大神神社(大和一宮)・三輪山   ー最古の社ー

 
 
 十数年前にはじめて大神(おおみわ)神社を訪れたときのこと、参道の小川にかかる橋の所で、石垣の上に白い蛇がいるのに気がついた。通りかかった人が数人、立ち止まってじっと見ている。大神神社では白蛇は「巳(み)さん」と呼ばれ、神蛇(神の使い)である。境内の大杉の根元の洞に棲んでいるらしいが、動物園ではないのでいつ行っても会えるとは限らず、参詣時に白蛇を見るのは幸運と聞いている。
 白蛇はゆっくりとした動きで頭を左右に動かしていた。すると誰かが白蛇に向かって大きく拍手を打って拝んだ。その場にいた人たちがはっと我に帰ったようになり、それぞれ同じように手を合わせて拝みはじめた。畏怖の思いで私はそれを見ていた。古代の信仰がここでは今も生きているのだった。


 このときは狭井神社から檜原神社、崇神天皇陵の辺りまで山の辺の道を散策した。歴史が感じられてよかったので別の季節にも再訪し、神体山の三輪山に登拝、中津磐座、山頂の高宮(こうのみや)神社、奧津(おきつ)磐座を訪ね、古の雰囲気に触れることができて興味深かった。山道の岩の上には、神様が好まれる物なのであろう、あちこちに白いおもちや生卵一、二個と口を開けたカップ酒などのお供え物が置かれていた。卵が割れて中身が流れ出し、びんも倒れて岩に染みを作り、その前に額づいて一心不乱に祈る人もおられて、なんとも生々しい信仰のかたちに圧倒された。


 また別の日には、卑弥呼の墓とも伝えられる箸墓古墳を訪れた。箸でほとを突いて死んだとされる不幸な皇女の伝承があるその古墳には、まがまがしい死の連想からか特異な雰囲気が漂っているようにも感じられた。周囲を巡ってみて規模の大きさにも驚かされたが、人の入らない古墳の森は深く静まり、時折野鳥の鋭い鳴き声だけが樹木の間にこだまして消えてゆくのであった。
 その後何度か古代の面影を求めて三輪の里を訪れ、桜井駅から山の辺の道をたどって初瀬川や海柘榴市(つばいち)跡を見たり(山の辺の道、の項にも書いている)、穴師の大兵主神社や相撲神社、大和神社を訪れたり、また天理の石上神宮から歩きはじめて、環濠集落を経て崇神陵まで歩いたこともあった。季節が変るとまた印象も異なるが、大和を歩くことは喜びでもあった。石上、三輪、初瀬川、海柘榴市、巻向、穴師、古い地名はそれだけで心に古代を喚起させる力を持つ。ほかとは違うゆったりと流れていた時間を今も懐かしく思い出す。


 今回、久しぶりに大神神社を訪れた。鎮花祭を見学して、その後三輪山を登拝する。見まわすと山は小雨で霞んだように煙っており、参道の苔は水を含み、森は湿潤な気配をたたえていた。
 花鎮めの祭りは、古には花が散る季節になると疫病が流行したので、悪疫の退散を祈ったことに由来するという。咲き誇る桜の花に霊力を見、散りゆく花とともに悪霊が力を増してくることをおそれ、鎮めの祭りを行ったらしい。


 鎮花祭の神事は修祓、祝詞、神饌献納、と続いていく。お酒、塩、米、おもち、大鯛、畑の野菜、果実、また特殊神饌として、三輪山自生の忍冬(すいかずら)と笹百合の根(ともに薬効がある)も神前に献じられた。忍冬の花はまだ咲いておらず、緑の枝があふれるように盛ってある。その後お神楽の奉納があった。巫女舞はとても優雅で、時折背後の木々の梢で小鳥がさえずり、楽の音や巫女さんたちの振る鈴とよく響き合い、風雅な雰囲気をかもし出していた。この後は、狭井神社で鎮花祭が行われた。


