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+精神の病について+

私(みかこ)自身に関してのみの、あくまで主観的なテキストです。

はじめに

私には今、やりたい事に首を突っ込んで試行錯誤するだけのエネルギーがあります。
週一回の診察と少ないとは言えない毎日の薬は欠かせないし、
寝ているだけの日ももちろん多いですが、
あたらしい人に逢いに行ったり、仲間と思い切り歌ったり、喫茶店で喋ったり、
アパートに遊びにきてくれる友達と語ったり、絵を描いてギャラリーで売ったり、
ダンスをしにクラブに通ったり、スタジオレッスンを受けてみたりなど、
少しずつ仕事をする・自活するなどの「やるべき」だと頑張ってきたこと以外に
「楽しい」「やりたい」と感じる事に身を任せる感覚を思い出してきました。

要するに今、少しですが心に余裕があるのです。

というわけで、なんか私でも役に立つことをしておきたいなあなどと思いながら、
私の精神的に不安定な側面についての歴史と考察?を
(まとめたつもりですが)だらだらと書いてみました。
明るくないので興味のない方は読まないほうがいいかも知れませんが、
同じような方、少し安心してもらえたらいいな。しないか(笑)

この世に生きているということは、それだけでとても苦しくて怖いことです。
だけどそんなことはもういいのです。
吊り合いが十分とれておつりが来るくらい素敵なことも確かにあるのです。
だから、とりあえずこのままで生きてみようと思っています。


2005.9.29記載



私は幼い頃からストレスに弱く神経質であらゆることに過敏でした。
神経過敏であること。それは必ずしもマイナスな点ではありません。
時に「感受性が鋭い」という表現に置き換えられてきた素質であり、集中力の強さと相まって
歌う・おもちゃや小物をつくる・文章や絵を描く・ダンスをする・ピアノを弾くなどといった
「なにかをつくる・表現する」という面でいつの時代も私自身を遊ばせ潤してくれるものでした。

ですが、この持って生まれた気質が、少し問題となってしまったこと。
それは、この世に生まれてまず一番に愛して欲しいと願う対象である
母親の心の状態にもあまりに過敏であったということでした。
私の母親は不器用ですが信じられないほど真面目で頑張り屋で、
専門職(保育士)に就いていながら2人の育児・家事を一人で切り盛りしていました。
今おもえば、母には、ちょっといっぱいいっぱい過ぎたんだと思います。
私は人(誰よりも母)に迷惑をかけてはならない、精神的に癒してあげなければいけないという思いを
異常に強く抱き、「頼れるきちんとした子でいないと愛してもらえない」と常に怯えていました。
いつも大人の顔色をうかがい期待通りに振舞うことによって、自分を失くしていきました。
そしていつの間にか「楽しい」「苦しい」などの感情を自覚できなくなりました。
家庭内ではずっと、家族の相談相手・愚痴の聞き役に徹することが使命だと思っていました。
自分の辛さは自覚できないため、また何があっても自分だけで処理するべきと思い込んでいたため、
実際はとても困難な状況に置かれている時でも
人に助けを求めたり相談したりすることをまったく知らない人間に育ちました。
小学校まではなぜかとても活発でリーダーシップをとり親の期待に応えていたのですが、
中学に入ってからはどんどん人が怖いと思うようになり、殻に閉じこもるようになっていきました。
クラスメイトと何を話したらいいのかわからない。
どんな態度で席に座っていればいいのかわからない。
緊張のあまり先生の話が理解できない。お弁当の味がわからない。
どんな短い会話でも汗がつたう。字を書く手が震える。朗読は声が出なくなる。
だけど成績だけは落としてはいけない。目立ってはいけない。おかしいと思われてはいけない。
私は極度の対人恐怖を押し殺しながらかろうじて周囲に普通に見えるよう、
無意識にかつ必死にカモフラージュしてきたのですが、
そのまま社会に出て何年かすると徐々に負担が蓄積され、演技しきれなくなっていきました。
対人緊張と鬱による身体症状はもはや意志の力では隠せなくなり、
職場に行けない日が増えていきました。
当時は訳もわからずただ苦しさのあまり会社を辞めました。
そして、しばらくして精神科にかかるようになりました。
不本意にも「きちんとした」レールからはずれてしまった私自身との闘いと、
当時まったく精神の病気に理解のなかった両親(特に母)との闘いが始まりました。

