「どうして一人の土曜日は、こんなに天気がいーのだろうか」
 トリプルトップのストロベリィナッツを食べながら、岬郁子(みさきいくこ)は、お天気の午後をもてあましていた。
「こーゆー日にさぁ敬(たか)さんとばったり会ったりしてさ。んでもって『郁子、海を見に行こうぜ。そら、オレの後ろに乗りな』なんて、言ってくれたら、もー最高なんだけどなー。‥でも、きっと敬さんはぜぇったいスカイハウス入ってさ、まゆさんと楽しそうにしちゃうのよねー。‥‥まったく、あたしは報われない!」
 カバンを両手でつかんで、テニスラケットよろしく、ブンと振り回してみる。
「‥由貴とテニスしてた方がよかったかなー。うー、つまんないっ!敬さんよりいい男はいないのだろーか!? いつまであたいは不幸な少女してればいいの?」
 思わず泣きそうになるのを、アイスにかじりつくことで抑えながら、そして彼女は名案を口にしてみた。
「あ、そかー。今日あたりだったら、ここら辺立ってたら、ナンパされちゃうかもねー。あーそれいー。あたしってば、都合のいいことに可愛いかったりするし。よし、決めた!んでもって、敬さんに見せびらかしてやる」
 折しも、土曜の午後の街は、若者達が多く出歩いていたりする。
「うーん、こーしてみると、ケッコーこの街にもいい男は多いのねー。今まで敬さん以外の人の事って考えた事なかったからなー。‥‥何か馬鹿らしくなってきちゃった」





「あ、あのひと、歩き方似てる、いーな。あ、あのひと髪のカンジが似て‥‥なにやってんのよ郁子‥‥」
 彼女に声をかけてくる男の子は、いた。しかし彼女が彼らを近づけなかった。中沢敬之(なかざわたかゆき)には、だれも似ていなかったからだ。
「敬さんに似てたら、敬さんよりいいおとこな訳ないじゃないの。本当に‥‥でも、見せつけてどうすんだろ‥ねぇもしあたしに好い人ができたら、敬さんは‥‥ 『そーか、よかった。これでオレも堂々とまゆみちゃんと』 あーっ!バカ敬!なによそれは、そんなのいやだ」
 う――――っと、うなりながら、郁子はアイスに噛み付いていた。
(イヤだイヤだ、こんなあたし‥もう、誰でもいいからどっかへ連れ出してよぉ!)






 捨てられた子猫の様な瞳で立ち尽くしている彼女の耳に、聞き覚
えのある音楽が届いてきた。
「‥このピアノの曲は‥」
 音の流れてくる方向を探していると、一台の車が彼女の前をゆっくりと通り過ぎていった。音楽はその車のカーステレオから、開け放した窓を抜けて、彼女の耳に届いていたのだった。
「きれいなブルー‥」
 あんな車に乗ってみたい、ふっとそう思って、彼女は車の進む方向に、早足で歩き出した。
(止まって、)
 まるで蜜の香に惹かれて飛ぶ蝶のように、彼女はその音楽を追っていった。松岡直也の『A SONG OF THE WIND』。彼女はその曲をよく知っていた。
 思いが届いたのか、その車は、彼女と擦れ違ったところから数百メートルの店先に止まった。
(止まった!)
 ファンシー&インテリアショップ『KIYOKO』の入口に車を寄せて、ウィンカーを出したままで車から降りた運転者は、ひどく重そうな足取りで、店内に入っていった。
 郁子は急いで車に駆け寄ると、店の中を軽く覗き込んだ後で、ゆっくりと車内を眺めてみた。
(もしかしたら、あたしのかぼちゃの馬車かもしれない)
 そう思うと、車にはあまり興味のない彼女でも、その車に対しては妙に親しみがわいてきて、いろんな事を知りたくなっていた。ボディカラーが彼女の好きな青色(moonblue)だった事も、その要因のひとつかもしれない。
 助手席の窓から、中を覗いてみる。小さな可愛いピンクの子猫が、ちょこんと小首を傾げ座っているのがとても嬉しかった。
「ふぅん、思ったよりキレイなのね。ウチの店の車とはだいぶ違うなぁ‥。あら、このシートカバーって、よく見るとエプロンなのね。どんな人が乗ってたっけ‥」
 珍しげに、メーターパネルなどに見入ってると、後ろで声がした。
「‥‥あ、れ?」
 振り返ると、白いワイシャツにグレイのズボン、少し背の高い青年が『KIYOKO』の小さな包みを片手に、怪訝そうに彼女を見つめていた。
「あ、あなた、この車の人ですか?」
 無意識に窓枠にかけていた手を、振り向きざまに外しながら郁子が尋ねると、彼は包みを持っている方の手で頭をかいた。
「そう、だけど‥駐車違反?私服の婦警さんだったりします?」
(二十二、三才くらいかな?にしてもなんか元気なさそう‥‥)
「あ、わたしはただの女子こーせーです。ほら、そのしょーこにアイス食べてるでしょ」
 真っ直ぐな瞳で見つめてくる彼女を、少し理解しにくそうな顔で、彼も見つめてみた。
「ははっ、そうだね‥ なんか、ついてるかな?」
「‥何に?顔に?」
「車に」
「かわいいネコがついてる」
「ははっ‥‥」
「タイヤもよっつついてるよ」
(うー、これだからこの年頃は苦手なんだ。何を考えてるんだか)
 彼はまた頭をかいた。とりあえずタバコでも吸おうと、ポケットからサムタイムを取り出し、マッチを擦った。郁子に煙がいかないように、注意深く風下に煙を吐いて。
「あのさ、君は誰?」
(大人をからかうとコワイんだぞ)
 彼はそんなことを考えていた。PTAに言いつけるぞ、とかいって脅かしてやろう、なんて事も。
 しかし、郁子は、彼のそんな目論見などお構いなしで、続けていく。
「あっ、フツー人に名前を尋ねる時とゆーのは、まず自分から名乗るモノですよと、うちのガッコのセンセが言ってましたよ」
「あ、スイマセン。僕は彩‥なんで僕があやまんなきゃいけないワケ?」
「えっ!サイ?うわー、お兄さん本当はサイだったのかーすごぉい。あの映画出てたゾウのひととお友達なのかぁ そうすると」
「違うーっ!」
 吸いかけのタバコを投げ捨てた彼はカンペキに頭にきていた。
「彩っていう苗字!彩るって書くの!彩浩(ゆたか)、ゆたかは、さんずいにきちって書くの」
「じゃあ浩っていう字って事は、コウっても読めるわけで、彩浩‥うわーっサイコーッ!すごぅいなまえぇ」
(ほっとこ‥‥なんだコイツ)
 一人で以上にはしゃぐ郁子に冷たい視線を送ったあとで、吸殻を拾い上げると、浩はもう彼女に構うのを止めようと決めて、黙って彼女の横を通り過ぎ、運転席のドアに手をかけた。
 そんな彼の態度に、急に郁子は表情を変えた。
「あ、ごめんなさい。おこっちゃいました?‥おこりますよね、やっぱり‥ごめんなさい、あたしうまくできなくて‥あの、お兄サン、なんか沈んでるみたいだったから、あの、元気に、楽しくさせてあげようとおもっ‥たんですけど  ‥‥ごめんなさい」
 はじめ浩は、がらっと変わった郁子の態度に、またからかわれているのかもと思った。しかし、彼女のうつむく肩先が、細かく震えているのに気付くと、彼女の言ってる事が本当だとしたら、自分はものすごく大人気ない事をして、優しい人を傷つけてしまったかもしれない、などと考えられる平静さを取り戻した。そして、二日前、木曜の夜の事を思い出していた。






