事項索引
困果性
――哲学の流派をわかつほんとうに重要な認識論上の問題は,因果的連関についての……われわれの認識の源泉は,自然の客観的合法則性にあるのか,それとも,われわれの心の性質,つまり,一定の先天的真理,等々を認識するところの,心に内属する能力にあるのか,という点にある.
――原因と結果についての人間の概念は,自然現象の客観的連関をつねにいくらか単純化して,ただ近似的にだけそれを反映し,一つの統一的な世界過程のあれこれの側面を人為的に孤立させる.
――マッハの『力学』にはつぎのようにある.「自然のなかには原因も結果もない」.
――マッハは,因果関係はなんら実体的なものをもたず,精神的習慣にほかならない,というヒューム,ミル,およびすべての現象論者たちの結論をうけ入れている.
エネルギー論
――彼〔エネルギー論者オストワルド〕はこう言明している.自分には「物質の概念と精神の概念との統一が直面している古い諸困難が,この両者をエネルギーの概念のもとに従属させることによって簡単にかつ自然に除去されることは,一つの大きな利益であると思われる」と.これは利益ではなくて損失である,というのは認識論上の研究……を唯物論の方向にみちびくべきか,それとも観念論の方向にみちびくべきかという問題が,「エネルギー」ということばをかってにつかうことによって,解決されないで,混乱させられているのだから.
――エネルギーの転化は,自然科学によって,人間の意識および人類の経験から独立した客観的過程とみなされている.すなわち唯物論的に考察されている.
――哲学者たちにとっては,エネルギー論は唯物論から観念論へと脱出する動機になった.自然科学者は,エネルギー論を,こんな表現をしてもよいならば,原子から遠ざかったが,しかし電子には到達していないような時期に,物質的運動の法則を述べる都合のよい仕方とみなしている.
置換
――〔ボグダーノフの「普遍的置換の理論」は〕マッハ主義の若干の矛盾をとりのぞき,客観的観念論に類似したものをつくりだそうとする試みである.
――物理的なものは心理的なものの置換である,とポググーノフは言う.
――これもまた観念論である.というのは,心理的なもの,すなわち,意識,表象,感覚等々が直接的なものとされ,物理的なものはそれからみちびきたされ,それに置換えられるのであるから.
――「置換」は……「心理的なもの」を人間から切りはなし.そして無限に拡大された,抽象的な,神のような生命のない「心理的なもの一般」を,物理的自然全体に層換えることによって,すでに「最高の人間能力」を神格化しているのである.
感覚
――はっきりとあらわれた形では感覚はただ物質の最高形態(有機的物質)だけと結びついているのであって,「物質という構造物の礎石のなか」には,ただ感覚に類似した能力の存在を仮定することができるだけだ.
――〔ディドロの例にみられる唯物論者の見解は〕感覚を運動する物質の性質の一つとみとめる点にある.
――感覚は現実に意識と外界との直接の結びつきであり,外的刺激のエネルギーの意識の事実への転化である.
――観念論哲学の論弁は,感覚を意識と外界との結びつきとみなさないで,意識を外界からひきはなす垣根,壁とみなすこと,
――感覚に照応する外的現象の像とみなさないで,「唯一の存在するもの」とみなすことにある.
――もしも物体が,マッハが言うように「感覚の複合」である……ならば,どうしても,全世界は私の表象にすぎない,ということにならざるをえない.このような前提から出発すれば,私自身以外の人々の存在に到達することは不可能である.
――「ただ感覚だけが存在するものとして考えられることができる」と〔アヴェナリウスは〕はっきりいっている.
――感覚,思想,意識は,特殊な仕方で組織された物質の最高の所産である.
――「感覚は,われわれの感覚器官にたいする,客観的にわれわれのそとに存在する物自体の働きかけの結果である.……感覚は客観的世界,an und fu¨r sichの世界の主観的な像である.
――唯物論者にとっては,われわれの感覚は唯一にして最後の客観的実在の像である,――最後の,というのは,この客観的実在が最後まで認識されている,という意味ではなく,そのほかに他の実在はないし,またありえない,という意味である.
――われわれの感覚が客観的に実在する外界の像である,という「素朴実在論者たち」(すなわち全人類)の確信は,自然科学者大衆の不断に成長し強化してゆく確信である.
カント主義
――カントの哲学の基本的特徴は,唯物論と観念論との和解,両者のあいだの妥協であり,種類のちがった,対立しあっている哲学的流派を一つの体系のなかでむすびつけていることである.
――エンゲルスは……カントが不可知論者である,という点で彼を非難したのであって,彼が徹底した不可知論から逸脱している,という点で非難したのではない.
