玉津島神社・丹生都比売神社  ー古の女神の社ー



 南海和歌山駅前から新和歌浦行きのバスに乗った。和歌山城の横を通り過ぎ十分ほど進むと、左手に静かな入江が見えてくる。和歌浦の海である。玉津島神社前で下車、鳥居をくぐると山を背にひっそりと建つきれいなお社があった。祭神は三柱あって、

稚日女尊(丹生都比売神)(わかひるめのみこと、にうつひめかみ)
息長足姫尊(神功皇后)(おきながたらしひめのみこと、じんぐうこうごう)
衣通姫尊(そとおりひめのみこと、和歌の神)
 ほかに配祀として明光浦霊(あかのうらのみたま、和歌浦の地霊)とある。


 創祀は古く、神功皇后が外征の折、玉津島の神が大変霊威をあらわされたので、皇后が謝意を示されてここ玉津島に社を建て、また伊都郡かつらぎ町天野にも霊を分かち、社(丹生都比売神社)を建ててお祀りし、以来玉津島と天野に両所並び立つことになったそうである。十五世紀くらいまで、毎年天野の社から神輿が紀の川を下って玉津島に渡御する「浜降り神事」が行われていたとも。


 神功皇后が玉津島に社を造営したのは、戦勝への御礼とされる。西征の途中、神託を信じなかった仲哀天皇が突如九州で崩御、皇后はそのとき身重であったのだが、神々の加護によって新羅を討つことができ、帰国後に九州で御子(応神天皇)を出産された。皇后は戦に貢献した神々へ謝意を示し、九州、下関、鞆の浦、兵庫など各地で神を祀りつつ帰路につき、多くの社を建てていく。
 住吉の神(摂津住吉大社)、天照大神の荒御霊(西宮廣田神社)、事代主神(長田神社)、稚日女の神(神戸生田神社)などを祀る社であった。社はそれらの神ゆかりの地、あるいは神が希望された地に宮地を定めて建てられた。
(廣田神社 西宮の古社 の項でも述べていることだが)これらの社は神話的にいうと神々への御礼なのだが、別の視点でみると、このとき皇后の軍団を構成していたのは、宗像海人族、安曇海人族、住吉海人族、ほかに若狹、但馬、丹波、伊勢、紀伊など複数の各地の海人族が率いる船団であり、彼らはそれぞれ氏族の守護神を持ち、神を奉じて戦う軍団でもあり、皇后が率いる外征に協力し、功績があったということだった。
 交易を通じ航路を熟知している宗像や安曇の海人族の先導、水先案内によって皇后の軍は海を渡ったのであろうし、また風土記(小学館版)によると往時造船、航海技術の先進地域は、紀の国であったという。紀の軍船も活躍したのであろう。
 このとき戦勝御礼に建てられたという神々の社は、地図で見ると多くは海の近くに位置している。神々への謝意は、それぞれの海人族への褒賞の意味もあったかと思われる。新たに社を建て、社地を定めるとは、祭祀者とその氏族集団がそこに住んで祭祀権を得、神田を領有、社領とした地から山川の産物も獲得、海辺なら海上交通の支配権も持つということであった。


 玉津島は古から神霊の鎮まる地であったとされる。玉のような不思議なかたちの島々が海中に姿をあらわし、波が打ち寄せて美しい情景であったらしい。ここにはもともと地霊が祀られていたかと思われるが、皇后の謝意によって社が定められたとき、その祭神は稚日女神(天照大神の妹神、あるいは分身とも)であった。やがて稚日女神は丹生都比売神(にうつひめかみ)と同一視されるようになっていき、後になると稚日女神を尊崇した神功皇后自身も、祭神として祀られるようになった。霊能の人であった神功皇后は、神懸かりの折に何度もこの神の声を聞かれたのであろう。
 後の時代になると、聖武天皇がこの地に行幸、玉津島の風景に感動され、弱浜(わかのはま)を明光浦(あかのうら)へと改め、玉津島神社の祭神に、土地の地霊も合祀するようにと命じられた。守り人(役人)を置き、春と秋の年二度、都から派遣された官人による祭祀もこのときからはじまったという。さらに時代が下っていくと、光孝天皇の夢見により、衣通姫(允恭天皇の后、美女で歌にもすぐれていた)も和歌の神としてここに合祀されていった。 


