


尾瀬の豊かな自然は、人の懸命な努力なくしては守られることはなかった。
幾度となく開発の危機にさらされるが、数多くの人たちに呼びかけ、その芯になり、
この尾瀬を守り抜こうと懸命な努力を続けた長蔵小屋歴代小家主の平野長蔵氏・長英氏・長靖氏の三代。
尾瀬の歴史を語る上で欠かすことの出来ない人物である。
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尾瀬の自然が今よりも豊かに息づいていた頃、尾瀬には猟師や釣り人がたまに姿を見せるくらいだった。 燧ケ岳に強く惹かれていた平野長蔵氏がはじめてこの山に登ったのは明治22年(1889)。 長蔵氏は明治23年(1890)、山岳信仰の行人小屋として小さな小屋を尾瀬沼の西、沼尻に建てた。 俗にこの年が、「尾瀬開山の年」といわれている。 一方、尾瀬に水力発電ダム計画が発表されたのは明治36年(1903)である。この年、長蔵氏ははじめて 山小屋を沼尻に建て、長蔵小屋と命名する。大正4年(1915)には、長蔵小屋を尾瀬沼東岸(現在の位置)に 移動し、妻子とともに尾瀬を生活の本拠地とする。 尾瀬の豊かな水資源を利用しようとする計画も着々と進められていた。尾瀬ヶ原に水を貯め、 発電に利用しようというのである。ダムが完成すれば尾瀬ヶ原は水没し、尾瀬の自然は大きく破壊される。

長蔵氏は、この計画には猛反対、孤独な戦いが開始した。そして、昭和5年急死。父の遺志を継いだのは、
息子、長英氏だった。父子の活動が功を奏したのか、昭和9年日光国立公園の一部として尾瀬も国立公園に
指定された。しかし、昭和19年に尾瀬沼の取水工事が始まった。
長英氏は学者、ジャーナリストなどとともに反対運動を展開したが敗北、昭和24年に取水工事は竣工された。
同じ年(昭和19年)、長英氏らは引き続き反対運動を進め、学者、文化人、登山家たちによる
「尾瀬保存期成同盟」を結成。NHKラジオで「夏の思い出」が放送された。
「ミズバショウの尾瀬」が世に知られるようになる。
昭和26年、「日本自然保護協会」が結成され、本格的に日本の自然保護運動がスタート。
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尾瀬を訪れる人が多くなり、昭和27年ごろから、山口営林署管内で大江湿原−沼尻、下田代−赤田代に 木道敷設が行われるようになった。昭和30年代に入ると、尾瀬ブームが起こり、訪れる人もかなりの数に なってきた。多くの人が歩くことによって、湿原が踏み荒らされ、裸地化と言った新たな問題も生じてきた。 そこで人の歩く道を限定し、湿原を守るべき木道敷設が行われるようになった。昭和36年頃には、 ほぼ現在の敷設状況の原型が出来上がっていた。 昭和35年に尾瀬は国指定の特別天然記念物に指定される。当時の人気の入山口は富士見峠 であったことから、富士見峠に近いアヤメ平にも大勢の人が押し寄せた。アヤメ平の湿原はまたたくまに 踏み荒らされ、泥炭層が剥き出しになってしまった。昭和41年、このアヤメ平で群馬県による 湿原裸地化回復事業が始まった。昭和44年、尾瀬林業による裸地化回復事業も始まった。

ちょうどその頃、尾瀬の自然環境破壊に関わるたいへんな問題が起きていた。尾瀬に観光自動車を通す計画が発表され、昭和38年には戸倉−鳩待峠間の車道が、昭和45年5月には桧枝岐−沼山間のバス道が
開通した。バス道案はさらに、三平峠の頂上付近まで車道を通そうとした。反対運動に奔走したのは、
長英氏の長男、長靖氏だった。長蔵小屋3代目小屋主となった長靖氏は、祖父と父の志を引き継ぎ、
建設阻止に立ち上がった。建設反対の署名集め、環境庁長官への直訴などと、休む暇なく活動を展開した。
昭和46年に「尾瀬の自然を守る会」発足、昭和46年8月工事中止が閣議で了承。
長靖氏の車道阻止運動は成果をあげた。
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昭和63年に、環境庁、福島県、群馬県、新潟県、桧枝岐村、片品村、湯之谷村によって
尾瀬地区保全対策推進連絡協議会を設置。尾瀬の環境保護について、協力して取り決めなどを
行うようになり、平成4年には、群馬県の呼びかけによって、群馬、福島、新潟の3県知事による
「尾瀬サミット」が行われ、尾瀬の自然保護と環境保全へ向け努力していくことなどが話し合われた。
平成7年に尾瀬保護財団が設立され、積極的な活動を開始した。
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