東北の旅


     平泉 中尊寺・金色堂・毛越寺・中尊寺ハス


        柳之御所遺跡・高館義経堂・無量院跡・金鶏山

 

 仙台から新幹線で一ノ関へ向かい、東北本線に乗り換えて二つ目の平泉駅に降り立った。十二月のはじめであるが冷気は厳しく、仙台より五度は低く感じられた。駅前からバスで中尊寺へと向かう。
 月見坂を上っていった。杉木立に囲まれたすがすがしい参道は約八百メートルあるとのこと。歩きはじめはやや勾配が急であるが、しだいにゆるやかになっていく。八幡堂、弁慶堂など小さなお堂があるので立ち寄りながら坂を上っていった。お堂はどれも古びていてひっそりとしたたたずまい、周囲は深い緑に包まれている。もとの参道に戻り、眺望が開けている東物見まで来ると、眼下にはうねりつつ流れゆく北上川と束稲山(たばしねやま)の稜線が望まれた。


 中尊寺本堂に着いた。ここは中心的な建物であるので人も多く、賑わっている。ご本尊は丈六の大きな釈迦如来坐像で、両脇にともる灯りは比叡山から分灯された千二百年続く「不滅の法灯」という。真新しい金箔の仏様は今春安置されたばかり、暗い堂内でまばゆい金色に光り輝いておられた。
 本堂を出て参道を進むと、すぐ右手に峯薬師堂が見えてくる。ご本尊は薬師如来坐像である。やはり金箔をまとった仏様であるが、ほの暗いお堂の奧からかすかに光りが差してくるように感じられて美しい。目を守ってくださるとのことで、幔幕の意匠にも目をかたどった字、「めの絵馬」も多数あがり、目のお守りの販売も。め尽くしのお堂であった。




     金色堂




 金色堂が近づいてきた。中尊寺ではもっとも知られている建物である。少し手前で通り雨に遭ってしまい、濡れていく頭上の木々を眺め、足元に重なるくすんだ落ち葉を踏みながら歩いていった。紅葉の季節はすでに終わり、寒さがいちだんと増してきていたが、そのぶん観光客は減ってきているようで、待ち時間もなしに金色堂に入場することができた。
 金色堂は新覆い屋の中にある。保護のため金色堂ごと覆ったのである。そっとお堂に入っていくと、ガラスで隔てられてはいるが、八百年の時を経てなお金色に光り輝く仏様たちがそこにおられた。
 ご本尊は阿弥陀如来、脇持に観音・勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天と増長天、それらの仏様が本尊を取り巻くように安置されている。内陣には黒漆が塗られ、螺鈿細工の巻柱が立ち、蒔絵や透かし彫りの金具で装飾がなされ、じっと見つめていると、その美しさに心が魅了されてゆく。柱や須弥壇、手すりにほどこされた夜光貝の螺鈿細工はまるで真珠をちりばめたようである。須弥壇の側面の孔雀の華麗さに心打たれ、手の込んだ吉祥文様に驚嘆する。孔雀の羽には毛彫りと呼ばれる精緻な技法が用いられているという。
 堂内は美しい中にも仏様の威厳が満ち、寂寥感が漂っている。この壇の下には金棺があり、そこには藤原清衡、基衡、秀衡の三人の遺骸と四代泰衡の首級がおさめられている。哀感が感じられるのはそのためであろうか。


