白峯神宮・晴明神社


            白峯神宮



 京都の晴明神社を訪れることにした。地下鉄今出川駅で降りて、通りを歩いていると道筋に白峯神宮があったので立ち寄っていく。
 白峯宮の祭神は崇徳天皇と淳仁天皇である。崇徳天皇は保元の乱に破れた後、出家をのぞまれたが讃岐に流され、帰京の望みも絶たれて失意のうちに崩御、その後天変地異が相ついだため祟りとされておそれられた。淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、廃帝となり淡路島に流され、逃走をはかるものの捕らえられて幽閉された。両天皇はともに都に戻ることはかなわず、それぞれの配流先で非業の死をとげられた。
 明治天皇が慰霊のため、讃岐からまず崇徳天皇の御霊を京都に迎えて白峯宮にお祀りして鎮め、その後、淡路島から淳仁天皇のみたまも迎えてお祀りしたという。お社は蹴鞠と和歌の公家、飛鳥井家の邸宅地に造営され、「まりの神様」も祀られているので、現在では球技の神様としても知られるようになった。
 白峯神宮は町の中のこぢんまりとしたお宮という印象、みたま鎮めのお社であるが、御所や同志社大学の近くに位置しているので社頭の通りは人の往来で賑わっている。深夜になるとまた違った雰囲気が漂ってこわいのかもしれないが。


           晴明神社


 白峯神社の近くにあり、車の行き交う堀川通りに面した町中のお社である。鳥居の額にはふつう社号や祭神名が多く書かれるものだが、金色の大きな五芒星(桔梗紋)があがっており印象的である。鳥居をくぐると正面奧に本殿がある。
 祭神は安倍晴明。ここは一条戻橋の近くにあった晴明の邸宅跡で、一条天皇が晴明の死を惜しみ、創建された。往時は広大な社地であったらしいが応仁の乱による戦火などで縮小、荒れ果ててしまい、現在のように整えられたのは近年のことであるという。


 安倍晴明は平安時代の陰陽師。少年時代から才能を発揮し、陰陽道を加茂忠行、保憲親子に学び、認められて極意を授けられた。天文道にもよく通じ、朱雀天皇から村上、冷泉、円融、花山、一条天皇まで六代の帝に仕えたとされる。星の動きを観測して吉凶を占ったのであろうか。ただ出世は遅かったらしく活躍したのも晩年になってからのようである。出生地は摂津阿倍野の里といわれるが、奈良桜井市の安倍や讃岐という説もあり定かではない。


 安倍晴明は超能力を持った人物とされている。母親が信太の森の白狐葛の葉だったという伝説が広まったことから多くの逸話や物語も派生したようである。(大鳥大社・住吉大社・安倍晴明神社の項で、葛の葉伝説について書いている)
 本殿の横には斎(いつき)稲荷社が祀られている。境内には晴明が印を結び天体を観測する様子をあらわした銅像、撫でられて光っている厄除け桃、ご神木の楠(樹齢三百年)、晴明が念力で湧出させたという晴明井、逸話が書かれた十枚の絵入り顕彰板、夢枕獏氏など著名人の絵馬がかけられた絵馬舎、写真用顔出し看板、千利休屋敷跡の石碑、再現された一条戻橋、その傍らに坐るあやしい式神像など色んなものが置かれている。どれも比較的新しく造られたもののようである。
 近年の小説、映画、漫画ブームによって高まった安倍晴明の人気のほどがうかがわれ、修学旅行生の姿も多く、五芒星のお守りもよく売れている。さほど大きい神社ではないのに、妙に熱心な人たちが境内をくまなく散策しているのであった。
 境内の至る所に大きな五芒星があしらわれ、独特の雰囲気が漂い、陰陽師の世界に入ったようである。子どもの頃、一筆書きでたくさんの星形をノートや地面に書いて遊んだものだが、馴染みのあるこの図形に、魔よけの呪的な意味があるとは知らなかった。


