ソ連時代、ソ連の芸術家やスポーツ選手(恐らく他にも人々に影響を与え得た人達も)は政府から厳しくその活動を見張られていたと聞きます。危険を冒して亡命する人が多かったのは有名かと思います。
芸術において、作品の発表を許されなかった作曲家。国賓を招く時には必ず白鳥の湖を踊らされ、海外公演の時には常にKGBに全ての行動を監視されていたというマイヤ・プリセツカヤ。私にとってはこのふたつの事が特に印象にあります。他にもソ連邦政府が行った芸術への介入は、現代日本に住む私には考えられないような状況であったようです。
1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットした国が続出したという事もありました。モスクワ・オリンピックのマスコット“こぐまのミーシャ”を密かに気に入っていた幼少の私は「ミーシャが何をしたの!?!?」とミーシャのせいで日本もオリンピックをボイコットしてしまったのだと大きな勘違いをし、ショックを受けた記憶があります。
嗚呼!子供とはいえ激し過ぎる勘違い!!
4年に一度のオリンピックを政治の判断で断念せざるをえなかった選手達の無念の表情が過去の映像として流れる度、何か哀しい気持ちになります。今年がオリンピック・イヤーなだけに余計にそう思うのかもしれません。オリンピックがテロの標的になるのではないかと、私が記憶している全てのオリンピックで警戒がされていました。現在の世界情勢を考えると今年のオリンピックが無事に始まり、そして幕をおろす事ができるよう祈らずにはいられません。
国外からも何か不穏な目を向けられていたソ連という巨大な国。今となっては過去の国家ですが、当時はどのような国だったのでしょうか?…しかし単なる興味のみで色々探るのにはためらいが伴われます。自分の意思とは関係なくその国に生まれ、育ち、生きてきた人々の存在を考えると同じひとりの人間として、どこからどこまでを聞いてもいいのかわかりかねるからです。
ソ連に生まれた事が幸せな事であったか不幸な事であったのか、それはそこで生き、感じた人にしかわからない事でしょう。しかし、よその国から決して良いイメージを持たれていなかったという現実もあったわけで、よその国・日本に住む私はそっと自然に入ってくる情報にだけ耳を傾けていればいいように思うのです(聴力を駆使して)。
ペレストロイカ&ソ連崩壊以降の話は時々聞く事ができますが、それ以前(ソ連時代)の話は歴史の教科書に載っているような事柄以外滅多に聞くことはありません。現在でも口にする事はタブーとされているような事項もあるのではないかと折々に感じる事もあります。
ショスタコーヴィチのヴァイオリン・コンチェルト第1番はそのような政治の介入によって作品の発表を一度は断念せざるを得なかった作品です。
1948年にスターリン政権文化委員会のアンドレイ・ジダーノフによって行われた「ソ連の人民に馴染まない形式主義」という抽象的な批判がソ連の作曲家に対して向けられ、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ミャスコフスキーといった人達が標的になりました。皮肉にも同じ1948年3月に完成したこの作品は、そのいわゆる「ジダーノフ批判」により発表を見合わせる羽目になったのです。もろに批判のあおりを受けた格好です。そしてスターリンの死後2年という間をあけオイストラフをソリストにムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィルの演奏により1955年10月29日に初演されました。完成から7年半後の初演でした。
スターリンの死後、何故すぐに演奏しなかったのか、という事には理由がありました。
いくらスターリンが死去しようとも、いきなり政権の方針は変わらなかったのでしょう。ショスタコーヴィチはこのヴァイオリン・コンチェルトを政府に没収される事から守る為に演奏時期を慎重に待っていたというのです。
「ソ連」という国は私には謎が多過ぎる国です。
話は少し逸れますが、スターリンは1953年3月5日に没しました。ところが何と同じ日にプロコフィエフも亡くなっているのです。運命の皮肉とでもいうのでしょうか。嗚呼!