 彼は、ドアにかけた手を外し、その手で、カチカチと耳障りなウィンカーを消した。
 郁子の前にしゃがみこんで、両腕を組み、下から彼女の顔を覗き込んだ。
「‥おこってないから。‥沈んでるふうに見えた?」
 郁子は、もう一つ、ぺこんとごめんなさいと頭を下げてから、浩と同じようにしゃがみこんだ。
「あの、さっきあっちの通りで見かけたの。松岡直也が聞こえて‥ あたしの大好きな曲なんです、それでどんな人が聴いてるのかなって」
「ふうん」
 彼は、無意識にポケットからタバコを取り出そうとしていたのに気付き、半分抜きかけたのをしまうと、ポンポンと、まるで子供に『ナイナイ』をするように軽く叩いて。そして郁子に笑んで見せた。
「高校生って言ったよね。松岡、知ってるんだ」
「あたしの知ってる人が、すごいファンだから」
「そうかぁ」
 うんうんと、一人で頷きながら、彼は段々嬉しそうな顔になっていった。
「いやぁ、僕も好きでねぇ。あ、アイス早くかじっちゃわないとコーンとけちゃうよ」
「あっ! ほんと。ありがとです」
 ぺろっと、小さく舌を出して笑う郁子の仕草を、彼は素直に可愛いと思った。
(いい娘なんだな、)
「‥君の言う通り、今の僕はひどくBLUEなんだ。こんな日は、ただアパート帰ったってやけ酒あおるだけだし、でも真昼間からって訳にもいかないから、いくらかでもHAPPYにしてくれるモノを探してうろついてみたりするワケ。いい音楽と一緒にね」
「何か、見つかったみたいですね」
 彼が持っている『KIYOKO』の包みを見ながら、郁子は言った。
「うん。それとね、もう一つ」
 浩は郁子の頬をやさしく、ぺちぺち、とたたいた。
「僕をHAPPYにしてくれそうな人も見つけた。
 はじめ、きょとんとしていた郁子だが、それが自分のことなのだと気付き、紅くなっていく顔を隠そうと、エヘヘと笑って俯いた。
「‥‥素敵な車ですね。海が似合いそう、こんな街よりも」
「そうかい? 嬉しいな、実は僕もそう思ってるんだ。んふふっ、君はすごいね、僕はすごく楽しい気分になってきたよ。えーっと」
 彼は腕時計を覗き込んだ。郁子もつられて覗き込んだ。彼は、にやっと笑って、彼女に軽く時計を突き出して見せた。
 彼の時計は、のっぺらぼうだった。軽く小首を傾げた後で、郁子は以前、友達のデジタルウォッチが、こういう事態になったことがあったのを思い出した。
「電池、切れてますね」
 彼は、にやにやっと笑って、ポケットからマッチ箱を取り出した。『織互織(おるごおる)』と書かれてある箱から、一本だけ抜いた。そして、腕時計の真ん中に立てて見せた。
「実は、日時計なんだ」
 そう言って、郁子の顔を覗き込んだ。
 浩の顔と、マッチ棒の影が映る腕時計とを交互に三回ずつ見つめた後で、彼女はふきだした。
「‥‥ぶぶ――――――――っ! やぁだぁ、ぷぷぷっ」
「はははっ、面白いでしょう?」
 浩も笑い出した。
「お兄サンって、思ってたよりずっと楽しい人、あ、楽しみ方を知ってる人なんですね、うふふっ」
「んー? そうかい? それでね、えーっと、今は‥二時頃、かな、なんだけどね」
「え? あ、はい、そーですね?」
 急に真顔で見つめられて、郁子はどきんとした。何だかよくわからないけど、どきどきし始めた。そんな内心を悟られまいと、彼女は視線を、自分の腕時計に移した。今、自分達がしゃがみこんでいる、すぐ右の店『KIYOKO』で買ったものだった。
 壊してしまった以前のお気に入りの、代わりを決めあぐねているところに、偶然立ち寄った中沢敬之が見立ててくれたもので、見事に今のお気に入りになってしまっていた。
 その時計が一時五十二分を指していた。
(‥日時計もダテじゃないんだ、なんかスゴイ‥)
「あのさ、よかったら」
「はいっ?」
「いや、あの‥良かったら、こいつの似合う海、に一緒に行かない? こんな日に、海辺に男一人佇むっていうのもなんかブザマだし」
(‥あらら、この展開は、)
 郁子は自分の考えていたことが、あまりにうまく運んでしまっていることに、なぜか赤面していた。
 実際、街をふらついてみたところで、また家に帰ってみたところで、落ち込み続けているだろうことに変わりはないのだ。
 それよりは、素敵な車で午後の海岸‥それに、なんかこのひと、ドキドキなんだもの‥
 郁子は『お気に入り』をチラっと横目で見た後、顔を上げた。
「うん、似てないから許す」
「は?」
「あ、ううん。んね、あたしヤキイカ食べたい」
「はっはっはっはっはっ、了解。それじゃ、早速、できれば急いで乗ってくれないかな」
 浩は、笑顔を保とうとしながらも、焦りを隠せない様子で、そそくさと立ち上がると、助手席のドアに手を掛けた。
「‥トイレ、行きたいんですか?」
「いや、座席に座ったらわかるよ」
 それでもキチンと、助手席のドアを閉めた後で、小走りに、運転席に滑るように乗り込むと、ドアを閉めるなり、キーを回した。
「あの、どーし‥」
 そこまで言いかけて、彼女はフロントガラス越しに、ハイセンスなツートン車の存在を認めて、そして納得した。
「理解(あんだすたん)? さっきからニラまれてたんだ‥駐車違反なんてカッコ悪いもんね」
「くすくすっ、了解(おーらい)」
 軽い出足でパトカーの横をすり抜けて、混み出してきた街を尻目に、空色の車は、海沿いの国道へと向けて加速を始めた。