――アヴェナリウスは……認識不可能な,英知的な,彼岸的なものであるにしても,とにかく物自体が存在する,とか,先天的な,思考のなかであたえられたもので客観的現実性のなかであたえられたものではないにしても,とにかく必然性と因果性が存在する,とかいうような,不可知論に矛盾するカントの容認を除去するために,たたかった.
――物質かわれわれの感覚器官に作用して感覚をうみだす,というように説明することによって,唯物論者は,「未知のもの」,無をその基礎にしている.……唯物論者は「カント主義」におちいっている(プレハーノフがそうだ,――「物自体」すなわちわれわれの意識のそとにある物の存在を認容しているから).……こういうのが,唯物論に反対するマッハ主義者たちの論拠である.
観念論
〈唯物論と観念論〉
――唯物論とは「物体そのもの」または心のそとにある物体の承認であり,観念または感覚はこれらの物体の写しまたは反映である.反対の学説(観念論)は,物体は「心のそと」には存在しない.物体は「感覚の組合せ」である,と言う.……わがマッハ主義者たちは,……「物自体」の承認は唯物論がカント主義にかぶれ,またはゆがめられた結果である,という発見をやってのけた!
――唯物論者の観念論哲学の支持者からの基本的なちがいは,感覚,知覚,観念,および一般に人間の意識が客観的実在の像とみなされている,という点にある.世界は,われわれの意識によって反映されているこの客観的実在の運動である.観念,知覚等々の運動には私のそとにある物質の運動が照応している.……だから,運動を物質から切りはなすことは,……私の感覚を外界から切りはなすこと,すなわち観念論のがわにうつることに等しい.
――自然,外界を人間の意識や感覚から独立したものとみなすということ……それならば,唯物論である.客観と人間の感覚との不可分の連関(「感覚の複合」=物体.心理的なものと物理的なものとにおいて同一な「世界要素」,アヴェナリウスの同格,等々)という前提のうえに認識論をうちたてることは,不可避的に観念論におちこむことを意味する.
〈主観的観念論〉
――意識は外界なしには考えられない,したがって,外界は意識に属している.すなわち,すでに私がいましは主張しかつ説明してきた両者の絶対的相互一体性なのであって,この絶対的相互一体性のなかで両者は存在の一つの根源的全体を形づくっているのである.〔以上は,シュッペの主張〕……このような「実在論」のなかに純血の主観的観念論を見ないわけにはいかない!……このような哲学はアヴェナリウスの「原理的同格」と完全に一致する.
――マッハとアヴェナリウスの学説のなかには,主観的観念論の焼きなおし以外のものはなに一つない.彼らが唯物論と観念論とを超越した……という自負は,これはむしかえされたフィヒテ主義の空虚な自負である.フィヒテもまた,「自我」と「環境」,意識と物質とを彼が「不可分に」むすびつけた,とか,人間は自分自身からとびだすことができない,ということを援用することによって問題を「解決した」と考えている.
〈客観的観念論〉
――バークリの主観的観念論は個人的知覚と集団的知覚との区別……にもとづいて……実在性の基準をうちたてようとこころみている.「観念」を人間の心への神の働きかけからみちびきだすことによって,バークリは,つぎのようにして客観的観念論に近よってゆく.すなわち,世界は私の観念ではなくて,ある最高の精神的原因の所産であることがわかる……というように.
〈絶対的観念論〉
――へーゲルの絶対的観念論は,自然をもっぱら絶対的理念の「他在」とみなすことによって,人間なしの地球,自然,物理的世界の存在と調和するものである.
〈「生理学的」報念論〉
――有名な最新の生理学の建設者ヨハンネス・ミュラー……の観念論は,われわれの感覚器官の機構の意義を感覚にたいするその関係のなかで研究しながら,たとえば,光の感覚が眼にたいする種々の種類の作用のもとでうけとられることをしめしながら,ここから彼は,われわれの感覚が客観的実在の像である,ということの否定をみちびきたす傾きがあった,という点にあった.
〈「物理学的」観念論〉
――今日の「物理学的」観念論は,昨日の「生理学的」観念論とまったく同様に,自然科学の一部門における自然科学者の一学派が,形而上学的唯物論から弁証法的唯物論へとまっすぐにかつただちにのほることができなかったので,反動哲学へところがりおちた,ということを意味するにすぎない.……現代物理学はお産の床についている.それは弁証法的唯物論をうみつつある.お産は難産である.……それは不可避的に若干の……廃物をあたえる.物理学的観念論の全体,経験批判論哲学の全体は,……これらの廃物のなかにはいる.
記号
――もしも感覚が物の像ではなく,物との「いかなる類似性」をももたない符号または記号にすぎないならは,……出発点である唯物論的前提はほりくずされ,外的対象の存在に若干の疑いがかけられることになる,というのは,符号または記号は仮想的な対象にかんしても完全に可能である……のだから.