このジダーノフ批判がされたのは(恐らく)2月10日で、ショスタコーヴィチのヴァイオリン・コンチェルト第1番が完成したのは3月24日でした。ショスタコーヴィチがこの曲に着手したのは前年1947年6月21日(7月21日説もあります)といわれていますので、曲のほとんどが出来たところでこの批判がされたという事になります。現にショスタコーヴィチ自身も批判を受けた時には曲のほとんどを書き上げていたと言っていたという事です。
ここで私がこの曲について書こうと思ったきっかけを書きましょう。
何故今日書こうと思ったのかといえば、それは単なる「気まぐれ」なのですが、この曲を通して音楽がいかに社会(政治)の影響を受けてきたのかという事をまとめて考えてみたかったという事がありました。それがきっかけといえるのではないかと思います。
批判の対象となるほど芸術が社会・政治に影響を与えるという事は或る意味素晴らしいとも思えますが、当時のソ連の状態を考えると、戦時下の日本における西洋音楽に対する扱いがオーバーラップするようで、何とも複雑な気持ちになります。
話がブッ飛びますが、1989年にシルヴィ・ギエムがパリ・オペラ座から去りロイヤル・バレエ(イギリス)に移籍した際に、フランスの国会で「国家の損失」という扱いで話が出たと聞いた事があります。その後(恐らく時間を置いてからではないかと思うのですが)ギエムはパリ・オペラ座で公演を行っているのですが(ゲストの扱いでしょう)、政治の場で純粋に文化を守るという姿勢が具体的に示された珍しい例ではないかと感じます。どうやらマスコミが移籍の件で騒いだ事を受け国会で答弁を求めた人(恐らく政治家でしょう)がいたという事です。
これはジダーノフの場合とは明らかに違うケースです。このような形での政治と芸術の関わりは或る意味理想的なのではないかと思うのですが、これが政治家のパフォーマンスであったら…そうでない事を願いたいと思います。フランスでの話題ですので確認が難しいのですが。
曲について書いてみましょう。この曲は好みはともかく20世紀を代表するヴァイオリン・コンチェルトとして、プロコフィエフの2曲、ベルク(、ハチャトゥリアンも?)と並んで後世に残る作品のように思います。
私がこの曲を初めて聴いたのは1992年だったでしょうか、テレビから流れてきた諏訪内晶子さんの演奏でした。ライヴの演奏だったのですが素晴らしい演奏だったように思います。その後、竹澤恭子さん、ヒラリー・ハーン、五嶋みどりさんの演奏を聴きました。何故か女性ばかり。
初演者のオイストラフの演奏もCDで聴きました。オイストラフの録音は幾つかあるようなのですが、初演の2ヶ月後にミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルと共演したものと1956年に初演のメンバーと録音したものを聴きました。オイストラフはショスタコーヴィチと親交が深く、初演の際は万全の準備をして演奏したという事です。この曲はオイストラフが初演する事を念頭に書かれたコンチェルトで、勿論オイストラフに献呈されています。
生の演奏では2002年の五嶋みどりさんの演奏がずば抜けて素晴らしかったと思います。ヤンソンス指揮 ピッツバーグ響との演奏だったのですが、聴いた後の心地良い疲れは滅多に体験する事はないように思われました。私が聴いた前日にもこの曲が他の会場で演奏されたのですが、そちらに行かなかった事を後悔してしまったほど、私にとって「ライヴ」の素晴らしさを感じさせてくれた演奏でした。
五嶋みどりさんの演奏はアッバード指揮 ベルリン・フィルの素晴らしいライヴCDもあるのですが、生演奏のインパクトが凄過ぎて演奏会前と演奏会後ではCDの印象がすっかり変わってしまいました。私は1楽章は五嶋みどりさんの演奏でピンときた感じがしました。
第1楽章はノクターンです。ショパンによって確立されたと言っても過言ではないノクターンですが、何か厳格な形式があるわけではありません。
この1楽章のノクターンは非常に重く抑制された音楽のように感じます。ショパンのノクターンからは想像もつかないような曲です。私が戸惑ったのは恐らくその点です。
ショスタコーヴィチとショパンが同じような曲を書くわけはありませんが、この曲を「コンチェルトの第1楽章」としてだけではなく「ノクターン」としてもとらえるのに時間がかかった気がします。私にとってそこを紐解いてくれたのが五嶋みどりさんの音楽だったのでしょう。
第2楽章はスケルツォです。1楽章とは打って変わって輝かしい響きが印象的です。しかし短調なのです。ショスタコーヴィチならではと思える響きも出てくるように思えます。
第3楽章はパッサカリアで私の最も好きな楽章です。この楽章の終わりには長大なカデンツァがあり、そのまま第4楽章のブルレスクへなだれ込むのですが、この橋渡しは実に見事な演出のように感じます。
パッサカリアはスペインの3拍子の舞曲でゆっくりなテンポです。しかしここでは舞曲の形式を使いはしたものの、踊る目的では書かれていない事は明白です(コンチェルトの中のひとつの楽章ですので当たり前といえば当たり前なのですが、ここに「パッサカリア」という形式を持ってきた意味があるはずです。そうでないとしたら「第3楽章 アンダンテ」で成立するでしょうから)。
