フェリを紹介する時によく「バレエの女優」といった表現が使われます。私がフェリを知ったのはいつのことだったのかよく憶えていないのですが、テレビでジゼル全幕を放送した時でした。その時も「バレエの女優」と紹介されていました。
1幕のジぜルの気がふれてしまって人々の間を滅茶苦茶に駆け回るシーンは、テレビの画面の中とはいえ凄まじいものがありました。勿論公演を収録したものを放送しているわけですので、滅茶苦茶に駆け回っているのではなくリハーサルの通りなのでしょうけれど、そうは思えませんでした。そのような真に迫っているような表現をするところが「女優」と言われる所以なのでしょう。
それからどれほどの月日が経ったのでしょうか、昨年私はフェリのジゼルを劇場で観ることができました。世界バレエフェスティヴァルの特別公演という形での上演でした。
人気のあるマラーホフと組んだ為でしょう、チケットは即完売してしまい、私は当日券が出るかもしれないとの情報を得たので売り場に並びました。どのような経路を辿ったチケットなのか定かではないのですが、恐らく予約して当日受け取るという方のキャンセル分、またはご招待の為のチケットをその方が来場しないと確認しながら少しずつ売っているようでした。
列が少しずつ進み、私が列の先頭になったのは開演の数分前でした。そして、いつ開演してもおかしくない時間になった時、1枚チケットが確保され、私はそのチケットを受け取り走って劇場内に入りました。ギリギリ間に合ったのです。
フェリのジぜルは可憐で、表情の豊かなものに思えました。が、一変アルブレヒトに許婚がいるとわかった瞬間の取り乱しようは観ているこちらが痛々しく思えてしまうほどで、舞台の上と客席が違う空間にあるかのように感じました。例えていうなら舞台上が映画のスクリーンのように観えたのです。ドキュメンタリー映像でも観ているよな錯覚すら憶えたジゼルの狂乱そして死でした。しかしながらその哀しいシーンは実際に目の前で演じられていたのです。2幕の美しくも或る意思の感じられるフェリのジゼルも素晴らしかったのですが、いつかテレビで観て物凄い印象を与えてくれた1幕の狂乱のシーンを生で観ることができたのは幸せだったと思います。物語上、不幸なシーンではありますが。
その後、フェリには縁があり、新国立劇場でのマノン(昨年10月)、同じくロメオとジュリエット(今月)の二演目を観る事ができました(いずれもマクミラン版)。マノンは日本の団体では初めて手掛けたのだそうです。ロイヤル・バレエが以前来日公演をしたということは聞いていますが。今更その公演を観たかったと、とても残念に思っています。
世界バレエフェスティヴァルで観た、ギエム&ル・リッシュの“沼地のパ・ド・ドゥ”や他の組が演じた“寝室のパ・ド・ドゥ”はあくまで「その場面」でしかなかったわけで、この新国立劇場の公演で初めて全てがつながった気がしました。二度観ることができましたので、物語の流れもよくわかりました。
マノンはつい最近ロイヤル・バレエの公演がDVD化されました。フェリは出演していませんが、改めて復習(!?)することができました。
ロメオとジュリエットも素晴らしい舞台であったと思います。こちらはフェリが出演し、振付・演出、そしてロメオ役のアンヘル・コレーラまで同じ映像を前もって観ていましたので、予習(!?)をしてから公演に臨むことができました。
ただ、その映像はミラノ・スカラ座での公演を収録したものなのですが(オリジナルはロイヤル・バレエ)、衣装等の色彩が美しく(新国立劇場はロイヤル・バレエに忠実だということなのですが)、センスが感じられました。衣装は着る人のサイズに会わせて作るのでしょうけれど、恐らくオリジナルの衣装を担当をした人もデザインは指定しても生地までは「これでなければならない」とまでは指定しないでしょうから、そこで微妙に色彩も変化した(させた!?)のかもしれません。そのようなスキにセンス良く色彩のバランスを整える(!?)辺りは、流石はミラノと思ってしまいました。もしもパリで上演したとしても、きっと似たような現象が起こるでしょう。
セットにも相違点はありましたが、これは舞台の間口や奥行きによって変わるものですので、大して問題はないと思います。オペラでもよくある話ですし。
これから先あと何度フェリの全幕ものを観られるでしょうか?
ジゼルの狂乱、マノンの男を誘惑する仕種や壮絶な死、ジュリエットの仮死状態になる薬を飲む時の戸惑いやロメオが死んだことを知った時の叫び、そして自害…全て可憐なキャラクターから溢れ出た凄まじい表現ですが、観る者を引き込む「なにか」をフェリは持っているのでしょう。そしてその事が「女優」と呼ばれるようになった要因なのではないかと私は思っています。
<つづくかも>