 大神神社には本殿はなく、拝殿の奥の三つ鳥居の向こうは山になっており、古式のたたずまいである。磐座祭祀で知られる三輪山を神体山としている。この山は古来禁足地(神陵ともいわれる)であり、拝殿から三つ鳥居を通して山を拝する古の信仰のかたちを今もとどめている。
 創祀は古く「神代の昔、大己貴命(大国主命)が自らの幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主の名でもってお祀りしたのがはじまり」(神社ホームページ)とのことである。
 さらに詳しい社伝をみると、大神神社の主祭神は大物主大神で、神代の昔、山頂の奧津磐座に鎮座したとされる。配祀は大己貴神(国造りの神)と少彦名神(すくなひこなのかみ、国造りの協力神で医薬、酒造りの神とも)で、大己貴命は考昭天皇の御代に中津磐座に鎮座し、少彦名命は清寧天皇の御代に辺津磐座に鎮座したとされる。
 それぞれの時代の信仰の様相がうかがえる伝承だが、祭神についても諸説あるので、今回はそのことについて考えてみたいと思う。


 まず古事記にみられる鎮座伝承からみていこう。


…大国主の神。またの名を大穴牟遅(おおなむじ)の神、葦原色許男(あしはらしこを)の神、八千矛の神、宇都志国玉の神、とあわせて五つの名を持っている。
 大国主命が出雲の御大(みほ、美保)の岬におられたとき、波の上を蔓芋のさやを舟にし、蛾の皮をまとって寄ってきた小さな神があり、誰も名を知らなかったが、久延毘古(くえびこ、案山子の神)が神産巣日神(かむむすびのかみ)の御子の少彦名神です、とお答えした。神産巣日神の仰せで、大国主と少彦名は兄弟となって国造りを進めたが、やがて少彦名神は遠い海の向こうの常世に去ってゆかれた。大国主命は心細くなり、一人でどうやって国を作り得ましょう、と嘆かれたとき、海上を照らして寄ってくる神があり、その神がいわれた。「私をよく祀ったなら一緒になって国を造りましょう」「どのようにしてお祀りしましょうか」「私を大和の青垣の東の山の上に祀りなさい」これが御諸の山におられる神である。(古事記より)


 出雲の海に出現した神霊が、大和の三輪山に祀られるようになったということである。日本書紀のほうでみると、ほぼ同様の内容が書かれているが、少し異なる点もみられる。


…少彦名命が去られた後、大己貴命が国の中を巡りよく造られた。ついに出雲の国に至っていわれた。「葦原中国はもとから荒れて広い所だった。岩や草木にいたるまですべて強かった。けれども私が皆くだき伏せた。今この国を治めるものは私だけである。ほかにだれがあるだろうか」…そのとき不思議な光が海を照らし、忽然として浮かんでくるものがあった。「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげることができただろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てられたのだ」大己貴命は尋ねられた。「どなたでしょうか」「私はお前に幸いをもたらす幸魂、奇魂である」…「わかりました。ではどこに住まわれたいと思われますか」「私は大和の三諸山に住みたいと思う」そこで宮をその所に造って鎮められた。これが大三輪の神である。(日本書紀より)


 自身の魂に自分が出会うという謎めいた表現で、面白いとも思うが、伝えようとしていることの真意は読みとりにくい。舞台地は出雲なので「時に、神(あや)しき光、海(うな)に照して忽然(たちまち)に浮び来る者あり」という箇所で思い浮かぶのは、龍蛇神であろう。出雲大社、佐太神社の神事として、海から上った龍蛇神を整えたかたちに巻いて三方に載せ、祀るのはよく知られている。
 これは神在月の頃、嵐になると南方の海から流れ寄ってくる海蛇(せぐろうみへび)で、背中が黒、腹部が黄金色という珍しいものらしい。暗い海で篝火を焚いた舟上から眺めると、まるで火の玉が寄ってくるように美しく輝いて見えるという。これをはじめて見た古代の人たちは不思議さに心打たれ、おそれて神を感じたのであろう。めったに上らないことに加え、尾に変った斑紋があり(佐太神社の神紋になっている)、出現の仕方も神秘的なので、古から神社に奉納し、龍蛇様として祭祀されてきたという。
 これらのことから推察すると、大国主が見た「神(あや)しき光海に照して、忽然に浮び来る者あり」というのは、龍蛇神の神霊とみていいのではないだろうか。神の恩恵やその霊威があってこそ国造りが成就していったのだ、という点をこの神が指摘されたので、大国主はこのとき自分の力だけで事が成ったのでなく、神霊の加護に気づかされたということであろうか。


