加賀一宮 白山比盗_社・備後一宮 吉備津神社
一宮への旅
各地にある一宮を訪れている。町なかの賑やかな社、山麓や丘の中腹にあって緑の美しい社、山頂でひっそりとしずまる奧宮や磐座、それぞれに趣も雰囲気も異なっているのが興味深い。参拝といっても御朱印帳は持ったことがなく、(お金を惜しんでいうのではないのだが)本殿に上っての参拝もあまり気が進まず、御札や御守り、おみくじもたまに…という程度、できるだけ写真は撮ることにしているのだが、うっかりしていて忘れることもあるので、そうなるともう記憶だけが頼りである。
(結界化されていなければ)できるだけ神体山や山中の奧宮、磐座、滝などを訪ねて季節の自然に親しむようにしている…。そういう特別な場所に行けなくても、境内の木陰や池のほとりなどでゆっくり座り込むひとときがあれば、それも嬉しい。魔法瓶に入れてきたお茶を飲んで、時折水面に魚がはねるのを眺め、遠くの木立で鳴いている山鳩の声に耳を傾けたりしながら、バスの時間までそこでぼうっとして過ごすのである…。
加賀一宮 白山比盗_社
白山比刀iしらやまひめ)神社へは、以前白山に登ったときに立ち寄った(白山については白山登山の項でも書いている)。金沢駅で石川線に乗り換えて鶴来(つるぎ)駅で下り、駅前からバスで一宮へと向かったのである。鶴来という地名は耳で聞けば「剣」なので、古にここでどんな戦があったのだろう、などと想像してしまう。この地名は土地の古社、物部氏ゆかりの金剱宮(きんけんぐう、つるぎのみや)に由来するのだとか。地名として長く「剱」の字が使われていたようだが、江戸時代になって縁起のよい「鶴来」に改めたという。たしかに剣では不穏であるが、鶴来と書くとゆかしくてきれいな印象になる。
バスは夏の日差しがきらめく手取川に沿って進んでいった。ほどなく一宮に着いて降りるとすぐ、涼しげな木立の緑に包まれた勾配のある参道に導かれる。
白山比盗_社は、全国に三千社あるという白山社の総本宮、小高い位置にあって背後の森は深い。祭神は白山比淘蜷_(菊理媛尊、くくりひめのみこと)である。神体山は白山(標高二七〇二メートル)で、山頂に奥宮がある。
神社の創始は古く、崇神天皇の御代に、この近くの舟岡山に鎮座したと伝承されている。その後、応神天皇の御代に手取川の畔に遷り、そこでたびたび水害に遭うので安久濤の森へと遷座、さらに火災により社殿が焼失してしまい、十五世紀になって現在地に遷ったとされる。
祭神の菊理媛神は、古事記には登場せず、日本書紀(神代、一書)に一度だけその姿をあらわしている神である。書紀の世界をみてみよう。
イザナギノ命は、妻のイザナミノ命が火の神カグツチを生んで亡くなったのを悲しみ、妻に会うために黄泉の国に降りてゆく。そこで生きているときの姿のままの妻と再会するが、約束を破って火をともし、醜く変わり果てた妻の姿を見てしまった。おそれて逃げ帰ろうとするが、黄泉の鬼女たちに追われ、ついには妻自身も追ってきて、現世との境界の大岩を挟んで言い争う。
…それで伊奘冉尊(いざなみのみこと)は恥じ恨んで、いわれるのに「あなたは私の本当の姿を見てしまわれました。私もあなたの本当の姿を見ましょう」。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)は恥ずかしく思われ、黄泉の国を出てゆこうとされた。ただ黙っては帰らないで誓いの言葉をいわれた。「もう縁を切ろう」また「お前には負けない」…。
…その妻と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)がいわれるのに、「はじめあなたを悲しみ慕ったのは私が弱虫だった」と。このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊奘冉尊(いざなみのみこと)のお言葉がありまして『私はあなたともう国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまって、ご一緒には参りません』と」。