 初代の藤原清衡は、江刺の豊田館から平泉に本拠を移すと、最初に塔を建立し、約十五年の年月をかけて、中尊寺の大寺院の堂宇を次々に建てていった。そして最後に小さな金色堂を建てた。一一二四年のことである。それは死後に自分が入るための廟所であった。一一二六年に中尊寺の完成法要が営まれると、その二年後に清衡は亡くなり、金色堂内に葬られた。
 長い争乱を勝ち抜いてきた清衡は、幼少時に父親が処刑され、敵方に再稼した母親とかろうじて生き延びるものの、長じては妻子を異母弟に殺害されるという悲劇に見舞われた。戦は終結したが、双方に多くの死者が出たことに心を痛め、その菩提を弔い敵味方の区別なく、ともに極楽往生を願う心から、この地に楽土を建てることを決意したといわれる。
 それはまた地上に浄土を再現しようという試みでもあったらしい。きらびやかな黄金の仏様の坐す極楽浄土をこの地に出現させる、それは戦のない平和な理想郷のような浄土空間と重なって認識され、それゆえ清衡はその建設に向かって心を砕いたのであろう。金色堂は惜しみなく金や銀が使われ、高価な貝細工で装飾され、豪華に彩られた建物ではあるが、単に華麗だけでない、そこには深い悲しみと仏の慈悲を願う心があったかと思われる。


 金色堂を出て、経堂、芭蕉のおくのほそ道「五月雨の降のこしてや光堂」の句碑、鎌倉幕府によって建てられた旧覆い堂などを順に見ていった。白山神社の赤い鳥居がふと目に入ったのでくぐり、奧へと道をたどってみる。静かな径を進んでいくと、開けた場所に出てそこには社殿と能舞台があった。
 由緒によれば、白山社は中尊寺の鎮守社として建てられたようで、その起源は古く、八五〇年、中尊寺開祖の慈覚大師が加賀の白山の神を勧請したということであった。清衡がこの地にはじめて寺院を建てたわけではなく、それ以前からここはすでに寺社が存在する聖地であったらしい。清衡はその霊地に楽土を夢見て大寺院を建立、宗教空間を完成させ、現在みられるようなかたちに整えたのであろう。


 最後に讃衡蔵(さんこうぞう)を訪れた。中尊寺所蔵の文化財を多数おさめた宝物館である。金字で書かれた経文、丈六の阿弥陀如来、浮き彫りがみごとな金銅華曼、金棺の中から見出された藤原氏の水晶の念珠残欠、螺鈿細工のほどこされた須弥壇、案という優雅な鷺(さぎ)足の机、など美麗なものがたくさん展示されていて見とれてしまった。
 大和や京都のお寺でもこういう宝物館を見学したことがあるが(仏様は美術品のように展示されていることも多い…)安置されている仏様を、ここほど丁寧にまるでお堂でお祀りするのと変らないほどにされているのを見たことがなく、心打たれた。季節の花はみずみずしくて本数も多く華やかで、お香や灯り、お供物のお菓子の盛り方にまで、心を籠めて気配りされているのがよくわかり、仏様を大切に思う気持ちが伝わってくるのだった。
「螺鈿八角須弥壇」の前で立ち止まりじっと見入った。側面には人面鳥の迦陵頻伽(かりょうびんが)が全部で八体描かれている。澁澤龍彦の遺作「高丘親王航海記」の中の「蘭房」で使われている場面のもとになったのがこれではないだろうかと思い当たり、(「今月の読書」の項でもこのことに触れている)しばらくの間感慨深い思いで眺めていた。




     毛越寺




 中尊寺を後にして毛越寺(もうつうじ)へと向かった。当初もうおつじ、と読まれていたそうで、もうつじ、もうつうじへと転訛したらしい。毛越寺の起源は中尊寺と同様、慈覚大師の創建という。二代基衡によってこの地に大規模寺院の造営がはじめられ、基衡の死後は三代秀衡が引き継いで完成させたという。親子二代にわたり数十年をかけたということであろう。往時堂塔の数は四十、僧坊は五百もあったという。寺の門前には幅三十メートルの大路がつくられ、牛車が行き交っていたそうである。きっと京の都を思わせるような壮大な寺院であったのだろう。藤原氏は豊かな財力を背景に、ここを京の鳥羽、白河のような地にすることを目ざしたようである。建物の多くは失われてしまったが、大泉が池と呼ばれる広い庭園が今も残っており、池の周囲を散策できるようになっている。