――わが国のマッハ主義者たちは,プレハーノフの「象形文字」に,すなわち,人間の感覚や表象は現実的な物や自然過程の写し,それらの模写ではなく,便宜的な符号,記号,象形文字等々であるという理論に,とりわけよろこんでおそいかかった.……そして,もしもバザーロフが非象形文字的唯物論のために象形文字的唯物論をしりそげたのだったら,彼はただしかっただろう,……エンゲルスは,記号についても象形文字についても語らないで,物の写し,写像,模写,鏡像について語っている.エンゲルスによる唯物論の定式化からのプレハーノフの逸脱は誤りである…….
記号理論
――記号理論はこのような(……まったく唯物論的な)見解とは和解しないというわけは,それは感性にたいするある不信,われわれの感覚器官の証言にたいする不信をもちこむのだから模写はいかなる場合にもモデルと完全に等しくなることができない,ということはあらそう余地がないが,しかし模写と記号,便宜的な符号とは別ものである.模写は,必然的にかつ不可避的に「模写される」ものの客観的実在を予想している.
――ペ・ユシケヴィチ氏は「新しい」経験記号論を説教する,「青い,固い,等々の感覚,これらの純粋経験の所与といわれているもの」も「キマイラとか将棋遊びとかのような,純粋理性の創造物といわれているもの」も,すべてが「経験記号」である…….「認識は経験記号論的であって,それが発展するとますます記号化の程度の高い経験記号へとすすむ」.……われわれのまえにいるのは,雑多な,口やかましい.「最新の」用語法の断片でつくられた道化役の衣装をつけた主観的観念論者である.彼にとっては,外界,自然,その法則はすべて.われわれの認識の記号である.
客観的合法別性
――自然の客観的合法別性と人間の脳におけるこの合法則性の近似的に正確な反映とを承認することは,唯物論である.
――自然の客観的合法則性の承認は,フォイエルバッハにあっては,われわれの意識によって反映される外界,対象,物体,物の客観的実在性の承認と不可分にむすびついている.
――ポアンカレ……にとっては,自然法則は人間が「便宜」のためにつくりだす記号,約束である」……そのさいにポアンカレは,普遍妥当的なもの.多数の人々,またはすべての人々によって認められているものを客観的と呼んでいる.……ポアンカレの「独創的」理論の要点は,自然の客観的実在性と客観的合法則性の否定に帰着する.
客観的真理
――客観的真理は存在するか,すなわち人間の観念のなかには,主観に依存しない,人間にも人類にも依存しないような内容がありうるかどうか?
――唯物論にとっては,客観的真理の承認は本質的である.
――客観的真理の否定は完全に信仰主義と「調和する」.……客観的真理が存在する(唯物論者の考えるように)ならば,そして自然科学だけが外界を人間の「経験」のなかに反映させることによってわれわれに客観的真理をあたえることができるとすれば,あらゆる信仰主義は無条件的に否認される.
――われわれの感覚を外界の像とみなすこと,――客観的真理をみとめること,――唯物論的認識論の観点に立つこと,――これは同一のことである.
――認識は,それが人間に依存しない客観的真理を反映した場合にだけ生物学的に有用であり,人間の実践,生命の保存,種の保存に有用であることができる.
客観的論理
――70人のマルクスでも,資本主義的世界経済のなかで複雑多岐にわたるこれらすべての変化の総体をとらえることはできないであろう.これらの変化の法則が発見され,これらの変化とその歴史的発展の客観的論理が主要なかつ基本的な点でしめされるのかせいぜいのところである,
――ここで客観的というのは,意識のある存在物,すなわち人間の社会が,意識のある存在物の存在から独立に存在したり発展したりできる,という意味ではなく……,社会的存在が人間の社会的意識から独立している,という意味である.……人類の最高の課題は,経済的進化(社会的存在の進化)のこの客観的論理を一般的かつ基本的な諸特徴においてつかみ,このことによって自分の社会的意識およびすべての資本主義諸国の先進的諸階級の意識をこの客観的論理にできるだけ明確に,はっきりと,批判的に適応させるようにすることである.
近似
――弁証法的唯物論は,物質の構造とその性質にかんするあらゆる科学的命題の近似的・相対的性格……を主張している.
――新しい物理学が観念論にまよいこんだのは,主として,まさに物理学者たちが弁証法を知らなかったからであった.……われわれの知識の近似的・相対的性格を主張することによって,彼らは,認識から独立した,かつこれらの認識によって近似的に忠実に,相対的にただしく反映される客観の否定へと転落した.
――理論を客観的実在の模像,近似的な写しと認めること――ここにこそ唯物論はなりたつのである.
――意識は,……存在の反映,せいぜい近似的にただしい(適応的な,理想的に正確な)その反映にすぎない.
