いろいろはじめました  
◆ 田中希代子さん 2004.6.2.


 1969年暮れ。ひとりのピアニストが30代にして生涯最後のリサイタルを行いました(1970年という説もあります)。そのピアニストはその公演が最後の演奏会になるとは思っていなかったそうです。しかし病に倒れその後二度と舞台に立つことはありませんでした。

その人の名前は田中希代子。

 私が生まれる前に演奏活動から引退してしまった為、田中さんの演奏はCD等の録音でしか聴いたことがありません。録音状態があまり良いとはいえないものの、その演奏から溢れる表現には様々なニュアンス、そして様々な意味での安定したテクニックが感じられ、考えても仕方のないことではあるのですがつくづく生演奏を聴いてみたかったと思ってしまうのです。

 田中さんは18歳の時にパリへ渡り、300人の受験者中1位の成績でパリ音楽院へ入学したと聞きます。約1ヶ月の船旅でパリに到着し入学試験に臨んだということなのですが、日本を発つ直前から体調を崩し、それに加え船酔いもひどく体力的に大変な出発となってしまったのだそうです。そしてパリに着いてから結核にかかっていることが判明し、音楽院に入学したもののすぐに治療を受けることになり、フォンテンブローのサナトリウムでの療養生活に入る羽目になってしまったのです。

 体の調子の良い時は音楽院へ通っていたとのことですが、サナトリウムでの練習時間(そこにはピアノが置いてあったらしい)は医師から1日1時間までと告げられていたということですので、決して無理なことができる体ではなかったと思われます。しかしパリでの師ラザール・レヴィは入学した翌年の試験を受けることを勧め、田中さんは学校へ通うことがままならなかったにも関わらずプルミエ・プリ(1等賞)を受け1年で卒業してしまいました。1951年のことです。


 日本で生活していた頃から音楽家の両親のもと英才教育を受け、小学生にしてバッハのパルティータ等を弾いていたということです。中学生の頃にはレオニード・クロイツァーに就くのですが、初めてのレッスンでブラームスのヘンデル・ヴァリエーションを弾き、クロイツァーはその最初の約1ページを弾いたところで一旦演奏を止めさせ、その才能に巡り会えた喜びを田中さんに告げたのだそうです。そしてリストのコンチェルトの宿題を出したと聞きます。しかし戦中・戦後にレッスンへ通うのは大変なことだったようで、クロイツァーの指導を受けるのもあまり長くは続けられませんでした。その後安川加寿子先生に巡り会います。

 安川先生にとっても田中さんは愛弟子となりました。そしてご自身が長く暮らしたパリ、学んでいたパリ音楽院へ推薦する運びとなり、田中さんは戦後最初のフランス給費留学生としてパリへ発ったのです。ラザール・レヴィは安川先生の師でもありました。

パリ音楽院へ入学してすぐに病院で暮らすことになってしまった為に、卒業したものの留学で学んだものはまだ無いに等しい状態でした。そして「もぐり」の学生として翌年もレヴィに教えを受ける為に学校へ通ったのだそうです。どうやらその頃には健康を取り戻していたようです。


 その後いくつかのコンクールを受け高位入賞を果たしました。1955年のショパン・コンクール(このコンクールに西側の国が初めて参加したのがこの時だったようです)では10位という結果だったのですが(その年は本選に10人進んでいます)、その時審査に当たっていたミケランジェリがもっと上位にするべきだと抗議の意を表したのだそうです。聴衆からの人気も高かったようで、コンクールから数十年経ってからもワルシャワを訪れた何人もの日本人ピアニストが「キヨコ・タナカはどうしていますか?」という質問を受けたと言っています。それ位印象深い演奏をされたのでしょう。

私の手元にあるCDの中にはそのショパン・コンクール時の録音も数曲含まれています。
エチュードが3曲とコンチェルトの1番を聴くことができるのですが、エチュードでは鮮やかな指さばきを披露しつつ、さり気なく洒落た表現をしていると感じられるところもあり、ライヴですので多少のミスはあるものの颯爽とした印象を持ちました。一方コンチェルトでは、1曲1曲が短いエチュードでは感じられなかったスケールを感じることができました。これは私の先入観なのかもしれませんが、これらの演奏からはどこか“フランスの香り”が漂ってくるようにも思います。

