昨年夏行われた「世界バレエフェスティヴァル」にてギエム&ル・リッシュによって踊られた「マノン」からの“沼地のパ・ド・ドゥ”を私は生涯忘れないと思います。
それはマノン(レスコー)が死んでいく幕切れのシーンで、時間にして約4分なのですが、私は呼吸をする事さえも忘れてしまったような衝撃を受けました。そこには本当に死にゆくマノンがいたのです。
この世界バレエフェスティヴァルは3年に一度行われます。その時世界で注目されているダンサーが一同に会すると言っても過言ではないような豪華な舞台で、夏(シーズン・オフ)に行われる為でしょう、かなり見応えのあるメンバーが集まります。ただ少しだけ残念なのが、一度の公演に約15組のダンサーが出演する為に一組に当てられる時間が限られてしまうのでしょう、長くても10分位の場面になってしまいます。素晴らしい出演者が揃っているのでそれを言うのは贅沢ではあるのですが。
昨年出演した一部の出演者を挙げてみましょう。アレッサンドラ・フェリ、オレリー・デュポン&マニュエル・ルグリ、アリーナ・コジョカル&アンヘル・コレーラ、ディアナ・ヴィシニョーワ&ヴラディーミル・マラーホフetc. 世界中のバレエ団のエトワール、プリンシパル級の人ばかりです。そしてシルヴィ・ギエム&二コラ・ル・リッシュ。
上に挙げなかった人達の中にも印象深い舞台を観せてくれた組が何組もありました。
その中で死にゆくマノンのラスト・シーンを演じたギエムはル・リッシュのサポートが素晴らしかったにせよ、凄まじいインパクトを私に残しました。その後に演じた人達を憶えていないほどのインパクトを受けたのです。単に私の好みの問題なのかもしれませんが。
ギエムを紹介する時によく「100年にひとりの逸材」というような表現をされます。確かに身体能力は現役ダンサーの中でも飛び抜けているのでは?と思います。「世界バレエフェスティヴァル」のような沢山の名だたるダンサーが集まるような場でもやはり目立ちます。
その身体能力ゆえ、古典ものが味気ないと思う観衆もいるようです。私がギエムの舞台を初めて観たのは2001年だったのですが、それ以降の来日公演は殆ど全て観に行ったにも関わらず、ギエムの古典ものは観ていません。上演されていないので仕方ありませんが。
映像で古典ものの一部を観た事があるのですが、たぶん私はギエムの古典ものを好きな気がしました。全てを観た訳でも生で観た訳でもありませんのであくまで憶測ですが。
観衆の主観が働く「芸術」というものに「100年にひとり」という表現が適切なのかはわかりませんが、ギエムが特別な「なにか」を持っていることは確かなようです。
私がバレエに最初に興味を持ったのはテレビで観たマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」だったと思います。サン=サーンスの白鳥の調べに乗せて演じられる「瀕死の白鳥」はテレビの映像ながら感動的でした。その後プリセツカヤの「瀕死の白鳥」を生で観ることができた事はラッキーだったと思います(多分もう瀕死の白鳥は踊っていないと思いますので)。
しかし私はその後バレエには一旦興味を失うのです。バレエの知識が無いに等しいため、プリセツカヤの演技で満足してしまったのでしょう。
それから少しして、ストラヴィンスキーの「ぺトルーシュカからの3楽章」という曲に取り組んだ時に、バレエ「ぺトルーシュカ」を観てみたいと思い、映像を探し出したことが再びバレエへの興味を持つきっかけとなりました。今から約7年前だったと思います。
パリ・オペラ座の公演を収録したその映像にギエムは出ていませんでしたが、ぺトルーシュカ以外にもいくつか収録されていた映像も観て興味深く思っていました。
中でも「薔薇の精(音楽・ウェーバー=ベルリオーズ編:舞踏への勧誘)」に出演していたルグリに感銘を受けました。男性ダンサーでありながら美しく、跳躍するところではしっかり跳び、「こういうダンサーもいるんだな」と思ったのです。後で知ったのですがどうやらこのようなダンサーを「ダンスール・ノーブル」というのだそうです。