 境内には芭蕉の「夏草やつわものどもが夢の跡」の句碑があった。石碑は芭蕉本人と別の人の筆蹟のものがあり、それとは別に新渡戸稲造が訳した英文の碑もあって、同一の句で境内に三基も句碑があるのは珍しい。三つの中では英文の石碑が一番大きく目立つような位置にあり、妙に存在感があった。
 でも「夏草や…」の句は毛越寺で詠まれたものではないそうだ。芭蕉は義経終焉の地の高館に上がり、眼下を流れる川を眺め、夏草が風に揺れる情景の中で、義経主従の死や昔の戦のことを偲んで詠んだという。でも多くの人が訪れる寺院なのでここに句碑が置かれたのであろう。参考までに英訳の句を記しておく。
The summer grass
‘Tis all that’s left
Of ancient warrior’s dreams


 大泉が池の周辺を巡ってみた。池は海を表現したそうで、池の中には勾玉のかたちの島や荒磯をあらわした岩、小石を敷き並べて砂浜をかたどった州浜(すはま)などが見られた。
 勾玉のかたちをした島というと、淡路島の南にある沼島を思い浮かべてしまう。沼島は国生み神話に登場する島(おのころ島)で、立石(上立神岩)という海中に屹立する特徴的な大岩(三十メートルの高さ、垂直である)が有名である……。それを意識して模したのかどうかはわからないけれども、ここのごつごつした尖った岩も池中立石というそうである。やはり屹立した特徴的なかたちの岩ではあるが、その角度は沼島の岩のように垂直には見えなかった。勝手な想像ではあるが、もし沼島の情景をここに反映しているのだとしたら、造られた当時は垂直であったのかもしれないと思う。長い年月の間には地震にも見舞われたことだろうし、少しずつ傾いていったのではないだろうか。(今回の東日本大震災でも八度傾いて修復が行われたらしいが…)
 開山堂跡、嘉祥寺跡、講堂跡、今は礎石だけになってしまった草地を歩いてゆく。どこか寂しく虚ろな感じがする。どんな壮麗な伽藍がここにあったのだろうと思いつつ、ぼんやりと暮れゆく池を眺めた。




     中尊寺ハス




 平泉文化遺産センターに立ち寄ってみる。平泉の歴史、文化が映像などでわかりやすく解説され、出土品や資料が展示されていた。入るとすぐ、ガラスで覆われた淡紅色の蓮の花(標本)に、引き寄せられる。説明によると、これは「中尊寺ハス」といわれるものであった。昭和二十五年に金色堂の学術調査が行われたが、その折に故・大賀博士(二千年前の弥生時代の蓮を開花させたことで知られる)によって、四代泰衡の首級桶から蓮の種子八十粒が発見された。その中で発芽可能なものが選り分けられて保管されていたが、後になって博士の門下の方が、色々試みられた結果、平成十年開花に成功させたとのことであった。中尊寺境内の池に植えられて、夏には美しい花を咲かせるという。


 八百年の眠りから覚め、再びこの地で生きはじめた蓮の花は、清楚で可憐な色をしていた。見つめていると、よみがえった花の持つ生命の力に心が震えるような思いがした。まるで何かの意志を持ってここにあらわれたような…。蓮にはほかの花にはない霊的な雰囲気があるからだろうか。首桶からは蓮のほか胡桃やモミの種子も見つかったそうである。誰かが最後の哀しい別れのときに、それらをそっとおさめたのであろう。おそらくは泰衡の身内の女性が、池から折りとってきた蓮の青葉を底に敷き、首級を安置し、蓮の花々でお顔のまわりを覆ってあげたのだと思われる。花托(蜂の巣状になった蓮の実)も添えて……。
 思いをこめて蓮を入れた人、首級を秀衡とともに葬った人、遺体を守り続けた人、種子を見出して大切に保管した人、苦心して育て開花させた人…心が心へと引き継がれ、つながっていったのである。年月を経ても消えることのない人の深い思いは、今この花を見つめる私たちの心と交差する。人の思いが美しい色となって届くのである。