 境内には万葉歌を刻んだ碑があった。聖武天皇の行幸に随伴した山部赤人の歌。


やすみしし わご大君の 常宮(とこみや)と 
仕えまつれる 雑賀野(さいかの)ゆ
背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 
清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干(ふ)れば
玉藻刈りつつ 神代より 
然(しか)ぞ尊(たふと)き 玉津島山


若の浦に 潮満ちくれば潟を無(な)み 
葦辺をさして鶴(たづ)鳴きわたる
                 (山部赤人)


 社の背後には奠供山(てんぐやま、てんぐさん、てんぐは、おそなえの意)がある。もとはここも島であったとされる。妙見山、鏡山、船頭山など同様に六個の小山が付近に点在しているが、妹背山を除き現在は陸地になっている。古代には今いる場所ももしかすれば海であったのかもしれない。
 奠供山に上ってみることにする。社殿の右手に登山道があり、階段を上ると十分もかからない丘であった。新緑の木立を抜けると視界が開け、眼下には片男波、和歌浦の海が広がっていた。右手には砂嘴が細長く延びているが、かつて見られたという島々の景観はない。静かで穏やかな入り江である。
 前方に遠くかすむゆるやかな海岸線を眺めていると、以前倭姫ゆかりの名草浜宮を訪れたときのことが思い出されて懐かしかった。(紀伊・元伊勢紀行 名草浜宮の項に書いている)浜宮の位置はここから特定はできないが、たぶんあの辺り、と見当はついた。
 近代的な建物をすべて取り払い、想像の中で古代の海の情景を思い浮かべてみる。点々と玉のような小島が盛り上がるように海中に浮かび、海は青く澄んで風が通り抜け、白波が寄せては砕け散っていく。
 ここに上って海を眺められた聖武天皇は、単に自然を賞賛されたのではなく、その美しさに畏怖の思いも抱かれたのであろう。島々を見て、まるで宝珠のようだと思われたかもしれない。玉のかたちをした島々は、古には神秘と映り、玉は魂(たま)にも通じ、神霊が宿る存在と認識されたことであろう。玉と誉めたたえられた美しい玉津島の情景は、あたかも神々の顕現の姿であるかのように捉えられていたのではないだろうか。


 山を降りて境内を抜けていく。「根上がり松」という大きな松の根が見られた。社殿が失われた一時期には、松の木を依り代として拝んでいたらしい。玉津島の神は、住吉の神、柿本人麻呂、と並び立つ三大和歌神なので、神様に捧げる自作の和歌の短冊もたくさん展示されていた。皆さんよくがんばって詠んでおられるのだった。
 そして行きには気づかなかったが、鳥居横には「小野小町袖掛けの塀」というものもあった。低い塀には赤土が塗られている。小野小町が参拝の折に、ここに小袖を掛けたというような伝承があるらしい。風光明媚の景勝地に美しいご祭神、社に詣でる絶世の美女…美しいものが多くまつわる神社であった。


 すぐ近くに鹽竈(しおがま)神社があったので立ち寄ってみる。鏡山の一部に面しており、すぐ前は車が行き交う明るい道路であるが、一歩岩蔭に入るとすっと空気が変り、一、二度気温が下がったようであった。大きな岩の窪みの薄暗い空間の奧に祠があり、神を祀っている。洞窟の奧のほうをそっとうかがい見ると、何やらさらに濃い雰囲気が漂っていて、少々こわいのであった。
 祭神は鹽槌翁尊(しおつちのおじのみこと)、製塩の神とされる。かつては近くの浜で製塩が行われていたようである。ここは玉津島神社の祓い所でもあったらしく、大幣が置いてあった。見上げると岩が層になっていて、松の木が岩に絡んでねじれつつ上がり、面白い形状である。おそらくほかの島々もこのような景観であったのだろう。かつて上流の丹生都比売神社から浜降り神事が行われた際、神輿をこの洞窟(輿ノ窟)に安置したとも伝承されている。