 このときの「海原からの光」を日の出の陽光とし、神を日の神とみる説もある。けれども出雲といえばその位置から「日の沈む国」とされているので、日の神がはじめて顕現する場面の印象としては弱く、龍蛇神の出現とみるほうがよりふさわしいかと思われる。
 海の彼方から来る神秘のものには、強い霊力が宿ると考えられた。龍蛇神は大国主の分身ともみなされ、出雲の地に祀られたようである。記紀の記述では、このときに神霊を分かつことになったとし、神様がみずから指定されたという、海から遠い大和の三輪山に鎮座、三輪山の神として祀られていく。


 このことを日本書紀の成立時、出雲神話、出雲伝承が多く大和側に取り込まれていったことの反映とみる説もある。それを否定するわけではないけれども、このことは古に出雲の人たちが、大和へ移ったことを意味するのかもしれないと思う。
 大和と出雲の関係についても諸説あり、判然としないようである。大和に現存する出雲の地名、出雲系の複数の古社とその信仰の痕跡、また出雲の地に祀られる、大和葛城が本拠のはずの事代主神の存在伝承などが謎とされている。何か秘められたものがそこにある、と人の心に感じさせるのである。
 今となっては、神と人の移動について解明することは難しく、古に人々が出雲から大和に行ったのか、大和から出雲へと移ったのか、あるいはその両方なのか、移動の時期も不明であるが、龍蛇神の信仰に関してのみいうなら、それは出雲の海に上った神なので、出雲からもたらされた、と考えるのが自然であろう。(紀伊水道、浪速の海に龍蛇神が上って祀られた、という故事伝承は聞いたことがないので…)人々が遠方へ移り住むとき、彼らの信奉する神々もまた持ち運ばれ、新たな鎮座地を得てゆくものであろうから。


 大物主という神について考えてみたい。
 大神神社の祭神の正式な名称は「倭大物主櫛甕魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)」といい、蛇体の神だそうである。水神、雷神としての神格を持ち、酒造りの神とも。山頂の奥津磐座に鎮座する大物主を、大国主と同一視する見方と、別の神とみる両方の説がある。
 本居宣長は「古事記伝」の中で「出雲国造神賀詞」を引用し、大物主は美和に鎮座した大穴牟遅命の御魂の名であって、大穴牟遅命自身の名ではなく、大物主の名は、大穴牟遅が現身(うつしみ)から幽界に隠れられた後の呼び名である、という解釈をしている。(白檮原の宮の段)


 また、大物主を饒速日(にぎはやひ)と同一視する説もある。饒速日に関しては物部氏の文献「先代旧事本紀」に独自の詳細な記述がみられ、これを根拠としているようである。饒速日は一族を率いて、神武天皇よりも前に生駒山に天降り、土地の長である登美の長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶って子ももうけたが、神武天皇の大和入りに際しては長髄彦を討ち、神武に帰順した。(先代旧事本紀については、石見一宮 物部神社、の項でも書いている)


 このように祭神については諸説あるようだが、大神神社側の見解では「大国主命(大己貴命)がみずからの幸魂、奇魂を三輪山に鎮め、大物主の名でもって祭祀したことがはじまり」とし、複数の祭神名を大物主の名に重ね合わせている。


 次に延喜式の祝詞「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこのかむのよごと)をみてみよう。これは出雲国造が代替わりのたびに大和にやって来て、天皇に奏上する祝詞である。天皇への服属儀礼とも復奏儀礼ともいわれており、その中に大国主、大物主が登場するのでその一部を紹介してみよう。


…大穴持神(おほあなもちのかみ)の申したまはく「皇御孫命(すめみまのみこと)の鎮まりまさむ大倭(おほやまと)の国」と申して、己の命の和魂を八咫(やた)の鏡に取りつけて倭の大物主くしみかたまの命と名をたたえて、大御和(おおみわ)の神奈備に坐せ… 皇御孫命の近き守り神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築宮(やおにきづきのみや)にしずまりましき。(「出雲国造神賀詞」より)