ようやく表面化してきた寂しさから異性関係で問題を起こしてこれまでにないほど深く傷つき、
本当は同じ女性として慰めて欲しかった母に「もう一緒に暮らしたくない」と泣かれ、
さらに寂しさのどん底に突き落とされ絶望で呆然としていた頃、
AC(アダルトチルドレン)問題に貢献の深い横浜の精神科医(現在の主治医)の元へたどり着きました。
診察当初、ありのままを愛して欲しかったのだという本心を自覚できるようになるにつれ、
私の症状を蔑み無視する両親を前に、悲しさに狂って生活を共にすることが不可能になりました。
頻度を増す発作に耐えきれず、徹夜でマンスリーマンションを探し、
最初に家を身ひとつで逃げ出して自活を始めました。

「親には死んでも頼るもんか」と必死に働きましたが、楽になる方法は見つかりませんでした。
働きながら、私はなぜか罰が欲しくてたまらず、
自分で自分が許せずに陰でわざと傷つけるようになっていきました。
どこまで傷ついて堕ちれば死ねるだろうか、今度こそ死ねるだろうかと、
いつも行為の最中、ひとごとのようにぼんやりと思っていました。
長い間、自分が水面下でどれほど己に残虐なことを繰り返しているのか普段は全く忘れており、
もちろん問題だとも気付けず、医者にも言いませんでした。
ある時ふと”私はとんでもなく危険なことをしているのではないか?”と思い、主治医に告白しました。
「問題だと認識して話せたのだから、これからは治していけますよ」
と力強く言ってもらえたのを覚えています。
ですが自分を傷つけることはいつの間にか生きているということを確認するための手段となり、
体の真ん中にあいている大きな穴を一瞬でもふさぐための手段となり、中毒へと変わっていきました。
私を本当に心配してくれる大切な人を、私が私自身を大事にできなかったために振り回しました。
最初の入院後に一度実家に戻されてからは、もうどうにもできず、毎日がジェットコースターのようでした。
すでに疲れ果てて両親の前で症状を隠そうという気力が残っていなかった私は、
内面の葛藤の嵐に両親も巻き込み散々かき回しました。
子供の頃からずっと一番愛して欲しくてやまなかった人が同じ屋根の下にいると、
もう叶わないのだと判っていてもどうしてもなんらかの期待を抱いてしまい、ひずみが生じるのです。
結局実家では居場所が見つけられず自己破壊的な行動は増すばかりで、
私は再び両親と住むことを諦めました。

また安いアパート探しに奔走し家を出て、2004年の7ヶ月の入院を経て、
試行錯誤のうちに1年が過ぎようとしています。
現在は先生(下記の日記の入院先の主治医とは別人)に、周囲の人々に、
葛藤は消えないながらも家族にさえも、
あらゆる面をバックアップして貰いながら一人で暮らしています。
私はかなり落ち着いて過ごせるようになり、波はあっても
「このままでは死んでしまう」と思うほどの
強烈な自己の不確実感に襲われることは滅多に無くなりました。
そして、自分をおとしめたり傷つけたりしないよう努力してバランスをとっています。
よっぽどのことがない限りは食べ物が喉を通ります。
薬を飲めば大抵、普通に眠ることができます。