 神社の前にある不老橋というアーチ状の石橋を渡ってみた。古くて風情があり、こういう橋はよくロープで閉じてあるものだが、ここは自由に行き来できるのがいい。その後、川沿いにバス道を歩いていくと、奧和歌浦の雑賀崎(さいかざき)を通る循環バスに間に合って、乗ることができた。車窓から海の情景を眺めつつ進んでゆく。
 岬の先端の番所の辺りでバスを降りた。眺望を求めて付近を少し歩いてみようと思い、次のバスまでの時間を過ごすことにした。けれども漁港、旅館、急な生活道路、断崖が続き…旅行者がくつろげる場所はあまりなくて、坐れるような所もなかった。(何もここに限らないことであるけれども)、かつて景勝地といわれ自然の美しい場所であったはずなのに、開発が進んで次第に景観が縮小されてゆき、失われつつあるのを残念に感じた。
 海に近寄ろうとすれば、どこかの建物や観光旅館の敷地内に入ってしまう。しかたなく崖に面した道にたたずんでいると、海からの風が強く吹きつけてきて寒いほどであった。先ほどの和歌浦の穏やかな海辺とは異なって、ここには黒潮が打ち寄せる荒々しい海が広がっていた。双子島と島を取り巻く海流が織りなす情景がこの位置からでも遠望できたので、雄大な眺めをつかのま楽しむことにした。ふと一期一会という思いがよぎってゆく。もうここへ来ることはないかもしれない。潮の流れが速く向きが変っていく様子を、その深い海の色を、古代を思いつつ見つめていた。




        丹生都比売神社


             丹生官省部神社・丹生酒殿神社・鎌八幡宮



 丹生都比売を主祭神とするお社が高野山の麓にある。天野盆地の丹生都比売神社である。紀伊一宮とされる三社(日前・国懸神社、伊太祁曽神社、丹生都比売神社)のうちのひとつで、大変美しいお社として知られている。高野山に行くたび一度訪ねたいと思っていたがなかなか機会がなかった。先日玉津島神社へ詣でた折、天野とのつながりを知り、思い立って訪れることにした。天野へは南海電車と地域のコミュニティバスを利用し、道筋にある丹生官省部(にうかんしょうぶ)神社、丹生酒殿(にうさかどの)神社、鎌八幡宮へも寄っていくことにした。


  丹生官省部神社


 南海九度山駅で下車、地図を見ながら歩きはじめ、まず丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社を目ざす。道路沿いに徒歩で約二十分進むと、左手雨引山麓に慈尊院が見えてくる。慈尊院の門を入ると、正面の石段(約百十段)を上った先に丹生官省部神社があった。
 空海が高野山を開いた折、高野山の政務庶務を司る寺院として慈尊院が創建され、その鎮守として丹生官省部神社が建てられた。もとの宮は紀ノ川沿いにあったようだが、後に洪水の害を避けるため現在地に遷ったという。社号は高野山の領する荘園、官省部荘に由来する。高野の社領は、太政官と民部省から認可され、国の干渉を受けず、租税の義務のない不輸祖の特権も持つ、という特別なものであったという。