 大国主命が天孫への国譲りに際して、自分の和魂を三輪山に鎮め置き、自分の三人の子どもたちの魂も、それぞれ倭の国を囲むような位置に鎮め置いて、皇孫の護り神とすることを誓い、自分は出雲の杵築宮に退去いたします、という内容であるが、これによれば、大国主が自分の和魂を三輪山に鎮めて出雲へ去った、というように読みとれる。


 一般に国土造営にかかわる神として大国主が史書文献に登場する場合、大国主は大己貴として表記されることが多く、大己貴と少彦名が対になっているという。大国主、または大己貴は、出雲に鎮まる神であるけれども、固有名詞ではなく、そして普通は出雲の神とみなされているけれども、全国各地の神社で祭神として祀られており、それらはすべて出雲から勧請された神というわけでもなくて、その名は各地における地霊としての名でもあるらしい。


 三輪の大物主は、どうも見きわめにくい神のようである。この神の神婚説話は(あまり気持ちの良い話ではないが)有名なので、引用し紹介することにする。


…三嶋溝咋(みぞくひ)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)が美しかったので、大物主神は丹塗り矢となって、川で用便中のおとめに流れ寄り、ほとを突いた。おとめは驚いて立ち走り、矢を持ち帰って床の辺に置くと美しい男になり、婚姻して生まれた子が、富登多々良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)であった。この方のまたの名を比売多々良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といい、神武天皇が高佐士野(たかさじの)でおとめたちと出会われた折、先頭にいたこの比売を娶って皇后とされた。(古事記)


 書紀では、神が丹塗り矢となって女性に流れ寄るのではなく、事代主神が三嶋溝咋の娘と婚姻して媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を生んだと記している。読み進むと、事代主神は「八尋熊鰐(やひろわに)に化為(な)りて三嶋の…」とあるので(日本書紀 神武記)、この神は鰐になって川をさかのぼり三嶋の女性の家まで通ったらしい。


 上賀茂神社の由緒に、これらとよく似た逸話があるので紹介してみよう。


…賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の娘の玉依姫が瀬見の小川(賀茂川)で遊んでいたところ、丹塗り矢(神の化身)が流れてきたのでそれを持ち帰り、床の辺に置くと懐妊し男児を生んだ。建角身命が子の父親を知りたく思って酒宴を開き、集まった客の中に父親がいれば酒を呑ませるよう男児にうながすと、子どもは酒盃を手に天井を突きぬけて天に昇っていった。この子どもお祀りしたのが上賀茂神社である。父親の正体は、乙訓神社に祀られる乙訓坐火雷神(おとくににいますほのいかづちのかみ)であった。(山城国風土記逸文)


 比較してみると、古事記に語られるほうの神婚が、上賀茂神社の縁起よりも露骨であからさまな表現になっている。記紀と風土記に共通しているのは、これらの神は女性に会いにゆくとき、丹塗り矢(蛇体)や鰐などに化身、そのもとの身は異類ということである。


 水辺でおとめが神に出会うというかたちは、折口信夫の「水の女」で「たなばたつめ」として考察されている。「たな」とは水辺に設けられた懸け造りの小屋で、その中で「はた」を織りながら神の訪れを待つおとめが、たなばたつめである。(「水の女」より)
 このかたちが変容していくと、おとめが川遊び中、あるいは厠に入っていると矢が流れてきて、というように妙に具体的で赤裸々な展開の説話になってゆくが、その原型となっているのは、水辺で身を清め、降臨する神を待ちうける巫女の姿であろうかと思われる。


 さらに日本書紀をみてみよう。


…倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)は大物主神の妻となった。神は、昼は来ないで夜だけ来るので、迹迹日姫は夫に言われた。「いつも昼はいらっしゃらないのでお顔を見ることができません。もうしばらくとどまってください。朝になったら麗しいお姿を見られるでしょうから」神は答えて言われた。「もっともである。明日の朝、櫛函(くしばこ)に入っていよう。私の形に驚かないように」迹迹日姫は少し変に思われたが、朝を待って函を開けると、長さ太さは衣紐(したひも)くらいの実に麗しい小蛇が入っていたので、驚いて叫んでしまった。大神はたちまち人の形になり「お前は私に恥をかかせた。今度は私がお前を恥ずかしい目にあわせよう」と言って大空を踏み、御諸山(三輪山)に上ってゆかれた。迹迹日姫は仰ぎ見て悔い、座り込まれたが、そのとき箸でほとを突いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。その墓を名づけて箸墓という。その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。(日本書紀 崇神記)


