。軍事拠点が多賀城から胆沢城、さらに志波城へと推移していくにつれ、国府、鎮守府も移転し、人の流れも変っていったのであろう。神社は時の政権や施政者と結びつき、その影響を免れず、時代とともに神社の形態も変容していく。この神社は起源も古く、崇敬されていただろうが、当初の勢いをすでに失って久しかったのではないだろうかとも思われる。
鹽竈神社ホームページを開けると「志波彦神社・鹽竈神社」と、鹽竈神社の社号よりも先に志波彦神社が書かれてあった。この表示に従うと、志波彦神社のほうが鹽竈神社よりも格が高いように見受けられる…。もともとは鹽竈神社がここにあり、志波彦神社は明治期に他地より遷座してきたとのことである。同じ境内で二社が祀られることはよくあることだろうが、後から来たほうが先に名を連ねている例は珍しいかもしれない。
境内を出て隣接する志波彦(しわひこ)神社へと向かう。鹽竈神社とはまた別の構え、ちょっと雰囲気は異なる感じがする。なんでも明治天皇の思し召しによりここに遷座になったのだとか(神社ホームページより)志波彦神社は朝廷から明神大社として崇敬を受けてきた神社という。
祭神の志波彦大神は、境内立て札によると、鹿島、香取の神による東北平定に協力した神ということであった。(道案内、通訳、交渉、説得というような役を負ったのであろうか)仙台市岩切冠(かむり)川のほとりにあった社から遷座した神という。しわひこ、しはひこ、しばひこ、などの読みがあるそうで、宮城県栗原市内には志波姫神社、仙台市には志和町、志波町などゆかりらしい関連地名もあるという。志波彦とはあまり聞いたことがない神名であるが、土地神、土地の精霊の名のようである。
岩切というのは磐座を思わせる地名である。大岩が多くあったのであろう。冠川とは神が降臨する川という意味の神降り(かむり)川であろうか、古い先住の人たちの聖地を連想させる。志波姫は妻神、妹神であろう。シワという言葉は、普通は皺を意味するが、アイヌ語では「シ・イワ」は、古代語でシは聖なるもの、偉大なもの、イワは神がおられるところ(または山)を指すそうである。
そういう視点でみると、志波とは土地の神霊を指す言葉とみていいのだろう。この境内に祀られる志波彦大神は、地域固有の神のみを祀っているというよりも、東北の土地の霊の代表としての名かと思われる。たとえば全国各地の一宮の祭神としてよく登場する大国主命、おおなむち命が、出雲の神名とは限らず、各地における地霊とみられる場合が多いのと同様のことであろう。
志波は神名だけでなく、東北各地に紫波、斯波など字は異なるが、シワという地名でも存在すると聞いているし、それで説明がつくのではないだろうか。シワと名づけられた地はおそらく先住の人たちの聖地、霊地だったのであろう。
東北の各地にはシワという先住民の聖地があり、そこには霊能力を持ち、神と交流しつつ住民を統治していたシワヒコ、シワヒメと呼ばれる霊的な長が複数いたのだと思われる。仙台付近をおさめていた志波彦神は、皇化の目的をもって軍を進め上陸してきた鹿島香取の神に、おそらくは圧倒的な兵力の差により、早い段階で敗北したということであろう。
志波彦神社の社殿は重厚かつ華やかな感じを受ける。社殿は海のほうを向いており、本殿は黒漆塗り、拝殿は朱漆塗りという。深みのある配色、落ち着いた印象である。境内には大きなキンモクセイが植えられ、開花期にはきっとみごとで、遠くまで香りが漂うに違いないと思われる大木であった。
