ある時巡り会った先生は仰いました。
「関西出身でいつも関西弁を話す学生がチャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトを弾くと、音楽が関西弁に聴こえることがある」
それを聞いて私はその先生に尋ねました。
「標準語ならいいのですか?」
その先生は
「標準語なら大丈夫。それから関西の人でも標準語との使い分けができる人だったら問題ない」
…恐らく「関西弁」というのはひとつの象徴であって、他の「お国ことば」でも同じことが当てはまるのでしょう。曲も「チャイコフスキーのコンチェルト」に限ったことではないと思います。「関西弁のチャイコフスキーのコンチェルト」…私は昔見た(聴いた)「おしゃべりヴァイオリン」というのを思い出しました。
「おしゃべりヴァイオリン(正式名称は不明)」はヴァイオリンの音を使って言葉を表現するという、音楽とはちょっと違うものです。よく憶えているのが「チリ紙交換」のおしゃべりヴァイオリンです。
「ご町内の皆さま、ご家庭内でご不要となりました、古新聞・古雑誌などございましたら、お声掛け願います」というチリ紙交換のトラックがスピーカーで流す文句をヴァイオリンで表現するのです。正確には「コトバ」は話していないのでしょうけれど「ご町内の皆さまぁ〜〜ご家庭内でぇ〜ご不要となりましたぁ〜古新聞…」という言い回しは独特でしたが、TVで放送されていたので全国共通だったのかもしれません。その「コトバ」のニュアンスが伝わってきて本当にヴァイオリンが「ご町内の皆さまぁ〜〜ご家庭内でぇ〜ご不要となりましたぁ〜…」と言っているようでした。
この「おしゃべりヴァイオリン」はヴァイオリニストがやっているのではなく(もしもヴァイオリニストだったら失礼)、例えるならば腹話術のような感じとでも言ったらいいのでしょうか?まぁ、そんな感じです。そういう意味で、ヴァイオリンという楽器の出せるニュアンスはかなり幅広いのではなかろうか?と感心しつつ、ゲラゲラ笑いながら「チリ紙交換」を聴いていた記憶があります。
「関西弁のチャイコフスキー」が何となく想像できてしまった私は、音楽が「はなし言葉」の影響を受けるというのはヴァイオリンに限ったことではないのではないかと思ってみました。
何かのきっかけで自分の話し方を録音したものを聞いたことのある方は多いでしょう(例えば留守番電話の応答等)。そういうところで自分の話し癖というものに突然気付き驚いたことのある方もいらっしゃることでしょう。…実は私もそのひとりだったりします。「あぁ!!こんな風に話してたのかっ!!!がっかり。」と思ったのですが、練習の為に自分が弾いたピアノの音を録音し、聴き返した時にも全く同じことを感じてゾっとしたことが数知れずあります。自分の話し方そのものがピアノの音となっていたのです!!
もしかしたら他の誰にも気付かれず自分だけで気にしていた&いるのかもしれませんが、「タマゴが先か?ニワトリが先か?」ではありませんが自分の話し方を直そうと試みたり、ピアノで出てくる音が変われば話し方も変わるかもしれないと思ってみたり、バカバカしいようですが結構真剣に直そうと試してみたものです。最近は半分諦めましたが。
私は関西弁を話せません。また「標準語」が厳密に何処で話されている言葉なのかと考えても適当が答えは出てきません。東京で話されている言葉は「標準語」に近い言葉なのでしょうけれど、実際に標準語なのかはよくわかりません。NHKのアナウンサーの言葉使いはほぼ標準語という人もいますが、違うという人もいますし…「標準語」が実際話されている場所というのは何処なのでしょう?
