神様の瞑想
では松下幸之助さんはどのような瞑想をしていたのでしょう。
瞑想にはいろいろな瞑想があります。
同じような形で座っていても、目的が違い、呪文が違う
からです。私はキーワードという言葉の方が好きです。
幸之助さんが残されて、PHPに伝わっているのは
「今日一日、素直な心で過ごせますように」と、また、
「今ここに生かされていることに対する感謝の気持ち」
を込めてする瞑想です。
ですが、これは幸之助さんが長年にわたってされた瞑想の
工夫の積み重ねの結果得た最高のものだと私は考えています。
幸之助さんが最終的に究めたものだと考えてよいでしょう。
つまり境地も深まり、瞑想の力も強いものになった段階
だからできた高度なものだと考えてよいと思います。
私たち未熟なものが一気に真似ようとしても無理がある
かもしれません。
私の20年近くの坐禅の工夫の経験から言うと、工夫を
積み重ねることで、だんだん単純で、しかもよい工夫を生み出して
行きますが、始めた頃には使えないものがあるようにも思います。
坐禅の歴史に残る永平寺を作った道元の「只管打坐」という工夫が
ありますが入門の頃には使いきれない、つまり集中できずに役に立た
ないものです。
しかし、不思議なことに行が進み深くなると、大変役にたつ
工夫となります。
このようなことから神様の瞑想が使い切れない場合、つまり
瞑想といえるほど集中ができない場合には、息を数える「数息観」
などで、瞑想の基礎から入る方が効率的だと考えています。
いわば急がば回れというか、基本から身につける王道である
かもしれません。
瞑想は「あれこれと」言葉で考えるのではなく「キーワード」に
集中して、言葉での考えや論理的思考、分析的思考、雑念や妄想
などをなくして行くところに妙味があり、本来の「瞑想の効果」も
あると言えます。
キーワードの先は考えなくてよい、キーワードの持っている意味を
感覚的に捉えておくだけで充分だと言えます。
素直な心の瞑想では素直な心の意味やそれが身につけば、理想的な
人格に近づけるという漠然とした希望と感覚があれば充分だと言えます。
仏教には禅定という言葉もありますが、瞑想もまたそのような状態を
追及するものです。
「うっとりした状態」や「ボーットした、うとうとした状態」の実現と
継続を目指すものだといってよいでしょう。
私はこのことを「右脳を活性化する」のだと表現しています。
この状態が本を読んでも変えられない、よい話を聞いても変え
られない自分のなんぎな「性格を変える」のだといっても過言では
ありません。
この不思議で、奇跡的ともいえる効果を知っているから瞑想をお勧め
したいのです。