帰路は七曲坂を降りていった。ほかにゆるやかで広い石畳の参道もあるので、足の弱いかたはそちらを往復されるのだろう。七曲坂は奈良時代の参道で、今も人々に使われているということが歴史を感じさせる。道はそう困難なことはなく、歩きやすく整備されている。こんな緑の樹木に包まれた雰囲気のある道がもっと続いていたらいいのに、と思いつつ降りていった。すぐに平地になり、町並みに出てしまうのが少々残念であった。
町の通りにはせせらぎを模して優雅にうねる水路が作られており、目を楽しませてくれる。まだ新しく、最近造られたもののようである。塩釜にちなんだ数々の歌が水辺の碑に刻まれ、愛らしい草花が丁寧に植えこまれ、なんともゆかしく遊び心いっぱいの道である。いくつかの歌を紹介しておこう。
塩がまの浦なれぬらんあまもかくわがことからきものはおもはじ 和泉式部
塩がまにいつか来にけん朝なぎにつりする船はここによらなん 在原業平
見し人のけぶりとなりしゆふべより名もむつましき塩がまのうら 紫式部
塩竈の浦吹く風に霧はれて八十島かけて澄める月影 藤原清輔
みちのくはいずくにあれど塩竈の浦こぐ舟の綱手かなしも 東歌
塩竈、塩竈の浦という言葉の持つ響きが、ここから遠く離れた都びとの心に与えた情趣を思う。清らかで美しい情景が連想されたのであろう。単に北方の風光明媚な地というだけでなく、塩竈の神がもたらすという神秘的な浄化の力への憧憬もそこにはあったかもしれない。
塩、水、火はともに強い浄化作用を持ち、人の心身の穢れを祓い、人の心に清新な蘇りの力を与えてくれる。古の塩作りは濃い海水を煮詰め、水分がなくなるまでかき混ぜたという。水と火の要素が加わっているので、そうして得られた塩の持つ霊的な力への信仰という側面もあったかもしれない。
古代の製塩法には「ホンダワラ、アマモなどの藻を焼き、その灰に海水を注ぎかん水をとり、それを煮詰めていく」また「編んだ竹の敷物の上に、藻を積み重ねて何度も海水を注ぎ、かん水を得てこれを煮詰める」などいくつかの方法があると聞くが、塩竈神社では、塩土老翁神がはじめた製塩にちなみ、藻刈焼神事として七月に三日間にわたり、大釜を用いて後者の方法で儀式をなさっているそうである。
多賀城跡
塩釜駅からひと駅乗ると国府多賀城駅なので、立ち寄ってみることにした。多賀城跡は国の特別史跡になっていて、現在も発掘調査が続いているという。駅に降り立つと、ひと気はなく閑散とした感じである。案内所でいただいたパンフレットを手に歩きつつ見まわすと、史跡は全体に丘陵地になっている。奈良平城宮跡もゆるやかな丘陵地にあった。水はけがよいという利点に加え、軍事拠点としての機能も考えての選択だったのだろうか。
多賀城は蝦夷を制圧するための軍事基地として、七二四年、大野東人によって築城された。それ以前は仙台市郡山遺跡の地に拠点があったとされるが、多賀城の完成とともに国府、鎮守府が移り、近隣に寺院、神社も建てられていったという。北方の境界地点に設けられた多賀城は、さらに皇軍が北へと進出していくための拠点であった。多賀城は十世紀半ばまでは存続したが、十一世紀半ばには荒廃しその役割を終えたとされている。その間何度か造営が繰り返され、また反乱による焼失、地震による倒壊などにも遭ったという。
多賀城の規模は約九〇〇メートル四方、周囲は築地塀で囲まれていて東西南北に門が設置され、中央には政庁があり、周辺には役所や工房、宿舎、貯蔵庫などがあったという。残存する建築物はなく、今はなだらかな丘陵地が続き、全体に草原が広がっている。
史跡の中を生活道路が横切っていて、犬を連れた散歩の人が通り過ぎていく。のどかな情景である。低い丘を上っていくと、桜の樹の近くの地蔵堂のような覆い屋の中に、壷碑(つぼのいしぶみ)という石碑があり、格子の隙間から眺めるようになっていた。この碑は偽作といわれた時代もあったようだが、近年の調査により本物と認定され、七六二年の建立に間違いないことが判明したという。高さ約二メートル、厚み七十センチ、実に堂々としたもので、壷碑は歌枕としてよく知られ、東北を象徴するものでもあったようだ。ここを詠んだ西行、源頼朝の歌を紹介してみよう。