 緑に包まれた石段を上ると、美しい丹塗りの社殿が見えてくる。彩色もきれいで背後には高野山の深い森が広がり、新緑の季節なので吹きぬける風も爽やかであった。ここは高野山町石道(ちょういしみち)の登山口に当たる。かつて高野山参詣の人々は、一丁ごとに立てられた道しるべをたどって山道を上っていった。
 由緒によると、空海が真言密教の修行の道場の地を求めて各地を歩いた際、大和宇智郡で一人の猟師に出会った。猟師は連れていた二頭の犬を放ち、空海を高野山上の霊地へと導いた。空海は心のうちに、神(狩場明神、高野大神とも)が猟師に化現して高野の霊地を下さったことを感得、嵯峨天皇にこのことを奏すると、天皇も深く感じ入って一山(高野山)を空海に賜った。空海は高野山を開山後、政務庶務を担当する場、宿舎、冬季の道場として慈尊院を建立、また神社も創建し、その社号を丹生高野明神社(現丹生官省部神社)としたそうである。


 主祭神は丹生都比売大神、高野御子大神(丹生都比売大神の御子)。高野山の名もこの神に由来している。ほかに大食都比売(おおげつひめ)大神など合わせて七柱。祭神が多いのは、近隣の社の統廃合に伴い祭神を合祀したためであろうか。新緑の映える境内は人影もなく、時折鳥の囀りが降ってくるほかはひっそりと静まり、すがすがしい印象であった。
 石段を下り、慈尊院へと寄ってみた。ここは女人高野と呼ばれたそうである。高野山は女人禁制のため、女性はここから拝礼したのであろう。その謂れとなった逸話を紹介しよう。
 空海の母堂は、息子が開いたという高野山を見たいと願って讃岐からここまでやって来たが、女人禁制の掟のため慈尊院にとどまり、ご本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していたという。空海は高野山から二十数キロの町石道を降り、たびたび母親に会いに来たそうだ。月に九度も、というくらい頻繁に通ったので、この辺りの地名が九度山になったのだとも。
 母堂の没後、空海は自ら弥勒菩薩を刻み、母の霊とともに廟堂に祀った。やがて母堂は菩薩になったという信仰が生じ、多くの女人が結縁を求めてここを訪れるようになったそうである。




    丹生酒殿神社・鎌八幡宮




 再び道路に降りて、三谷にある丹生酒殿神社を目指す。平坦ではあるが約四キロの道のりである。車道沿いにみかんや柿、桃の木がたくさん植えられていた。果樹栽培が盛んな町のようである。どれも花はまだほんの少し、みずみずしい若葉が陽光に映えている。
 丹生酒殿神社は少し山麓寄りの森の中にあり、境内右手に立つ大銀杏が印象的である。秋にはきっとみごとだと思う。ここは丹生都比売神社の摂社で、祭神は丹生都比売大神、配祀として高野御子大神、誉田別大神、健御名方大神など。
 由緒によれば、古に丹生都比売大神が榊の枝を手に三谷の森(榊山)に降臨、御子の高野大神とともに大和、紀伊をめぐって人々に農耕や糸つむぎ、機織り、煮炊きの事や衣食の道を教え、木(紀)の川の水をもって酒を醸すことをはじめられ、この地に鎮まった。その由来により、社号は丹生酒殿神社というそうである。


 説明板を読むと、平成十年に社殿は甚大な台風被害に遭ったということであった。その後も災害に見舞われたのか、今も社殿一部にシートがかかっている。境内から背後の森を眺めてみると、伝承の榊山らしい丘がのぞまれたが、樹木も少なく、風が通り抜けやすいようである。これでは大風による倒木被害を防ぎきれないのではないかと感じた。お社がもっと深い山懐に抱かれるような位置にあればよかったのかもしれない。


(余談であるが、民俗のほうでは「風切り鎌」という風習があり、風よけ、魔よけのまじないとして、屋根の上に風の方向に向かって鎌を立て、あるいは竿の先に鎌を結わえて敷地内に立てるというようなことが、昔は各地で行われたそうである。風害がひどいらしい地形の様子を見ていて…ここは摂社に鎌八幡宮があることから、鎌のつながりで風切り鎌のことを思い出した)