空間
――空間と時間もまたたんなる現象の形式ではなく,存在の客観的=実在的な形式である.
――空間と時間にかんする人間の観念が変化するものであるということは,空間と時間との客観的実在性をくつがえすものではない.
経験
――〔アヴェナリウスの弟子,カルスタニエンはいう〕.われわれが「経験」について語るにしても,それはけっして唯物論にみちびく,またはみちびくことのできる,普通の,ありきたりの意味で言っているのではなく,人々が経験として「陳述する」すべてのものをわれわれが研究する,という意味で言っているのである,と.
――もしも環境が人間の「陳述」や「発言」から独立して存在することを認めるならば,経験を唯物論的に解釈する可能性がひらかれている!
――カルスタニエンとアヴェナリウスは,経験を認識手段とする見解を唯物論的であるとみなしているにれは,おそらく,最もありふれた見解ではあるが,……やはりただしくない).
――哲学上での唯物論的路線も観念論的路線も,同様にまたヒューム的路線もカント的路線も,「経験」ということばにかくれることができる.
「形而上学」
――多くの観念論者やすべての不可知論者(カント主義者やヒューム主義者をふくめて)が唯物論者を形而上学者と軽蔑して呼ぶのは,彼らには,人間の意識から独立している外界の存在をみとめることが経験の範囲の外に出ることであるかのように思われるからだ.
――カントやヒュームの路線の支持者……は,われわれが,経験においてわれわれにあたえられている客観的実在をみとめ,われわれの感覚の客観的な,人間から独立した源泉をみとめる,という理由で,われわれ唯物論者を「形而上学者」と呼ぶ.
――唯物論者は物理学を形而上学としてとりあつかう〔と,観念論者ウォードは言う〕.おなじみの論拠だ! 人間のそとにある客観的実在の承認が形而上学と呼ばれている.
――デューアンにあっては.「物質的実在」は感性的現象に照応しているかどうか,という問題を形而上学的であると言明するまでにいたっている.
原理的同格
――〔原理的同格の〕学説の本質は,「われわれの自我と環境との不可分な同格」(すなわち相関的連関)にかんする命題である.……両者をいずれをも,われわれの自我をも環境をも,われわれは「つねにいっしょに見いだす」.……この場合に,自我は同格の中心項とよばれ,環境は対立項と呼ばれる.
――経験批判論は,原理的同格において,対立項と中心項との絶対的相関性というあの純粋に観念論的な仮定へとみちびいてゆく.
――〔アヴェナリウスは物質についてこういう〕「物質」は,純化された「完全な経験」の内部には存在しない.……それはあらゆる中心項を捨象した対立項の総体であろう.しかしながら,原理的同格においては,すなわちまさに「完全な経験」においては,中心項なしの対立項は考えられない.
作業仮説
――マッハは……つぎのように言っている,「認識はつねに生物学的に有用な心理的体験である」.「ただ効果だけが両者」(認識と誤謬)「を区別することができる」.「概念は『物理学的作業仮説』である」.
――〔ハルトマンは主張している〕.原子,電子,エーテルをたんなる記号,たんなる「作業仮説」とみなすだけではいけないのであって.時間をも,空間をも,自然法則をも,すべての外界をも「作業仮説」であると申したてなければならない.
時間 →「空間」を見よ.
思考経済の原理
――〔アヴェナリウスは〕「思考経済」という名目のもとにただ感覚だけが存在するものと宣言される,という仕方で,この「原理」を適用している.
――思考経済の原理は,もしもそれをほんとうに「認識論の基礎に」おくならば,帰するところは主観的観念論以外のなにものでもない,ということである.存在するものはただ私と私の感覚だけである,と「思考する」ことはなによりも「経済的」である.
――人間の思考は,それがただしく客観的真理を反映しているときに「経済的」であり,そしてこのただしさの基準として役だつのは,実践,実験,産業である.客観的真理を否定する場合にだけ,すなわちマルクス主義の基礎を否定する場合にだけ,認識論における思考経済について本気にかたることができるのである!
実践
――唯物論者にとっては,人間の実践の「効果」は,われわれの観念とわれわれが知覚する物の客観的本性との照応を証明するものである.……実践の基準を認識論の基礎にふくめるならば,われわれは不可避的に唯物論をうる,とマルクス主義者は言う.
――生活,実践の観点が,認識論の第一の,基本的な観点でなけれはならない……実践の基準は事がらの本質上けっして人間のなんらかの観念を完全には確証も論破することができない,ということを忘れてはならない.この基準もまた,人間の知識が「絶対者」に転化するのをゆるさない程度に「不確定的」であり,同時に,観念論や不可知論のあらゆる変種と仮借なく闘争する程度に確定的である.
史的唯物論
――唯物論一般は人類の意識,感覚,経験等々から独立した客観的に実在的な存在(物質)を認める.史的唯物論は人類の社会的意識から独立した社会的存在を認める.