みちのくの奧ゆかしくぞ思ほゆる壷の石文(いしぶみ)外の浜風 西行
陸奥のいはでしのふはえぞしらぬ書きうつしてよ壷の碑(いしぶみ) 頼朝
碑を巡って眺めてみる。上部には「西」と印象的に一字が刻まれており、真西に向いて建っている。一四一字からなる碑文のほうは、
「京を去ること一千五百里、蝦夷国の界(さかい)を去ること一百廿里、常陸国の界(さかい)を去ること四百十二里…」
というような調子で、当地からの東西南北の遠近が記されていく。これは坂上田村麻呂が征夷のとき、弓のはずで彫ったとの伝承があるというが、定かではない。勇猛な武人の刻んだものという言い伝えは、文章や字体に力強さが感じられるからであろうか。西と目立つように刻んであるのは、方位石としての役割もあったのかもしれない。
古来多くの旅人がここを訪れ、碑を見たそうである。「おくのほそ道」にもこの碑の記述があって、当時は覆い屋がなかったらしく、芭蕉の一行が碑を見つけその苔を払いのけてみると、かすかに文字が読み取れたそうである。
「ここに至って疑いようもない千歳の記念物に出会うことができた。今眼前に古人の心を見極める思いがする」
と芭蕉はそのとき碑を目の当たりにした感激を記している。ただし句は詠まなかったらしく残されていない。
石段を上って進んでいくと、中央部に小高くなった政庁跡があった。平城宮跡の大極殿のように復元された建築物はないので、礎石などを眺めて往時をしのぶようになっている。静かな空間であるが寂寥感も漂っているようであった。以前難波宮跡も訪れたことがあるが、これらの遺跡には共通するものが感じられる。静けさの中にどこか空虚な表情があるのだった。
草地の中に残る長方形の基壇や建物跡、ものいわぬ礎石の列、周辺の木立から聞こえてくる鳥のさえずり、ゆるく風が吹きぬけていく無の空間。古代の生活を感じさせるものは失われて久しい。草地の中にたたずんでいると、周囲に広がる空の青さだけが目に染みるのだった。
基壇の上に上って周囲を眺める。たぶん儀式の折にはこの辺りに何本かの幡が立てられ、吹きぬける風に靡いていただろう。夜は各所で篝火が焚かれ炎が揺らめいていただろう。整列する多数の兵士の幻とともに、炎の中で崩れていく多賀城の幻影も浮かんでくる。軍事拠点ということから、最盛期には多くの兵や馬が集められここから送り出されていったのであろう。そして捕らえられた蝦夷の人々もまたここに集められたのであろう。筆舌に尽くしがたい多くの悲劇的な場面があったことが想像される。
時代が進むにつれ東北平定のための拠点は、多賀城からさらに奧の胆沢城(水沢市)へと移されていった。鎮守府も移り、坂上田村麻呂に率いられた軍団によって蝦夷の人々は制圧され、そして胆沢城からさらに志波城(盛岡市)へと政庁は移転するのである…。やがて多賀城が重要であり中心でもあった時代の終焉とともに、人は去りここは忘れ去られ廃墟と化し荒れ果てていったのであろう…。
もの思いにふけっていると、遠くから電車が近づいてくる音が聞こえてきて、現実に引き戻された。ゆっくりと駅への道をとり帰途につく。東北歴史博物館(多賀城の復元模型も置いてあるらしい)の建物に気がつき立ち寄ってみたかったが時間がなく、そのまま多賀城を後にした。
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