 社殿の裏の鎌八幡宮へと向かう。ふっと道が暗くなる感覚がある。少し上ると鳥居があり、一本の木が見えてくる。社殿はなく、近づくと幹にたくさんの鎌を打ちこまれた、いちいがしの木があって、その異様な姿に息を呑んだ。
 鎌八幡宮は元熊手八幡宮といい、讃岐に祀られていたが、空海産土(うぶすな)神のゆかりで高野山に勧請され鎮座されていた。ところが明治の神仏分離令でお社は兄井村へと遷り、さらに現在地へと遷座、丹生酒殿神社に合祀されたようである。
 祭神は誉田別大神(ほむたわけのおおかみ)。幹に多くの鎌が刺さっているわけは、無病息災、豊作祈願、安産など願掛けのために、参拝者が鎌を投げて幹に突き刺す占いが行われてきたためであるという。願い事が神に届くときには鎌は吸い込まれるように刺さって抜けず、願いがかなわないときはすぐに落とされてしまうのだそうだ。
 もとは鎌を投げて神意をきく占いだったようであるが、今は本人の強い祈願のあまり、無理やり鎌を深く食いこませたとしか見えないものもあり、年月を経て柄が朽ち果て、錆びた刃だけになったものも多くみられた。固い木の幹には、おびただしい切っ先が突き刺さったままで傷ましい。それにしても、力いっぱい鎌を打ちつけての心願とは何であろうか。穏やかなものにはみえない。そういう行為じたい、人の心の中にある負のおそろしいものが感じられる…。しばらく無言で木を見つめていた。たとえていうなら多くの矢が刺さった弁慶の立ち往生、鋭い刃物をまとったクリスマスツリーのような異形の姿で、この木は受苦の様相をさらしつつ、人の願望の中にひそむ闇をも語っているのだった。


 鎌八幡宮から本殿のほうに降りていくと、ちょうど近くの幼稚園児が遠足にやってきて、境内で坐ってお弁当を広げはじめたところだった。境内は木が少ないので、その分明るくひらけた感じがする。休憩場所にはふさわしいのだろう。園児たちの楽しそうな様子をほほえましく眺めながら神社を後にした。




    丹生都比売神社(天野大社、紀伊一宮)




 渋田でコミュニティバスを乗り継いで、天野の丹生都比売神社へと上っていった。バスはJR笠田駅から来て、山道に入り数キロ進んでゆく。ふっと視界がひらけると、のどかに田畑の広がる平野部があらわれた。点在する民家、四方を山に囲まれた天野盆地である。標高四百五十メートル、野を渡ってくる風は爽やかでひんやりと感じられる。こんな静かな山の中に、人に知られないまま眠っている桃源郷のような集落があるのだった。
 終点の神社前でバスを降りると、池に架かる丹塗りの輪橋(反り橋)の側面が見えた。虹のような半円のかたち、高さもあって美しく、池に映って赤く揺らめいている。幻をみるようであった。
 正面に回り込んで輪橋を渡ってゆく。住吉大社の反り橋を思わせる。こうして水の上を渡って越えることが禊になるらしいので、頂に立って池を眺めてからゆっくりと降りる。朱の楼門をくぐると、やはり赤く塗られた社殿のたたずまいが美しい。比売神を祀る社にふさわしい華やぎが感じられた。
 祭神は丹生都比売大神(天照大神の妹神で稚日女神とも)、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神。全国に百七十社ある丹生都比売神社の総本社という。創建は古く神功皇后の御代、もとは丹生都比売神のみが祀られていたらしい。


 釈日本紀の播磨風土記の所伝によると、神功皇后新羅討伐の折、爾保都比売(にほつひめ)命が播磨国造の石坂比売命に懸かって託宣し、よく我を祀るのなら善き験(しるし)を出そう、と仰って赤土を賜った。皇后はその教えにより、赤土を天之逆鉾に塗って船の艫軸に建て、船体、武具にも塗り、ご自分の衣装や兵士の衣服も染め、その呪力をもって軍を進め、海を渡って勝利をおさめることができた。帰還の後、謝意を示されこの神を紀の国の藤代峯(丹生川の水源、天野の社から二十キロ東とされる。元宮か)に祀ったという。そして応神天皇の御代になって、社殿と広大な神領が寄進されたと伝承されている。