「すいませーん」
 中沢敬之が、岬郁子の家兼ストアー『おみせやさん』に初めて顔を見せたのは、彼女がまだ中学三年の時の事だった。
「ほら、郁子、若い男の客だよ」
「母ってば、誤解されるような事言わないの。はい、いらっしゃいませです」
「あの『PURSONE』というクッキーはないですか」
「あ、あれ人気商品で、なんか在庫がうーたらかーたら」
「つまり無い、という事なんだ」
「無い、という事なんです。来週は入ると思うんだけど‥、これ、食べます?」
 そう言って、郁子は自分がかじりかけていたクッキーを敬之に差し出した。
「なんか、かけてない? これって」
「ちょっと食べてしまったのね。へへ、でもこの郁ちゃんのお手製だからおいしいぞぉ」
「はは、キミ面白いね。うん、うまいや。えーとオレは、」
 自己紹介を始めようとした矢先に、彼のパートナー、銀河陽史が飛び込んできた。
「敬ぁ、あった?」
「なん? お前、いいトコだったのに」
「こらこら、まゆみに言うぞ。私はバーボンを買いに来たのだ、まいったか」
「はいはい降参。あ、あれ無いって」
「えーっ! 食べたいのにぃ、あれ食べたいのにぃ」
「くすくす、はい、あーん」
「ふぇ? ‥んまいっ! こいつぁいけるぜ。おじょーさん、一体これはなんという」
「郁ちゃんのお手製だからおいしいぞぉ、というクッキーなのだそうだ」
「はい。そーして実はもっとあるので、面白いオニイサン達にあげちゃおなんて思ってますけど」
「陽史ぃ、オレは今、猛烈に感動している! 郁ちゃんも呼ぼう」
「片付くのか? ところで」
「うん。誰かさんがファミコンで遊ぶのをやめたら」
「へぇへぇ。あのさ、引越し祝いをやるんだけど、来ません? ご近所代表という事で」
「誰の?」
「僕らのさ。そこの『愉日微恵荘(ゆかぬけそう)』に今日越してきたんだ。僕は銀河陽史。で、こいつは」
「こいつは中沢敬之というんですよ、これがいいやつで」
「うん、おしいやつを亡くしたよね」
「まだ生きてるってばよ」
「オニイサン達ってカッコイイ。漫才さんみたい、惚れちゃうかも」
「それはもう光栄の至れり尽くせりセロリにパセリ」
「じゃ、後で迎えにくるね」
「はい、笑顔でお待ちしてます!」

 そして彼女の恋が始まった。






「夏の日に!」
 車の中では、松岡直也のアルバム『SPLASH&FLASH』が流れていた。
「ふわぁ、詳しいね」
「あたし、12インチのパート1の方好き」
 窓の外を見つめたままの郁子のセリフに、浩は軽く頷くと、ハンドリングしたまま片手で後部席のカセットBOXから、別なカセットを選び出し、今かかっているのと取り替えた。
 ガチャガチャという音に気を惹かれた郁子が、視線を運転席の方に移すと、浩がカセットテープ片手に、コーナーでシフトダウン&アップしながら、もちろんハンドルもさばきながら、カセットを交換して、しかもそれをケースに入れてBOXに戻したりしているものだから、彼女はただもう唖然とするだけだった。
「‥‥どしたの? もう、窓の外は見なくていーの?」
「‥なんか、すご‥あ、」
 後部のスピーカーから流れる波の音、そしてピアノ。
『ON A SUMMER DAY/夏の日に PART1』
「あの、もしかして、さっきのつぶやきを気にしてくれて、とか‥」
「いや、僕も聴きたくなったダケの事」
 申し訳なさそうな表情の郁子に、浩はにっこり笑って見せた。
 彼女はまたどきどきし始めていた。何だか顔が紅らんでいる気がして、通りに視線を外した。
 走り去る景色よりも、擦れ違う同じ年頃の学生達を郁子は見ていた。普段、歩いている時に擦れ違う彼等や彼女等は、いつも自分よりもずっと大人に見えるのに、こうして見ていると、なぜかみんな子供っぽく見えてしまうのが不思議だった。
(そういえば、知らない男のヒトの車に乗るのって、これが初めてなんだ‥といってもオヤジ様の車にしか乗った事が‥あっ)
 国道と交わる交差点で、唐突に彼女は叫んだ。
「あーっ、やばいっ!!」
「うわっと」
 心地よく車を走らせていた彼は、運悪くセカンド発進の半クラッチ状態だったために、動転のあまり交差点の真ん中でエンストをしてしまった。
「ど、どーしたんでしょーか!?」
「うん。お母様に『知らない人についていっちゃだめですよ』って言われてたんだ」
 浩は、思わず吹き出しそうになるのを必死に抑え、素早くエンジンをかけ直し走り始めた。
「‥‥はぁ、なる程」
「あー、どーしよ‥うーむ、でもタクシーっていうのも考えようによっては知らない男の人の車で、あ、バスもかぁ‥んー、でも‥ 電車は?   でも、そうよそれとは別のモンダイなのよ」
 本気で悩んでる郁子がいじらしくて、浩は無性に彼女のアタマをなでてあげたくなっていた。
「あのさ」
「‥はいっ?」
「くすくすっ、つまり『知り合い』になればいいんでしょ、違う?」
「へ? あ〜っ、すごい! アタマいー、そうよ、そうそう、知ってればいーのね、うん、うん、すご〜い」
「でしょ? で、キミはもうすでに、僕の名前や、趣味やら、いくつかの事を知っているワケだ。もちろん、この車の事も」
「うんうん」
「それで、僕はまだ、君の名前を聞いていなかった」
 郁子は焦点の定まらない目を、五回位ぱちぱちさせた。
「あのー、お兄サン?」
「はい? 、浩サンでいーよ」
「あの、もしかして、ナンパに慣れてる方、ですか?」
「へ? ‥ぶわっはっはっはっはっはっ!!」
 思いっきり吹き出しながら、浩は右にハンドルを切り、適当な位置に車を止めた。サイドブレーキを引き、少しだけ、流れている音楽に別れを惜しんだ後でキーを回し、完全にエンジンを止めた。
「そんな風に見える? ‥軽いのかなぁ僕は」
「いえ、あの、‥そーじゃなくて、その、なんかカッコいいからそーなのかな、と」
 引き抜いたキーを手にしたままで、彼は少し照れ臭そうに頭をかいた。
「んー、とにかく、車から出ようよ。汐風が待ちきれなさそうだよ」
 ハンドルをこつんと叩いた後で、ドアを開け外に出る浩を、目で追っていた郁子は、自分でもドアオープナーに手を掛けながら、
(うーん、アブナイ‥惚れてしまいそーだ)
なんて思って、また顔を紅くしていた。






『大嵐(おおぞれ)海水浴場』の手前、芭知(おうち)の浜辺に、moonblueの車が『空になんか負けないぞ』と、停まっている。
 浩は始め、自分の一番好きな海・小海(おうみ)の波戸岬(はどのみさき)に向かうつもりだったが、エンストした直後、予定の変更を思い立ったのだった。
 理由は二つあった。
 まず、少しでも多くの時間を、この楽しい少女と海で過ごしたいから、となり町からは二十分とかからない、けれどきれいなこの芭知の海、を選んだという事。
 もう一つは、波戸岬は、今自分が落ち込んでしまっている原因であるひととの、思い出の場所だから、という事。今日そこに彼女を連れて行くのは、やはり失礼かなと思ったのだ。
 シーズンにはまだ早いが、土曜の午後という事もあって、向こうに見える海水浴場には幾人かの人影が見えた。もちろんこの浜には誰もいない。
(本当の海の楽しみ方を、まだまだみんな知らないんだよな)
 観光地に群がる車達を、冷やかし気味に見つめながらも、多少の感謝の念も彼にはあった。
(おかげでこっちが落ち着けるんだけどね。まぁみなさん好みがあるんでしょうが)