     柳之御所・義経堂・金鶏山


 
 
 毛越寺の近くのホテルで一泊、翌日は柳之御所、義経堂をまわることにした。寒さは昨日よりも厳しく、朝起きると雪片がちらちらと花びらのように舞っていた。
 まず加羅(きゃら)御所跡を訪れるが、そこはすでにもう民家の一部になっていて遺構らしいものは見当たらなかった。三代秀衡と四代泰衡の居館があった跡といわれているが、表示板が生垣の横に立っているのみである。
 そこから少し北上川のほうに進むと、柳之御所遺跡の広大な草地が見えてきた。近くに資料館があったのでそちらのほうを先に見学することにした。この遺跡は清衡、基衡の屋敷跡と伝承されていたが、近年の発掘調査によりおびただしい出土品、建物跡が見つかり、秀衡のときに再整備されて政庁が置かれ、平泉舘といわれた藤原氏の拠点であることが判明したという。
 源頼朝率いる二十八万余の大軍が侵攻してきたとき、泰衡自身が居館に火を放ち炎上したといわれる。川の近くに位置していたことから、この遺跡は洪水などですでに流失してしまったと考えられていたが、一九八八年に平泉バイパス建設に伴う発掘調査が行われた折、政庁らしい建物跡、遺構、遺物など多数の出土品が見つかってにわかに注目を浴びた。遺跡保存を求める市民運動も起きて、国は計画を見直し、その結果、堤防、道路はルートが変更され、一九九七年には柳之御所遺跡として国の史跡に指定されるにいたった。


 まずビデオ映像で往時の政庁、邸宅などの再現情景を見て、それから展示品の土器や陶磁器の壷、破片、破損した弓、刀剣などの武器の一部、日常の生活用品などを眺めていった。鹿の骨で作られた弓のはず、大きな木のしゃもじなどが印象に残った。もう一度ビデオで居館の様子や庭園の位置などを頭に入れ、実際に遺跡を歩いてみることにした。


 外へ出ると寒風が吹きすさび、あられが落ちていた。大変な気候である。広い草地の中を歩いていると、もう寒いことこの上なく、たぶんここが政庁跡で、こちら側に庭園(一部は再現されている)があり、この辺りに別の建物があって、と想像するだけで精一杯であった。寒さをこらえて吹きさらしの風の中にしばらくたたずんでいた。厳しい気候の中で懸命に生き、そして滅ぼされていった人たちのことを思いつつ説明板の文字を見つめる。草地の所々にぽつんと立つ表示板は、遠くから見るとまるで寂しい墓標のようであった。




     高館義経堂




 高館義経堂(たかだちぎけいどう)へと歩いていく。義経終焉の地である。小高い丘になっていて上に小さなお堂があり、内部には鎧と衣をまとった義経の木像が祀られ、外には供養塔があった。兄頼朝に追われた義経は、少年期を過ごした平泉へと落ちのびて秀衡を頼った。義経は妻子とともに高館に館を与えられ、秀衡の庇護を受けた。秀衡は今後頼朝と激しい対立が生じ、関係が悪化することを案じ、子の泰衡らに対して、その場合には義経を主君として仕えるようにと遺言した。
 けれども秀衡の病没から二年後、泰衡は頼朝の圧力に屈し、兵数百騎を高館に差し向けて襲い、義経は妻子とともに自害した。三十一歳であったという。泰衡はその後末弟を殺害するなど、親族間の相克は深刻になったようだ。頼朝は、奥州で台頭し勢力を拡大する藤原氏を倒す好機とみたのであろう。泰衡を討つため大軍を率いて奥州へと向かった。泰衡は平泉の居館に火を放ち、さらに北方へと逃れていくが、落ちのびた先(秋田県)で裏切りに遭い、首級は頼朝に差し出され梟首にされた。


