はじめに なぜ神宗を取り上げるのか?
神宗という皇帝の名前を聞いて皆さんはどのようなことを思い浮かべられるだろうか?まず第一に北宋の第六代皇帝である神宗と答えるは非常に少ないのではないのかと考えられる。その理由として明朝時代に同じ神宗の名前で君臨した、神宗万暦帝のほうが在位期間が長くまたこのとき内閣大学士の首補として登場した張居正による一条鞭法の採用は後に中国を支配することになる清朝の全盛期である雍正帝時代の地丁銀制まで続くなど影響が大きいためであると考えられる。
また、仮に神宗という人物を知っていたとしてもそのときの宰相である王安石を登用して・・・・・・・、ぐらいではないのだろうか?
このようなことにつながるのは神宗に関する資料が非常に少ないことが一番の原因であると考えられる。これは当然のこととして本稿で取り上げる神宗像を見ていく上での大きな壁である。本稿で取り上げる時代の資料のほとんどが王安石のもの、もしくは王安石と対立していた司馬光のものであったりと、その中でわずかに神宗について触れられているだけである。唯一といってもいい神宗に関する著作である1963年に書かれた東京学芸大学の東先生による宋神宗論である。今回はその論文を軸にして考察を展開していくした。
わたしはこの神宗という人物が、果たしてこれまでの中国史における地位のみの人物であるかのついてはかねてから疑問を持っていた。それは父である英宗の後を継いだのがわずか数えで19歳、その年齢で改革を行えるだけの人物を探し、そしてその人物の思うがままにさせることなくやり遂げようとするには並大抵の力量ではやりきれないからである。
そこで、今回は神宗自身の北宋という国家そのものにおける意義それとともに皇帝自身の国家における役割を考察することを通じて、かつてからいわれているような皇帝独裁の実際を明らかにしていく。
1・北宋の概要
北宋のことを論づるためにはまずもって、北宋のことを明らかにしていかなくてはならない。そのためここではおおまかではあるが、北宋の基礎知識の確認と同時にみなさんに理解してもらいたい。 歴史―趙匡胤から欽宋まで(960−1227)
皇帝独裁体制の確立
960年後周の近衛隊の長であった、趙匡胤は遠征の途中部下たちに皇帝に祭り上げられることとなった。ここに北宋が始まる。彼は皇帝に就任し、宋を建国した。彼の功績として挙げられる政策に中国の各地で絶大な権力を有し、独立のように割拠していた節度使の権限を大幅に縮小することに成功したことだ。 そもそも節度使とはどのようなものであるのか、簡単に説明しておこう。唐の玄宗治下の開元の治において、当時すでに制度的に限界を迎えていた、府兵制に代わり募兵制を導入することになった。この募兵制の導入は、これまで唐王朝が維持してきた律令制をつきくづすひとつの要因となった。今回はその詳しい内容に関しては、割愛させてもらうがこのことが中国における唐宋変革のひとつに数え上げられ中国は中世へと突入することになる。
節度使はその募兵の長という存在にすぎなっかたのだが、唐王朝の衰退とともに、彼らはその権限を大幅に拡大させていく。
政治―科挙官僚の進出
経済―紙幣の原型の発行
文化―大衆文化の確立
2.北宋中期以降の国内の変化(真宗―仁宗)
肥大した官僚機構
第二代太宗の即位後北宋の政治体制は急速に整備されていくことになる。太宗の即位に関してはその正当性が疑われているが、彼の行った政策は評価される。これまでの武断政治から文官による文治主義への転換、唐代以前まで科挙官僚の大きな障害となっていた貴族勢力の排除などが挙げられる。
しかし、武の力を弱めるという結果を招くことになり、中国の統一はおろか外国勢力の中原への進入を招く結果となった。
吹くれあがる軍事費(軍備拡大)
周辺諸民族の侵入(西夏)
3.神宗の即位(1067)
1067年、英宋が35歳の若さでなくなると、皇太子であった神宗が19歳の若さで即位することになった。
王安石の登用
元豊の官制改革
対外遠征
4.神宗に対する評価
新法の主役は誰か?
5.神宗死後の北宋
哲宗の親政
徽宗と北宋の滅亡
6.まとめ