症状については、精神の病は目で種類・レベルがはっきり区別できるものではないですし、
誰しも(健常者とされる人でも)多かれ少なかれ複数のものを併せ持っていると思っています。
神経症の一種とされる「対人恐怖症」については、
まず自分の気持ちを常に自問して把握しさらに人に伝えるという訓練を重ね奮闘してきた成果なのか、
幸い加齢とともに緩和してかなり楽になっていきました。
恋愛関係にある男性以外とは雑談がまったくできないという悩みも殆ど解消され、
周りに合わせることしか念頭にない苦しい人付き合いのパターンも
自分が好きだと感じるほうを選びながらこなすというものに変わっていきました。
あれほど辛かった会食や飲み会も、慣れている仲間なら素直に楽しめるようになり、
慣れていない人とでも得意ではなくともパニックにならずに同席できるようになりました。
そして現在私は一般的に知られている病名でわかりやすいものを選べば
希望がまったく持てない・希死念慮を持つ・思考力の低下・食べられない・眠れないetc.を症状とする
「鬱病」と診断されているのですが(現在は症状は殆どないが完治の判断はつかない)、
根本にある最も厄介で治すことのできない爆発的な愛情飢餓感や不安感・焦燥感は
今のところ「AC(注:病名ではない)」および「ボーダー(境界性人格障害)」
に分類されるものだと思っていますし、主治医からもそのような判断をされています。
ですがこれは苦しみのあまり自分の症状について書籍やインターネットであれこれと調べ、あがき、
かかりつけの医師を替えていくにつれ掴んできた単なる傾向にすぎないですし、
病名自体は私が生きていく上でのわずかなヒントにしかならず、
あまり重大な意味を持つとは思っていません。

前述に加えて心の病のこれまでの流れを、目安として耳にしてきた名称を使ってみると、
抜毛症、抑鬱神経症、睡眠障害、社会不適応、躁、パニック障害(私の場合、軽度の過呼吸発作)、
自傷行為の繰り返し、薬物その他への依存行動(アディクション)、
過食嘔吐等の経過を交互に、また同時にたどってきました。
その中で、2002年末に2ヶ月、2004年春から7ヶ月、東京三鷹にあるH病院の精神科に入院しました。
(2003年夏、大量服薬のエスカレートにより横浜市内の救急指定病院に一泊二日入院を挟む)

このテキストの下に、最初の2ヶ月の入院時の日記と、退院直後に加筆したものを載せています。

自活のため薬を服用しながら死ぬ思いで通っていた派遣の仕事の契約期間満了後の入院で、
読み返してみると軽い躁状態だったために文章や絵を残すことができたのだとわかります。
途中から急に日記を書かなくなっているのは、躁の症状が強くなっていったためと思われます。
基本的に私は自分の心情や解釈を文章にすることと、人に読んでもらうことが相当好きなのですが、
鬱や躁があるレベルを超えると内省的な記録を残すことに突然興味を示さなくなる傾向があるようです。
(二度目の7ヶ月の入院時は鬱状態にあり薬も強く頭があまり働かず、日記も絵も殆ど残していません)
日記中にも普段は無いような攻撃性・社交性が見られ躁状態だということがわかるのですが、
最後にある退院直後の加筆部分にそれが一番顕著に表れていると思います。
私は普段はこんなに手放しの感激屋ではないですし、
人に好かれやすいオープンなところもどちらかというと持ち合わせていないほうです。
たった2ヶ月の共同生活でこんなに人気を得て大勢に手紙を貰って見送られたり、
別れを心底惜しみ合うような人間でもないですね、たぶん。



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2002年10月31日(木)


入院はじめての食事。食堂に皆で集まる。
一番すみっこのテーブルが誰もいないので座る。

「今日新入りさん居るんでしょ? どこ?」
「新入りさんココー!」

隣のテーブルの女の子に居場所を明かされる。
数名の女の子達が「よろしくー」と挨拶してくれる。
おずおずと「宜しくお願いします」と返す。

”新入りさん”って呼ぶのか・・・現実で初めて聞いた言葉。

食後、5人でトランプの大貧民をした。
「革命」と「縛り」と「8切り」を覚えた。

18歳のY香ちゃんが
「私もまだ4日目なの。みんないい人だよ、
 でも盗難だけは気をつけたほうがいいよ」と教えてくれた。
「・・・何を盗るの?」と訊いたら、アクセサリーとかお財布だそうだ。

Iちゃん、Sちゃん、Nちゃん、N子ちゃん・・・
少し名前を覚えた。

ちっさなデプロメールとドラールしか出なかった。絶対に眠れない。
9時消灯で、暗闇でコレ書いてます。
10時過ぎ追加眠剤を飲むが眠れず。
1時また貰いに行ったらアモバンが出た。  

2002年11月1日(金)


