松下幸之助さんに学ぶ会

         「知識」

 幸之助さんの書かれた本や幸之助さんについて書かれた本はたくさんあります。どの本を読んでも教えられることばかりです。

 会ではその時その時気がついた文章を取り上げ紹介してゆきたいと考えています。

 また参加された方の発表も歓迎します。本に書かれていること、できれば参考文献の範囲で。


         「素直な心になるために」

 インターネットで調べているうちに幸之助さんの自宅で執事として20年間勤めていた高橋誠之助という方が神戸の経営者の方々の勉強会で語られた話の要約を読みました。

 幸之助さんは毎朝30分から1時間瞑想のようなことをされていたと書かれていました。


 それで私は気づきました。

 幸之助さんが自宅での生活で彼の特長である「素直な心」を育てていたのだということを。

 隠れたところでの努力という言葉もありますが、人には見れないところで努力されていたのだと痛感したのです。

 彼が真々庵やPHP研究所の「根源の社」の前で合掌して座っていたことはよく知られていますが、自宅でそのような習慣があったことはあまり知られていないようです。(82の教えにも同じように書かれています)


 同じ言葉を何十分も繰り返す習慣についての幸之助さんの言葉をご紹介します。


      根源の社の前で考えていること

 これについては江口克彦著「成功の法則」より引用します。


  私はあるとき、ひょいと「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ

 何を考えているのですか」と尋ねたことがある。

  「うん、今日ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しと  

 るんや。ありがとうございます、とな。それから、今日一日、どうぞ素直

 な心ですごせますように、すごすようにと念じ、決意をしとるわけや。こ

 こはわしが感謝の意を表し、素直を誓う場所やな」


  読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。ただ、自分がそう

 いう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっていると思えば、

 おのずと自分の値打ちの重さを感じる。そう感じれば、おのずと自分の人

 間としての重さを自覚する。そして、感謝の念が湧いてくる。

  この感謝の気持ちを持ちながら、日々を過ごすことが大切だと思うので

 ある。

  松下の毎日は感謝の日々であったといっても言い過ぎではない。それで

 もなお、感謝の思いが足らないと言って反省することが多かった。


      同じ言葉を繰り返す効果について

 これについては松下政経塾の卒業生、小田全宏氏の著書「松下幸之助82の教え」より引用します。


 第81講 「わからなかったら、これを毎日百遍唱えなさい」

 同じことを何度も繰り返すのは退屈で、苦痛に等しい。しかし、毎日繰り返すことによって、潜在意識から深層心理にまで染みとおる。すると意識の転換が起こり、物事に対して悟りが開けるのだという。理解することは体得することとは違うのである。

(中略)

 塾生の一人が松下翁に対して聞いた。

「塾長、私は塾是の意味がよくわかりません。言葉としてはわかるけれども、自分にとって塾是がどういう意味をもってくるのか、自分の一挙手一投足が塾是にどのように影響されているのかということが、よくわからないんです」

「私も君に同じ質問を尋ねたい。「この塾是に書いていることはわかったようで、わからん。君、説明してくれんか」と、君に尋ねたいですね。

 君も説明できないだろうが、私にもできない。だから君がわからなかったら、これを毎日百遍唱えなさい。それで、1か月たったらわかるでしょう。

・・・(中略)」


 この言葉が潜在意識を通り越して深層心理に到達するまで繰り返されるとき、意識の質の転換が起こるのだろう。

 頭のよい人間はこの営みができない。そしてわかったつもりになっている。

それでは決して真実を摑むことはできない。あることを唱え続け、行じ続けることが悟りの道なのであろう。

 (後略)


 最後の文章が大正解です。悟りに進める道です。また悟りを深める道です。

 つまり大切な同じ言葉を唱え続けることの習慣が「悟りの道」です。

 私たちは素直な心を求めてやまないのですが、知的理解は余りにも微力で役に立たないと思うのです。

 この簡単な方法が素直な心になるための道です。
















       ※  ※  ※


 この会での、勉強中に坐禅や瞑想という言葉が出ると思います。

 宗教を押し付けられるのではないかと考えられても困るので、先に詳しく説明をしておきます。


     坐禅や瞑想と宗教の関係


     坐禅は本来宗教ではありません

 坐禅というのは神や仏への信仰や依存もなく行うもので、本来は宗教性がないものです。

 しかし一般的には座禅というと連想するのは黒い墨衣を着たお坊さんが坐禅する姿から宗教を連想するようです。

 坐禅は無念無想などというようなものを追求するので、神や仏への思いも振り切っていくものであり、信仰を深めるという態度ではありません。

 坐禅には信仰するべく対象がないので、カソリックの神秘主義の人が修行に入ることでも知られています。キリストを信仰していても坐禅をすることに差しさわりがないからです。


     宗教的かなと思われる坐禅

 インターネットで見た坐禅のホームページに「先生を信じて、先生の言うとおりにしていればよろしい」というようなのがありましたが、これは少々宗教的かなと言えそうです。私は坐禅らしくない坐禅だと考えています。


 坐禅は疑いながらするものだといわれています。先生をも疑いながらするのがまじめで真剣な坐禅です。頼れるのは自分ひとりだけ。

 それをつかみきるのが坐禅です。頼る対象を持っていると最後まで対象が残り本当の自立ができないのだと言えます。坐禅の目的は自己の確立です。

 


     瞑想については少々複雑です。

 つまり宗教性のあるものとないものがあると考えられます。

 宗教性を決めるのは瞑想中に何を考えるかということで決まるといえます。

    宗教的ではない瞑想

 考え続けることの内容が常識的であったり、科学に反しないことであれば一応宗教的ではないと思います。

    宗教的瞑想

 瞑想中に一般の人が余りなじみのない現実性のないことや科学的でないことを考え続けるというのでは宗教的だと考えていいようです。信仰の対象となる神様のある瞑想は宗教であると考えていいようです。


   会に参加される方が個人的に宗教を信じることは自由です。

 日本人の多くは宗教を持っていません。また宗教を嫌う人も多いです。

 しかし欧米では信仰の篤い人が信用されるという現実もあります。



   宗教活動の禁止

 ただし会での宗教活動は禁止します。

 また会で知り合った人への宗教活動も禁止します。