なお,「客観的論理」をみよ.
自由
――自由とは必然性の洞察である.
象形文字 →「記号」をみよ.
信仰主義
――信仰主義とは,知識のかわりに信仰をおく,また一般に信仰にある重要性をあたえる学説である.
――ヴントは,……内在論者が観念論者であり,主観主義者であり,信仰主義の支持者であることをしめしている.
――内在論者たちは,最も悪評のたかい反動主義者であり,信仰主義のあからさまな説教師であり,その蒙昧主義の点で欠けるところのない人物ともである.
――ボグダーノフは,……信仰主義にまで到達している思潮としての「マッハの哲学」を絶対に知らないのである.
――エンゲルスはデューリングを,……唯物論を貫徹させていないという点で,信仰主義に逃げ道をのこしている観念論的な気まぐれの点で批判したのである.
――マッハをほめたたえ,そしてマッハからほめたたえられているコルネリウスや,ケーラスや,いっさいの内在論者たちのおおっぴらな信仰主義……この問題における哲学者の中立は,それだけですでに信仰主義への屈従である.
心理的なもの
――〔唯物論にとっては〕心理的なもの,意識等々は物質(すなわち物理的なもの)の最高の産物であり,人間の脳と呼ばれるとくに複雑な物質の塊まりの機能である.
――〔観念論者ツィーエンは言う〕.「われわれにあたえられているものは感覚と観念である.この両者をわれわれは心理的過程,または心理的なものということばで総括する.非心理的なものとは無内容なことばである.
生存競争
――〔全歴史を生存競争というただ一つの自然法則に包摂しようとした〕ランゲにたいする批判の基礎は,マルクスにあっては,ランゲがとくにマルサス主義を社会学におしこんでいることではなく,生物学の概念一般を社会科学の領域にもちこむことは空文句である,という点にある.
相対的真理と絶対的真理
――人間の思考はその本性上,相対的真理の総和からなりたっている絶対的真理を,われわれにあたえることができるし,またあたえている.科学の発展におけるおのおのの段階は,絶対的真理というこの総和に新しい粒をつけくわえる.
――おのおのの科学的命題の真理の限界は相対的であって,知識のいっそうの生長によって,あるいは拡大され,あるいは縮小される.
――弁証法的唯物論にとっては相対的真理と絶対的真理のあいだにこえがたい境界は存在しない.
――客観的・絶対的真理へのわれわれの接近の限界は,歴史的に条件づけられている.しかし,この真理の存在は無条件的であり,われわれがそれに近づいてゆくことは無条件的である.
――あらゆるイデオロギーは歴史的に条件づけられているが,しかしあらゆる科学的イデオロギーには(たとえば宗教的イデオロギーとはちがって)客観的真理,絶対的な自然が照応している,ということは無条件的である.
――マルクスとエンゲルスの唯物論的弁証法は,無条件的にみずからのうちに相対主義をふくんでいる,しかし,それに帰着することはない.すなわち,われわれのすべての知識の相対性を,客観的真理の否定という意味でではなく,この真理へとわれわれの知識が近づいていく限界が歴史的に条件づけられている,という意味で認めるのである.
素朴的実在論
――外界がわれわれの意識とは独立に存在するのをみとめて人類がそれに立脚している,自然発生的・無意識的な唯物論的観点.
――あらゆる健全な人間の「素朴的実在論」は,物,環境,世界が,われわれの感覚,われわれの意識,われわれの自我,および人間一般から独立して存在する,という点にある.
――「素朴的実在論」と虚構の一致によってではなく真の一致によって,現実につくられている唯一の認識論は,ウィリーの意見にしたがえば,唯物論である!
つけくわえて考える
――〔自然は人間が地球上に現われるよりも前に存在した,という自然科学の主張との調和をはかるために,原理的同格を主張する哲学者たちは,「潜在的」中心項をつけくわえて考える,という言い方で,言いのがれようとする.しかし〕われわれが自己を「つけくわえて考える」という場合にも,われわれが居あわせていることは想像上のことである.……実際に,人間は,たとえば灼熱状態にある地球の目撃者であることはできなかった.そして,その場合に人間が居あわせたと「考える」ことが蒙昧主義であるのは,もしも私が自分を観測者として「つけくわえて考える」ならば私は地獄を観測することができるだろう,という論拠によって地獄の存在を弁護しようとするのが蒙昧主義であるのと,まったく同様である.
内在論哲学
――内在論哲学はバークリ主義の「変形」にすぎない.
――内在論者たちは経験批判論者たちと足なみをそろえてすすみ,カントをやはりヒューム主義とバークリ主義の観点から批判した.