左のほっぺたと耳を血の池に浸して目覚めた。私の血!?
体が動かない。廊下で倒れたらしい。みんなの騒ぐ声。
看護婦さんが「どこが痛い?!どこが痛い?!」と怒鳴る。
点滴を挿され、もう片方の腕にも何かつけられベッドに乗せられる。
ガラガラと凄いスピードで運ばれる。流れる天井。たくさんの顔。
「血圧○です!」「ちょっとすみません!」
テレビドラマみたいだなぁと思う。

CTスキャンの後、あごを6針縫った。
自室のベッドに戻され休む。
ポータブルトイレが置かれたが使いたくない。
その後またトイレに行きたくてちゃんと部屋を出たはずが
また廊下で意識を失ってしまった。
看護婦に起こされ、自分でも驚いた。部屋に連れ戻される。
「部屋から出ないで」と言われる。
今度は壁づたいに崩れ落ちたらしく無傷。良かった。

怖いよ・・・知らないうちに倒れるなんて。
顔に傷はカンベンしてくれ。  

2002年11月2日(土)


まだ2時かよ〜夜は長いな。
でも名前も判らない眠剤でまた気を失うのはご免だ。
デプロメール減らしましたから、って言われた。
デプロによる貧血で倒れたと思われてるようだが
眠剤のせいで倒れたとしか思えない。
デプロメールで貧血おこしたことなんてないぞ。
そもそも、昔から貧血ではあるけど意識失うなんて初めてだ。

部屋の窓(開かない)からオリオン座がよく見える。

一生懸命訊いたのに安定剤だとか適当なこと言いやがって
知らないで薬配布するんじゃないよ!M田!!
お陰で顔に怪我したじゃないか!
そんなに安全なら自分で飲んでみろ!

意見は投書箱に入れてくださいと言われたので
「薬を配布してくださる方は患者に質問された時に
 相応の知識があって当然と思うのですが」と書いて
ナースステーション脇の箱に入れようとしたが、
いちいち箱に入れるまでもないと思い
そこにいた当直の看護婦M田さんに直接読んで貰った。

そしたら、こんな短い文で
”薬を配布してくださる方”って書いてあるのに
「これだと誰宛だか解らないから看護婦あてって書いて」だと?!
偉そうに「看護婦だって薬の勉強はしてますよ」だと?!
勉強してようがその場で説明できなきゃ意味ないだろ!!!


皆で食堂で食べるのキツくなってきた。
それにしても我侭な人多いな・・・
実害はまだないけど面倒くさそう。
部屋に篭っているのが楽。

アゴの縫いあとがどうなってるのか心配。
なんか入院ってつまらなくなってきた。
女性のみの病棟だから居づらいのかな。
いや、なんで入院したんだっけ?
今のままじゃ怪我しに来ただけだぞ・・・。

今日は病棟内のピアノを弾いてみたが
ペダルはきかないし音も変。  

2002年11月3日(日)


外に出られないのがこんなにストレス溜まるとは・・・。
今まではいつでも出られるから気付かなかったんだなぁ。
食事は3食きちんと食べられています。
血圧上げる薬と吐き気止めとデプロメール出されてます。
あとパキシル、デジレル、サイレース。
夜は眠れません。微熱があり、血圧は90-50位です。

10代〜30代の女性のみの病棟で、
ネームプレートを見て数えてみたら48名居ます。
私が居るのは2人部屋ですがまだ一人で使っています。  

2002年11月4日(月)


Y子ちゃんが来て、私と喋っていたNちゃんに
「私、結婚するの。○○Y子になれますように、って祈っててね」
と言った。Nちゃんは「ウン」と言ったが、Y子ちゃんが去ると
「ワケわからん・・・」と言った。

私と同い年のNちゃんはボーダーだと言う。
彼女のかかとがガサガサなので、部屋に呼んでニベアを貸した。

「ここみんな楽しそうだよね」と私は言った。
「そんなことないよ、みんな疲れてるよ」
「何に?」
「ここの空気。アタマおかしくなりそうじゃん」

持田香織と中山美穂に似てるN子と女優のナントカに似てるS子が好き。
2人とも二十歳。性格もよい。また大貧民をして遊んだ。
しかし体中がタバコ臭い。廊下全体が煙で充満してるんだもんなぁ。
どうしてこんなにタバコ人口が多いのだ?
女性のみの病棟なのに、吸わない人のほうが少ない。  