 丹生とは丹を産するという意味で、丹は朱砂からとれる朱のこと、辰砂ともいわれ、水銀の原料であり、古代では重要な鉱物資源であった。砕いて粉末にして用いるほかに、時代が進むと「はそう」と呼ばれる土器で朱砂を熱し、細い竹の導管で水中に蒸気を導いて水銀を取り出したようである。朱砂には防腐作用があり、(船に塗る、家屋や器具に塗る、遺体への施朱、埋葬時に撒く)、魔よけのまじない、鏡を磨く、不老長寿の仙薬、など用途は広かったようである。


 丹生都比売は朱砂を採掘する人々(丹生氏)の奉じた神とされている。守護神であったのだろう。別名水銀(みずがね)姫とも。朱砂の産地を探し、その採掘をなりわいとした一族(渡来系の人々)は、山中や河岸で赤く染まった土を目印に鉱脈を探りあてて掘り、地下水が湧いて作業が困難になると放棄し、また別の露頭を探して各地に移動していったという。以前読んだ松田壽男著「古代の朱」(ちくま文芸文庫)には丹生、丹生氏、水銀に関することが詳しく書かれていて興味深かったのでここに記しておく。(ご参考までに)
 朱砂の産地を意味する丹生の地名は各地にあり、たとえばお水送りで知られる若狹の遠敷(おにゅう)ももとは小丹生であったらしい。紀の国、伊都郡には多くの鉱脈、鉱床があったようで、そのせいか全国の丹生神社の半分以上が和歌山県に集中しているという。


 丹生都比売と稚日女が同一視される根拠についてはよくわからないが、別々の神であったものが、時代を経るうちに習合した可能性もあるかと思われる。丹生の人々は長く水銀採掘に係わっていたので、扱い方に通じていただろうが、今でいう水銀中毒症状に苦しんでいたかもしれない。鉱脈の位置の探知、奇病への怖れ、日々の作業の安全祈願など、丹生の女神への信仰も強いものがあったかと思われる。
 

 朱砂が豊富に採掘できた時代には、一族は丹生の女神に祈りよく祀ったが、やがて鉱脈が尽き枯渇してしまったとき、一部の人たちは鉱脈を求める放浪をやめて農耕に転じ、定住の道を選んでいったことであろう。そのときに新たな神格(農耕神、水神、織物神、酒造の神など)を持つ神の祭祀もはじまったかと思われる。稚日女の名があらわれてくるのも、こうした背景があったのだろう。生活形態の変化に対応していく必要上、新しい神が必要とされたのである。こうした場合、旧来の神は次第に影が薄れていき、新来の神の後ろに隠れてしまい、そのまま名も忘れられてゆくこともあるが、この地では採掘がもう行われなくなってしまっても、人々の心に長く親しまれてきた丹生都比売神の記憶や面影は消えず、祭祀も受け継がれていったようである。新たな女神は古い女神の姿に重ねられ、やがて同一視されるかたちになったのではないだろうか。


 高野大神についても少し考えてみたい。その名から想像すれば、高野山の地主神であろう。空海の道案内をし、土地を譲った神として知られている。そのいきさつについては色々にいわれているようだが、丹生都比売神社が所有していた広大な地は、空海の手にゆだねられ、山上に一大霊場が開かれて繁栄していった。この土地を領する丹生氏の協力なしには開山は成らなかったであろうし、丹生都比売神社も高野 山と密接に結びつくかたちで神仏習合が進んでいった。
 高野山参詣の人々は、九度山の慈尊院から町石道(ちょういしみち)の参道をたどってまず丹生都比売神社に詣でた後、神社から八丁坂を上り、高野山を目ざしたそうである。空海は山上に二神を勧請し、また同神社を遥拝する「二ツ鳥居」を八丁坂の参道に建て、丹生都比売神と高野大神に敬意を表したそうである。
 丹生都比売神と高野大神との関係は、親子とされているが、その事情はつまびらかではないようである。前述したように丹生都比売神は丹生一族の祖神であり、その古の祭祀の原型には、女神に奉仕する若い男性祭祀者というかたちがあったかとも思われる。高野神が御子神とみなされているのは、そうした親和性、祭祀されるものと祭祀者との密接な関係が投影されたとも考えられるであろう。