――〔内在論という〕この名称は,元来,「経験的な」.「経験においてあたえられている」という意味であって,ヨーロッパのブルジョア政党のごまかしの看板と同様に,腐敗をかくすためのごまかしの看板である.
――〔内在論者の)シューベルト−ゾルデルンはその『認識論の基礎』で,自分の肉体の成立以前の自我の先在……と肉体以後の自我の後在……,すなわち霊魂の不滅等々をみちびきたしている.
→なお,「信仰主義」をみよ.
投入作用
――〔アヴェナリウスは〕支配的な心理学は,みとめがたい「投入作用」――これはわが哲学者がひねりだした新語である――すなわち,脳のなかへの思考の,またはわれわれのなかへの感覚の差しこみをおこなっている〔といって,非難している〕
――〔ボグダーノフはアヴェナリウスの投入作用説を説明してこう述べた).「……この仮説は,他人の体験がその人の身体の内部に位置するものとされており,その人の体内に差しこまれ(投げいれられ)ているということによって複雑化されている.……投入作用は精神と身体の二元論の説明としてあらわれる」.
――ボグダーノフは……「投入作用」は観念論にたいしてむけられているものと信じた.……〔しかし実際には〕投入作用は,思想が脳の機能であること,感覚が人間の中枢神経系の機能であることを否定する.すなわち,生理学の最も初等の知識さえをも,唯物論を粉砕するために否定する.
反映
――全物質は,その本質上感覚と同類の性質,すなわち反映するという性質をもっている,と推測することは論理的である.
必然性 →「自由」をみよ.
――物理的必然性は存在せず,存在するのは論理的必然性だけだとマッハが言明している決定的な箇所.
不可知論
――不可知論者にとっては「直接にあたえられている」のはやはり感覚であるが,しかし不可知論者は,そこからさらに外界の実在性を唯物論的に承認することへも,われわれの感覚として観念論的に承認することへも,すすまない.
――われわれ唯物論者は,つねにエンゲルスにならって,カント主義者やヒューム主義者を,彼らがわれわれの感覚の源泉としての客観的実在を否定する,という理由で,不可知論者と呼ぶ.
――不可知論者シュルツェは不可知論者カントを,物自体の容認は不可知論に矛盾し,唯物論にみちびく,といって非難している.
――哲学においてやはりヒュームとバークリとを結合していながら,しかし重点をこの混合物の唯物論的要素にうつした,とくに偉大な学者の例を一つあげよう.これは有名なイギリスの自然科学者T・ハックスリである.彼は「不可知論」という用語を流布させた人であり,またエンゲルスは,イギリスの不可知論について語ったとき,うたがいもなく,なによりもさきに,かつだれよりも多く,彼のことを念頭においていたのである.エンゲルスは1892年にこの型の不可知論者を「恥ずかしがりの唯物論者」と名づけた.
物質
――唯物論は,自然科学と完全に一致して,物質を第一次的にあたえられているものとし,意識,思考,感覚を第二次的なものとみなす.
――〔ヘーゲルは言う〕「唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである」.
――物質のあれこれの構造にかんする学説を,認識論的カテゴリーと混同すること,……認識論の古い問題であるわれわれの知識の源泉,客観的真理の存在,等々についての問題と混同することは,まったくゆるしがたい.
――物質とは,人間にその感覚においてあたえられており,われわれの感覚から独立して存在しながら,われわれの感覚によって模写され,撮映され.反映される客観的実在を言いあらわすための哲学的カテゴリーである.
――世界には運動する物質以外のなにものもなく,そして運動する物質は,空間と時間とのなか以外では運動することができない.
――世界は運動している物質であり,この物質の運動法則を,ゆっくりした運動に関しては力学が反映し,高速度の運動に関しては電磁理論が反映する.
――物理学者たちが「物質は消滅する」というとき,彼らはこのことばでつぎのことを言おうとしているのである.すなわち,これまで自然科学は物理的世界のそのすべての研究を三つの究極概念――物質,電気,エーテル――一に帰着させてきたが,しかしいまでは,あとの二つだけがのこされる,というわけは,物質を電気に還元することに成功している……のであるから.
――「物質が消滅する」ということは,いままでにわれわれが物質をそこまで知っていたというその限界が消滅するということであり,われわれの知識がいっそう深くすすむことである.……というのは,哲学的唯物論がその承認とむすびついているところの,物質の唯一の「性質」は,客観的実在であるという性質,すなわちわれわれの意識のそとに存在するという性質であるから.
プラグマティズム
――プラグマティズムは,唯物論と観念論の双方の形而上学を嘲笑し,経験を,そして経験だけを称揚し,実践を唯一の基準と認め,一般に実証主義的思潮をひきあいにだし……ただ実用だけのために,いかなる形而上学にもたよらずに,経験の限界をすこしもこえることなしに,首尾よく神をみちびきたしている.……唯物論の見地からはマッハ主義とプラグマティズムとの相違は,経験批判論と経験一元論との相違と同じくらいにとるにたりない,第十義的なものである.
