地下読書監獄

地下一階



緒言

 日常生活とは不思議なもので、功利的に立ち回っていると、大局的には損をしてしまうというパラドックスが存在する。
 こういうのを《蚤の人生》と云うそうだが、果たして、読書にも同じようなことが云えるのではないだろうか?

 猫も杓子もインテリになれる時代である。万巻の書を読み尽くした碩学など、埋め立てて島がつくれるほど巷にあふれかえっているのだ。
 にもかかわらず、人が褒めそやす名著、必読の書のたぐいばかり読むことに、つまり代わりなど幾らでもいるような「ご立派な読書家」の末席に加わることに、なんの意味があるというのだろう。人生の浪費ではないのか。価値発見のプロセスは他人任せにしておいて「本を読んでいる」とは片腹痛い。

 すべてはさかしまにしてあるべきなのだ。
 読み手としての自分など芥子粒のようなものだからこそ、「読書家たるもの○○は読んでいなければ」「○○を読まずして○○を語るなかれ」などといった有害無益な責務など何一つ負わずに、純粋に読むこと、知ることの快楽を追及することが出来るのではなかったか。

 胸に手を当てて考えてみてほしい。どうして「読書家」の云うことはいつもいつも退屈なのか。
 そのことに思いを馳せるとき、われわれは一つの金言を思い出す。
 「自分が名著だと認めた本だけが名著である」
 おそらく「読書家」は、事あるごとに地図を眺めすぎ、足が萎えてしまった旅人のようなものなのだ。
 したがい、我々は怪物の大きくあいた口に自ら飛び込むかのごとく、読書における功利主義を捨て去らなければならない。
 読書とはつねに、知の萎縮への挑戦としてあるべきなのだから。



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