 通ってきていた神の正体が蛇だったというのである。この逸話に出てくる「遂(まこと)に美麗(うるは)しき小蛇(こおろち)あり」の箇所であるが、(勝手な推測ではあるが)、よく見かける普通の蛇でなく、朝陽を受けて金色に光っていた小蛇、というような情景も想像できるので、前述の龍蛇神の神霊、とみなすことも可能かと思われる。現実に蛇が入っていたとみるよりは、迹迹日姫がこのとき函を開けてその存在を霊視した、とみるほうが自然であろう。


 迹迹日姫が三輪山の神の妻になった、とあるのは、この霊能の女性が大物主の祭祀を引き受けて日夜お祀りをされていた、というふうにも解釈してよいのだろうか。もし祀るものと祀られるものとの合体を「妻(みめ)と為(な)る」という表現で示しているのなら、この女性は祀り手としてふさわしくなかったともいえるだろう。
 本来なら三輪の神は女性のもとに通って子をつくり、子は神の御子として大切に育てられていくはずなのに、この女性は子をなさなかったし、神の姿を知って恐怖と嫌悪から悲鳴をあげてしまい、そのために咎めを受けてむごい死を迎えるのである。
 言えることは、人間の側から神に直接問いかけてはいけないことがあったのではないだろうか、ということである。神の正体を知ろうとして、賀茂の建角身は大切な孫を失ってしまい、迹迹日姫は命を失う。おそらく賀茂の酒宴の席で、男児は落雷を受けて死んだのであろう。それによって父親を雷神としたのであろうが、もし神に問いを発しなかったなら、子も無事ではなかったのか。あるいは迹迹日姫が神の正体を見たい、などと神に頼まなかったら、むごたらしい死に方をしないでもすんだのではなかったか。
 神と人間の間には、決して超えてはならないものがあったのだろう。人の側から軽々しくじかに神に問いかけてはならないという暗黙の掟が…。神は非常に厳しい存在として描かれており、人の思い上りや、神意に添わない振る舞いを許さないのである。


 神と真に向かい合い、直接対話ができるのは、神かそれと同様の資格を持つ特別な人に限られていたのであろう。人が侵してはならない領域があること、神の側に踏み込んで気軽にものを言ったり頼んだりしてはいけないこと、神に対してはいくつかの守らねばならない禁忌や約束事が存在し、それを人が破った場合に起きる悲惨な結末を、これらの逸話は物語っているように思うのである。


 日本書紀をもう少しみてみよう。


…崇神天皇の御代に疫病が流行り、民が流離していき、死ぬものも多くあって勢いがおさまらなかった。天皇は憂慮されて神に祈られた。これより先に天照大神、倭大国魂(やまとのおほくにたま)、二柱の神を天皇の宮殿の内に一緒に祀られていたが、神の勢いが強く共に住まわれるには畏れ多くなったので、天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に預けて祀らせることにした。けれども渟名城入姫は髪が抜け落ち、体が痩せ細ってしまってお祀りすることができなかった。
 天皇は災害が続くのに悩み、浅茅原で祭祀を営まれると、倭迹迹日百襲姫に神が懸かり、「自分を祀ればおさまる。我の名は大物主である」と告げられた。それで天皇はご自身で祀りをされたが効き目はあらわれない。再び身を清めてよく祈りやすまれると、夢に大物主の神が現れて告げられるには、「国がおさまらないのは私の心である。私の子の大田田根子が祀るのであれば、国はたちどころにおさまるであろう」
 和泉の陶邑(すえのむら、古事記では河内の美努村)に大田田根子が見つかって召しだされた。天皇が問われると「父は大物主神、母親は活玉依姫(いくたまよりひめ)です」と申し上げた。天皇は喜ばれ、この人を神主として大物主神を祀り、長尾市(ながおち)を神主として倭大国魂神を祀ると、疫病がおさまり国もしずまり安泰になった。(日本書紀 崇神記)