他には「牧神の午後(音楽・牧神の午後への前奏曲)」、「結婚(音楽・ストラヴィンスキー)」が収録されていました。その映像は「ディアギレフの夕べ」というタイトルで、全演目初演時の振付で踊られていた事も興味深かったです。
それからはテレビ等で放送されていたら観るような形でバレエに触れるようにはなりましたが、劇場へ足を運ぶことはありませんでした。もっとも私はとあるホールでアルバイトをしていた為、たまに生のバレエを観ることはあったのですが。
ある日の夕方、ニュースを見ていたら偶然ベジャールのボレロ(音楽・ラヴェル)を踊るギエムが画面に映りました。長い髪が色々な方向になびく(乱れる?)のにも構わず、何かに憑かれたかの如く踊るギエムに釘付けになりました(髪を結わないのはギエムの演出なのだそうです)。
ひと目でファンになりそうな勢いでした。
その後テレビでシンデレラ(音楽・プロコフィエフ、振付・ヌレエフ)やベジャール振付の「春の祭典(からほんの一部分)」を踊るギエムを観てすっかりファンになりました。しかし生で観たらがっかり…なんていう事もあるかと思い公演が観られる日を待っていました。
それからしばらくして2001年にギエムが来日することを知りました。その来日の目玉はどうやら「ボレロ」だったようです。
ここで触れるのはベジャール振付のボレロです。
一番最初は幕が開いても暗闇です。舞台上には丸くて赤い大きなテーブルがあり、その上に「メロディ」と呼ばれるダンサーがひとり立っています。テーブルから少し離れて「リズム」と呼ばれる男性群舞(女性群舞版もある(あった?)らしいです。その場合「メロディ」は男性のようです)が椅子に座って周りを取り囲んでいます。背景は黒一色です。
暗闇の中ラヴェルのボレロが流れ出すとテーブル上の「メロディ」の両手の動きだけを追って2本のスポットライトが(その両手の部分にだけ)当てられます。次第に舞台は明るくなりダンスも激しさを増し「リズム達」も少しずつ立ち上がり踊り始めます。そして「メロディ」のダンスが最高潮に激しくなり「リズム達」がテーブルを「メロディ」に襲いかかるかの如く取り囲んだ瞬間、音楽の終わりと共に照明も落ち、全てが終わります。基本的にシンメトリカルな動きで構成されており、その間「メロディ」は一度もテーブルから降りません。つまり最初から最後まで常に踊っていることになります。
「儀式のようだ」と言う人も多く、「メロディ」を巫女に例える観方もあります(「メロディ」は男性の場合もあるのですが)。コスチュームは至ってシンプルで、上は肌の色のもの(男性の場合上半身裸)、下は黒いタイツ、そして裸足(バレエシューズを履く場合もあるのかもしれませんが、ポアントは履きません)。「リズム」の男性は上はシャツ等を着ている場合もあるのですが、上半身裸の時もあります(女性版はわかりません)。
はじめは欲望のダンスという意味合いで「メロディ」は女性、「リズム」はその女性を取り巻く男達をイメージして作られたようなのですが、時を経て男性も「メロディ」を踊るようになり、演じ方や観方、解釈も変化したようです。
そしてジョルジュ・ドンに踊られた事によって「儀式」のような解釈へとつながったのだそうです。ドンが踊るボレロの映像はいくつか残っていますが、映画「愛と哀しみのボレロ」でのダンスシーンが殊に有名です。
このボレロを振付をしたモーリス・ベジャールの作品はベジャール自身が許可をした人だけにしか踊る事を許されていません(群舞も含みます)。ボレロの場合はマイヤ・プリセツカヤ、カルラ・フラッチ等の女性、パトリック・デュポン、高岸直樹、首藤康之、そしてジョルジュ・ドン等といった男性が踊る事を許されました。ギエムは最初4〜5回の公演だけで踊る事を許されたのだそうですが、その後希望するだけ踊る事を許されたようです。