2002年11月5日(火)


同室の相手が出来ました。
毎日3食、きちんと摂って、4日もお通じがない。
体重はまだ39kg。
部屋の外に出るのが億劫で寝てばかりいる。

退院する人にはみんなが涙を浮かべ
「二度と戻ってくるなよー」と言う。刑務所みたいだ。  

2002年11月7日(木)


今日から絵を描き始めた。
今日から、と言っても明日も描くかは分からない。

清楚な美人でストレートロングヘア、
身長170cmでカッコいいと思っていたS子に
「カッコいいね。モデルみたい」と言ったら
本当に元JJモデルだった。  

2002年11月8日(金)


今日も絵がひとつ完成。
物凄く歌の上手い子発見!
部屋に閉じこもって歌っている。
ドアの前に立って暫く聴き入る。
他の子が教えてくれたところによると、
傍聴されてるのを知ると歌ってくれなくなるらしい。
とても照れ屋だそうだ。

タバコ人口の件だが、ストレス発散のために
この病棟で初めてタバコを覚えた女の子も多いらしい。  

2002年11月9日(土)


絵がもうひとつ完成。
ほのぼのとは言い難いがタッチはいつも通り。
鉛筆削りが10:00〜16:00の貸し出しなのでその間に描くのだ。
5時間あれば1作できる、というところかなぁ、葉書大の紙にのる絵は。

トランプ中に中絶の話になる。
二十歳で3回経験があるという元キャバクラ嬢N子は
ここ毎年一回のペースでしているらしく、「年中行事」と言っていた。
これは冗談にしていいことなんだろうか。
それともいつも明るいN子も、本当は辛すぎて冗談にしたいのだろうか。

トランプ仲間のYちゃんが
「子供うめなくなっちゃうよ?」と言ったら
「だってつけるの嫌いなんだもん」と答えていた。

自身の危険と向き合うことを無意識に避け、誤魔化して生きる。
ドロ沼。苦しいのに「やめなきゃ」という事を思い出すことも出来ない。
N子もまだ気付かないだけで、ほんの少し昔の私と同じなのだろうか。  

2002年11月10日(日)


絵がもうひとつ完成(今日は無理やり)。
また大貧民をした。
病棟内のあちこちで陰口の言い合いがある。
気性の激しい人が多いので言い争いも多い。
こういうのって病気のせいなのか地なのかわからない。
あたらずさわらず暮らそう。  

2002年11月11日(月)


絵がもうひとつ完成。昨日のよりはいい感じ。
いつものように元JJモデルのS子と
キャバクラ嬢のN子とイラストの物凄く上手なYちゃんと一緒に、
七並べと大貧民をした。
みんなで大声で「DAY DREAM BELIEVER」「翼をください」を
ヤケ大合唱しながらゲーム。
適当にハーモニーを作れる子がいるので気持ちいい!
楽しー!  

2002年11月12日(火)


絵がもうひとつ完成。今日は午前中で終わってしまった。
夕方、トランプ仲間で本を見ながらポーカーをしてみる。

元モデルのS子のプライベート生写真を怪しまれながら力づくで2枚GET。
やった!見たい方は今度お会いしたら是非みせましょう。  

2002年11月13日(水)


母が来た時のみ、しかも中庭のみの外出の許可が出ました。
マネジャに会って自由行動できる日はもう少し先になりそう。がっくり。
私の病棟では院外外出許可がないと家族しか面会できません。

今日は2回泣きました。面会中と診察中。
主治医とケースワーカー、そして両親と私で面談。

母親がみんなの前で
「こんなことをする人間は私の家系にはありませんから」
と言い切った。
じゃあ私は誰の娘?