辞書には「標準語」と一緒に「共通語」という言葉が参考に載っていました。「共通語」というのは「東京語」と言って差し支えない言葉のようです。全国どこで使っても意味が通じるということなのでしょう(流行り言葉は当然除くでしょうけれど)。「標準語」はもっと厳格なようです。ここに引用すると何かトラブルだの権利だのが出てきてしまうかもしれませんので、興味をお持ちになられた方はどうぞ辞書をお引き下さい。
一番最初に触れた
「標準語ならいいのですか?」は、そのまま「共通語(東京語)」と言い換えた方が正確なのかもしれません。
「標準語なら大丈夫。それから関西の人でも標準語との使い分けができる人だったら問題ない」
その後には実は続きがありました。
「日本語でも大丈夫なのでしょうか?」
その先生は
「大丈夫」
と仰いました。その先生はきちんと話の隅々まで神経が行き届いた方なのでしょう。たとえ私がそれ以上質問を続けても答えが返ってくると感じたからです。しかし私はここで質問を止めました。それは私は自分が日本人なので、取り敢えず「大丈夫」ならそれでいいと思ったからでした。その頃私はひとりであーでもない、こーでもないと、もがいていた時期でもありましたから(それは自分で選んだことだったのですが)その言葉で充分だったようにも思います。もしかしたら自分が進むことのできない答えが返ってくるかもしれないと思い正直怖かったのかもしれません(当時)。
恐らく日本語というのは比較的穏やかな発音の言語なのではないかと感じます。ドイツ語、イタリア語等のニュアンスに比べるとかなり平坦にも感じられます。しかし、フランス語と並んで情緒豊かな言語とも言われています。私は日本に生まれ、日本で育ち、日本語を話し、顔は時折中国人に間違われるものの、日本人として生きてきましたので、今更似非外国人にはなりたいとは思いません。現在は幸い演奏家もかなりワールドワイドな人材がいたりしますので無理をして外国人を気取る必要もないと、ちょっと安易に考えてみたりもします。
「日本人に西洋音楽は無理無理」と仰りつつ、ご自分も日本人でありながら日本でピアノをお教えになり、挙句の果てには毎年リサイタルを開かれる(チケットは毎回生徒(どうやら昔の生徒も動員されるらしい)ひとりにつき5〜10枚ずつもれなく割り当て、つっかえずに弾ける曲は稀…こういうのを「リサイタル」と呼んでもいいのかは不明)…という矛盾だらけの方に遭遇したこともありますが。そういう方は「おめでたい方」として放っておくのがいいのでしょう。
私は時折日本人の演奏を聴くとホっとすることがあります(除・おめでたい方)。出身地は違っても同じ国で生まれ同じ言葉を話している人の演奏に無意識に親しみを感じるのだと思います。反対に日本国籍をお持ちでも、生まれてからのほとんどの時間を日本国外で暮らしてきた方の演奏には当たり前かもしれませんがそのような親近感は湧きません。しかし顔が日本人だったりするので、ちょっとした違和感を憶えてみたり…。
「日本人の演奏には個性が感じられない」と言われる場合もありますが、そもそも日本人は何でも「あからさまに」主張をする傾向の民族ではありません。だからといって、全く何も考えていなかったり主張が無いとも思えません。ただ、「こうある(弾く)べきだ」ということを、まるでマニュアルでもあるかの如く、キレイに誰にでも同じように教育してしまった時期があった事実は否めないとは思えます。しかしそれだけで「日本人は無個性」というレッテルを貼るのは少し乱暴な気がします。何故なら音楽とコトバのビミョーな関係はきっと昔からあったでしょうから。話し癖まで同じ人はいくらなんでもそうそう見当たらないでしょうし(身内を除いて)。それとも音楽とコトバのビミョーな関係を無いものとしてしまうほどの強烈なシステムが存在したのでしょうか?…だとしたらかなり恐ろしいです。
「日本人だからできる表現」というものも今は受け入れられてきているように感じます。ですので「私は」日本人として日本語の解釈で楽譜を読み、表現していきたいと、また、きっとそれしかできないのでは?と思っていたりするのです。
<つづく予感>
追記・またもややってしまいました!!!!おしゃべりヴァイオリン(バイオリン)を弾かれていらっしゃる方はどうやら「芸人」ではなくて「音楽家」のようです。ただクラシック音楽だけにとらわれず、様々なジャンルでご活躍されていらっしゃる方のようですので「ミュージシャン」と書いた方がいいのかもしれません。いずれにせよ、鋭い耳をお持ちの方のようです。少なくとも2人はいらっしゃるようで、私がどなたのおしゃべりヴァイオリンをお聴きしたのかわからないのですが。おしゃべりヴァイオリンはどうやら言語学関連の書物にも紹介されているようです。恐るべし!おしゃべりヴァイオリン!! 2004.5.27.