 古事記では、大田田根子は表記が異なり、意富多多泥古(おおたたねこ)となっている。そしてこの人が神の子だというその出生の逸話として、このような記事も載せている。


…美しい活玉依姫のところにひそかに通ってくる立派な男があって、やがて娘は懐妊した。不審に思った父母が娘に問いただし、その人を知りたいと思って、赤土を床に散らし、針に麻糸をつけて男の着物に刺すようにと、娘に教えた。糸をたどっていくと戸のかぎ穴を通り抜け、さらに三輪山に行って神の社にとどまった。それで子は神の御子だとわかった。糸巻きには糸が三巻き残っていたことによりそこを三輪という。(古事記)


 崇神天皇の祀りによっても厄災がおさまらなかったのに、大田田根子を神主として祀らせると疫病が止み、国がようやくしずまったのは、この神が、天津神系の人でなく国津神系の人の手による祭祀を望んでおられたからだろう。言い換えれば、この神の怒りをしずめるのは、その子孫の手に委ねるしかなかったことになる。疫病も災害もこの神の祟りのあらわれだというのなら、そのとき三輪の神は祟り神だったのであろう。
 そうとしか読みとれない記紀の記述である。この神は、もし怒りを発するとおそろしいことになるが、祟り神はもともと悪神ではなく、祟りには必ず理由があり、霊威の強い神であるだけに、子孫が心を籠めた祭祀でもって日々奉仕を続ければ、神の心は次第に安らぎ、幸いや平安をもたらしてくれると考えられたようである。それゆえに天皇も祭祀をされようとしたのであろう。国津神と天津神の間に介在する重いものについて、考えさせられる逸話である。


 三輪山は古からの大和の聖地で、先住民が崇敬する地霊が鎮座していたとみていいだろうと思う。けれども神武天皇が大和に入って政治体制が変ったため、先住の人たちによる三輪山祭祀が途絶するか、あるいは変質していたのではないだろうか。
 初代の神武天皇は橿原に宮殿を造営、二代目から後の天皇の宮は葛城の地、九代開化天皇は春日率川(奈良市)で、十代崇神天皇のとき、宮殿ははじめて三輪山麓へと移った。磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)である。桜井市金屋の辺りといわれており、大神神社の近くになる。
 こんな近くでは新支配者への遠慮があるので、先住民は従来通りの祭祀はできなかったであろう。だいいち先住民の祭祀者も、すでに三輪からは立ちのいていた可能性が高い。三輪の神は長年受けてきた祭祀が途絶えがちになるか、または形式が変ったので、自分が軽んじられた、として咎められ、数々の災害、疫病のかたちで天皇に示されたのであろう。それはついに天皇もその祟りをおそれて、みずから祭祀をされるほどのすさまじい霊威であった。


 別の箇所もみてみよう。先に引用した書紀の記述では、天照大神と倭大国魂神の神も、この天皇のときに宮殿から送り出されて別地に祀られたとある。
「二柱の神を天皇(すめらみこと)の大殿(みあらか)の内に並祭(いはひまつ)る。其の神の勢いを畏(おそ)りて共に住みたまふに安からず」
ということになったので、二神を皇女たちに託して宮から離れた地にそれぞれ祀った。ところが渟名城入姫は心身が衰弱し挫折したので、長尾市という人が倭国魂神を祀ることになった。豊鍬(鋤)入姫のほうは倭笠縫邑で天照大神を祀ったが、やがて神鏡をたずさえて神とともに大和を出て丹波の吉佐宮へ行き、大和へ戻るが再び大和を出て、紀伊、吉備など各地に遷座、大和の御室嶺上宮に戻ってきて姪の倭姫と交替し、今度は倭姫が祭祀を引き継いで、長い巡幸の末に天照大神を伊勢に祀った。(伊勢神宮の起源)