 ゆっくりと砂浜を歩きながら、浩は軽く振り向いた。少し戸惑いがちの距離を置いて、制服の郁子が小首を傾げながらついてきている。
 彼は立ち止まると、彼女に向き直った。
「僕はその、君の言うナンパなんていうのは一度もした事がなくて、だから、その、君をここに連れてきたものの、どうしたらいいのか見当が付かなかったりしてる。大体、年下の女の娘、なんていうのはどっちかというと苦手な僕が、しかも初対面の君と海辺を歩いているなんて、もう、すごい不思議なんだけど」
「あ、」
 郁子は、少しうつむいて、ポリポリと頬を人差し指でかいた後で、顔を上げた。
「岬、郁子です、あたし。ここの海は、あたしも好きなんだな。実はたまにここに来た事があったりして。そいでもって、あたしあんまり気つかわれるの好きじゃないし、お兄サンは、そのままでもじゅうぶんカッコいーから、あの、えーと、その‥そう、こんなに素敵な海なんだから、何してもきっと素敵に思えると思うんだ。だから、うん、お兄サンの、好きな事すればいいと思います、まる」
「‥‥郁子ちゃん、だっけ」
「はい?」
 浩はゆっくりと郁子に歩み寄ると、彼女を見つめたままで、左手を彼女の頬に当てた。
 浩の手から伝わる微熱のせいで、郁子の頬は、ますます紅みを増していった。高まる鼓動を抑えるために、彼女は努めて冷静に振舞おうとしたが、すべてを包み込むような暖かい浩の眼差しに、彼女は敗北を認めるしかなかった。
「不思議な娘だね。ありがとう」
「ど、どうも‥へへっ」
 ニコッと、顔中で笑うと、彼はそこに座り込んだ。
 不思議そうに見下ろす彼女に、もう一つ笑んでみせると、ワイシャツのボタンを外し始めた。
 全部のボタンを外してしまうと、そのシャツを脱いで、相変わらずぽかんとしている郁子の足元に広げた。
「どうぞ」
 浩は軽く右手で『PLEASE』をして、郁子を誘った。郁子はちょっとの間、それが何を意味しているのか理解できずにいたが、『座りなさい』なのだと気付くと、必死に手を振った。
「そ、そんないーんです、あたし別にスカートのまんまで」
「大人に恥をかかせるんじゃないの。これ、もう一回着ろって言うの?」
 Tシャツ姿の浩は、苦笑いをして見せた。
「あ‥じゃあ、あの、すいません、失礼します」
 なるべく汚さないようにと気を使いながら座り込むと、郁子はふぅ、と大きくひとつ息を吐いた。
「僕はねぇ、こうして浜辺にどかっと座り込んで、ぼけーっと海を眺めてるのが好きなんだ。ちょっとジジくさいかもしれないけど」
 ハダカになった両腕を後ろについた浩の身体は、ワイシャツを着ていた時よりも、がっしりして見える。
 郁子は膝を抱え込みながら、自分がものすごくいい気分になってきているのを感じていた。始めは恥ずかしさもあったけれど、それも今は気にならなくなっていた。
 彼との間の空気はとても自然で、座り込む前までのぎこちなさは、もうなくなっていた。
「あたしも、ボーッとしてるの好きだな」
「ふふっ、そうかい。嬉しいな」
 にこやかな笑顔で、眩しそうに波を見つめている浩も、本当に楽しそうに見える。そんな浩を見ている事で、郁子も楽しかった。
「‥なんとなく松岡直也が聴こえてきそう」
 ふっと、郁子はそんな事を口にしてみた。口にしてから、彼女は慌てた。
「あららっ、なんてキザな事を‥」
「いや、僕も今、同じ事を考えていたんだ」
 海を見つめたままの浩の言葉に、郁子は、ますます嬉しくなってしまった。
 二人はしばらく、何も言わずに同じ海を見つめていた。

 通りの向こうに、五分ほど前から、そんな二人を見つめている二台の自転車があった。
「‥やっぱり、郁ちゃんじゃない?」
「‥そうかなぁ、じゃあ隣のヤローは?」
「お前はなぁ、いつまでも彼女は自分の事だけ思ってる、なんて思ってんの?」
「そーゆー言い方はないだろーが‥」
 弱気なセリフの方が、この小説の発端少年・中沢敬之。もう一人は、彼の友達であり、何故か謎の多い少年・銀河陽史。彼等は、ミニコミ誌『SKY CLUB』の取材の帰りだった。
「声、かけんの?」
「おトモダチだもん。んー?」
「なんか陽史、今日は毒が多いんでない?」
「潮時ってやつかもよ。おーい郁ちゃーん」
 気の進まない敬之には構わず、ずんずん二人の方に進んでいくものだから、しぶしぶ敬之も陽史の後を追った。
「友達?」
 いきなりの二人の出現に、郁子の時間は一瞬止まった。
「敬‥さん、   」
 次第にはっきりしてくる筈の輪郭は、しかしどんどんぼやけていった。
(『見せびらかしてやる』―――初めからそんな気なんかなかったのに‥‥)
 ぺちゃんこになったわたあめみたいなキモチで、郁子は立ち上がれずにいた。
「郁子ちゃん?」
(会いたくない人? ‥こういうシチュエィションというのはだいたい)
「こんにちは」
 思いあぐねている浩に『そのうちの一人』陽史が思いの他軽く、笑み混じりに挨拶してきたので、彼もつられてにこりと笑った。
 自分の知らない男と一緒にいる事に、何となく腹が立っている中沢敬之は、むっとした表情で、郁子たちから目をそらしていた。






「あのー、となり町の『プリントBOX』の方ですか? もしかして」
「陽史、お前知ってんのか?」
「く・る・ま。あの色、見覚えあるだろ」
 そう言って、陽史は手にしている原稿を敬之の目の前で泳がせた。
「‥ああ、あ・そうか」
「えーと、?」
「あ、僕は銀河君と言って、彼女のお知り合いというか。ミニコミを作っているんで、あすこのお世話になっているわけなんだけど。駐車場に停めてあるのをいつも見てたから」
「へぇ、じゃあそれを僕が印刷してたりするわけだ。奇遇だね。どうかな? いっしょに」
「いい天気だものね。ほら、敬、あ、こいつは中沢。暗いけど気にしないで」
(悪かったな)
 とりあえず陽史に合わせて、中身の入っていないカバンに座り込んだ敬之は、無遠慮に浩の顔を見つめた。
「僕は彩。彼女とはついさっき知り合ったんだけど、気に入ってしまったのでここまで連れてきたんだ」
「へー、行動力のある人って好きですよ。ハンパじゃなければ」
「‥もしかして、僕を睨んでるカレは、松岡直也が好きだったりするかな」
「わー、超能力のある人って好きですよ。‥ハンパじゃないですね」
「‥‥なんだか僕は、あまり君らに歓迎されていないみたいだけど」
「きっとそれは、今日がこんなにいい天気で、ここが僕らのとてもお気に入りの海で、それであなたが彼女と一緒だから、ちょっとヤケてるんですよ。ねぇ、郁ちゃん? 天気がいいからだよね」
 すべてお見通しといった感じの陽史の言葉に、郁子は、座っている浩のシャツを握りしめ、うつむいたままだった。
「カレは君の恋、」
「‥‥敬さん、何も言わないんだね」
 浩の問いかけを遮るように、郁子はつぶやいた。気まずそうに敬之は、目線を外した。
「あたしね、こんなに天気いいのに一人ぼっちだから、街角でナンパされるの待ってたの。そしたら”浩サン”がね、ここに連れてきてくれたの」
「はー、ナンパ」
 砂をいじりながら、皮肉混じりに敬之がつぶやいた。
「いや、別にそういうつもりじゃ・ でも、そんなもんかな」
「郁ちゃん」
「だってさぁ、いつまで待ってもあたしの好きな人は誘ってくれるどころか振り向いてもくれないんだもの。いい加減疲れちゃった‥‥だから、だからね ステキなひと見つけて、見せびらかしてやろうと‥‥」
 震える声で涙ぐむ、郁子の頭を軽く撫でながら、浩は陽史の方を見た。
「カレの事かな?」
「ん。 でも郁ちゃんそれは」
「陽(ひろ)さんは黙ってて。いーの、あたしは軽いオンナになるんだから。かなわない恋追っかけるのもう飽きたの。    飽きるわよねぇ、三年だもん、われながら、あきれちゃう‥‥」
「郁ちゃん   」
「‥何か! 何か言ってよぉ、敬さん何か言ってよぉ」
 瞳いっぱいに涙をためて、郁子は敬之の前に座り込んだ。
「‥‥敬ぁ」
「‥‥何かって、  いい人じゃない」
 そう言って目をそらした敬之を、郁子は思いっきりはたいた。
「馬鹿ぁ! 中沢敬之のおー馬鹿やろーっ!!」
「あっ、郁ちゃん!」
 走り出した彼女を追いかけようとした陽史を、浩が引き止めた。
「僕が連れてきたんだから、僕が送っていくよ。   中沢敬之、君?」
「‥‥はい?」
「僕は君たちの事情はよく知らないけど、彼女は君の答えを待っているんだって事は、分かっているよね」
「‥‥」
「また会おうね」
 にこっと笑うと、浩は車に向かって駆け出した。
「あ‥」
「え?」
「‥コワレモノですから、」
 敬之の言葉に、浩はちょっとだけ振り返った。
「優しすぎるっていうのは、やっぱしアレだね」
 そう言って車に滑り込んだ。