 1989年2月、ラジオで「夜明けのショパン」という番組を聴きました。田中希代子さんの特集番組で、私が田中さんの演奏をお聴きした最初の機会でもありました。実はその翌日、私は或る入学試験を受けることになっていたのですが、どうしても放送を聴きたかったので勉強もほどほどにラジオに向かったのです(入試には作文もあり、前日聴いた「夜明けのショパン」にも触れて書いた想い出があります。試験結果はなんとか大丈夫でした)。
 番組はサン=サーンスの5番のコンチェルトの素晴らしい演奏で始まり、田中さんご自身のお声をお聞きすることもでき、1時間の番組はあっという間に終わってしまいました。その中で田中さんはショパン・コンクールの演奏が世に出ることはとても恥ずかしいと仰っていらっしゃいました。とても緊張しながら弾かれたのだそうです。私には堂々たる演奏に聴こえるのですが。
コンクール後の演奏活動に紆余曲折が無かったわけではないようですが、概ね順調だったと言って良いのではないかと思います(当時の詳しいことはあまりよくわからないのですが)。様々な国で演奏されたようです。

 安川先生は「田中さんのリストの「鬼火」とドビュッシーの「花火」は特に印象に残っている」と話されていました。残念ながら「鬼火」はCD化されなかったようですのでお聴きできなかったのですが(もしかしたら音源が無いのかもしれません)、「花火」は2種類の録音が残されています。録音された状況がよくわからないので(片方はモノラル、片方はステレオ)その2種類を単純に比較はできないのですが、安川先生がこの曲を挙げた理由がわかる気がしました。素晴らしい指さばきのみならず、フランスものがよく似合うように感じたからです。他のドビュッシーの作品、ラヴェルの鏡(何故か「鐘の谷」が収録されていない)、フォーレの小品、そしてサン=サーンスの5番のコンチェルトも録音状態が良くないにも関わらず演奏の素晴らしさが伝わってくるように思います。


 「夜明けのショパン」では田中さんの小学校の頃の担任の先生のお話もありました。その先生によると田中さんは運動神経が良かったのだそうです。ピアノ演奏は運動神経や筋肉の質によって変わってくるように感じますので、そういう点でも優れた方だったのかもしれません(他の楽器もそういうところはあるでしょうけれど)。また同級生の方のお話もあり、そちらによると「ピアノを弾いて」と頼むと「じゃぁ死んでて」と答えたのだそうです。「死んでて」と聞くとビックリしますが、恥ずかしいから弾いてるところを覗き込んだりしないで欲しいという意味を親しい友人にそのような表現で伝えたらしいです。ウィットに富んだ少女だったのでしょうか?それにしてもショパン・コンクールの録音を「恥ずかしい」と仰ったり、活発なようでどこか控え目なところもお持ちだったのかもしれません。

その放送の中で田中さんはクララ・ハスキルが好きだったと仰っていました。そういえば演奏のスタイルが少し似ているような気「も」します。病気にかかってしまったイメージが共通しているようにも感じられなくもないのですが、それは恐らく偶然でしょう。健康だった時代からそう仰っていたようですから。

 病気にかかってしまった為でしょうか?「演奏にどこか陰がある」と言う人も少なからずいます。しかし私はそう感じたことがありません。私にとって田中さんの演奏は溌剌としていて一点の曇りもないように聴こえるのです。それは引退の経緯を知った後でも変わりません。もしかしたら私は鈍感なのかもしれません…。


 田中さんは病に倒れられた後、1996年に亡くなるまで後進の指導にお力を注がれました。 膠原病という病気で引退を余儀なくされてしまったので、ご自分で弾いて聴かせるという指導ができませんでした。門下生には言葉で説明しながらのレッスンだったのだそうですので、上手く伝えることが難しいと聞きました。録音で聴いた演奏では(テンポの速い曲では)生き生きとどの曲も比較的他の人の演奏よりも速めのテンポを取っていらしたようでした。そのような方でしたから余計にでしょう、ほんのワンフレーズすらピアノで生徒に聴かせられないことが残念だというでした。しかし指摘するポイントは的を射たものだったという何人もの門下生の話を聞いたことがあります。

 「夜明けのショパン」の中で田中さんは「もしも神様が「お前からはみんな奪ってしまったけれど、お皿を洗う能力だけ返してあげよう」と仰ったら、私は飛び上がって喜ぶでしょう。お皿を洗うことでも自己表現はできるのだから」と仰いました。

 ピアノを弾けなくなってしまわれましたが、残念ながら亡くなってしまいましたが、私にとって田中希代子さんはこれからもずっと「ピアニスト」であり続けるでしょう。
時折田中さんのCDを取り出して田中さんの「自己表現」を聴いていこうと、そして健康であるということはもしかすると当たり前なことではないのかもしれないと、思っています。健康に感謝しながら色々やらねば…田中さんを想い出す度、素晴らしい演奏と共に、そう思います。


  <またいつか振り返るかも>