 これはどういうことを意味するのだろう。この二柱の神も何かの祟りをみせたと考えていいのだろうか。疫病、飢饉、災害は大物主のほうの祟りであったから、こちらの二神の祟りのほうは、内乱、謀反、敵襲、争乱、などを意味するのかもしれない。(むろん書紀には祟りや戦などと書いてあるわけではない)暗にそう語っているように感じられるだけである。
 三輪山の神はこわい神霊であるから絶対に怒らせてはならず、天皇は大田田根子を探し出して神主としたし、倭国魂神もまた倭という大きな地霊としての名を負った神であるから、なんとしても倭の地(大和神社、読みは、おおやまと)に祀り鎮めなければならなかった(地祇として)。では天照大神はどうだったのであろう。


 この神は、倭姫とともに伊勢に遷ってから後、大和の地へ二度と戻ることはなかった。よほど荒ぶる神として霊威がありおそれられたのであろう。逆にその強い荒御霊(あらみたま)を味方のものとして取り込み、新たな神格(天神)として外敵に対し、思う存分その荒々しい神霊の力を発揮してもらえたらという風に考えたのかもしれない。各地での天照祭祀は、その地方での神霊を服属させることによって、天照神の霊威をさらに増幅させる意味もあったろうか。
 豊鍬入姫や倭姫が神鏡、神剣を奉戴して大和を離れ、新たな鎮座地を求めての神の旅、あるいは神が放浪、遍歴をされた、などと情緒的な表現でよくいわれるようだが、どうだろうか。神話的にはそうかもしれないが、この神の行く先々には、そういうのどかな情景ではなく「倭にまつろはぬ」人々を平定、討伐、鎮圧、天照神の遷座やその祭祀の強化、倭の支配権の拡大、土地の領有および境界の確定…それにともなう戦闘などさまざまな出来事があったような気がする。
「倭姫命世記」には、地方の首長が倭の政権に対して、それぞれの国の魂を長の名乗りで捧げる服属儀礼、神御田や神戸の献上、子女の献上、多くの地方産物の献納、などの様子が延々と記述されている。(このことは、元伊勢の風景 倭姫命世記の世界、の項にも書いている)
 この神の荒御霊は、さらに後の時代をみていくと、武内宿禰が審神者(さには)をつとめた神降ろしの場で、皇后に懸かって託宣するというかたちであらわれて外征を告げ、疑った仲哀天皇を死に至らしめ、さらに皇后を導いて外征で勝利した。(日本書紀 神功記)この神には好戦的で荒々しい男性神の相貌がある。


 天照神はもともと大和には地縁を持たない神だったということであろうか。その名があらわす通り、原初の顕現のかたちは自然神であり、あまてる神、あまてるみたまと呼ばれる神、太陽神として祭祀されたのであろう。あるいは月神、海洋神、そのほかの神格を持つ神であったかもしれない。(皇祖神あまてらすと称えられ、天照大御神としての権威、威容が定まり、整ってくる時代はもう少し後のことになる)


 神は深く縁のある所に鎮まるのが自然であり、よく神意にかなうものと思う。皇女とともに各地を経て旅を続けられた天照神が、最終的にみずから望まれ鎮まった伊勢の地こそが、この神のもともと鎮座するべき所縁、謂れを持つ地、あるいは本拠の地ではなかったかという気がする。


 話を大物主に戻すことにする。この神については、雄略天皇のときの逸話もよく知られているだろう。


…天皇は少子部(ちいさこべ)すがるに命じられた。「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力がすぐれている。行って捕えて来い」すがるは三輪山に上って大きな蛇を捕えてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒をされなかった。大蛇は雷のような音を立て、目をきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目を覆ってご覧にならないで殿中に隠れられた。そして大蛇を岳(おか)に放たせられた。改めてその岳に名を賜い雷(いかずち)とした。(日本書紀 雄略紀)


 天皇がそのように命じられたのは、大物主を宮殿に連れてきて、天皇の威を見せつけようとされたからであろう。けれどもやはり霊威があったので、おそれて丘に放たれたというのである。神は簡単に人に捕まえられるような存在ではないので、このときの大蛇は三輪山で見つけた大きな蛇を、神ということにして、すがるが宮殿に持ってきたのだと推察される。普通の人は神の姿を直接見ることはできないけれども、神が遣わしたものの姿なら見ることはできる。このときの大蛇は「神の遣い」であったかもしれない。三輪山の神は、天皇が国津神をあなどる心でもって、気まぐれに命じられたのを知って咎められ、不思議を起こして反省を促されたのではないだろうか。
 天皇がこの大蛇を真に三輪山の神と思われるのなら、お詫びしてもとの三輪山に返すのが礼儀なのであろう。冗談のように神を捕獲して連れて来いとか、見たがこわいので丘に放すように、というような一連の振る舞いも含め、天皇と国津神の関係について考えさせられる逸話である。