 走り去る車を見つめながら、敬之は、大きなため息をついた。
「わかってらぁ、そんなことくらい」
「そろそろ、はっきり言っちゃえば」
 陽史が軽く肩を叩いた。
「でも! それ言ったら郁ちゃん」
「んー、泣いちゃうだろうね。でも本当はその方が幸せなのかもよ。いつまでもこのままでなんて」
「でも俺は」
「優しいから出来ない? 三年間も宙ぶらりんにさせておく事が優しさ? あのクリスマスん時の『敬さん人形紛失事件』で、お前らはもうカタが付いて良かったんだ」
「うるさい! うるさい! 俺は、俺は    ちきしょーっ!」
 うわ――――――っと叫びながら中沢敬之は五月の海にざぶざぶと入っていった。
「‥そうやって少し頭冷やしてろっ! いくらあがいたって、最後はハッピーエンドだよ」

(だって、みんないい子だからね)
 すべてお見通しの陽史は、ちょっとだけ寂しそうな表情で、ふふっと微笑って、『いつものヤツらを待たせているスカイハウス』へと向かった。






 歩道を、とぼとぼと歩いている郁子の後ろを、しばらくゆっくり
と走っていた浩は、やがて静かに、車を彼女の横に止めた。
 郁子は少し立ち止まって、涙に濡れたままのカオで彼を見つめて。そして、また歩き出した。
 もう一度、浩は彼女の横に車を止めた。
 郁子は立ち止まって、泣きベソ顔で彼の事を見つめて、けれどまた歩き始めた。
 負けずにもう一度、浩は彼女の横に車を止めてみた。
 郁子は今度は、立ち止まっても彼の顔は見ず、少しうつむいたままで考えて、やっぱりまた歩き出した。
(大人を怒らすと怖いんだぞ)
 しまいに彼は、彼女の少し前に車を止め、外に出て助手席のドアを開けると、郁子を抱きかかえて、無理やり車の中に押し込んだ。
「ちょっとぉ、どうするのよぉ!」
 突然の事態に、彼女はかなり慌てた。
 ニヤリとゆっくり頬を歪めて、彼は、声のトーンを落として凄んでみせた。
「お嬢ちゃん、実は俺さ、巷で流行りの、少女誘拐殺害犯人なのさ。その証拠に、ふふ、これはね、てっぽーというものだよ」
「ちょっ、ええ―――っ!?」
「おとなしくしろぉ! さもないと、ポンって、花が出るぜ」
 黒光りするその拳銃から、綺麗なバラのブーケが飛び出して、郁子の手元に落ちた。
 まるでマジックでも見ているようで、あ然としていた郁子は、ニヤ笑いしている浩の顔と、よく見ると造花だったりするバラと、よくよく見るとオモチャだったりする拳銃とを代わる代わるに見比べて、そして頬をくずした。
「‥‥ぷっ、うぷぷっ やだもう‥へんなひとぉ。陽さんよか変かも」
 やっと笑みの戻った郁子に安心して、浩は『てっぽう』をサンバイザーに挟むと、郁子の髪を軽く撫でた。
「陽さん? ああ。変なの? 彼って」
「うん。すごいおもしろいの。そいで、やさしいの。‥お兄サンも、やさしーね」
「‥さっきみたいに『浩サン』の方が好みだな」
「べーだっ、でも ほんとにやさしい‥ねぇどうしてそんなにやさしいの?」
「どーしてって‥んー、きっと『こんなにいい天気』だからさ」
「なるほどぉ。でもそれはほんとは風美子姉サマの口癖なのよ。それで? ゆーかいはんさんはわたしをどこに軟禁するのかしら」
「‥‥めちゃくちゃ、涙の似合うとこ」
「え‥?」
 同時にカセットデッキが作動し始め、流れ出す軽快なピアノ。
『A FAREWELL TO THE SEASHORE / 午後の水平線』。これも郁子の好きな曲だった。
 邦題から連想した、軽くのびやかなイメージとは、曲調のニュアンスが違うような気がした彼女は、英辞書でタイトルを訳してみて、憂いのある旋律に納得したのだった。

 浩は車を波戸岬に向けて走らせていた。郁子の言った”風美子姉サマ”が自分の知り合いと同一人物なのかが気にはなっていたけれど。
「思いっきり泣いて、もうふっきりなさい。彼が君のために用意している言葉は、決まっているハズだから」
 彼の言葉とメロディが、一緒になって車の中で、郁子の三年間の思い出たちとダンスをし始めた。充分承知していた筈の言葉だった。敬之をひっぱたいて走り出した後、ずっと心の中で繰り返していた言葉だった。
(もう、ふっきりなさい‥‥)
「COTTON100%の特大ハンカチ位なら貸してやれ、る、・・ありゃ」
「‥え?」
「‥‥シャツ、脱いだまま置いてきちまった‥‥」