模写 →「記号」をみよ.
物自体
――ヒュームは,「物自体」についてなんら知ろうと欲せず,「物自体」について考えること自体を哲学的にゆるすことのできないものとみなし……ている.ところが,カントは「物自体」の存在をみとめるが,しかしそれを「不可認識的なもの」,現象から原理的に区別されたもの,原理的に別の領域,知識には到達できないが,信仰にたいしては啓示される「彼岸」の領域に属するもの,と言明している.
――〔フォイエルバッハ〕はカントにとっては「物自体」は「実在性のない抽象体」である,と言ってカントを非難している.……フォイエルバッハにとっては,「物自体」とは「実在性をともなった抽象体」,すなわち,われわれのそとに存在し,まったく認識可能であり,「現象」からなんら原理的に異なっていない世界である.
――フォイエルバッハはカントを彼が物自体を認めているという点で非難しているのではなくて彼が物自体の現実性,すなわち客観的実在性を認めていない,という点で,彼が物自体をたんなる思想,「悟性的な本質」とみなして,「現実存在を有する本質」,すなわち,実在的なもの現実に存在するものとみなしていない,という点で非難しているのである.
唯我論
――もしも物体が,マッハが言うように「感覚の複合」であるか,またはバークリが言うように「感覚の組合せ」であるならば,どうしても,全世界は私の表象にすぎない,ということにならざるをえない.このような前提から出発すれば,私自身以外の人々の存在に到達することは不可能である.すなわち,これは正真正銘の唯我論である.マッハ,アヴェナリウス,ペツォルトおよびその一派がどんなに唯我論をこばもうとしても,実際にはおどろくべき論理的不合理をおかさないかぎり,彼らは唯我論から脱することはできない.
――マッハが「私の」ということばのかわりにもちいた「われわれの」ということばは,彼が不当にもちいたものである.……もしも外界の「仮定」が……「むだ」であるならば,……なによりもまず他の人々が存在するという「仮定」はむたで,よぶんなものである.存在するものはただ私だけであり,……この観点からは「われわれの」感覚ということはいえない.
――シューベルト−ゾルデルンはつぎのように認めている.もちろん私の観点は認識論的唯我論である……が,「形而上学的」唯我論でも「実践的」唯我論でもない.……「この自我なしのその他の世界も,また,その他の世界なしのこの自我も,ともに考えられない.個人的自我の絶滅とともに世界もまた消えうせて無となり,不可能にみえることだが,その他の世界の絶滅とともに私の個人的自我にとってはなにものものこらない,というのは,個人的自我は,空間的ならびに時間的にではなく,ただ概念的にだけその他の世界から区別されることができるのだから」.
唯物論
――唯物論とは「物体そのもの」または心のそとにある物体の承認であり,観念または感覚はこれらの物体の写しまたは反映である.
――唯物論の基本前提は外界の承認,われわれの意識のそとの,かつ意識から独立している物の存在の承認である.
――すべての知識は経験,感覚,知覚から生じる.これはそのとおりである.しかし,客観的実在は「知覚に属するか」,すなわち知覚の源泉であるか,という疑問がおこる.もしもそうだといえば諸君は唯物論者である.
――唯物論と観念論とは,われわれの認識の源泉にかんする問題,認識(および「心理的なもの」一般)と物理的世界との関係の問題のあれこれの解決によって区別されるのであって,物質の構造,原子や電子にかんする問題は,この「物理的世界」だけに関係している問題である.
――「精神と身体の二元論」の唯物論的除去(すなわち唯物論的一元論)とは,精神は身体から独立には存在せず,精神は第二次的なものであり,脳の機能であり,外界の反映である,ということにある.「精神と身体の二元論の観念論的除去(すなわち観念論的一元論)とは,精神は身体の機能ではなく,したがって,精神は第一次的なものであり,「環境」と「自我」とは同一の「要素の複合」の不可分の結合のうちにのみ存在する,ということにある.「精神と身体の二元論」を除去するには,この二つの,正反対の仕方のほかには.いかなる第三の仕方もありえない.
――物質の概念のなかに思考をもふくませるべきだということを,ディーツゲンは……くりかえしているが,これは混乱である,というのは,このような包含をおこなう場合には,物質と精神の,唯物論と観念論の認識論的対置,このような対置をディーツゲン自身が固執しているのであるが,その認識論的対置が意味をうしなうのであるから.この対置が「度はずれな」,誇張された,形而上学的なものであってならないということは,いうまでもない.……この相対的対置が絶対的必然性であり絶対的真理であるということの限界が,まさに認識論的研究の方向を規定する限界である.この限界をこえて,物質と精神,物理的なものと心理的なものとの対立を絶対的対立としてとりあつかうことは,重大な誤りであろう.