 今日は、丹生の神ゆかりの三社をめぐったが、はじめに訪ねた官省部神社は、空海が犬によって導かれて土地を得た逸話を前面に打ち出しているせいか、高野大神の気配が濃厚であり、隣接の慈尊院との結びつきも強いように感じられた。次の丹生酒殿神社は、由緒に女神の降臨伝承を伝えているが、その女神の持つ性格は農耕、養蚕、機織、煮炊き、酒造りと人々の衣食生活全般に広がっていて、土地開拓の英雄神としての信仰の様相が感じられるのが特徴であった。最後の丹生都比売神社は、古の丹生の女神を祀る社として、その長い歴史や丹生の神への純粋な思いも感じさせ、風格のあるたたずまいには魅せられるものがあった。


 お社の前に立つ。一部は修復中であったが、美麗な赤い社殿が四殿並び、紀伊一宮としての貫禄も充分と見うけられた。(紀伊一宮のほかの二社については、紀伊元伊勢紀行 名草浜宮 紀伊一宮…の項で書いている)拝殿前には赤土が敷かれ、さすがは丹生の社と思わせる。参道の石は青みを帯びた石、赤茶色の柱に手で触れてみると、すっと指先が染まった。
 聞きなれない鳥の鳴き声に振り返ると、かけすが数羽、前庭に降りてきて遊んでいた。柔らかい赤褐色の体に青い羽、鳩をもう少し細くしたような感じである。一羽がすぐ近くまできて手すりにとまったのでじっと観察する。黒く丸い目が可愛い。群れは行きつ戻りつし、しきりに草の間で何かをついばんでいたが、やがていっせいに飛び立っていった。戻ってくるのを待っていたが、もう会えなかった。


 境内を歩いてみる。土地神を祀った祠などがある。左手に進むと草の生い茂る道の先に石塔(山伏供養塔)が四基、石祠、真言を刻んだ石碑、地蔵尊があった。この辺りには、明治の廃仏毀釈で取り払われるまでは、多宝塔、御影堂、鐘楼、護摩堂、不動堂、宿舎など多くの建物が存在していたという。今は草地が広がり、静けさに満ちてはいるが、言いしれぬ哀感と空白感が漂う場所となっている。境内の別地から移されてここに集められたらしい行者さんたちの供養塔は、それぞれの寂寥を負い、新緑が染みるような林を少し進んだ先にひっそりと立っていた。


 境内の古い藤棚の下に坐ってしばらく時を過ごした。清楚な白藤が咲きそろっていて、かすかな香りが降ってくる。お茶を飲んで果物を食べ、帰りのコミニュティバスの来る時間まで二時間ほどぼんやりとしていた。実に良い雰囲気の神社なので、待つことは気にならず、長時間ここにいられることが滅多にない幸いとも感じられた。風が樹木を揺すり、野鳥の鳴き声がどこからか聞こえてくる。
 ふと何かが動いたような気がして、そちらへ顔を向けると、藤棚横に木屑を積み上げてあるその木の間から、一匹の貂(てん)があらわれた。体長五十センチくらい、狐色を薄くしたような体の色で、顎が小さくとがり顔と手足は黒っぽい感じである。目が合うと向こうも驚いてこちらを見ていた。動きが素早く、観察しようと思っているうちに、たちまちどこかへ隠れてしまった。もっと見ようとして、木切れの山の間を何度も覗いて探したが見つからなかった。先ほどのかけすといい貂といい、思いがけない出会いに、自然が豊かに残っている山里であることが実感できたひとときであった。




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