 郁子が『お気に入りの腕時計』と出会ったのは一年ほど前。
 九月、一週間雨続きの後の大天気。土曜の放課後。
「あ、敬さーん
『KIYOKO』の前を通りかかった中沢敬之は、店内から聞こえてきた、覚えのある、ふんわりピンクの声に呼び止められた。
「おや郁ちゃん、お買い物?」
 入口横の時計コーナーで、郁子は友達の由貴と二人、腕組みをしていた。
「そーなの。ずっとしてた、父がくれた時計壊してしまったのだな。それで」
「それでぇ、彼女に似合う時計、探してあげてくださいね」
「あれ? 由貴ちゃんは帰っちゃうの」
「だってぇ、あたしの言う事は、ちっとも聞いてくれないしぃ。用事あるから、じゃね、ごゆっくりぃ」
 そう言うと、手を振りながら、ウインクなんかもして、彼女は店を出てしまった。
「んもぅ、友達思いなんだから」
「へ? 逆じゃなくて?」
「あ、いえいえ。それでね、全然決まんないのね、これが」
「ふーん、こーいうのは陽史の方がトクイなんだよな‥」
 そうは言いながらも、彼は楽しげに時計選びを始めた。
「陽さんは遙さんとおデートなのですか?」
「んー、天気いいからね‥‥いっぱいあるんだねぇ」
「‥敬さんは、」
「あ、ほら、こーゆーのは?」
 五秒だけ、二人の間に沈黙が生まれた。
 はぐらかしのうまい敬之の言葉に、郁子の表情は曇った。それを、何事もなかったようなカオに戻すために費やされた時間だった。
「え? あはは、敬さんってこういうジミなのシュミなのかぁ」
「笑うなよなぁ、ちぇー、これいいと思うけどなー、この色合いといい、見やすい文字盤といい、うん、なによりカワイイよ」
 時計と郁子を交互に見ながら、彼はニコッと笑った。彼女はこの『ニコッ』にだまされるのは嫌いではなかった。
「へへっ、そう? じゃこれにするのだもの」
「おー素直でよろしい、いい子いい子」
 時々してくれるこのナデナデも、言う事なんでもきいてあげたくなる程に彼女は好きだった。
「よかった、敬さんが来てくれて。どうもありがとぉでした
 ニコッと笑った後、頬をかく彼のクセは、すっかり彼女のものになってしまっていた。
「どーいたしまして。さて、どうするの? これから」
 レジで綺麗に包装された品物を受け取ると、二人は一緒に店の外に出た。
「え、うん‥いいお天気ですねぇ」
 しばらく店内にいたせいで、ことさら郁子には午後の日差しがまぶしくて、海に、行きたいなと、目を細めながら思った。
「九月晴れってあるのかな? オレは『スカイハウス』行くけど、一緒に行く?」
「あ、ああ、ダメだぁあたし。お家帰って母の手伝いするんだった。ごめん、です」
(まゆさんのとこ行くんだってカオだよ)
「そう? いいお天気なのに大変だね」
「うん‥‥いいお天気なのにね‥あの、」
「ん?」
「あ、ありがとでした、これ」
「‥ねぇ郁ちゃん、」
「はいっ?」
「行こうよ、スカイハウス。最近顔出さないって、まゆみちゃんも寂しがってるよ」
「だ、だからぁ、ダメだって言ってるじゃんよぉ!」
(バカ敬ぁ! 乙女の純情をちょっとは分かってよぉ!)
 くしゃくしゃの顔で、郁子は走り出した。
「郁ちゃん‥‥」
 瞳にたまっていた滴に、気付かぬふりをしていた自分を、そして後を追えない自分を、敬之は誰かに怒って欲しかった。
「いつまでオレは、こんなんだろうな」
 つぶやいた後に彼は、
『青春ってやつはアホなんだよ』
 いつかの陽史の言葉を思い出していた。
「言わなくちゃ、ダメなんだよな‥」

 中沢敬之の恋人、星まゆみは『スカイハウス』で、働いている。






「ちきしょーっ」
 敬之はシャツのはじっこを握って、砂に叩きつけていた。この時点で彼にはまだ、それが浩の置き忘れていったシャツなのだという自覚はなかった。彼はただ、砂にやつあたりをしていただけなのだ。
「オレだって苦しーんだ! みんな、人事だと思って勝手に言ーやがって‥‥わかってるさ‥でも、あーっ、やっぱりわかんねぇー!! ちくしょーっ、ばしばしっ」
 勢いで飛んできた砂が、目に入って、彼は初めて『それ』の存在に気が付いた。
「いてぇよー、ちきしょーっ。あれ、これ何だっけ・・あ、あいつの‥」
 かなりヒサンな状態になっていた『それ』を、彼は、シャツと呼んでいいのか迷った。
「あーあ、ズタズタ。どーしよ‥‥、しょーがない、こーなりゃ思いっきりやってやる、こんにゃろ! こんにゃろぉ!」
 ‥どーも根の暗い中沢敬之であった。


 浩と郁子は波戸岬に来ていた。
 岬の先端に停めた車に寄り掛かって、ノンアルコールのビールを飲みながら、二人ともずっと黙ったままで、静かな水平線を見ていた。
 海から吹き上げられてくる風が、やわらかに髪を、そして郁子のスカートの裾を揺らしていた。
 OFFしていないカーステレオから、ジョージ・ウィンストンの静かなピアノが聴こえていた。
 カシャ、と遠慮がちな音をたてて、テープがリバースしたのをきっかけに、浩が語り始めた。
「実を言うと」
 片手で、カラになった青いラベルの缶をもてあそびながら。
「僕は、こないだの木曜日に失恋したばっかりなんだ」
「浩サンみたいなひとでも、振られる事なんてあるんですか」
 郁子はレモン味を飲んでいる。
「振られたっていうか、まぁ結果的にはそうなんだろうけど、違うな、うん、違ったんだ僕らは」
「違ったって?」
「何ていうのかな、そういう相手じゃなかったって事かな」
「ケンカしたの?」
「いや、そういう事じゃなくて‥‥お互いの事は分かりすぎるくらい分かっていた、と思うし」
「それなのにどうして」
「うん。それなのに、僕らは一つになれる同士じゃなかったんだ。わかっちゃったんだ、それが。うまくいってるようで、いつもどこかで擦れ違ってしまって、これは何かおかしいんじゃないかって」
「うまくいってるのに、」
「別れてしまった。うまくいってる事が不安になって。だからきっと、真実の相手が他にいるってことなんだよ、僕らにはね。そうじゃなかったら、あまりに悲しいことだよ」
「あたしにとっての敬さんもそうなのかな」
「‥それは僕にはちょっとわからないけど」
 郁子は缶のラベルをまじまじと見た後で、ふぅと、大きくため息をついた。
「‥アルコールの強いやつのがよかったな。浩サンは大人だね。あたしはそんなに簡単に切り替えられないみたい」
 声が少し震えている。
「大人の振りしてるだけだよ。今日だって君と出会えていなかったら、きっといきつけの店で酔いつぶれるよ」
「あ、あたしはねぇ、あれよ、クッションとかね、枕の中身とかがね、散乱しちゃうの」
 へへっ、と郁子が小さく舌を出したのに合わせて、一つの曲が終わった。
 ちょっとだけの沈黙。
 無理に笑顔をつくる郁子を、浩は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど再び流れ始めたピアノの音に、彼は伸ばしかけた左手を止め、想いをズボンのポケットにそっとしまい込んだ。
「ふふっ、それはすごいな」
 そしてまた、二人は黙り込んだ。
 静かに流れ続けるピアノの曲たちは、凪いだ海によく似合っていた。
 BREAK。何も考えたくない―――――――――
 染まり始めた空気の中で、郁子は思考を止めたいと思っていた。一番好きな夕暮れの時の海。心地良い音楽と、優しい人。
 けれど、次々に浮かんでくる中沢敬之という存在についての思い出たち。
(もてあましちゃうよぉ‥‥)
 まぶたを閉じる。ぽろぽろと涙が零れてきたけれど、彼女はそれをぐいと拭った。
「きれーな夕陽だね」
「うん。もう帰るか、高校生の女の娘だもんな」
「あ、もう少し、だけ‥‥」
 思わず郁子は、浩のシャツを握りしめた。
「うん、」
 風の消えた波の上を、それでも海鳥たちは懸命に飛んでいる。
「水平線ってさぁ」
「んー?」
「交わってるんだけど、本当は交わってないんだよね」
「空と海が?」
「うん」
「でも、ずっと一緒だよ」
「そうゆうのって、いいかもね」
「‥僕と、そうゆうのってのは、どうかな」
 空になった郁子の缶に自分の缶をこつんとぶつけた後、浩は自分の言葉に少し照れて、缶を手にしたままで、軽く頭をかいた。
「ワインのみたいな」
「あれ?」
「そしたら、なんか言えるかも。今はわかんない、わかんないよぉ‥  だって‥」
 浩のシャツを握りしめたままで、声を押し殺して泣き出した郁子の髪を、彼はそぉっと撫でた。
「誕生日、いつだっけ」
 泣きながら、郁子は答えた。
「六月のとーか、」
「じゃ、その日に『織互織』行こうね」
「うん、うん、うん」
 浩の胸に顔を埋めて、郁子は大きな声で泣き出した。