 前述したように崇神天皇の時代には、神と人の間はもっと深い神秘に染められ、三輪山の神への畏怖や緊張も強いものがあったのだろう。けれども時を経て雄略天皇の頃になると、天皇の権威が増してきて地霊への畏敬や信仰のかたちも変容し、かつてあれほどおそれられた三輪山の神の神秘性も、少しずつ薄まりつつあったということであろうか。


 大物主神は、もとは古い先住民の崇敬する神であったが、大きな政治体制の変化や、異なる時代の信仰上の要請によって、(各地で起きているように)旧(ふる)い祭神の上に新しく来られた祭神の名が重ねられ、あるいは祭神そのものの交替、(旧来の神が後ろに隠れる)祭神名の変更、というようなことがここでも起きたかと想像される。
 かつて三輪山の山頂で、日の神を祀る太陽祭祀が行われた時代があり、やがてそれが衰退していった、という伝承があるという。さまざまな信仰上の出来事が重なっていくうちに、主祭神の上には、ほかの神の持つ神格、性格も付加されていったのではないだろうか。
 三輪山山中には複数の地霊、神霊が鎮まっているのかもしれないが、それらを個別にはせず、結局はそれらを「大物主神」という大きなひとつの名で祭祀するかたちが定着、現在に至っているのではないかと思われる。
三輪山の神についてはなお古代の謎がからみ、山中にはいくつかの神霊の影も見え隠れし、また独特の熱のこもった古の信仰のかたちが、今なお消えずに残っていることも興味深い。


 狭井神社にお参りの後、三輪山に登拝する。撮影、飲食は禁止。竹の杖、鈴つきの白いたすきをお借りして懸け、登拝口に立って御幣を自分で三度振って祓った後、足を踏み入れるときには、やはり心に緊張を覚える山である。
 標高は四六七メートル、円錐形に整ったきれいな山で、山頂まで約一時間、道は階段状によく整備されている。以前来たときより森は拓かれ明るくなったが、台風被害なのか倒木も目だっているような気がした。途中はだし参りの人を何人か見かけた。雨上がりの冷たいぬかるみで泥まみれ、足裏が痛そうである。この山は蛇が多いので、苦手なかたは季節を選んで登拝されるとよいと思う。
 季節の椿の花が咲きそろい、鮮やかな真紅の彩りがみごとであった。道の上にも椿の花が美しく散り、濡れた黒い岩陰には、薄紫のたちつぼすみれ(立坪菫)がひっそりと咲いている。中津磐座の前にたたずんで大杉の根や岩群を見ていると、人をおそれないのか山鳩がすぐ近くまで寄ってきた。
 山頂に着いた。高宮神社というお社が浅い池の中にあり、太陽祭祀とかかわりがある社ともいわれている。豊鋤入姫が吉備から大和へ戻って天照神を祀った御室嶺上宮がここだという説もあるが、定かではない。日照のとき雨乞いをするお社、という伝承もある。
 もう少し進むと奥津磐座に至る。長い祝詞をあげる人がいた。小豆や洗米を供えお酒を岩に撒く人も。三輪山には人が歩く道のほかにも、秘められた磐座、あるいは古の墳墓、墓所があるといい、山全体に禁足地特有の雰囲気がただよっているのを実感できる。(なお三嶋由紀夫の「奔馬」には三輪山登拝の様子や、奧津磐座のことも描かれている。ご参考までに)


 今は狭井神社の社務所に申し出れば上れるようになったが、ここは長く普通の人が入ることを許されない神域であった。かつて大和の地を領(うしは)いた古の地霊、神霊が今もしずまる山、目には見えない精霊が梢を行き交う森、そういう思いで改めて見まわせば、歩みを進めるほどに古代が身近に感じられ、神の鎮まる山、神の奧津城という言葉をしみじみと思うのであった。






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