――もちろん,物質と意識との対立も,きわめて制限された領域の限界内だけで,すなわちいまの場合にはもっぱら,なにを第一次的なものと認め,なにを第二次的なものと認めるか,という認識論上の基本問題の限界内だけで,絶対的意義をもっているにすぎない.この限界のそとでは,上述の対立の相対性はうたがう余地がない.
〈「俗流」唯物論〉
――「俗流」唯物論者フォークト,ビュヒナー,モレスコットから,エンゲルスが一線を画したのは,とりわけ,肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌するという見解に彼らがまよいこんだからにほかならなかった.
――エンゲルスはきわめて明白に,ビュヒナーとその一派は「彼らの師匠たちの」すなわち,18世紀の唯物論の「狭隘な限界をこえでることをせず」一歩も前進しなかった,と言っている.
〈自然科学的唯物論〉
――「自然科学的唯物論者」(すなわち,現代の自然科学者の圧倒的多数が自然発生的にそれに立脚している唯物論的認識論の支持者).
――マッハ主義の全体は,自然科学的唯物論,すなわち,われわれの意識によって反映される外界の客観的実在にたいし圧倒的多数の自然科学者たちがもっている自然発生的な,意識されていない,定式化されていない,哲学的に無意識的な確信を自然科学の「形而上学」と呼びながら,これと終始一貫してたたかっている.
――ヘッケルは唯物論者であり,一元論者であるが,史的唯物論者ではなく,自然科学的唯物論者にすぎない……実際に人類の偉大な解放闘争における抵抗しがたい武器になろうとするならば,自然科学的唯物論は史的唯物論にまで拡大されなければならない,という認識を貫きとおそうとするものは,ヘッケルの本を読むがよい.
用語法
――多くの素朴な人々が……なにか新しいもの,なんらかの発見だと考えている「要素」ということばは,実際には,なんの意味もない用語によって問題をもつれさせているだけであり,なんだか問題が解決されたかまたは前進したという虚像の外見をつくりだすものである.
――オストワルドのエネルギー論は,「新しい」用語法がどんなにすみやかに流行するようになるか,また,いくらかかわった表現の仕方というものが哲学上の基本問題や哲学上の基本方向を除去するものではまったくない,ということがどんなにすみやかに判明するか.ということのよい例である.
――哲学上の用語法の専門家たちは,「新しい」些細なことばが主観主義と客観主義,観念論と唯物論の対立を除去する,ということばをやすやすと信じるわが国のマッハ主義者たちのようには,素朴ではない.
要素
――〔マッハはこういっている〕「人々は通常これらの要素を感覚と呼んでいる.しかし,この名称のなかにはすでにある一面的な理論が含まれているので,われわれはむしろ簡単に要素ということを選ぶ」と.
――諸君がただ感覚だけから出発する以上は,諸君は「要素」という一片のことばによって自分の観念論の一面性を是正するのではなく,ただ事がらを紛糾させるだけであり,自分自身の理論から臆病にもにげかくれるだけである.
――唯物論者は……「要素」とはなにか,という疑問を提出する…….「要素」とは感覚であるのか,――そのときには紳士諸君よ,諸君の哲学は,その唯我論の裸身をいっそう「客観的な」用語の衣装でかくそうとむなしくもこころみるところの観念論である.
――はじめにわれわれに,「要素」とは同時に物理的でも心理的でもあるなにか新しいものである,と説ききかせておいて,あとでこっそり訂正をもちこむ.すなわち,物質(物体,物)と心理的なもの(感覚,記憶,空想)との粗雑な唯物論的区別のかわりに,物的な要素と思想的な要素とにかんする「最新の実証主義」の学説をあたえるのである.
路線
――われわれの問題は……唯物論と観念論との対立,哲学上の二つの基本路線の区別にある.物から感覚および思考へとすすむのか? あるいは,思考および感覚から物へとすすむのか? 第一の,すなわち唯物論的な路線を,エンゲルスはとっている.第二の,すなわち観念論的な路線を,マッハはとっている.
――この領域にみられる幾千幾万の誤謬と混乱の源泉は.まさしく用語や,定義や,スコラ的技巧,ことばの小細工の外面に気をとられて,そのかげにあるこの二つの基本的な傾向を見おとすことにある.……マルクスとエンゲルスの天才は,……ほとんど半世紀にわたるあいだ,唯物論を発展させ,哲学における一つの基本的方向を前進させ,……哲学における「新」路線を「発見」し,「新」方向を発明しよう,等々の無数の試みを,ごみ,たわごと,大げさな,思いあがったちんぷんかんぷんとして一掃したことにあった.