 丘の上からは北上川の流れや束稲山がのぞまれた。山には吉野をしのぐほどの桜が植えられたそうで、花の季節にはきっと美しい眺めなのだろう。京都の大文字送り火を模した「大」の字が山腹にある。あられはいつのまにか冷たい雨に変わり、山麓は靄に包まれてけぶっている。芭蕉の「おくのほそ道」の句碑があったので紹介しよう。


…三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田地に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国敗れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。


 夏草や兵共が夢の跡  芭蕉


 丘を降りたところにはまた別の句碑があった。


 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曾良


の句で、名水卯の花清水の傍らにある。兼房は白髪を振り乱して泰衡の軍と戦い、義経一家の最期を見届けた後、壮絶な戦死をとげたといわれる。


 中尊寺の近くまで来ていることに気づき、もう一度月見坂を上って境内を散策することにした。金色堂の辺りまで上り、引き返していると雨は雪になり、辺りは白い世界になっていく。このまま積もりはじめるのだろうかと思いつつ、降る雪を見ていた。




    無量光院跡・金鶏山




 坂を降りて、無量光院跡へと向かう。初代清衡が中尊寺を建て、二代基衡が毛越寺を、そして三代秀衡はこの地に無量光院を建立した。宇治の平等院にならって建てられたというが、平等院よりも規模が大きく壮麗であったという。現在は池の跡や礎石が残っているのみで、その背後には金鶏山がある。建物の中心線は金鶏山と結ばれており、春秋(八月末と四月中頃)の年二回、その頂上に太陽が沈んでいくのだそうである。本堂の背後の山に静かに落ちてゆく夕陽。それは浄土世界を体現した荘厳な光景だったかと思われる。
 寺院跡の周辺は田畑、宅地、道路に接しており、少し奧の草地のほうに入ってみたが、全体に湿地になっていてぬかるんでおり、昔日の情景を想像するのは難しい。「秀衡が跡は田地に成て金鶏山のみ形を残す」芭蕉のおくのほそ道にある通りであった。


 旅の最後に金鶏山に上ってみることにした。昨夜泊った宿を通り過ぎ、さらに上っていくと登山口があり、右手には義経の妻子の墓所があった。義経の正妻で郷御前といい二十二歳の若さ、子どもは四歳の女子であったという。御家人の娘で、頼朝の媒酌で義経に嫁いだとされる。義経に従いともに奥州まで落ちのび、最後は山麓に寂しく葬られて…。ちらつく雪の中で、哀しい運命をたどった母子の墓所にそっとたたずんだ。


 金鶏山への道を上っていく。細かい雪が流れるように降ってくる。急な坂を十分ほど進むともう頂上で、そこには小さな石祠があり、金鶏山神社とあった。秀衡はこの山頂付近に経筒をおさめ経塚を築いたといわれている。鎮めのためであろう。雄雌一対の金の鶏を埋めたとも、またこの山は秀衡が人を集めて造らせたという伝承まであるそうだ。山を造れるほどの財力があったというたとえなのであろう。
 標高は九十八メートル。整った円錐状の山で、どこか神体山のような趣が感じられる。山頂からは雑木に遮られて眺望はなく、雪空のほかはなにも見えなかった。時折木の枝を揺すって風が吹きぬけてゆく。寒さに耐えられず来た道をゆっくりと下っていった。
 歩きやすいようによく整備されているが、まるで滑り台のような傾斜である。降りていくとしだいに視界がひらけて、その先には竹林が広がっていた。辺り一面に静かに雪が落ちていく。風が止んだのか雪はまっすぐ地に向かって白い花びらのように降り注ぎ、音もなく積もってゆく。湿り気を含んだ雪はふんわりとした質感、清らかであった。天空から舞い落ちる雪がこの世界を浄化していくように感じ、雪を乗せた竹林の情景に心奪われ、しばらく雪の中にたたずんでいた。






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