実家には帰りたくないです、退院先はまたマンションがいいです。
私はワーッと泣けないので普通に喋りながら
目から水が流れて顎を伝ってポタポタ落ちます。

新しい絵が昨日よりも早く完成。日々描くのが早くなってくるようだ。  

2002年11月14日(木)


雑誌の写真を見てボールペンでデッサンしてみたら下手だった。
線が汚いです。何かを見て描くってのはまた難しい。
まあ昔からボールペンでは絵も字も上手に描けないんだが。

なんか憂鬱です。寝てばかり。
ピアノを予約して少し弾きました。
「少年時代」をリクエストされて楽譜を見ながら弾きました。
「大きな古時計」を弾いたら遠くでIちゃんが歌ってくれてる声が聞こえた。  

2002年11月15日(金)


ピアノを弾いている時、3歳年下のY子に
「惚れた!友達になってくれない?返事はゆっくりで良いから」
と名前や携帯電話番号、自宅の住所、電話まで書いた紙を手渡された。
「いいの? 番号まで・・・」
受け取っておいたが、彼女の言う友達ってどういうことなのか
今の私には解らないので何も返事できない。

今日は夕方からピアノの調律が入るとのこと。
朝のミーティングでその旨発表されるとみんなで拍手喝采。
この病棟はピアノを弾く人が凄く多い。
調律でペダルだけでも何とかしてくれることを期待。

ピアノの調律師さんは冴えないサラリーマンといった風貌にもかかわらず
まるでアイドルのように大人気。
女性陣に囲まれて仕事を終え、「キムタクになったみたいだ・・・」と
胴上げでもしそうな勢いの黄色い声の嵐の中帰っていった。
みんな退屈してるからささいなイベントにも盛り上がる。
私もそのひとり。

ペダルがちゃんと直ったからこれからは曲を選ばずに弾ける!!

夕食後、トランプ仲間の部屋でCDをかけてカラオケパーティー。
めちゃくちゃに踊りまくって楽しかった。  

2002年11月17日(日)


絵がまたひとつ完成。
夜、眠れないのに横になってなきゃいけないのが辛くてたまらん。
シーツの上で足を擦り合わせながらもがいています。
昼はけっこう動いているのに、消灯後ベッドでじっとしているのがキツイ。
ちょっとハイかも・・・。入院前あんなに鬱々だったのに。
3食完食するし、ラジオ体操も毎朝しちゃったりして。
でもそれだけでもう腹筋が割れてきたよオイ。  

2002年11月19日(火)


私は、例えば6畳一間の風呂なしアパートで暮らす覚悟はない。
だけど今の広い部屋を維持できるだけ稼ぐことが出来るか、まだ判らない。
無理なものは無理? それとも頑張れば叶わない事なんてない?
これまでは、いつかきっと治ると思っていたから、
限界ギリギリでも働いて生活レベルを保ってきたのです。
だけど、もしそれが出来ても、代わりにずっとあんなに苦しいなら、
それをやる意味は私のどこに見つければいいんでしょうか。
それとも、どう生きても苦しいんでしょうか。  

2002年11月27日(火)


眠れん。サイレース2mg、デジレル25mg2錠、ダルメート15mg、アモバン。
もう一回だけ追加眠剤(ベンザリン)を貰えるんだけど、
まったく眠くないしイライラもしていない上に
今日の夜勤の看護婦が嫌いなので日記を書くことにした。

今ベンザリンを飲んで部屋に帰ってきました。
それはナースステーションに思いがけず好きな看護婦が居たから。
眠くて疲れてるのに眠れないのはツライけど、
全く眠くなくて落ち着いてる時は寝る必要ないよなぁ・・・違うんだっけ?
生活のペースが乱れるから夜は薬飲んででも休めって言われたんだっけ?
でも生活のペースが乱れるとどうしてダメなんだっけ?
会社員じゃあるまいし。

今、2時の見回りが来ました。1時間ごとに見回りが来ます。
横になって休んでるフリ。手の震えが止まりません。
耳の中でザザザッという音がする。暗いドラマの効果音の様な。

昼はアカペラで「AMAGING GRACE」を3人で練習したり、
新しく賛美歌も覚えて歌ってみてます。かなり大声です。酸素欠乏します。
夕食後は浜崎あゆみのトランスで踊り狂います。
汗だくになります。大騒ぎです。でも眠れません。
ラジオ体操もして、3食ずっと完食してる良い患者です。
騒ぎも起こしません。仲良くしてます。