このとき菊理媛神(くくりひめのかみ)が申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そしてそこから去ってゆかれた。ただし自ら黄泉の国を見られた。これが不祥であった。それでそのけがらわしいものをすすぎ洗おうと思って、出かけて阿波の水門(みと)と速吸名門(はやすいのなと)をご覧になった。(日本書紀現代語訳より)
菊理媛神があらわれて何を言ったのかは書かれていない。書紀には「是のときに、菊理媛神、また白(まう)すことあり。伊奘諾尊聞(きこ)しめして善(ほ)めたまふ。すなはち散去(あら)けぬ。ただしみづから泉国(よもつくに)を見たり。これすでに不祥(さがな)し…」とある。
折口信夫はこのことについて、「いざなぎの禊(みそ)ぎに先立って、よもつひら坂に現れてもうす言あった菊理媛(くくりひめ)は、みぬま類の神ではないか。…その言うことをよろしとして散去したとあるのは、みそぎを教へたものと見るべきであらう」としている。折口は、書紀には記載されなかったが、菊理媛の呪言となった詞章があったはずで、穢れをはらい清める禊ぎのやり方を、菊理媛が伝えたとみているのである。
また菊理媛の名については「くくりは水を潜(くぐ)る事である。泳の字を宛てているところから見れば、神名の意義も知れる。くくり出た女神ゆゑの名であらう」と述べている。さらにくくり媛を、みづは、水沼(みぬま)の神と同類ともみており、一般に水沼の神は、水神と考えられているが、「実は神ではなく、神に近い女、神として生きている神女なる巫女であった」ともみている…。(折口信夫「水の女」より)
ちなみに神社由緒、祭神についての説明を読んでみると、神社側の見解では「くくり」は「括る」にもつながるので、和合の神、縁結びの神として崇敬されている、とある。
折口説に従えば、菊理媛はおそらく黄泉の国の精霊だったのであろう。書紀のこの場面では生よりも死の世界に濃く染まりつつ、男神と妻神が争う中にあらわれ、ふさわしい言葉を告げることによって、両者の仲裁に役立ったように記述されている。
菊理媛があらわれる場面についてもう少し考えてみたい。書紀では、現世と黄泉の国の境は大きな岩で塞がれているとある。岩を挟んでイザナギ神とイザナミ神は直接激しく言い争っていたのであろう。次には泉守道人(よもつちもりびと、入口を守る神、おそらく男性であろう)があらわれて、妻神の言葉を間接的に男神に伝えて、とりなそうとする。ということは、イザナギ神はすでに黄泉の国を出ていたが、まだ境界上の平坂にあって、黄泉の番人である仲介者もその場に立ち会っていたことになる。けれどもイザナギ神は、守人が伝える妻の言葉を聞いても、まだどこか腑に落ちないものがあった。その後に菊理媛があらわれて、何ごとかを告げたとき、イザナギ神は納得するのである。
菊理媛は何を告げに、いったいどこからやって来たのであろう。やはり黄泉の国からだとみるのが自然であろう。(勝手な想像ではあるが)イザナミ神自身はもう黄泉の国の住人であり境界からは出られないので、代わりに(おそばに仕えている)菊理媛が命を受けて、境界を「くぐり抜けて」イザナミ神の言葉を再度伝えにいったのではないだろうか。
大岩によってこの世とあの世は塞がれていたとしても、そこを通行することは決して不可能ではない。たとえばその方法の一つとして、よく知られているものは、空を翔る鳥の道であろう。(魂を運ぶ)白い鳥はこの世と異界を自在に行き来できる存在として、よく神話に登場するのだが、でもこの場面に関しては鳥ではなく、おそらくは地を流れゆく水であったろう。白山に祀られる女神、菊理媛は、水と結びついて語られることが多く、水と非常にゆかりの深い神であるようなので、その通り道も水路が似つかわしいかと思われる。