余談ですが、過去に或るダンサーがベジャールの「アダージェット」(音楽・マーラー:交響曲第5番 第4楽章)という作品とほぼ同じもの(細かいところでの相違はいくつもあったものの、そのダンスを知っている誰が見てもベジャール振付か?と思うほどよく似ていたらしいです。要するにパクりです)を踊った事があったようなのですが、ベジャールの関係者にそれを発見され訴訟問題となり、「そのダンスはパクり」と認められ損害賠償の支払いを命じられるという結果になったそうです。
振付にも勿論著作権が発生するのですが、ベジャールの作品を踊りたくても許可を貰えなかったダンサーは踊ることを諦める以外無いようです。
2001年にギエムが踊る「ボレロ」を観ました。
巨大なクレシェンドのような音楽に合わせるようにダンスも高揚していく振付なのですが、ギエムの静から動へと移り変わっていくそのエネルギーに圧倒されてしまいました。
その晩はボレロの前に「ラシーヌ・キュービック」というベジャール振付の演目もあり、金属でできた人の大きさほどの正六面体(の辺)と共にひとりで踊る演目でした。音楽はタンゴだったのですが、いわゆるタンゴとは違う世界が描かれていました。
私のようなダンス経験の無い者が観ても普通では考えられないような動きやポーズが出てきた時は「ギエム以外で踊れる人っているのかな?」と思ってしまうような、精緻でありながら物凄い運動能力を感じました。
それを涼しい顔(!?)で容易く(!?)しかもひとつの作品として表現しているのです。エレガントな場面すらあったように記憶しています。その時「100年にひとり」と言いたくなった人の気持ちがわかりました。
他にギエムが出演しない演目がふたつあり、(ボレロのリズムも含め)東京バレエ団が出演しました。
また別の晩「www.ウーマン・ウィズ・ウォーター」というマッツ・エック振付の演目も観ました。こちらはどこかトリッキーというかユーモアが含まれている作品のようにも感じました。エックのスタイルなのかもしれません。
タイトルに含まれる「ウーマン」という言葉にも深い意味があるように思われました。ただのトリックやユーモアだけで終わっていない作品だと思ったと同時に、心理描写を感じさせる作品だったように感じたからです。
この作品は「ウェット・ウーマン」という映像作品を舞台で演じられるようにしたものなのだそうです。
この晩も最後にボレロが披露されました。
2003年11月2日と3日、再びボレロを観る機会がありました。バレンボイム指揮・シカゴ響がピットに入るという画期的な企画でした。
「奇跡の饗宴」と題されたその公演は「春の祭典」「火の鳥」「ボレロ」の3演目の上演で、全てベジャール振付の作品でした。
「春の祭典」、「火の鳥」を東京バレエ団が披露した後、ギエムの登場です。期待に胸を躍らせて幕開けを楽しみにしていたのですが…オーケストラのテンポがどんどん上がり、ギエムはその演奏に付けてはいたのですが(普通は振付を考慮して演奏される訳ですので、特にテンポにおいては【指揮者が・オーケストラがダンスに付ける】という格好になるはずなのですが、この場合は立場が逆転してしまっていたようです。これは音楽をなおざりにしても構わないいう意味ではありません。舞台とは、あくまで「共同作業」なのですから)、遂にはシンメトリーにポーズを決めながら2度ジャンプをする場面で1度しかジャンプができなくなってしまうほどテンポが上がったのです。何事も無かったかのように情熱的に踊っているギエムを観ながら感動しつつも、バレエにおける音楽の意味を考えざるを得ませんでした。
笑顔でバレンボイムとカーテンコールに応じるギエムの姿を見ながら、とても複雑な気持ちになりました。
初日(11月2日)にはトロンボーン・ソロの信じられないようなミスもあり(数小節の間に音を外しまくった上(トロンボーンの)リズムもヘロヘロに)、「明日は音楽はテープでいいからまともに観せてくれ」というのがその時の私の本音でした。