殆ど徹夜で3日目ですのでかなり頭はおかしくなってきてるけど、
今は気持ちが落ち着いてます。
ピーコのエッセイ「片目を失って見えてきたもの」を読み始めました。
一章読んでは泣いて一章読んでは泣いて。

イラストは1日だけ休みました。なんか描く気しない。
しかしテレカ無くなるの早いよ、公衆電話しか外と繋がり無いんだもん。
廊下の両端は鉄の扉で施錠されてるし、窓もどこも開きません。
空気悪いことといったら。
それにこんなとこに女性のみで60名、
ワンフロアに60名だよ、もっと居るかな。
新患さんが絶え間なく増えていきます。
女性だけってやっぱり不自然だ、しかもみんな病気だ、
普通の人が入ってもおかしくなりそうだぞ。

という訳で、もっと中庭とかで遊んでもいい病棟もある様なので
移りたいって申請してます。あと男性だって居た方がいいよ、
行儀悪くなっちゃって大変だよ、女子校ってこういう感じなんでしょうか。
スポーツもしたいって要望出してるんだけど、
会議が一週間に一回だけだし主治医に会えるのも同様だから
許可もそのペースで下りるんです。
一日一日の長いことといったら!!

とりあえず私の身元引き受けは実家になるようです。
退院後また一人で暮らすのは無理と言われたも同然なので、
実家に居る練習をしなくちゃいけません。
私もとりあえずそうしてみることにしました。
相変わらず家族以外との面会は全くできません。

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あれからずっと眠れなくてハンパでなくきつくなってきた。
悪夢が酷くて、眠りかけると恐怖で体が拒絶反応を起こす。
ガクガクして上手く歩けない。3日間まるまる起きてる事になる。

父親が面会に来てくれた。というか来させた。
「眠れないのは思い込みだ」と言われる。
病院の前の河原を歩きながら怒鳴り合い。
涙と鼻水おかまいなしで喰らいつく私に逆ギレして帰ろうとする父。
フラフラで父の歩調について行けない私は、父の姿が見えなくなると
しゃがみこんで嗚咽した。
すると何時の間にか父が戻って来て、ポケットをごそごそいじり、
ハンカチを渡してくれた。私はそれで顔を拭いてドロドロにした。

「私どうしてこんなところに居るのよー」と酸欠でクラクラしながら泣き叫んだ。
「何度も頑張ったけどダメだったんだもんー、頑張ったんだもんー」

病院に戻る途中、父が小さくひとこと、
「いつか治るよ」と言った。初めて温かさを感じた。
私は父が帰ったあと、ロビーのソファで30分弱だが「眠れた」のだった。
夢をみたのではなく!
卓球台で騒いでいたトランプ仲間のS子が
「○○(私)、眠れたー?!」と叫んでくる。
「眠れた!ありがとー!!」と叫び返す。

父に「治るって言ってくれてありがとう。安心して、少し眠れたよ」
と電話で告げた。  

2002年11月28日(水)


黒目がちで澄んだ瞳と素朴なショートヘア、
服装は無頓着なパンツスタイルのみ、直線的な体つきの剣道少女。
ゆっくり言葉を選びながら、一点を見つめて喋る。
途切れがちのハスキーな声。
18歳の中性的な彼女は自分を「僕」と言う。
彼女の口からは余分な飾りは出てこない。
誰にでも、どんなに理不尽な子でも、その相手が泣いていれば
すっと近寄り、頭を撫で、話を聞いてあげる。静かにただ傍にいる。
いつまでも。

トランプ仲間で元キャバクラ嬢のN子(二十歳)が
「僕」に恋愛感情を持ってしまったそうだ。
N子を見ていると男性を本気で好きになったことはないように思える。
毎日のように手紙の文面に驚くほどのテクニック
(一度聞いてみてさすが自称8店舗No.1!と感心した)を駆使して
自分に惚れている、かつどうでもよい男性に
指輪や洋服を少しも悪びれずに買わせているN子だが、
「僕」への想いはまるで中学生みたい。
だって小さな紙切れの手紙の交換やすれ違い様の一言だけで一喜一憂し、
筋肉注射を打ってくれと看護婦に頼むほど自分をもてあましているのだ。
「どうしよう、私、異常かなぁ」と言ってばかりいる。
私はその想いの丈を「それでいいんじゃない?変じゃないよ」
と聞くしかできないのだが、少し羨ましかったりする。
トランプ中にも短いメモを貰っただけで満面の笑顔で舞い上がっている。
その様子がとても可愛くて、そして私からは何だか遠い表情に見える。