たとえば清らかな小川が、大岩の隙間を縫うように流れていたとする。菊理媛は細い紐のような蛇に変身して水に浸り、流れに沿ってやすやすと境を越えたことであろう。あるいは水そのものに変化(へんげ)して移動したかもしれず、また岩の隙間や穴、窪みなどを伝うとか、蛇身であるのなら、そういう所を通り抜けることもたやすかったであろう。菊理媛の名は、水を「くぐる」禊ぎをイザナギ神に教えたこと、そして(おそらく)水路を通って生と死の境界を「くぐり」抜けたこと、この両方を重ねて負った名とみるのが自然かと感じられる。
それでは菊理媛は何を言うために出向いたのであろうか。折口説を否定するものではないし、たしかに海潮によるみそぎの助言があったかとも思うのだが…。(勝手な空想であるが)先に黄泉の守人(なんとなく老人のような印象)が、イザナミ神の言葉をそのまま伝えたのだが、男の太い声ではどうもあまり説得力がなかったようであった。そこでイザナミ神は、やはり若い女性をつかわして、女性の声音でもって、もう一度自分の真意を伝えてみよう、と思ったのではないだろうか。
おそらくは菊理媛は、蛇体あるいは透き通って流れる水と化して、異界の境を超えてゆき、生きていた頃の麗しいイザナミ神の姿に変身して、男神の前に立ちあらわれたのであろう。そして、イザナミ神そっくりの優しい声と懐かしいしぐさでもって、静かに現在の心境を夫神に向かって語りかけたのではないだろうか。イザナギ神は、その様子に心を動かされたのだと思う。
「聞こしめしてほめたまふ」とあるのは、冥界にいる妻と、このとき菊理媛という媒体を通して本当に心が通じ合ったと感じたので、菊理媛の、そういう真の和解を引き出した能力に対しての賛辞でもあったかと思われる。
晴れていたのに、この日神社の境内から白山の峰を仰ぎみることはできなかった。手取川の川面はきらきらと光りが躍り、いつまでも見飽きなかった。また参道の途中には琵琶滝という涼しげな滝があって、その前にたたずんでいると冷気が快く感じられた。
神社を出るとその後はバスで白峰村へと向かい、民宿で一泊した。翌朝バスで別当出合登山口まで行き、その日は数時間かけて、実に長く感じられる笹の多い山道を上り、室堂(標高二四五〇メートル)の混み合う古い山小屋で泊った。
次の朝、山頂を目ざし遠回りになるが裏道から上っていった。黒百合があちこちに咲いていて、ほかに可憐な高山植物も多く咲き乱れている整備された歩きやすい道であった。山頂に近づくにつれ風が強くなり、突風のような風が吹き荒れるので驚いたが、風がふっと止むと、あたりは静寂に包まれ、霧が薄く流れてきてぼんやりと白くなり、透かし見るとそこには岩だらけの生命のない世界が広がっていた。
山頂奧宮は風を避けるように、石塀に囲まれた位置に建てられていた。付近には不思議な青い色の水をたたえた翠ケ池や、紺屋ケ池、油ケ池、千蛇ケ池(千匹の蛇を封じたのだとか)、血の池、など多くの池があり、噴火してそのまま冷え固まったかのような奇怪な形状の大岩が無造作に転がり、火山性の荒涼とした光景が見られた。
しばらくたつと霧が晴れてゆき、山頂からは四方に広がる雄大な山並みが見られた。けれどもそれも束の間で、再び視界は霧に包まれていく。短い晴れ間を縫うように歩いていくと、翠ケ池はこわいような青みをたたえていて、近寄って眺めていると心が吸い込まれていきそうであった。池から池へと異なる情景を求めて歩くうちに、地獄巡りをして異界をさまよっているような感覚におちいり、死後の世界とはこうものであろうかと感じた。
白山の奧宮がこうした死の様相に濃く染まって在るということを、改めて思った。生は常に死と隣り合っている。けれども死はまた生へと循環していくのだろう。霧に閉ざされ万年雪の残る窪地や薄暗い岩陰、山頂に点在する有毒色素のような色の池が、たまたま死の静寂の世界とみえたのも仮の姿であろう。たとえばもし雲ひとつない青空で、霧もなくすっきりと晴れわたった日であったとしたらどうだったろう。同じこれら死の情景と映ったものが反転して、明るい生の輝きに満ちる世界が出現していたかもしれない。