 顕彰板から少し逸話を紹介してみよう。
 晴明公と道満はいずれの法力がすぐれているかを帝の御前で競い合った。両人には見せずに夏みかん十六個を長持に入れて蓋をし、中味を言い当てるというものである。道満が夏みかんであるというと、晴明は鼠が十六匹といった。皆が晴明公敗れたり、と思い中を開けると、術の力で夏みかんは鼠に変えられていた。(金烏玉兎集より)


 花山天皇が頭痛で苦しんでおられた。いかなる治療をしても治らない。晴明公の見立てでは、帝の前世は尊い行者であったが、前世の髑髏が大峰で岩と岩の間に挟まっているために頭痛がするのだという。髑髏を取り出したら治るというので、その通りにしたところ、頭痛が治られたという。(古事談より)


 三井寺の智興上人が病で死にかけた。そこで晴明公が「誰か身代わりになる者はいないか」と尋ねると、弟子の証空が自分の命を差し出すという。晴明公は泰山府君の法を修して祈った。すると智興上人に生気が戻り、証空が苦しみだしたが、日ごろ信心していた不動明王に助けられて、二人とも命を取りとめた。(今昔物語集より)



 境内を歩いてみる。再現された戻橋と式神像の前で足を止める。ごく小さな橋で、旧一条戻橋の親柱など部材を再利用したものという。堀川には今も一条戻橋がかかっており、橋にまつわる伝承もあるので紹介してみよう。


 平安時代、文章博士の三善清行の葬列がこの橋に差しかかったとき、修行中の熊野から駆けつけてきた息子浄蔵と行き合った。浄蔵は父の死に目に会えなかったことを悲しみ一心に祈ると、死者は束の間よみがえり、父子は最後の言葉をかわすことができた。以来この橋は土御門橋から戻橋へと名を変えたという。


 安倍晴明は式神として十二神将を使役するので家の中に置いていたが、妻がこわがったため式神を近くの戻橋の下に隠し、必要なときは呼び出していたという。式神とは陰陽師が自在に操る鬼神、精霊で、和紙のひとがたであらわされるが、術をかけると異形のものに姿を変えたという。式神は人の目には見えない存在だが、晴明の妻にはその気配が感じられたのであろう。


 嫁入り行列や縁談のある人は、戻るという橋名を忌んでこの橋には近づかない慣わしがあった。逆に太平洋戦争のときには、無事に戻れるようにと願い、遠くから訪れる人も多く、出征兵士やその家族がこの橋を渡ったという。


 一条戻橋はこの世とあの世の境にかかる橋といわれていた。都の内と外を隔てる地にあり、橋を渡ると葬送の地へとつながっていく。葬列が通っていく橋であった。一条通りは平安京の最も北の通りで、都の鬼門(北東)の方角に当たる。晴明の屋敷がわざわざここに置かれたのも、その法力でもって鬼門を封じ守護する意味があったのだろう。



 晴明ゆかりの神社は、ここのほかにもう二箇所ある。生誕地と伝承されている安倍晴明神社(大阪市阿倍野)と、晴明の父、安倍保名と葛の葉の出会いの場、信太森葛葉稲荷神社(大阪府和泉市)である。以前阿倍野の晴明神社を訪れたときは、都合で夕暮れになってしまい、境内に一歩入るとなんだかこわい雰囲気が漂っていたのを覚えている。
 信太森神社のほうは、樹齢二千年の天然記念物の千枝の楠(花山天皇の命名)、みたま石、姿見の井戸、狐の碑、小安石、梟の灯籠(千利休作)、滝行場、と境内には謂われのある霊的なものが並んでいる空間であった。三つの神社の中では、京都という地の利もあってかここが最も賑わっている。
 京都の晴明神社は、まるで箱庭のように多くのものが配置され、やや商業主義に傾いているような気もするが、近年の陰陽師人気を反映して多くの観光客を引き寄せ、ファンの聖地巡礼という雰囲気が強い神社のように感じられた。




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