寝る前に突然「僕」に
「○○(私)ともっと話がしたい。○○は魅力的だから」と言われた。
すごく嬉しくて緊張した。
喋るのは苦手、踊りと歌とスポーツしか安心して自分を出せない、
と言ってみた。それでもいい、と「僕」も
その時一緒に居合わせたCOCCO好きの元気なM美も言った。
3人で明日の昼食後に廊下の端に待ち合わせることにした。
それぞれと抱き合って確かめてみようとM美が提案した。
実は私もN子に触発されて、もっと若かったら恋したろうなぁと
「僕」に男性的な魅力を感じていたので実は内心不安だったのだが、
彼女としっかり抱き合ってみても性的な刺激は感じずに済んだ。
M美は普段からすぐ私に「○○ー!!」と抱きついてくるので慣れっこだ。

食堂で一人で食べている私の隣へ「僕」が来た時、
「ひょっとして、女の子の方が好き?」とストレートに訊いてみた。
彼女は少し考えて、性同一性障害の自覚が少しあると言った。
「うーん、でも、好きになるのは、やっぱり、男の人、だな・・・」

なんだか安心した。
答えがどっちにしても彼女はいい子なので仲良くしたいが、
後で自分自身ややこしくならないように一応確認してしまったのだった。  

以上で病院で使っていたノートに書かれた日記は終わり。


あれから私は毎日ピアノを弾きました。
病院で出来た友達に何枚もイラストを描いて渡しました。

Yちゃんと作品を見せ合って意見を交わし、
英語の歌を一緒に覚えて歌いました。
看護婦さん達の個性にも慣れて、自分の辛い思いを話し涙を流しました。
クリスマス会では病棟の仲間と踊りまくりました。
ポスターコンクールでグランプリを取り表彰されました。
私を見る度にいつまでも我が事の様に喜んでくれた補助のN井さん。
一緒にピアノを聴いていた時、突然私にキスしたN子。
喧嘩して言い過ぎて、部屋に謝りに行った。
いつも「ショパン弾いて?」と私に頼むWちゃん。
私が暗譜で弾けるショパンはノクターンの1番だけだったのに、
何度も何度も頼まれて弾いた。一曲ごとにWちゃんは部屋に戻って泣いた。
最後の日にも「ショパン弾いて?」と言われ、
「もう退院するから、弾けないんだよ」と答えたら
「退院、しないで?」と何度も繰り返した。
兵庫から入院してきたY!人物デッサンがもの凄く上手で、
ジーンズがよく似合う細身で格好いい関西弁の女の子。
家が遠いから両親がなかなか来れずずっと外に出られないのに、
いつも明るくて温かくて大好きだった。
画用紙1枚に細かくたくさん絵とメッセージを書いて渡してくれた。
「HAPPY LEAVING HOSPITAL」の飾り文字。
私との思い出や、私のいい所や、たくさんのエール。
息が詰まるくらい嬉しかった。額に入れて部屋に飾るから。
たくさんの手紙。
「僕」からは細い紙を結んだもの。ほどいてみたら
『初めて見た時の瞳の清々しさ忘れない。○○大好き!』
退院する時、ナースステーションのドアを閉めるまで見えていた、
手を振る皆の顔。拍手。
最後に私の目に映った、
同い年で現役国際線スチュワーデスの清楚なMちゃんの涙。
話を聞くしか出来なかったけど、だけど、もう死んだりしないでね。



入院する前はこんなに情が沸くとは思いませんでした。
生活を共にするって、精神的に大きな影響を受けざるを得ない。
当然、家族と暮らすようになった私にも課題がたくさんある訳だけど、
「ゆっくり、焦らず」を看護婦さんや友達に散々言い聞かされて
2002年12月28日、病棟内でよく言うところの ”シャバ”に出たのでした。
 (ちなみに外泊は ”仮出所”!)  

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