白山の山頂への憧れは、来てみると恐怖とも映って、何かしら複雑な思いにとらわれた。遠くで眺める冠雪の白峰の美しさに比して、その山頂は自然のありのままの厳しさがむき出しでなんとも荒々しい印象であった。山は平地から仰ぎ見るとき、とりわけ聖らかで美しいもの、古の人たちにとっては、山を仰ぐことは神を仰ぐこと、でもあったのだろう。
備後一宮 吉備津彦神社
福山で福塩線に乗り換え、三十分ほど乗ると新市駅に着く。そこから徒歩で吉備津神社へと向かった。舗装道路を約二キロ進むと、左手山側に神社の門が見えてくる。ここでは一宮は「いっきゅうさん」と呼ばれているのだとか。
石段を上り隋身門をくぐっていく。正面にある社殿はどちらかというと仏殿風の構えであった。由緒によれば、創建は八〇六年、備中の吉備津神社から勧請されたと伝えられている。火災で何度か焼失し、現在の社殿は初代福山藩主による造営という。
祭神は大吉備津彦命(亦の名は五十狭芹彦命、いさせりびこのみこと)、孝霊天皇皇子である。書紀によれば、崇神天皇の御代、四道将軍が各地へ派遣され、倭にまつろはぬ人々を平定、討伐していった。北陸道には大彦命、東海道には武渟川別命(たけぬなかはわけのみこと)、丹波には丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)、西道(山陽道)には吉備津彦命が、それぞれ派遣されたという。
…大彦命を以て北陸(くぬがのみち)に遣(つかは)す。武渟川別(たけぬなかはわけ)をもて東海(うみつみち)に遣す。吉備津彦をもて西道(にしのみち)に遣(つかは)す。丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)をもて丹波(たには)に遣す。よりて詔(みことのり)してのたまはく、「もし教(のり)を受けざる者あらば、すなはち兵(いくさ)を挙げて伐(う)て」(日本書紀 崇神記)
古事記によれば、大吉備津彦と異母弟の若建(わかたけ)吉備津彦は、兵を率いて播磨から吉備に入ったが、その際、現在の兵庫県加古川市で忌瓶(酒瓶)を地に据えて神を祀り祈願した後吉備に入り、平定したという。
…大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命とは、二柱相副(たぐ)はして針間(はりま)の氷の河の前(さき)に忌瓶(いはひべ)を居(す)ゑて、針間を道の口として、吉備の国を言(こと)向け和(やは)したまひき。(古事記 孝霊天皇)
倭の皇子、五十狭芹彦命は吉備を平定して吉備津彦を名乗り、吉備の中山に宮を建てて住み統治したとされる。備中の吉備津神社の伝承によると、古に吉備を支配していた王で温羅(うら)という者がおり(記紀にはこの名は出ていない)、皇子軍が激戦の末に滅ぼしたのだが、温羅は首をはねられても唸り続け、首を埋められてもなお吼えることをやめないので、祟りをおそれ御竈殿で占いの神として鎮め、その霊を祀るようになった。
この話は、桃太郎の鬼退治の原型ともいわれており、大吉備津彦が桃太郎、温羅が鬼ということになる。子ども向けの話なので、殺された温羅が呪ったという部分は消されているし、また弥生時代なのに桃太郎がちょんまげ姿で陣羽織を着ているなど、時代がそぐわないところもあるが…。桃太郎伝説は各地に存在するが、岡山発祥説が最も有力とされているという。
またこの話は備中の吉備津神社の吉備津の釜、鳴釜神事の由来としても知られ、梁塵秘抄にも「一品聖霊吉備津宮…艮(うしとら)みさきはおそろしや」とうたわれ、上田秋成「雨月物語・吉備津の釜」の題材にもなった。
温羅は暴虐の王のため皇子が来て討伐したとされている。吉備は、古代では多くの用途を持つ水銀朱(呪術に用いる、防腐作用を持つ、古墳に大量に撒く、神鏡を磨くなど)、の産地であり、また吉備の豊富な鉄資源や製鉄技術にも倭側が関心を持っていた、などともいわれ、吉備討伐がおこなわれた背景には、重要な鉱物資源の獲得というような事情もあったようである。