ここには気高く哲学的な世界が存在するように思っていたのですが、奇しくもオイストラフも哲学的という言葉を残しているとスコアの解説にありました。あ〜よかった。
パッサカリアは一種のヴァリエーションでもあり、バスの進行が変わらないという特徴があります。この楽章も勿論そのようにになっています。重厚なオーケストラの響きで始まり、第2変奏からソロ・ヴァイオリンが入ってきます。ロマンティックなようでもあるのですが、それとは少し違うものも感じます。ショスタコーヴィチはパッサカリアという形式を利用して、ともすれば感傷的に演奏されそうなこの音楽を「そうではない」と書きたかったのではないかと考えてみました(真偽は不明)。
変奏が終わり、オーケストラの音が無くなるとカデンツァが始まります。最初はパッサカリアのテンポのまま始まるのですが、カデンツァの最後はブルレスクのテンポ(ブルレスクは「滑稽な曲」と訳されるように、特にテンポ指定のある楽曲ではありませんが、このコンチェルトの場合はテンポ指定がされているので、そのテンポにまで持っていく必要があります)にまで上がります。つまり、ソリストは3楽章にきて約5分(演奏者によって時間は個人差が生じるでしょうけれど)のカデンツァを演奏し、そのカデンツァの最後には次の終楽章のテンポに自分で持っていかなければならないというワケのわからない構造になっているのです。
もしもカデンツァの最後でテンポが速くなり過ぎたり、遅過ぎたりしたら4楽章への橋渡しはぎこちないものになるでしょう。このカデンツァは聴いている側は「聴きどころ」として注目して聴く場面のはずですので、演奏者の負担は相当のものなのではないかと思います。私はここでコケた演奏を聴いた事はないのですが、きっと過去にはコケた人が存在したのではないかと&これから先コケる人が出現するのではなかろうかと密かに心配しています。
そしてブルレスクが始まります。
3楽章の緊張感溢れるパッサカリアからカデンツァを経て、終楽章は華やかに繰り広げられます。
途中ソリストが忙しく弾いているところに、オーケストラから3楽章の断片が聴こえてきたりもします。オーケストラの中のソロ楽器とソリストとのかけ合いや、拍子の扱いが込み入っていたり等面白い部分も多く、私にとってはあっという間に終わってしまう楽章です。
「祝祭的色調」と書いてある解説がありました。なるほど、そんな感じです。
最後は派手に長調で終わるのですが、やはりこの曲も短調で開始されます。つまり全楽章短調で構成されているのです。
私はずっと前から好きになった曲が短調だったという事が多かったので、この曲に引き寄せられたのかもしれません。聴いた人が全員感動する曲などありはしませんので、この曲が好きではない人もいると思います。ですのでお薦めはできませんが、もしもまだこの曲をご存じなくて興味が湧いたという方がいらしたら是非お聴きになってみて下さい。
でも、つまらなくても私は責任取りません。
最後にこの曲の作品番号の謎です。
この曲は作品99として1956年に楽譜が出版された後、99は誤りで作品77に訂正されたという説明を読んだのですが、この作品に関して現在出回っているものには「作品99」と表記されているものが多いように感じます。訂正が徹底されなかったのでしょうか?不思議です。
ただ99と77は、例えば癖のある文字であったり乱暴に書きなぐったりした場合、どちらにも見える気がしますので、その辺で誤解が生じた可能性はあります。
もしかしたら作曲された年と出版された年に開きがある為、そのような様々な表記に至ったのかもしれません。私は個人的には99が好きなのですが、内容が変わるわけではありませんのでどちらでも構わないと思っています。
どちらかに統一される日は果たして来るのでしょうか?
<おしまい>
追記
調べてみたら作品99は「映画音楽“第1軍用列車”」という作品であることが判りました(実は凄く簡単に調べられたんです。調べ得るデータは正確にすべきですね。失礼しました)。この「映画音楽“第1軍用列車”」という作品は1955年から1956年にかけて作曲されたという事です。ヴァイオリン・コンチェルト第1番が「初演」された1955年10月29日と時期が一致します。
どうやら77と99の違いは「悪筆・なぐり書き系」の誤解ではなさそうです。
作品77前後の作品は1947年と1948年の作品で、ヴァイオリン・コンチェルト第1番が「作曲」された年代(1947年から1948年にかけて)と合致します。恐らく最初は(ヴァイオリン・コンチェルト第1番は)初演された1955年に作曲されたものとして「作品99」と扱われたのではないかと思います。
…となると、ひとつ疑問が。「作品99」として発表されたその当時、既に「作品77」として発表されていた作品があって然るべきです。その作品は一体何処へ行ってしまったのでしょう?謎が謎を呼んでしまいました。その辺りの事情をご存じの方がいらしたら是非教えて下さい。もしも判明しましたらまたここに書きます。それまで、謎は謎のままで…。 2004.5.6.