 そして風が戻ってくる。
『私ね、風とお話しできるのよ』
 その人の言葉が聞こえたような気がして、ふっと浩は微笑んだ。
(猫、あんまり優しい風だと、僕まで泣けてきちゃうよ)
 子供をあやすように、泣き続ける郁子の背中を軽く叩きながら、彼は静かに瞳を閉じて、ゆるやかな風の中に思い出たちを委ねた。
(僕は、君に嫌われたくないだけなんだ‥)
『私は風の子供なの』、彼が『猫』と呼んでいたその人は、そう言って五月の風のように微笑うのだった。その笑顔を彼はなくしたくなかった。

 そして風は、あくまで優しく。






「おはよーっ」
 穏やかな日曜日、朝六時。
 寝ぼけまなこで店のシャッターを開けていた郁子の肩を、ぽんっと叩いたのは、早朝ジョギング少年の銀河陽史だった。
「あ、おはよ、です‥ 昨日は、あの、」
「あのさ、来週オレの誕生日だって、覚えててくれてた?」
「ええーっ、そうなのだっけ?」
 勢いづいたシャッターが、けたたましい音を立てて巻き上げられて、郁子の眠気は完全に吹き飛んだ。
「‥相変わらず、ハデだなぁ。オハヨ」
 遅れてきた敬之が、耳に指をつめるポーズをとりながら、陽史の横で小さく微笑った。
「‥敬さん 」
「挨拶なしかな?」
「あ、おはようゴザイマス。 いいお天気ですね」
「うん。だから、今日海に行かない?」
 思いがけない敬之の言葉に、郁子は自分の耳を疑った。
「オレとじゃ、だめかな」
 ポリポリと、敬之は頬をかいた。
「うそ‥」
「あれ? 敬之君、ふられたかなぁ」

「うるせっ、黙ってろ。 ‥今から、とは、言わないけどさ」
 ぶんぶんっと、郁子は大きく頭をふった。
「行くっ、い、今すぐ着替えてくる!」
「ちょっ、郁ちゃん、オレ、ジョギパン‥」
「いーの! すぐだから、ねっ、ねっ」
 右側のシャッターはほっといたままで、彼女は店の中に駆け込んだ。
 陽史が苦笑い。
「よっぽど嬉しいんだな」
「なんだよ、その目は」
「いや。よく言えたなと思ってさ。ジェットで行ってこいよ。朝の海もなかなか」
 そう言うと、陽史はウィストポーチからバイクのキィを取り出した。
「‥そのつもりだけど、なんでオレのバイクの鍵をおまえが持ってるんだ?」
「この世には解けない七つの謎がある」
「お前ねぇ。‥使うのはいいけど、壊さないでくれよな。こないだ停めようと思ったらスタンドが折れちまったのにはまいったぜ」
「ちゃんと後でくっつけといたろうが」
「そういう問題じゃないだろぉ」
「まあまあ。それよか、」
「ん。うまくは出来ないけど、さ」
 この・この、と陽史が敬之をヒジ打ちしていると、早くも郁子が着替えて出てきた。

「お待たせです!」
「あれ? 水着じゃなかったの?」
「陽さん、今五月だって知ってる?」
「なめんなよぉ、来週誕生日だって言ったろうが」
「ジジィの仲間入りと言うわけやね」
「あ、キーいらないわけやね」
 ちらつかせた鍵を敬之は素早く奪った。
「だからオレのだってばよ。バイク取りに行こっと」
 待っててねーっと、彼はアパートに向かってダッシュしていった。
「あほめ。郁ちゃん、あんなのほっといて、オレとデートしない?」
「ん―――――‥」
「分かってるって。そんな目しないの。彩さん、いいじゃん」
「陽さん、あたし、いいのかなぁ」
「らしくないよ。元気に追いかけんのが郁ちゃんだろう」
「惚れちゃうかも」
「んー、三番目になっちゃうっていうのはちょっと悲しいかなって」
「違うよぉ。敬さんには今日振られるから、陽さんは二番目ね」
「ばぁか」
 ぐりぐりと、陽史は郁子の髪を遊んだ。
 うふふっ、と彼女は微笑った。
 そしてぶわぉーんと空気を唸らせ、敬之がバイクで滑り込んできた。
「うわぁい、ひさしぶりっ」
「へ? オレ、乗っけるの初めてだよね」
「ふはは。よいではないか」
「コノヤロ」
「どこまで行くのでしょうか?」
「とせあ。あ、ローマ字読みしちまった。TO SEA、YOU SEE?」
「愛しぃ。あ、漢字で書いちゃった」
「katteni/ichatuitenasai.、事故んなよ」
「陽さんは?」
「ん? 部屋戻って、新作水着のデザイン考えないと」
「ひゃひゃひゃ、ではね」
 敬之の下品な笑いと、郁子のかわいい『ばいばい』を残して、ジェットは走り去った。
「あら、PARTYの話し‥」
(ま、いいか)
 ストレッチを始めながら陽史は前日にも増していい天気になりそうな空を仰いだ。
「朝メシ、何食おうかな」
 ぐいーっと、大きく伸び。そこに郁子の母親が顔を出した。
「あら銀ちゃん、おはよう。今日はあんたとじゃないみたいね」
「おはようございます。はは、すごい勢いで着替えてたでしょう」
「ほんと。店の事なんかすっかり忘れて」
「羨ましいでしょう」
 店を開けるのを手伝いながら陽史がそう言うと、おかあさんは顔中に笑みを浮かべた。
「ご飯、食べていくかい」
「喜んで」
 笑った顔がそっくりだな、と陽史も笑んだ。
「あんたの好きなエビフライがあるよ」
「らっきい

『ステキな一日』は、こんなふうに始まる。



 敬之たちが住んでいるアパートから、道路はずっと海沿いを走っている。
 いつも波の荒い『汐が浜(しおがはま)』は、今朝はまだおとなしく、サーファーたちの姿もない。
 坂を上り切って緩やかに下る。長く、右側に穏やかに広がる
『みなみ海岸』。黄色いビートルと赤いミニクーパーだけが寄り添って停まっている。あれは『EDEN(喫茶・EAST OF EDEN)』のマスターたちだよと、敬之が後ろでしがみついている郁子に教えると、知ってるもん、と彼女は回した腕に力を込めた。
 敬之は、近道である港湾道路の一方通行路を逆行し、海岸線をお目当ての海辺へ向けてスピードを上げた。
 風を切って走るバイクの、排気音の中で、二人は互いの眠れぬ夜を思っていた。このまま風に飛ばせるかなと。もうどうでもいいんじゃないかと。
 やがて敬之は右ウィンカーを点滅させ、前日、人のシャツにやつあたりをした芭知の浜辺にバイクを停めた。