翌日もやはりテンポは上がりギエムは同じ場面でやはり1度しかジャンプができず、トロンボーンも初日に比べマシになったとはいえ、再びミスをしてしまいました。そしてカーテンコールでギエムはやはり満面の笑顔…。
まぁ、カーテンコールに不機嫌な顔では登場しないでしょうけれど、少し位ひきつり笑いをしていても私は構わなかったと思ったりもしたのですが、満面の笑みでした。ここで私はギエムのプロ魂を見た思いがしました。
ギエムは納得がいかない場合は相手が誰であれ「Non !」と主張すると聞きます。勿論、本番の舞台上ではなくて、リハーサルや終演後といった客席からは見えない場ででしょうけれど。
…もしかしたら音楽の暴走や振付を省略せざるをえなかった以上にギエムにとって納得のいく演技ができたのかもしれません。ギエムのダンスは感動的で本当に素晴らしいものでしたから。
その公演の直後ギエムは東京バレエ団と共にいくつかの都市で公演をしたのですが、音楽はテープを使用し(東京以外の公演ははじめからテープの予定でした)、2度ジャンプするところでは従来通り2度ジャンプしたそうです。
オペラは振ってもバレエを振らない指揮者は多いのですが、それは或る意味賢明だと思います。「身体で表現する」という事に慣れていない音楽家も多いでしょうから。
ギエムが素晴らしいダンスを披露しただけに私の中ではバレンボイム&シカゴ響への恨みは消えそうにありません。
2003年5月から6月にかけてギエム・プロデュースという形で「三つの恋の物語」と題された公演が日本で上演されました。
「三人姉妹(原作・チェーホフ)」「カルメン(ギエムの出演なし)」「マルグリットとアルマン(椿姫)」というそれぞれ違う形の恋の物語を描いた作品です。
ギエム出演のふたつの演目ではロイヤル・バレエのピアニストが演奏をしていました。
三人姉妹はマクミラン振付で、音楽はチャイコフスキーの曲を集めピアノで演奏されます。
ギエム以外の二人の姉妹は私の知らない人でしたが、ギエムを入れた三人姉妹が同じ動きやポーズを取る時にはギエムは三人のうちの一人以上でもそれ以下でもなく、役柄のマーシャであったと思います。
しかしマーシャがヴェルシーニンと恋に落ち、ふたりでパ・ド・ドゥを踊るような場面では、「そういえばマーシャはギエムが演じていたんだった」と、ふと我に返らされました。きっとギエムの表現力の引き出しは沢山あるのでしょう。
マルグリットとアルマンはアシュトン振付でリストのピアノ・ソナタが丸々使われています(楽譜にはないところでリピートしている部分が少しあります。また(この演目用に)オーケストラで音を増強しているヴァージョンもあります。ソロで弾くのにもエネルギーのいるこの曲をバレエと共に演奏するピアニストは大変です。ましてやそれに加えてオーケストラと共になどとは…)。
かつてフォンテーンとヌレエフの名演があったらしく、フォンテーンの死以降約20年封印されていた作品なのだそうです。フォンテーン&ヌレエフの映像が存在するようですので是非観てみたいと思います。
話は少し逸れますが、スカラ座でマリア・カラスの椿姫の名演(1955年)の後、1964年にフレーニが上演した際に(フレーニが一幕のアリアで少し失敗してしまったことが引き金になったかの如く)大ブーイングを浴びてしまい、それ以降1992年まで封印されてしまったという事があったそうです。
椿姫とは何故かそのような特別な演目なのかもしれません。
さてギエムのマルグリットですがギエムにはこういう役がよく似合うように感じました。ギエムには身体能力や表現力の他に「華」も感じます。むしろこのマルグリットの場合、「華」が先にあって表現の様々な手段が付いてくるような…この演目が封印されていた理由が少しわかった気がしました。
もしもギエムが不美人だったら、どん臭いイメージの人だったら、この演目は成り立たなかった気がします。
<つづくかも>