古代の闇や神秘が感じられる備中一宮の吉備津神社には、戦いにまつわるいろいろな伝承も残されているがまた謎も多い。(紀行「吉備津神社と吉備津の釜」の項、またエッセイ「鬼神の声」でもこのことについて書いている)
備後一宮の吉備津彦神社には、そのような暗いものをじかに感じさせる古代の伝承はみられないようである。この神社は節分の夜に「ほら吹き神事」という「放談会」が開かれることで知られているという。お酒も用意され参加者が焚き火を囲んで自由にほら話を披露し、楽しむというものであるらしい。
何はともあれ、吉備の地の開拓の神、大吉備津彦を祭神とする神社がこの近辺の一宮として備前、備中、備後と三社もあるので(岡山に二社、ここ広島に一社)、訪れるほうは少々記憶が錯綜して混乱気味なのであった。古に倭の勢力が増大し、大吉備津彦がこの地域を平定したということが、同名の神社、同じ祭神名というかたちで今も残っていることを改めて思う。
吉備国に邪馬台国があったという説を聞いたことがある。その根拠の一つは大吉備津彦の姉に倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という霊能の人がいて(大和の箸墓古墳に葬られたとされる)、一族の人や弟たちと吉備に来て住み、ともに統治したというのである。男たちが戦や政事をおこない、百襲姫が祭祀を受け持ったのではないかという説である。この女性を卑弥呼とみる説があるので、そうなると桃太郎と卑弥呼が姉弟だったということになり、まさに最強の組み合わせということになるだろう。
また岡山県東部には浦間茶臼山古墳という大和の箸墓のちょうど二分の一という相似形の前方後円墳があるそうで、箸墓と同時代のものとされているそうだ。邪馬台国候補地も各地にあるが、これらのことから吉備邪馬台国説も生じたらしい。
備前の吉備津彦神社、備中の吉備津神社では、一族の人たちとともに倭迹迹日百襲姫も相殿で祀られているが、ここ備後の吉備津神社では、百襲姫の名は相殿の神々の中には入っていないようであった。ちなみに百襲姫を主祭神とする神社には、讃岐一宮の田村神社があり、讃岐にも同様の桃太郎伝説(高松、女木島)があり、讃岐邪馬台国説もあるので、興味深いことである。ちなみに田村神社の由緒では、倭迹迹日百襲姫が弟の吉備津彦とともに讃岐にくだってきて、統治したとあった。
主祭神を同じくする備前、備中、備後の一宮をくらべてみると、備前の吉備津彦神社とここは共通するものが感じられる。備前の吉備津彦神社は夏至の日の朝、太陽が鳥居の正面から昇り、社殿の御鏡に入ることから別名「朝日の宮」と呼ばれているが、ここ備後の吉備津神社にも、調査すれば太陽祭祀の痕跡が見つかるかもしれない。備中の吉備津神社のみは社殿が艮の方角を向いているせいか雰囲気が二社とは異なり、ただならぬものの気配も重く漂っているようであった。
備後の吉備津神社では、境内でちょうど写真展が開催されていて、賑わっていた。見ていくと神社境内の祠などを写したものが多くあり、ちょっと関心を持ったので関係者らしいかたに質問してみた。すると丁寧に答えてくださった上、さらに通りかかった神社のかたを呼び止め、再度詳しく説明をしていただくことになって恐縮した。神社と方位との関係など興味深いお話であった。
神社を出て駅までの直線道路をまた歩いて引き返した。うまくバスを見つけられなかったのである。車の行き交う道路は、行きよりも距離が長く感じられて疲労した。福山市に戻る電車の中で、何気なくポケットをさぐると、小さな包みが手に触れた。取り出してみると和菓子であった。さっき写真展で説明してくれたかたが、帰るときに会場にあったお菓子をくださったのであった。地元銘菓をありがたくいただきながら、窓の外に広がるのどかな風景を眺め、備後一宮の境内の様子や出会った人たちについて、思いを巡らせていた。
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