「せっかくカワイイ服着てくれたのに、やっぱりジョギパンはまずかったなぁ。ごめんな」
「カッコイイよ。でもジョギングやってたんだ。知らなかったな」
「まだ三ヶ月目だけどね。ほら、クリスマスの人形劇のとき、陽史寝込んだろ。あれで体力不足を認識したんで、一緒に走ろうってことになってさ」
 足下の砂を一握りつかんで、敬之はそれを海に向けて投げつけた。
「ふぅん、そぉかぁ。そういえば陽さんが倒れるなんて、なんか意外だった。‥‥いろいろあったな、クリスマス」
「あったねぇ」
 ぽりぽりと、敬之は無意識に頬をかいた。
「なんかさ、変に優しくして泣かせてばっかりだったみたいで、ごめんな」
「あたしはさ、」
 郁子は、靴を脱いで裸足になると、波打際を歩きながら、唄を口ずさみ始めた。
「静かな朝、君はいつか、君以外の人になんかなれないこと分かるはずさ」
「‥JUST YOUR LIFE、」
 敬之の言葉に、背を向けたままでコクンと頷くと、彼女は水平線を見つめたその姿勢のままで。
「‥はっきり、言って欲しかったの、そして普通にお友達したかったの。近くにいて、みんなと同じように遊びたかっただけなの。敬さんがヘンに気を使うのが嫌だったの!」
「郁ちゃん、」
「ダメな事なんか分かってたもの。でも、それでもあたしを見てもらいたかったの。かまって欲しかったの。あたしの好きな敬さんのままで、横にいて欲しかったの」
 いいんだけどさ、と小さくつぶやいて、彼女は波を蹴った。
「あのさ、ごめんな」
「あっかんべーっ! ごめんってもう一回言ったら、ぶつからね」
「だって、それしか」
「違うもん、あたしもっと知ってるもん。もっとずっとかっこいーの」
「‥‥何て言えばいーんだよ」
「例えばさぁ、『俺はお前を幸せにしてやれない』とか『忘れろ、それがお前のためだ』とか」
「あ、一つ思いついた」
「わー、ゆってゆって」
「頑張れや」
「うん。敬さんらしい言葉で嬉しい。敬さんなんかよりずっといいひとだもん。ずーっとよ。 でもね、敬さんもやっぱり好きだよ。だから嫌いにならないでね、郁子のこと」
「あったりめーだろ」
 二人は見つめ合うと、照れながら、頬をポリポリとかいた。
「あたしの方こそごめんなさいです。でも、言いたいだけ言ったらすっきりしちゃった。‥‥泣きたいだけ、かな」
「‥、」
「あたし二回もオトコの人の胸で大泣きしちゃった」
「どきっ。オレ、は入っていないんだよね」
「妬いちゃう?」
「ちぇっ。ちょーし狂っちゃうなぁ」
「ふふ、敬さんこれからどうするの?」
「どうって、一緒に朝メシでも‥‥あっ、いけね、サイフ陽史のポーチの中だ」
「はっはっ、そういうアホ君は一人でお帰りだね」
 手にした靴を軽く振ると、慌てる敬之に構わず、郁子は背を向けて歩き出した。
(サヨナラして送ってもらうなんて、ヘンだもんね)
 あーあ、とつぶやいた後、敬之は郁子の後姿を追うのをやめて、回れ右をすると、元気な掛け声とともに、柔軟体操を始めた。



 砂浜から、一人で道路に出ると、空色の車が停まっていた。
「いい天気だね」
 車の脇のガードレールに、彩浩が腰掛けていた。
「どうしてここに?」
「シャツを拾いに、なんて。会いたかったんだ」
「嬉しい。あたしも。へへっ、お別れしてきちゃった」
「そう」
「        」
「乗らない? ちょっと思い出した事があるんだ」
「なにかな」
「まだヤキイカ食わしてなかった」
「わーい、乗る乗る



 車を出して程なく、『ヤキイカ』の出店が五・六件並んでいたが、時間的に早すぎて、どこもまだ『生』のイカしかなかった。浩はそれをひとつ買い求めると、郁子の手を引いて浜辺へと下りて行った。
「どぉすんのですか? あの、ナマで食べたらおナカこわしません?」
「ふっふっふっ、まぁ見てなさい」
 あちこちに落ちている適当な木切れをいくつか集めて、焚き火を始めると、その火でイカをあぶり出した。
「くすくす、面白いんだぁ浩さんって。‥‥あれぇ?」
 火が消えないように、木切れをうまく動かしている浩の手元を見ていた郁子は、手首の腕時計を見つめた。
「それ、昨日とおんなじやつだよねぇ。‥でもちゃんと文字盤がある、あれ? 日時計‥‥」
「実はね、このスイッチでね、消せるんだ」
 そう言って、文字盤を消してみせた。
「へーっ、ふうん、なるへそー」
「あんまり時間気にしたくないときは消してるんだ。日時計はちゃめっけさ」
「こいつー、どーりで時間が正確だったわけだぁ。純真な乙女をたぶらかしたのね」
「ところがこれが結構本気らしいんだな。ほら、焼けたよ」
「‥え? あちちい。へへ、おいしい。今日の朝ゴハンはヤキイカでーす」
「食後のデザートは何がいいかな?」
「すいか。郁子はすいかが食べたいのだなこれが」
「‥困ったお姫さまだなぁ。んじゃ朝市にでも行きますか? あるかどうかは謎だけど」
「本当! ふひゃあ、行った事ないんだ、郁子ってば。そいでね、ちょこっとドライブなんかしてね、午後はあすこの海でね、ぼぉーっとするの。昨日は邪魔されちゃったからね、今日はずうーっとぼぉーっと、してるのよ。だって、」
「だってこんなにいい天気? ふふっ、本当に君は、」
 浩は助手席のドアを開けて、郁子を座らせると静かにドアを閉め、自分も車に乗り込んだ。キーを回す。軽やかにエンジンがうなりを上げる。ギアを入れ、サイドブレーキを戻し、ゆっくりクラッチをつなぎながらのアクセル。車道に車を乗せる。ハンドルを緩やかに操作しながら、カセットデッキにセットされたままで待ちくたびれているテープを押し込む。数秒だけノイズ、そして音楽。
『ようこそ日曜島へ〜アイランド・ア・ゴーゴー』。
「松岡直也だね。へへ、あたしねぇ、敬さんには振られたけど、もっと仲良くなれちゃう気がしてるんだ」
「グッバイから始めよう、ってやつかな」
「あ、その唄、敬さん得意」
「む、僕もうまいんだぞ」
「わーい、やきもちやいてるぅ。嬉しぃ」
「唄っちゃうぞ、このぉ」
 言って彼はアクセルを踏み込む。
 ゆっくりと少しずつ窓を開け、彼女は生まれたての風を車内に入れる。
 助手席側から入り込んだ風は、昨日までの思い出たちを優しく撫でながら、運転席側の窓からすり抜けていく。
 そして、物語が始まる。